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腹の虫
しおりを挟むそれは、空にまだ龍が飛んでいた頃のお話。
己が心に龍を宿すものが現れる。
すなわち、人々から天啓を得た天の子だと言われる存在が必ず時代の節目に現れ、人々を導くと口承されていた。
その口承に熱心に耳を傾ける者がいた。
名前を翔(かける)という。
翔はまだ年端のいかぬ少年だった。
歳にして十七、八という成人にはまだ届かぬごく普通の少年だった。
しかし、少年の身体は病に蝕まれていた。
毒々しいまでの鈍く赤く光る血が混じった便や嘔吐をしてしまう消化器系の奇病に罹っていた。
今では医学が発展し治る病とされているが、少年翔が生きていた時代では、まだ治療方法が確立されていなかった。
そのため、その奇病に罹っているものは皆隔離され、孤独な苦しみの最中にいた。
そんな中、看護婦ら看取るものは外の世界の話をまるで童話を幼子に聴かせるように、患者にたいして、話していた。
外には地球外生命体と呼ばれる未知の存在がいるという話や、世界の変わり目には龍が姿を現し、その変化を伝えてくる、という話。または河童や一反木綿などの妖怪たちが隔離病棟の古びた建物からさほど遠くない場所に何体もいるという話。
そんな不思議めいた話を看護婦らはしてくれていた。
世界の真実、今僕らが見ている世界は、“今”の僕らの“感情”が生み出している、と。
臭いものには蓋をするように己の声に蓋をするから、腹に水が溜まり、本音を外に出せないから、こうして消化器系の病気に罹るのだと、看護婦の一人は説き伏せる。
「翔くんには、閉まったままの汚い感情だとか怒りや悲しみがあるはずだよ。親や家族、親戚に友人、学校の先生にたいして、普段から言えないまま毎日を過ごしてない?」
少年は考え込みながら、
「……確かに、言えてない話せてない気持ちはあるかもしれない」
と話した。
「ゆっくりで良いから話してみなさい、翔くん。あなたの気持ちはあなたが話さない限り、他人には伝わらないし、消化不良を起こすんだよ?」
看護婦は熱心に語りかける。
少年の暗闇に没した心中がゆらゆらとゆっくりと揺らぎだした。
「僕の気持ち……」
「そー、あなたの気持ち、本音よ」
「僕に気持ちなんて……あるのかな?」
「あると思うわ」
「それってどんな?」
「仕方ないわね、ちょっと力を貸したげる」
「ありがとう」
少しも本心を他人に明かしたことのない少年の素朴な疑問にたいして、看護婦は身体の声を聴く力で少年の身体が発する本心を話し出した。
同時に、看護婦のゆったりした口調も早口に変わり、声もドスが利いたような大きな声量に変わり出した。
声自体の高さも人間の話すそれではなく、ノイズが走ったような機械に通したような聞き触りの悪い声の高さに変わった。
「うっせーんだよ、いちいちお前はこれをできないから、愚図でのろまだとか、レッテル貼りやがって!」
「お兄ちゃんはどうせ病気なんだから、できないんでしょ?」
「お前は治す気はあるんか? 治す気持ちないだろ、だから、ダメなんだよ」
看護婦の口から発せられた言葉の数々は、少年が家族から受け続けた言葉の数々で、まさに少年が思っていた反駁(はんばく)の声の代弁だった。
少年の目から涙が一筋流れた。
同時に、耐え難い吐き気を感じ、近くの桶にげえげえ吐き出した。
そこには珍しく血が混じることも、胃の内容物も含まれてはいなかった。
でも、確かにそれを吐いた。
「おめでとう、ちゃんと吐き出せたね」
看護婦は笑顔で誉めて少年の背中をゆっくりさする。
「僕は何を吐いたの?」
キョトンした目で少年は看護婦を見つめて質問を投げ掛けた。
「もう、気づいてるんじゃない? 翔くんの身体にたまっていた“気持ち”よ。気持ちを吐き出せたんだわ!」
「そっか!」
もう少年の目付きや見た目は病人のそれではなく、精悍な男性のそれだった。
どうやら少年は変われたらしい。
「もう、翔くん。あなたは病人ではないわ、あなたの心を蝕んでいた本心の言えない自分を変えたのだから。あなたはもうじき治るわよ」
そう看護婦は笑顔で話しかけると、少年のいる病室を去った。
ほどなくして、少年の病気は治り、まるで人が変わったように、自信に満ち溢れ、病気知らずの健康な少年になったのだという。
当時を懐かしみながら少年は思う。
今思えば、あの看護婦こそ天啓の存在、すなわち龍だと。
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