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僕の半分<sound of WAVES>
僕の半分<sound of WAVES> 10
「おまえはさ、あのドラマのあの子そのものになってる時が素晴らしかったんだよ。俺があの子に戻してやろうかと矯正してやってるのに、お前は人の気も知らないでどんどんかけ離れていきやがるし・・・あんなにおどおどして泣いてばっかりじゃ、真逆じゃないか。だけど、こないだの生放送見てて俺は確信したんだ。お前が話す様子、顔付、俺に対する笑顔や涙や・・・ああ、イ・ジンが戻って来たんだな。俺の為に、あの子が戻って来たんだって。一か八かの博打だったけど、唯一持ってたお前の写真で一発で釣れたわけだ。しかも、俺の、イ・ジンが。」
ジユルは言葉も無く、パク・スンヒョンが話す間中首を微かに振りながら、見開いた目から涙を流し続けていた。
何もかもが、信じられなかった。
恋愛だと信じていた僅かな期間と待ちぼうけをしていたその後の長い時間とが、全部虚構に過ぎない事実を突きつけられたのだ。あの身体の痛みは、自分が受け続けていたものだ。迷路に迷い込んでしまった心と寂しさは、紛れもなく自分が抱えて来たものだ。
5年もの長く苦しい時間は、一体何だったのか。
「お前の身体の具合は最高に良かったんだ。イ・ジンが戻って来た今なら、優しく扱ってやれる。俺とやり直すんだ、イ・ジン。」
一部始終を聞いていた社長は、密かに店外に居る二人にスマホで合図を送っていた。取り決め通り、ハソプは店ビルの外に、事務所スタッフはジユルを連れに部屋のすぐ外に待機した。
ジユルは涙を流しながらも、胸に手を当て、粗い呼吸を整えようと試みた。眉を寄せ、唇を噛みしめながら何度も深呼吸をしていた。
「・・・先輩。そこまでイ・ジンを買って下さって、ありがとうございました。」
戦慄く唇で、くぐもった声で、漸く言葉を発したジユルは、パク・スンヒョンの顔を見た。
かつて目にした事の無いような満面の笑みに、背筋が凍る思いがした。
ジユルはハソプの言葉を思い出していた。
”先輩”が最初から最期まで自分では無くイ・ジンを求めていたと言うのなら、役者ファン・ジユルとして受けて立つだけだ。
現実の虚しさを糧に、俳優として真っ向勝負をするだけだ。
過去に飲み込まれる事無く、未来をつかみ取る為の自分との闘いでもあった。
目の前の”先輩”相手に組み立てて行く”インプロ劇”でしかないのだと気持ちを切り換えた。虚構でいいんだ。これは、芝居でしかない。
着地点は、先輩が引き下がり二度と自分の前に立ち塞がらないでくれる事。
ジユルは、ひとつだけの結末に向かって即興劇を演じるつもりだ。真実など、もうどうでもいい。今となっては、ジユルに大きな意味を成さない。
この舞台を無事に完成させるだけに集中した。
一通り”先輩”の言い分が尽きるまで、平静を装い黙ったままで話を聞いた。
沈黙の時を迎えて、今度はジユルの番だった。
静かにゆっくりとではあったが、目を見ながら毅然とした態度でジユルは話し始めた。
「先輩は大学の学食で僕を見付ける以前は、何で僕を見付けたんですか?」
「直接僕と会うまでは、ドラマの子(役)とイ・ジンとどちらが好きでしたか?」
「何処が好きでしたか?」
「実際にイ・ジンであった僕と会って、どうしたかったんですか?」
「思うように行かなくて、どう矯正しようとしたんですか?」
「もし先輩の理想通りの僕なら、イ・ジンであったなら、将来はどうしたかったんですか?」
「先輩はイ・ジンと触れ合った時、どう感じていましたか?」
全く理解したいとも思えない過去の出来事について、パク・スンヒョンに質問攻めをした。
そこから得られる情報から、その後の展開のフレームワークをしつつセリフを考え選んでいく。ジユルが途中から”僕が”では無く”イ・ジンが”と主語が変わっていくのを、スンヒョンは気付いていたのか否か。
スンヒョンは始めは饒舌に答えていたが、途中からその質問自体に何の意味があるのか、又は、その時の心境が朧げな記憶になっていたと気付き、次第に言葉少なくなりやがて寡黙になって行った。
ジユルは卒業後父が経営する通販会社に入社したわけだが、縁故以外は他社員同様、新人研修や雑用や入社年数に見合った働きをこなしてきた。クレーム対応の研修で、話がかみ合わない相手とどう対応していくのかを学んだ時の経験が今活きているのだ。実際、定期的にどの部署からも「お客様の声」を聞くためにオペレーターの仕事が割り当てられていた。
まずは相手に喋らせるだけ喋らせ一時の興奮状態を緩和させてから、質問形式にして前提条件を都度認識、その後結論まで冷静に誘導させるという手法だ。ただし、相手は生身の人間である。人の数の分だけ、個性や思想の違いがある。理不尽な要求は、言葉の通じない外国人に意思疎通が困難なのとよく似ている。
マニュアルはあくまで骨組みにしか過ぎず、相手の特徴を掴みながらアレンジを加え、通じる言葉を探し出し、こちらの意図伝達に到達さえすれば業務遂行だ。
観察力と経験値があれば、いつの間にか自分独自のマニュアルが構築されている。
同じだ、とジユルは気付いたのだ。
そして、ハソプと初めて抱き合った一年前、晩夏の江原道で「どんな人も、今の自分を作るひと欠片になっている」と言われた言葉の真意を改めて感じていた。
無駄な経験など、何一つ無かったのだと。あの苦しかっただけの数年間も。
「先輩は、今、イ・ジンでは無い僕に何を求めていますか?」
「・・・イ・ジンに戻って欲しい。俺を、あの子がドラマで見せたような眼差しで見詰めて欲しい。」
「もし、それが無理なら代替案はございますか?」
「ない・・・ある分け無いだろう?」
「左様でございますか。では、僕の方から回答とご提案を致します。」
会社員だったときの口調にどんどん変わっていくジユルに気付いているのは、傍らの社長だけだった。
「先輩は思い違いをなさっていたと、お話から伺い知れました。俳優イ・ジンは先輩が大学をご卒業なさった時に、一緒に卒業したんですよ?僕から。」
「え・・・」
「正確に言えば、先輩が僕の中からイ・ジンを連れて行ってしまったんです。だから僕は抜け殻になりました。俳優じゃなくなりましたから、一般会社員になりました。いつか返してくれるのかと、ずっと待っていました。でも、先輩は抜け殻になった僕を置いたまま、二度と戻って来なかった。先輩と、イ・ジンと同時に二人を失いました。改めて俳優になる為には、仕方なく、ファン・ジユルという新たなキャラクターを生み出す必要に迫られました。元々連れて行ったのは先輩なのに、僕に戻って欲しいとは支離滅裂じゃありませんか?先輩がイ・ジンを連れ去ったんですよ?」
「・・・・」
「僕からのご提案としましては、僕はイ・ジンではございませんので、以後、ファン・ジユルの不利益になる行為行動は慎んで頂きたいと言う事と、お願いするからには相応の対価が必要かと存じますので、社長始め専門家の方とお話下さい。可能な範囲で精一杯の対応を致します。」
ジユルが社長に目配せをすると、社長は離れた席から二人の元へと腰を下ろした。
「もう、話は終わりましたか?何か言い残す事は?」
言葉と共にジユルの態度が他人行儀に豹変していく様を見せ付けられたパク・スンヒョンは、呆然として社長の声も聞こえないようだった。半ば強引なジユルのセリフ回しに、違和感を覚える余裕が無かった。圧倒されてしまったのだ。
「社長、僕から最後に・・・いいですか?」
社長が頷くのを待って、ジユルは最後にスンヒョンをじっと見詰めた。
「先輩が連れ去ったイ・ジンは多分、何も言わなかったと思いますので補足を僕から・・・」
漸く顔を上げ目線が合ったスンヒョンが、小さく頷いた。
「置き去りにされて抜け殻になってしまった僕アン・ジユルは・・・先輩の事を考えない日はありませんでした。」
「え・・・じゃあ、ずっと・・・?」
「独りぼっちが長すぎて、最初の想いのままでいたかは分かりません。でも、毎日、考えていました。何故?どうして?ってそればかり。あの日、僕の知らない僕の寝顔の写真を見るまでは。」
「・・・・」
「あの写真一枚分だけでも、先輩にも僕に想いがあった事が分かって、僕は・・・先輩からやっと答えを手渡された気分でした。僕も、漸く、先に進めたんです。ありがとうございました。」
ジユルは深く頭を下げた。
ジユルの頭部のくせっ毛を見詰めながら、スンヒョンは呆然自失していた。
漸く、自分が引き起こした事が真に終局を迎える結末を招いたのだと悟ったのだ。その愚かさにも。
「身体に気を付けて、どうぞお元気で。」
ジユルは立ち上がりもう一度頭を下げてから部屋を出た。ドア付近に待機していた事務所スタッフに肩を抱かれ、すぐに店を後にした。
「書類をよく読んで、承諾したならサインをお願いします。ここにある条項に違反と見なす行為があった場合、即座に法的措置に移りますので念頭に入れておいて下さい。これで承服しかねる場合、代理人を立て当方の弁護士と話し合いの機会を設けても結構ですが、当方の希望は変わりません。アン・ジユルまたはファン・ジユルとの今後一切の接触を禁じ、過去の関連資料を使用し風説の流布などの名誉棄損行為をしないで頂きたい。個人間で纏められる程度の内容でしたら、そちらの要望があればこれを最後の機会として聞くだけ聞きますので、今、話して下さい。」
社長は、元本と控用と数枚の書類とペンをスンヒョンに差し出した。
「あなたも、本来の自分の道を歩んで下さい。それがジユルの希望です。」
静かに言った社長からペンを受け取り、ろくに目を通さずにスンヒョンは承認のサインを書き始めた。
サインを終えて社長が書類全てに目を通したのを確認後、スンヒョンはテーブルに手を着いて力無く立ち上がった。
「後出しは出来ませんよ?本当に、言い残す事は無いんですか?」
表情を無くしてしまったスンヒョンを見上げ、社長はもう一度問い掛けた。スンヒョンがゆっくりと首を振って、静かに出て行く後ろ姿に社長は溜息を吐いた。
「パク・スンヒョンさん、貴方、上司の娘さんとご婚約なさるんでしたよね?余計なお節介ですが、ジユルの事は忘れてご自分の幸せを歩んで下さい。」
暗に『おまえの情報は詳細に掴んでいるぞ、又馬鹿な事をしでかしたらこちらにも考えがある』という強迫の念押しを、社長は忘れていなかった。
スンヒョンは何の反応もせず、ドアは閉まった。
ジユルは既に店から少し離れた場所に停車している車にスタッフと待機していたから、その姿をスンヒョンに見られる事は無い。
「あ、今、話し合いは終わったようです。社長から合図が来ました。」
スタッフがジユルに告げたと同時にハソプにも社長から通知が来たので、店舗ビルから出て来たスンヒョンの後ろ姿を少し離れた場所から尾行し始めた。これは誰からも頼まれていない、ハソプ独自の行動だ。
とぼとぼと歩くスンヒョンののろい足取りに苛つきながら、ハソプは人気の少ない場所に差し掛かるのをずっと待っていた。スンヒョンが飲み屋街の路地裏の入り口に差し掛かった時、猛ダッシュでその背後から飛び掛かり、日中誰も居ない小路に押し込みながら素早く胸倉を掴み、目深に被ったキャップを俯かせたままスンヒョンの視野に入れずに、見えていないのに感覚だけでスンヒョンの顔面に拳を叩きつけていた。
路地裏に置かれたゴミ袋の山にスンヒョンの身体が放り出されたのを音で知ると、ハソプは踵を返して一目散に走り去った。
日頃ジユルに偉そうに年上風を吹かせていながら、治めきれない怒りを暴力で解消させるなど、愚行にも程があるのは百も承知だった。
ハソプの行動は、恋人であるジユルを複数年間苦しめてきた相手だったから、というだけでは無い。
知り合いの業者が設置した録音盗聴器から二人の会話の一部始終を聞いていて、自分が7年掛けて探し続けたイ・ジンを愚弄された事への憤怒、身勝手な解釈でジユルの心身を苛み続けた事への嫌悪、俳優として再出発したばかりのジユルへの妨害行為は断じて許せるものでは無く、とにかくハソプの全身が怒りで沸騰したせいだ。
この一発の拳が露見したとして、今ハソプが持つ全てと引き換えにしても構わないとさえ思ってしまった行動だった。
冷静になれば、これはこれで身勝手極まりないとも呆然とした。自分の感情しか優先していない、スンヒョンと何処が違うのかと。
ハソプは厚着の中に汗をびっしょりとかいていた。走ったせいだけでは無い。脂汗と冷や汗だ。
車に戻ると、社長が運転席からハソプを待ち構えていて、顎で助手席に乗れと指図していた。後部座席には、目を閉じ顔色を失ったジユルが同行した女性スタッフに肩を抱かれ、胸に凭れ掛かっていた。
「大丈夫・・・なんですか?」
「それは、お前の方じゃないのか?」
「・・・・」
「取りあえず、部屋まで送るから。」
ジユルの部屋のベッドに寝かしつけると、社長が顎でハソプを別な場所へと誘導した。人気の無い非常階段の踊り場で、突然社長はハソプの右手を掴んだ。
「これは、なんだ?」
赤黒く擦過傷の腫れているハソプの右手の拳を掴んで揺らした。
ジユルは言葉も無く、パク・スンヒョンが話す間中首を微かに振りながら、見開いた目から涙を流し続けていた。
何もかもが、信じられなかった。
恋愛だと信じていた僅かな期間と待ちぼうけをしていたその後の長い時間とが、全部虚構に過ぎない事実を突きつけられたのだ。あの身体の痛みは、自分が受け続けていたものだ。迷路に迷い込んでしまった心と寂しさは、紛れもなく自分が抱えて来たものだ。
5年もの長く苦しい時間は、一体何だったのか。
「お前の身体の具合は最高に良かったんだ。イ・ジンが戻って来た今なら、優しく扱ってやれる。俺とやり直すんだ、イ・ジン。」
一部始終を聞いていた社長は、密かに店外に居る二人にスマホで合図を送っていた。取り決め通り、ハソプは店ビルの外に、事務所スタッフはジユルを連れに部屋のすぐ外に待機した。
ジユルは涙を流しながらも、胸に手を当て、粗い呼吸を整えようと試みた。眉を寄せ、唇を噛みしめながら何度も深呼吸をしていた。
「・・・先輩。そこまでイ・ジンを買って下さって、ありがとうございました。」
戦慄く唇で、くぐもった声で、漸く言葉を発したジユルは、パク・スンヒョンの顔を見た。
かつて目にした事の無いような満面の笑みに、背筋が凍る思いがした。
ジユルはハソプの言葉を思い出していた。
”先輩”が最初から最期まで自分では無くイ・ジンを求めていたと言うのなら、役者ファン・ジユルとして受けて立つだけだ。
現実の虚しさを糧に、俳優として真っ向勝負をするだけだ。
過去に飲み込まれる事無く、未来をつかみ取る為の自分との闘いでもあった。
目の前の”先輩”相手に組み立てて行く”インプロ劇”でしかないのだと気持ちを切り換えた。虚構でいいんだ。これは、芝居でしかない。
着地点は、先輩が引き下がり二度と自分の前に立ち塞がらないでくれる事。
ジユルは、ひとつだけの結末に向かって即興劇を演じるつもりだ。真実など、もうどうでもいい。今となっては、ジユルに大きな意味を成さない。
この舞台を無事に完成させるだけに集中した。
一通り”先輩”の言い分が尽きるまで、平静を装い黙ったままで話を聞いた。
沈黙の時を迎えて、今度はジユルの番だった。
静かにゆっくりとではあったが、目を見ながら毅然とした態度でジユルは話し始めた。
「先輩は大学の学食で僕を見付ける以前は、何で僕を見付けたんですか?」
「直接僕と会うまでは、ドラマの子(役)とイ・ジンとどちらが好きでしたか?」
「何処が好きでしたか?」
「実際にイ・ジンであった僕と会って、どうしたかったんですか?」
「思うように行かなくて、どう矯正しようとしたんですか?」
「もし先輩の理想通りの僕なら、イ・ジンであったなら、将来はどうしたかったんですか?」
「先輩はイ・ジンと触れ合った時、どう感じていましたか?」
全く理解したいとも思えない過去の出来事について、パク・スンヒョンに質問攻めをした。
そこから得られる情報から、その後の展開のフレームワークをしつつセリフを考え選んでいく。ジユルが途中から”僕が”では無く”イ・ジンが”と主語が変わっていくのを、スンヒョンは気付いていたのか否か。
スンヒョンは始めは饒舌に答えていたが、途中からその質問自体に何の意味があるのか、又は、その時の心境が朧げな記憶になっていたと気付き、次第に言葉少なくなりやがて寡黙になって行った。
ジユルは卒業後父が経営する通販会社に入社したわけだが、縁故以外は他社員同様、新人研修や雑用や入社年数に見合った働きをこなしてきた。クレーム対応の研修で、話がかみ合わない相手とどう対応していくのかを学んだ時の経験が今活きているのだ。実際、定期的にどの部署からも「お客様の声」を聞くためにオペレーターの仕事が割り当てられていた。
まずは相手に喋らせるだけ喋らせ一時の興奮状態を緩和させてから、質問形式にして前提条件を都度認識、その後結論まで冷静に誘導させるという手法だ。ただし、相手は生身の人間である。人の数の分だけ、個性や思想の違いがある。理不尽な要求は、言葉の通じない外国人に意思疎通が困難なのとよく似ている。
マニュアルはあくまで骨組みにしか過ぎず、相手の特徴を掴みながらアレンジを加え、通じる言葉を探し出し、こちらの意図伝達に到達さえすれば業務遂行だ。
観察力と経験値があれば、いつの間にか自分独自のマニュアルが構築されている。
同じだ、とジユルは気付いたのだ。
そして、ハソプと初めて抱き合った一年前、晩夏の江原道で「どんな人も、今の自分を作るひと欠片になっている」と言われた言葉の真意を改めて感じていた。
無駄な経験など、何一つ無かったのだと。あの苦しかっただけの数年間も。
「先輩は、今、イ・ジンでは無い僕に何を求めていますか?」
「・・・イ・ジンに戻って欲しい。俺を、あの子がドラマで見せたような眼差しで見詰めて欲しい。」
「もし、それが無理なら代替案はございますか?」
「ない・・・ある分け無いだろう?」
「左様でございますか。では、僕の方から回答とご提案を致します。」
会社員だったときの口調にどんどん変わっていくジユルに気付いているのは、傍らの社長だけだった。
「先輩は思い違いをなさっていたと、お話から伺い知れました。俳優イ・ジンは先輩が大学をご卒業なさった時に、一緒に卒業したんですよ?僕から。」
「え・・・」
「正確に言えば、先輩が僕の中からイ・ジンを連れて行ってしまったんです。だから僕は抜け殻になりました。俳優じゃなくなりましたから、一般会社員になりました。いつか返してくれるのかと、ずっと待っていました。でも、先輩は抜け殻になった僕を置いたまま、二度と戻って来なかった。先輩と、イ・ジンと同時に二人を失いました。改めて俳優になる為には、仕方なく、ファン・ジユルという新たなキャラクターを生み出す必要に迫られました。元々連れて行ったのは先輩なのに、僕に戻って欲しいとは支離滅裂じゃありませんか?先輩がイ・ジンを連れ去ったんですよ?」
「・・・・」
「僕からのご提案としましては、僕はイ・ジンではございませんので、以後、ファン・ジユルの不利益になる行為行動は慎んで頂きたいと言う事と、お願いするからには相応の対価が必要かと存じますので、社長始め専門家の方とお話下さい。可能な範囲で精一杯の対応を致します。」
ジユルが社長に目配せをすると、社長は離れた席から二人の元へと腰を下ろした。
「もう、話は終わりましたか?何か言い残す事は?」
言葉と共にジユルの態度が他人行儀に豹変していく様を見せ付けられたパク・スンヒョンは、呆然として社長の声も聞こえないようだった。半ば強引なジユルのセリフ回しに、違和感を覚える余裕が無かった。圧倒されてしまったのだ。
「社長、僕から最後に・・・いいですか?」
社長が頷くのを待って、ジユルは最後にスンヒョンをじっと見詰めた。
「先輩が連れ去ったイ・ジンは多分、何も言わなかったと思いますので補足を僕から・・・」
漸く顔を上げ目線が合ったスンヒョンが、小さく頷いた。
「置き去りにされて抜け殻になってしまった僕アン・ジユルは・・・先輩の事を考えない日はありませんでした。」
「え・・・じゃあ、ずっと・・・?」
「独りぼっちが長すぎて、最初の想いのままでいたかは分かりません。でも、毎日、考えていました。何故?どうして?ってそればかり。あの日、僕の知らない僕の寝顔の写真を見るまでは。」
「・・・・」
「あの写真一枚分だけでも、先輩にも僕に想いがあった事が分かって、僕は・・・先輩からやっと答えを手渡された気分でした。僕も、漸く、先に進めたんです。ありがとうございました。」
ジユルは深く頭を下げた。
ジユルの頭部のくせっ毛を見詰めながら、スンヒョンは呆然自失していた。
漸く、自分が引き起こした事が真に終局を迎える結末を招いたのだと悟ったのだ。その愚かさにも。
「身体に気を付けて、どうぞお元気で。」
ジユルは立ち上がりもう一度頭を下げてから部屋を出た。ドア付近に待機していた事務所スタッフに肩を抱かれ、すぐに店を後にした。
「書類をよく読んで、承諾したならサインをお願いします。ここにある条項に違反と見なす行為があった場合、即座に法的措置に移りますので念頭に入れておいて下さい。これで承服しかねる場合、代理人を立て当方の弁護士と話し合いの機会を設けても結構ですが、当方の希望は変わりません。アン・ジユルまたはファン・ジユルとの今後一切の接触を禁じ、過去の関連資料を使用し風説の流布などの名誉棄損行為をしないで頂きたい。個人間で纏められる程度の内容でしたら、そちらの要望があればこれを最後の機会として聞くだけ聞きますので、今、話して下さい。」
社長は、元本と控用と数枚の書類とペンをスンヒョンに差し出した。
「あなたも、本来の自分の道を歩んで下さい。それがジユルの希望です。」
静かに言った社長からペンを受け取り、ろくに目を通さずにスンヒョンは承認のサインを書き始めた。
サインを終えて社長が書類全てに目を通したのを確認後、スンヒョンはテーブルに手を着いて力無く立ち上がった。
「後出しは出来ませんよ?本当に、言い残す事は無いんですか?」
表情を無くしてしまったスンヒョンを見上げ、社長はもう一度問い掛けた。スンヒョンがゆっくりと首を振って、静かに出て行く後ろ姿に社長は溜息を吐いた。
「パク・スンヒョンさん、貴方、上司の娘さんとご婚約なさるんでしたよね?余計なお節介ですが、ジユルの事は忘れてご自分の幸せを歩んで下さい。」
暗に『おまえの情報は詳細に掴んでいるぞ、又馬鹿な事をしでかしたらこちらにも考えがある』という強迫の念押しを、社長は忘れていなかった。
スンヒョンは何の反応もせず、ドアは閉まった。
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「あ、今、話し合いは終わったようです。社長から合図が来ました。」
スタッフがジユルに告げたと同時にハソプにも社長から通知が来たので、店舗ビルから出て来たスンヒョンの後ろ姿を少し離れた場所から尾行し始めた。これは誰からも頼まれていない、ハソプ独自の行動だ。
とぼとぼと歩くスンヒョンののろい足取りに苛つきながら、ハソプは人気の少ない場所に差し掛かるのをずっと待っていた。スンヒョンが飲み屋街の路地裏の入り口に差し掛かった時、猛ダッシュでその背後から飛び掛かり、日中誰も居ない小路に押し込みながら素早く胸倉を掴み、目深に被ったキャップを俯かせたままスンヒョンの視野に入れずに、見えていないのに感覚だけでスンヒョンの顔面に拳を叩きつけていた。
路地裏に置かれたゴミ袋の山にスンヒョンの身体が放り出されたのを音で知ると、ハソプは踵を返して一目散に走り去った。
日頃ジユルに偉そうに年上風を吹かせていながら、治めきれない怒りを暴力で解消させるなど、愚行にも程があるのは百も承知だった。
ハソプの行動は、恋人であるジユルを複数年間苦しめてきた相手だったから、というだけでは無い。
知り合いの業者が設置した録音盗聴器から二人の会話の一部始終を聞いていて、自分が7年掛けて探し続けたイ・ジンを愚弄された事への憤怒、身勝手な解釈でジユルの心身を苛み続けた事への嫌悪、俳優として再出発したばかりのジユルへの妨害行為は断じて許せるものでは無く、とにかくハソプの全身が怒りで沸騰したせいだ。
この一発の拳が露見したとして、今ハソプが持つ全てと引き換えにしても構わないとさえ思ってしまった行動だった。
冷静になれば、これはこれで身勝手極まりないとも呆然とした。自分の感情しか優先していない、スンヒョンと何処が違うのかと。
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車に戻ると、社長が運転席からハソプを待ち構えていて、顎で助手席に乗れと指図していた。後部座席には、目を閉じ顔色を失ったジユルが同行した女性スタッフに肩を抱かれ、胸に凭れ掛かっていた。
「大丈夫・・・なんですか?」
「それは、お前の方じゃないのか?」
「・・・・」
「取りあえず、部屋まで送るから。」
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