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僕の半分<sound of WAVES>

僕の半分<sound of WAVES> 9

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大勢が見守る中で朝鮮時代の下層身分の衣裳のジユルと特殊メイクを施した相手役の男優とが、キスシーン撮影に挑んだ。
ジユルが申し出て相手役に承諾を得、特殊メイクを施している間にもメイク室で何度も読み合わせを行った。
特殊メイクのせいでどうにも視野が狭く距離感が掴みにくい理由から、相手役の希望でキスシーンに至ってはスタジオでのドライリハーサルから何度も実際に行っていた。
それを遠巻きに見守るハソプが、仕事と割り切ってはいても内心面白いわけが無い。
回数を重ねるごとに苛立ちが募り、普段は現場では吸わない煙草を、わざわざ買いに行ってまで喫煙所と往復を繰り返していた。
それならいっそ見なければ済む話なのだが、一度目に焼き付いた光景は、それ以降も見届けなければならない使命感とも監視とも分別が着かない思いに囚われてしまっていた。
「休憩挟んで本番に入ります。」
スタッフがマイク越しに指示を出し、僅かな時間の間にメイク直しやトイレや給水等々でスタジオは騒然とした。
その中で、ジユルと相手役が佇む空間だけがまるで異世界にハソプには見えた。
ジユルの肩に置かれた相手役の手がまるで撫でるかのように微動している様、相手役を見上げるジユルの蕩けるような笑顔、相手役がジユルに塗料が着いた箇所をメイク師に指先で指示する様、肩を抱いていた手が腰元にするりと流れ落ちジユルが一歩相手役に近付いたのはきっと、その腕に力が込められた作用だろう。
ハソプは目を細めて唇を噛みしめていた。
「いい雰囲気だなあ。ジユルも”写し”が無くともすっかり役になり切れるようになったんだ。うん。感慨深い。」
いつの間にかハソプの隣で、ジユル事務所社長が腕組をして頷いていた。
「そうですね。すっかり成長しましたね。良かったです。」
棒読みのようなハソプの返答に、社長は肘で何度も突いてきた。
「現場に来てまで、公私混同している素人が紛れ込んでいるようだな?」
「紛れ込んでません。IDカード、ぶら下げているでしょう?」
ハソプが歯軋りをしながら答えるので、社長は苦笑した。
「嫉妬は色恋のエッセンスだろうが、だからと言って体壊すまでスルなよ?」
社長が小声で囁いたのと、撮影再開を知らせるブザーが響いたのとほぼ同時だった。
撮影本番はNG無し、一発OKで終了した。
ジユルが周囲に挨拶をして社長の元に行こうとした時、腕を掴まれた。
「今日、早く上がったし、この後飯でもどう?」
相手役の俳優がジユルと別れ難いとでも言うように、引き留めたのだ。ジユルは一度目を伏せて考える仕草をしてみせてから、その男優を笑顔で見上げた。
「お誘いをありがとうございます。僕も〇〇さんとご一緒したいです。でも駆け出しの新人ですので、何事も社長の許可無しではお答え出来ないんです。今、聞いてからお答えしてもよろしいですか?」
「いいよ。何なら、一緒に着いて行ってあげるよ。」
男優はジユルの肩を抱き、一緒に社長の元へ歩み寄った。
「この子、凄いじゃない?見る見る上手になってさ。息、ぴったりだったんだ。今夜、食事に誘いたいんだけどどう?」
ジユルは上目遣いにハソプを盗み見た。一瞬目が合って、すぐに又歯軋りのような顔付でそっぽを向いてしまった。
「〇〇さんとご一緒出来たら、そりゃあ私も天にも昇る気持ちですが・・・」
「何言ってるの?俺とジユル君と、二人きりでだよ?」
「でしたら、今日は申し訳ありませんが・・・是非、全撮了後にまたお誘い下さい。ジユルは朝が弱くて毎朝私が叩き起こす役目でして。こんな駆け出しが撮影に穴を空ける大惨事を招いても申し訳が立ちませんので・・・」
「そうなの?俺が起こしてあげるのに。」
「え?朝までコースですか?僕、お酒飲めないですよ?」
「じゃあ、飲まなきゃいいじゃない。他にも楽しく時間を過ごす方法は幾らでもあるよ?」
「他にも?ふふっ。なんでしょう?」
二人は視線を絡ませて意味深に微笑み合っている。男優がジユルの肩を抱いていた手に力を込めて、もう片方の肩が男優の胸に寄り添う形になった所でジユルは男優を間近に見上げた。
「僕、明日の撮影が早いんでした。本当に残念ですが、また誘って頂けますか?」
ジユルに小首を傾げられて、男優が鼻の下を伸ばしているのが特殊メイクの下でもよく分かった。
顔を背け目の端で盗み見していたハソプの口元で、ギリリと音が鳴った。
「うん、仕方ない。新人君を困らせたら俺が笑い者になっちゃうしな。じゃあ、今日は退散するか。お疲れ~」
ジユルの肩をポンポンと叩いて、男優は数名のスタッフを引き連れてスタジオを後にした。
「なんだ、君はあしらい方を知ってるのか?」
社長がジユルの肩を抱いて大袈裟に揺らしてみせた。
「僕、早く帰って明日の予習をしておきたいんです。その後・・・小腹も減るでしょうから・・・」
ハソプに聞こえるように言ってみせて、チラリと見上げた時に目が合った。
「早く食べたいなぁ~じゃ、着替えて来ますね!」
スタジオから出る際にも周囲に頭を下げ、ジユルは控室に向かった。
「なんだよ、今度はニヤニヤしやがって。お前、疲れてるんじゃないのか?おかしくなっちまったのか?」
社長はハソプを見上げて苦笑いを浮かべていた。
「じゃ、俺も今日のチェックして、帰りますね~お疲れ様でした~~~」
ハソプは今にもスキップしそうな足取りでスタジオを後にした。社長はやれやれと一人首を振っていた。



「ジユル君、次の撮休の日・・・折角のオフなんだけどさ、例の件・・・」
今日の撮影が終わり家路の送迎車の中で社長が言い辛そうにして話し出したのを、ジユルは自分の事なのに社長に気遣わせて申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「はい。”先輩”に会うんですね。ご心配なさらずに、僕は大丈夫です。」
「うう~ん。俺が彼をとっ捕まえた日から随分経ってるだろ?それは撮影の進み具合を見計らってだけじゃなかったんだよ。こういう事はさ、用意周到にしてもまだ何処かに見落としがあるなんてザラだからね。それに手こずった。」
「何の準備ですか?」
「向こうから売られた喧嘩みたいなものでも、危害を加えない約束を取り付けるのを”和解”って呼ぶんだから、どうかしてると思うよ・・・こっちの弁護士と打ち合わせして、代替え案を沢山用意しておくんだ。これがダメならそれ、それがダメならあれって。この一回で大人しく引き下がって、もう二度と関わって来ないでくれるのが一番の理想だけど、相手の気持ちなんか本人以外わかりゃあしないしな。」
「僕の過去がこんなにご迷惑お掛けする事になってしまって、ごめんなさい。余計なお仕事を増やしてばかりですね。」
「余計な仕事なんかじゃない。気にするな。何処の事務所もタレントも、よくある事なんだ。過去の無い人なんて、この世に誰も居ないだろ?問題は、片付け方さ。あ、弁護士にも依頼する以上は事情を話してあるけど”守秘義務”があるから、心配するな。」
「はい・・・」
「・・・ハソプは、君によくしてくれる?」
唐突に今現在の事を聞かれて、ジユルは驚いた。社長が、どんな意図でそれを聞くのか分からなかった。
「はい。いつも寄り添って下さいます。僕には勿体ない程・・・ハソプさんは、それまで普通の人だったのに。時々、それが申し訳無くて。」
「良い関係が続いているなら安心した。人の縁ってさ、幾ら仲良くしててもある日突然縁の糸がぷつりと切れてしまう事もあれば、いつまでも続いてしまう悪縁もある。この縁の糸が俺らには見えないから、厄介なんだ。だから、いつでも”今”を大切にしろよ。良い関係なら、糸が切れないように。」
「はい。」
「君らが出逢った最初から縁の糸が繋がっていたかは分からないけど、ハソプは君を7年も探してたんだ。結局、生身の君に堕ちたんだろうけど、俳優としての君、イ・ジン君に尋常じゃない熱意と期待があったんだ。君が俳優に復帰して、ハソプはその7年間を今取り戻せているんだなあと俺はあいつを見ていて思うんだ。だから、こんな事で君が俳優を辞めてしまっては、あいつが余りにも可哀想だ・・・今の君自身と、ハソプの為にも、何とか乗り切ろう。」
「はい、ありがとうございます。どう頑張れば良いか分かりませんが”先輩”に分かって貰えるように、逃げないで、話をします。」
子供の頃、よく母親から聞かされていた。
「良い人には良い人が集まって来て良い縁を結ぶ、悪い人には悪い人と悪い縁が。良い人に集まって貰えるように、まず自分が良い人になれるようにね。」
今更になって、この言葉の真意を少し理解したジユルだった。
”先輩”はどちら側の人で、どちら側の縁を持つ人だろうか・・・


数日後、スタジオメンテナンスの都合で、全ての撮影がストップする日程があった。
その日、ジユルは”先輩”と大学卒業以来再会を果たす事となった。場所は社長の知人が営む会員制高級カラオケボックスの一室だ。日中のクローズ時間に開けて貰った為、部外者の誰ともすれ違わない。
約束の時間より30分前に社長とジユルは部屋で待機した。
かつてハソプが頼んだ業者に、隠しカメラを仕込んで貰っている。機材トラブルなどの万が一を考え、隠しマイクも用意する徹底ぶりだ。
店外には事務所女性スタッフ一人とハソプが待機していた。何か異常事態があれば弁護士や警察に通報、ハソプは部屋に乗り込む気満々でいた。
実は、ジユルはハソプに付き添って貰う事には反対していた。自分の羞恥の沙汰を見せたくは無い。それが切っ掛けで幻滅され、嫌われたくないと最後まで拒んでいた。
しかしハソプは違う。恥部程曝け出さなければ、本当に分かり合えない。窮地こそ助け合うべきだろう。その持論を強く押し通した。結果、ジユルが負けてハソプも同行したのだ。
指定した時間通りにジユルの”先輩”こと、パク・スンヒョンが現れた。
ジユルは刷り込みのせいか、姿を見るなり立ち上がり会釈をしていた。大きなテーブルを挟み、ジユルとその隣に社長が、対面してスンヒョンが席に就いた。
「今日、用意している時間は一時間です。話し合いの最後に、書類をお渡ししますので承諾したのならサインをして下さい。」
社長は極めて冷静にビジネスライクにパク・スンヒョンに説明をしてから、二人に一番遠い席に座り直した。
「ジユル、元気だった?こんなに離れてちゃあ、喉が枯れちゃうよ。隣に行ってもいい?」
馴れ馴れしいその言葉に、即座に社長は立ち上がりパク・スンヒョンを睨んだ。
「はい、このままで結構です。」
苦笑を浮かべながら両手を開き、反抗の意思が無いポーズをパク・スンヒョンはしてみせた。
「おまえさ、暫く会わないうちに随分変わっちまって・・・名前まで変えてるだなんて、そんなの酷いだろ?」
「・・・酷い?」
「俺がおまえを見付けられなかったら、どうしてくれるんだよ?偶然見つけ出せたから良かったものの。」
「どうして、先輩が僕を見付けなきゃならないんですか?卒業してから電話一本無かったのに?僕の番号は暫く・・・そのままでした。」
「ああ、そうだな。俺がいざ連絡しようとしたら、全然知らない人が出たよ。」
「・・・僕が携帯を変えたのは、昨年の夏です。」
ジユルは、ハソプと恋仲になってすぐに携帯を変えたのだ。それまでずっと同じものを使用していたのは、面倒臭がりの惰性からだけでは無い。忘れたい辛い記憶だとしながらも、何処かで未練と微かな期待があったからに違いなかった。
ハソプからの愛情に癒された事ですっかり忘れていた、古傷の疼きと自分の浅ましさまで呼び起こされたような気がして、ジユルは鼻に皺を寄せていた。
それにしても、”先輩”はこのようなぞんざいな口調で、調子よく嘘を吐くような人物だっただろうか?まるで初対面の人を見るようにジユルは感じていた。
もし昨年の夏以降に電話を掛けたのが本当だとしても、置き去りにされてから5年も経過している。今更、何の用があって連絡をする必要があると言うのだろうか。
どうせ吐くなら、もっと上手い嘘を吐いて欲しいとジユルは思った。
「おまえさ・・・まさか俳優復帰するとは思ってもみなかったよ。どうして、昔の名前・・・イ・ジンで復帰しなかったんだ?」
この言葉には、ジユルは衝撃を受けていた。
子役時代の話を、大学生時代に誰にもした事が無いからだ。誰かがTVドラマなどで見覚えがあったとしても、それを問われた事は一度も無かった。
「残念だよ。俺は、あの、イ・ジンが戻って来たのかとばかり・・・ぬか喜びだったな。」
ジユルは混沌としていた。何故、ぬか喜びなどという言葉を使うのか?
「・・・僕が、子役をしていたと、先輩は知っていたんですか?」
「当然だろ。じゃなきゃ、学年も学部も違うおまえに、どうやって接点持てるって言うんだよ?相変わらずどんくさいんだな。気が付かなかったのか?」
「え・・・僕を・・・学食で見かけて、気になって声を掛けてくれたって・・・・」
「そうだよ?学食で見掛けて、こんな所にイ・ジンが居た!ってそりゃあ、驚いたさ。俺はおまえと繋がりが全く無いからな、アプローチするのに大変だったんだぞ?おまえは俺がアピールする度に懐いてきて、素直で可愛くてあのドラマの役そのものだった。」
「・・・そんな・・・それじゃ・・・僕じゃなくて・・・・・」
「ところが実際に付き合ってみたら、あの子(配役)と全然違うじゃないか。鈍いし、推察力ゼロだし、いつもおどおどして俺の顔色ばっかり伺って・・・俺は、素直でいつも凛としてて、たまに照れ屋なあの子に会いたかったんだよ!」
「何・・・言ってるん・・・・・」

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