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Ⅳ
氷華の剣・上
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放たれた火はちろりと舌を伸ばしたかと思うと、見る間に獲物を丸呑みにした。
ごうごうと鳴る激しい音が風を呼ぶ。雲一つない夕空を汚す黒い煙が、次から次へと立ち昇っていく。
ヒルダは無感動にそれらを見つめていたが、やがて、踵を返した。己を突き刺す三対の視線を一顧だにしない。辛うじて回復させた愛想は、王都で全部使い切った。愛しい者も親しい者もいないスートライトでまで、心を凍りつかせるような、全身が震えるような怒りを隠す必要がどこにあるというのだろう。
「ヒルディアさま……」
「私はこれから本邸へ向かいます。あなたはお好きなように」
燃え落ちる館の処理をやりたいなら勝手にやれと言外に言い放ったヒルダに、ナジェルはひどく強張った表情でしばらく言葉を探していたようだが、結局無言で頷くだけだった。
王都からついてきた王ご指名の見届け役つまり監視の騎士二名も、ヒルダを異常を見る目で見つめている。だが、なにも言わないし、ヒルダも言わせる気がない。「二人以上は邪魔です」と突っぱねたのはヒルダ本人。監視だけならまだしも、口出しも手出しも必要ない。余計なことをするようなら即座に帰還させる心づもりである。
ふと、彼らの向こうにまだ汚されていないきれいな暮れの空が見えた。ヒルダの髪色のように赤い……。
(兄上が、夕焼けの色だって褒めてくれた)
一度は投げ捨てた思い出を、二度目は大事に摘みあげる。
ヒルディア・スートライトの墓場に、その花を散らしてあげるために。
☆☆☆
セシルもアデルも、目の前にしゃんと立つヒルダを見ても、無事でよかったなんて言えなかった。シドから、荒事はあったものの、無傷らしいとは報告された。ジュストのついでで誘拐されたことを思えば幸いだろう。だが、真実はついでではないようだと――なぜか、ヒルダはスートライト領へ「けじめ」をつけに行くつもりだと、シドが言ったのだ。
そしてこの目にして明らかな、ヒルダの漂わせる気配。嫌な予感の中でも超特大級な予感しかしない。
ヒルダが視線を閉ざした扉の方へやり、なにか言おうとするのを見たアデルは、本能的に「聞きたくない」と思った。
「姉さま、怪我は?」
「ああ、手と足の痣以外はなんともないわ。それも縄で縛られたから擦れたくらいで、一週間もすればきれいに治ってるわよ」
「縄?」
兄妹の表情が一気に剣呑になった。
「姉さまに、縄をかけたの?」
「一応、ジュストさまの人質という格好だったから。ジュストさまは早々に解かれたんだけどね。口を塞がれなかっただけまだましよ」
「ましじゃないわ。そいつら、今どこ?もうお城に入ってきた?」
「縄をかけるよう命令した人はともかく、実際にそうした人たちなら、もう死んでるわ。一人はあたしが殺したんだし」
アデルは愕然とした。セシルは知りたくなかったというように、とてつもなく苦い顔になった。
「……こ、ころした、の?」
「ええ。ちょっと失敗して、頭から血を被ったんだけど。初めてのわりにうまくいったわ」
ヒルダは静かに微笑んでいる。アデルの強張った頬を撫でる手は優しい。アデルがもしヒルダに恐怖を抱いたとしても、ヒルダは構わず優しく触れてくるだろう。撫でさせてくれるはずだという、残酷で甘い温もりがあった。
とはいえ、アデルがヒルダに恐怖を抱くことは、絶対にありえない。誰かの命を奪ったとて。……初めて人を殺して、それを笑って申告したとても。
これまでヒルダは荒事をそれなりにこなしてきたが、ただの一度も、人を殺したことがなかった。領地でも、王都でも。捕縛か、倒して放置か。それで済ませていたのは、そう済む範囲のことしか起きなかったというのがあるが、そもそもは、誰も殺すつもりがなかったからだ。
剣をとる道を自らで選んだ以上、人を殺すことに今さらためらうようなことはないが、殺すというのは、「穏便」から程遠い結果になるからなるべく避けていた。
常識と平凡がほぼ同義であるあの故郷で、ヒルダの身につけた戦闘技術だけは、明らかに目こぼしの範囲を逸脱していた。そのためごまかせる範囲でやり過ごすこと、すなわち穏便な解決が絶対だったのだ。
先日の学園での立ち回りも同じだ。アデルとウィンスター救出に焦りながらも一人も殺さなかったのは、事態に介入した謎の人物が貴族学生及び関係者への殺人など仕出かせば、追及の手がどこまでも伸びるとわかっていたから。それがヒルダに届けばバルメルクにも、果てにはスートライトにも波及する問題になるので、どんなに憎悪に呑まれかけようとも一線は絶対に越さなかった。
かといって、今回ばかりは激情に流されたかと問われれば、ヒルダは否と答えるだろう。もはや隠す必要はなくなったという、それだけだ。
「兄上とアデルが駄目だとなって、今になって勘当した長女を思い出したらしいわ。でも相変わらず手段が最低値を更新してくのはなんなのかしらね。よりによってバルメルク家の政敵と手を組んで、しかもそれをジュストさまの目の前で明らかにするなんて……」
「ヒルダ、まさか……」
「スートライトの家紋付きの短剣を持つ人間なんて、限られてるでしょう?」
本来持つにふさわしいのは、当主かそれに近しい者。臣下に与えるならば、よほど信任を受けていることになる。家紋を直接に掲げる行為は、身元を証明するとともに、それを当主の意と示すも同義だからだ。
さしものセシルも絶句したし、アデルは悲鳴を飲み込んだ。さらには聞き耳を立てているマリーナすらも、我が耳を疑った。
セシルを殺すことに王子たちを巻き込む画策をしたのが少し前で、今度は、ヒルダを取り戻すついでで、バルメルク家に喧嘩を売ったのだ。堂々とスートライトの名を掲げるという、より最悪なやり方で。
「ジュストさまには一応、見逃すというお言葉を頂いたわ。条件というか、あたしがスートライト領に行くことが前提のお話でね」
「――姉さま!」
「ヒルダ、違う。君がやるべきことじゃない!」
「もう釘を刺す程度じゃ済ませられないわ。だけど、目に見える傷は少ない方がいい。そんな複雑な処理を、あたし以上にうまくやれる人はいないでしょ?」
遠足に行くとでも言うような軽やかな声音で、けれどどこまでも本気なのだとわからないセシルとアデルではなかった。わからないはずがない。誰よりもなによりも大事な人。
傷つくだけだとわかっているのに、絶対に行かせられるものか。
「たとえ君が最もうまくやり切るとしてもだ。君には、資格がない。絶縁状をもぎ取ったのは君自身だ。受けた屈辱をその場で晴らすのはヒルダに当然与えられた権利で、でも、それ以上は、違うだろう。スートライトを名乗る私とアデルが果たすべきことで、断じて君の義務も責任もない」
セシルがあえて突き放すように言えば、ヒルダは今思い至ったようで、ぱちりと瞬き……思わずといったように笑い声をこぼした。
「ヒルダ?」
「ご、ごめんなさい、兄上。確かに……そうだわ。そうなのよね。でもそれなら、あんなことじゃ到底、晴れるわけないわ」
「……ヒルダ、まだ、なにか」
「――だって、ねえ」
こみ上げるそれを抑えるように口に手を当てていても、笑いは止まらない。笑いの波に乗って歌うように、ヒルダは言った。
「スートライトはあたしを、次の『至宝』の産み腹にしようとしているのに?」
傷つけられすぎてどこが痛いかもわからないから、無傷なのだと思い込んでいるような、そんな、顔で。
己に刃を振り下ろしてなお、笑うのだ。
スートライト侯爵家に生まれたヒルダの幸先は、そう悪いものではなかった。「平凡」の枠を越えた望みさえ抱かなければ。
兄の助けに、妹の先達にと自己研鑽に励むことを否定された幼少期。許されたのは一般的な淑女としての教育だけであり、スートライト宗主の直系としての義務すら求められなかった。
望めば叶えてくれるなんて、甘い期待を両親に抱くこともなくなった。いつか成果を出せば認めてくれるなんて希望までも、芽生える前に、最初で最大の挫折によって跡形もなく消え去った。ハルトとの別離という挫折。
それでも努力を諦めなかったのは、自分という存在を保つため。両親の娘としてではなく、兄と妹のために「ヒルディア・スートライト」の存在を定義した。二人に見合う己になるためにと決めれば、それを阻もうとする両親は邪魔者であり、周囲の諫言は妨害音にしかならない。能力は平凡その通りのヒルダが二人に並び立つためには、そんなものにかかずらう暇はなかった。だから隠れて励んだ。
けれど、身につけた実力そのものはほとんど隠したわけではない。兄には勝ることがない。妹より目立つなんてありえない。どう足掻いたって平凡の範囲内だったから、やるなと否定したのにいつの間にかできるようになった結果を見ても、誰もなにも疑問に思わなかった。違和感すらなく、呆気なく受け入れられた。
それだけだ。
「秘宝」なんてごたいそうな呼び名の裏側は、そんなものだ。
なにが宝か。なにが秘めたるものか。
故郷に捨ててきた者の誰一人として、「ヒルディア・スートライト」の存在を認めなかったという、それだけの話なのに。
「至宝」とそっくり同じ血を引くのに、平凡だから、可哀想。
可哀想だから、唯一の「取り柄」だけでも生かしてあげよう。
……セシルとアデルを捨ててヒルダを求めるようになっても、彼らは、少しも変わらない。
「ね、兄上。屈辱を晴らすべきなら、あたしは生まれた頃から今までの全部を拾い上げなきゃいけないわ。それが集まっての今なんだもの」
蠟のような顔色の兄と呼吸すら怪しい妹に、ヒルダは困ったように笑いながら手を伸ばして、抱きしめた。夜会からそのまま整えられているアデルの金髪に頬を擦り寄せ、兄の清涼感ある香水の匂いをいっぱいに吸い込んだ。
彼らがどれほど「至宝」に固執しているか。ヒルダもあの短剣を見るまで、そこまでとは思っていなかった。油断というならみんな同じだ。
いつか。
いつか、ヒルダがなにも隠さずに済むような。その持てる力を正しく認め、頼り、三人で数多を成し遂げ、スートライトの誇りとするような。
そんな未来が来ると、三人は信じていた。だからヒルダは長きを耐えてきたし、兄妹もそれを応援し、支え、そして準備をしてきた。
セシルが領主になれば、変わると信じていた。信じていたのだ。
「兄上、アデル。あたしはバルメルク家の養子になるわ」
最初に見切りをつけたヒルダよりも、この兄妹はまだ希望を持っていただろう。当主交代の後でも勘当の撤回はできる。領地を明け渡す密約すら、幼い王太子ではなく、領地へ猶予期間を与えるためのもので。立て直そうと思えばできたはずなのに、最悪へ最悪へと転がり落ちてゆく。大事な兄妹を道連れにして。
……それなら、もういいと、ヒルダが言ってやらなければ。
「大丈夫。あたしはいきなりいなくなったりしないから。ちゃんと王都に帰ってくるわ。商会を辞めるつもりもないのよ。ここには未練が多すぎて、忘れようとしても、もう忘れられない」
アレンたち商会員、シドやニーナ、ファリーナにバルメルク家の人々、リーシャンとマリーナ、教授とウィンスター。数えきれないほどの人が、ヒルダの過去を、今を認めてくれた。全部王都に来てから得たもの。
ニコラスに至っては、彼との逃避行もありかなと本気で考えていたのに、まさか未練に向かって突き飛ばしてきた。
一度絡め取られてしまえば、「合わせる顔がない」というそれだけでは、足枷を断つには鈍らすぎる。
相変わらず向き合うことにはとてつもない勇気がいるけれど、恥も後悔も、兄妹が支えるのだと、この間約束してくれたばかりだ。今さら反故にはさせない。
「……姉さまっ」
もう一度抱きしめ、ぱっと離す。アデルの焦った声、伸ばされる手を一歩下がって躱し、ヒルダは最後に一つだけ問いかけた。
「兄上、シドは今頃、あたしやジュストさまを助けてくれた人の素性について、聴取を受けているかしら。あたしもね、以前学園で行き合った人なのだけど」
戸惑うような沈黙が答えだった。マリーナもしっかり聞いているようだし、下ごしらえはこのくらいでいいだろう。兄ならちゃんと役立ててくれる。
あとは最後の切り札を切る。ここまで来たら出し惜しみはなしだ。
「セシル・スートライトさま。アデライト・スートライトさま」
ドレスの裾を捌いて、片膝をついた。立てた膝には拳を置き、もう片手は床に。二人の前に無防備に首をさらす。ドレスだと不格好だろうが、仕方がない。後でスートライト別邸に置いてある護衛服をもらっていこうと思っている。以前ルーアン公爵家の夜会でヒルダが着たものだ。
「このヒルディア・スートライト。我が名、我が生にかけて、お二人に無上の忠誠を奉る。お二人の慶びは我が誇り。憂いは我が仇敵。安寧たるにお二人の誉れを戴き、我が勲と成す」
頭上の二人の気配がはっと固まった。突然のかしこまった口上が一体なにを指すのか、アデルも気づいたようだった。
一生一度。正真正銘一回こっきり。家を出たヒルダには本来なかったのだから、ちょっともじるくらいはご愛敬ということで見逃してほしい。
「――先駆けにはなりますが、スートライト家一門当主ご就任、心よりお喜び申し上げます」
瞬閃。
絶たれたヒルディア・スートライトの「いつか」は、今ここにある。
「ご下命を。我が主」
ーーー
当主就任における一門臣下の言祝儀礼。
最後の一言追記しましたー!(土下座)
勢いで更新ボタン押すから大事なこと書き忘れる……。
ごうごうと鳴る激しい音が風を呼ぶ。雲一つない夕空を汚す黒い煙が、次から次へと立ち昇っていく。
ヒルダは無感動にそれらを見つめていたが、やがて、踵を返した。己を突き刺す三対の視線を一顧だにしない。辛うじて回復させた愛想は、王都で全部使い切った。愛しい者も親しい者もいないスートライトでまで、心を凍りつかせるような、全身が震えるような怒りを隠す必要がどこにあるというのだろう。
「ヒルディアさま……」
「私はこれから本邸へ向かいます。あなたはお好きなように」
燃え落ちる館の処理をやりたいなら勝手にやれと言外に言い放ったヒルダに、ナジェルはひどく強張った表情でしばらく言葉を探していたようだが、結局無言で頷くだけだった。
王都からついてきた王ご指名の見届け役つまり監視の騎士二名も、ヒルダを異常を見る目で見つめている。だが、なにも言わないし、ヒルダも言わせる気がない。「二人以上は邪魔です」と突っぱねたのはヒルダ本人。監視だけならまだしも、口出しも手出しも必要ない。余計なことをするようなら即座に帰還させる心づもりである。
ふと、彼らの向こうにまだ汚されていないきれいな暮れの空が見えた。ヒルダの髪色のように赤い……。
(兄上が、夕焼けの色だって褒めてくれた)
一度は投げ捨てた思い出を、二度目は大事に摘みあげる。
ヒルディア・スートライトの墓場に、その花を散らしてあげるために。
☆☆☆
セシルもアデルも、目の前にしゃんと立つヒルダを見ても、無事でよかったなんて言えなかった。シドから、荒事はあったものの、無傷らしいとは報告された。ジュストのついでで誘拐されたことを思えば幸いだろう。だが、真実はついでではないようだと――なぜか、ヒルダはスートライト領へ「けじめ」をつけに行くつもりだと、シドが言ったのだ。
そしてこの目にして明らかな、ヒルダの漂わせる気配。嫌な予感の中でも超特大級な予感しかしない。
ヒルダが視線を閉ざした扉の方へやり、なにか言おうとするのを見たアデルは、本能的に「聞きたくない」と思った。
「姉さま、怪我は?」
「ああ、手と足の痣以外はなんともないわ。それも縄で縛られたから擦れたくらいで、一週間もすればきれいに治ってるわよ」
「縄?」
兄妹の表情が一気に剣呑になった。
「姉さまに、縄をかけたの?」
「一応、ジュストさまの人質という格好だったから。ジュストさまは早々に解かれたんだけどね。口を塞がれなかっただけまだましよ」
「ましじゃないわ。そいつら、今どこ?もうお城に入ってきた?」
「縄をかけるよう命令した人はともかく、実際にそうした人たちなら、もう死んでるわ。一人はあたしが殺したんだし」
アデルは愕然とした。セシルは知りたくなかったというように、とてつもなく苦い顔になった。
「……こ、ころした、の?」
「ええ。ちょっと失敗して、頭から血を被ったんだけど。初めてのわりにうまくいったわ」
ヒルダは静かに微笑んでいる。アデルの強張った頬を撫でる手は優しい。アデルがもしヒルダに恐怖を抱いたとしても、ヒルダは構わず優しく触れてくるだろう。撫でさせてくれるはずだという、残酷で甘い温もりがあった。
とはいえ、アデルがヒルダに恐怖を抱くことは、絶対にありえない。誰かの命を奪ったとて。……初めて人を殺して、それを笑って申告したとても。
これまでヒルダは荒事をそれなりにこなしてきたが、ただの一度も、人を殺したことがなかった。領地でも、王都でも。捕縛か、倒して放置か。それで済ませていたのは、そう済む範囲のことしか起きなかったというのがあるが、そもそもは、誰も殺すつもりがなかったからだ。
剣をとる道を自らで選んだ以上、人を殺すことに今さらためらうようなことはないが、殺すというのは、「穏便」から程遠い結果になるからなるべく避けていた。
常識と平凡がほぼ同義であるあの故郷で、ヒルダの身につけた戦闘技術だけは、明らかに目こぼしの範囲を逸脱していた。そのためごまかせる範囲でやり過ごすこと、すなわち穏便な解決が絶対だったのだ。
先日の学園での立ち回りも同じだ。アデルとウィンスター救出に焦りながらも一人も殺さなかったのは、事態に介入した謎の人物が貴族学生及び関係者への殺人など仕出かせば、追及の手がどこまでも伸びるとわかっていたから。それがヒルダに届けばバルメルクにも、果てにはスートライトにも波及する問題になるので、どんなに憎悪に呑まれかけようとも一線は絶対に越さなかった。
かといって、今回ばかりは激情に流されたかと問われれば、ヒルダは否と答えるだろう。もはや隠す必要はなくなったという、それだけだ。
「兄上とアデルが駄目だとなって、今になって勘当した長女を思い出したらしいわ。でも相変わらず手段が最低値を更新してくのはなんなのかしらね。よりによってバルメルク家の政敵と手を組んで、しかもそれをジュストさまの目の前で明らかにするなんて……」
「ヒルダ、まさか……」
「スートライトの家紋付きの短剣を持つ人間なんて、限られてるでしょう?」
本来持つにふさわしいのは、当主かそれに近しい者。臣下に与えるならば、よほど信任を受けていることになる。家紋を直接に掲げる行為は、身元を証明するとともに、それを当主の意と示すも同義だからだ。
さしものセシルも絶句したし、アデルは悲鳴を飲み込んだ。さらには聞き耳を立てているマリーナすらも、我が耳を疑った。
セシルを殺すことに王子たちを巻き込む画策をしたのが少し前で、今度は、ヒルダを取り戻すついでで、バルメルク家に喧嘩を売ったのだ。堂々とスートライトの名を掲げるという、より最悪なやり方で。
「ジュストさまには一応、見逃すというお言葉を頂いたわ。条件というか、あたしがスートライト領に行くことが前提のお話でね」
「――姉さま!」
「ヒルダ、違う。君がやるべきことじゃない!」
「もう釘を刺す程度じゃ済ませられないわ。だけど、目に見える傷は少ない方がいい。そんな複雑な処理を、あたし以上にうまくやれる人はいないでしょ?」
遠足に行くとでも言うような軽やかな声音で、けれどどこまでも本気なのだとわからないセシルとアデルではなかった。わからないはずがない。誰よりもなによりも大事な人。
傷つくだけだとわかっているのに、絶対に行かせられるものか。
「たとえ君が最もうまくやり切るとしてもだ。君には、資格がない。絶縁状をもぎ取ったのは君自身だ。受けた屈辱をその場で晴らすのはヒルダに当然与えられた権利で、でも、それ以上は、違うだろう。スートライトを名乗る私とアデルが果たすべきことで、断じて君の義務も責任もない」
セシルがあえて突き放すように言えば、ヒルダは今思い至ったようで、ぱちりと瞬き……思わずといったように笑い声をこぼした。
「ヒルダ?」
「ご、ごめんなさい、兄上。確かに……そうだわ。そうなのよね。でもそれなら、あんなことじゃ到底、晴れるわけないわ」
「……ヒルダ、まだ、なにか」
「――だって、ねえ」
こみ上げるそれを抑えるように口に手を当てていても、笑いは止まらない。笑いの波に乗って歌うように、ヒルダは言った。
「スートライトはあたしを、次の『至宝』の産み腹にしようとしているのに?」
傷つけられすぎてどこが痛いかもわからないから、無傷なのだと思い込んでいるような、そんな、顔で。
己に刃を振り下ろしてなお、笑うのだ。
スートライト侯爵家に生まれたヒルダの幸先は、そう悪いものではなかった。「平凡」の枠を越えた望みさえ抱かなければ。
兄の助けに、妹の先達にと自己研鑽に励むことを否定された幼少期。許されたのは一般的な淑女としての教育だけであり、スートライト宗主の直系としての義務すら求められなかった。
望めば叶えてくれるなんて、甘い期待を両親に抱くこともなくなった。いつか成果を出せば認めてくれるなんて希望までも、芽生える前に、最初で最大の挫折によって跡形もなく消え去った。ハルトとの別離という挫折。
それでも努力を諦めなかったのは、自分という存在を保つため。両親の娘としてではなく、兄と妹のために「ヒルディア・スートライト」の存在を定義した。二人に見合う己になるためにと決めれば、それを阻もうとする両親は邪魔者であり、周囲の諫言は妨害音にしかならない。能力は平凡その通りのヒルダが二人に並び立つためには、そんなものにかかずらう暇はなかった。だから隠れて励んだ。
けれど、身につけた実力そのものはほとんど隠したわけではない。兄には勝ることがない。妹より目立つなんてありえない。どう足掻いたって平凡の範囲内だったから、やるなと否定したのにいつの間にかできるようになった結果を見ても、誰もなにも疑問に思わなかった。違和感すらなく、呆気なく受け入れられた。
それだけだ。
「秘宝」なんてごたいそうな呼び名の裏側は、そんなものだ。
なにが宝か。なにが秘めたるものか。
故郷に捨ててきた者の誰一人として、「ヒルディア・スートライト」の存在を認めなかったという、それだけの話なのに。
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可哀想だから、唯一の「取り柄」だけでも生かしてあげよう。
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「ね、兄上。屈辱を晴らすべきなら、あたしは生まれた頃から今までの全部を拾い上げなきゃいけないわ。それが集まっての今なんだもの」
蠟のような顔色の兄と呼吸すら怪しい妹に、ヒルダは困ったように笑いながら手を伸ばして、抱きしめた。夜会からそのまま整えられているアデルの金髪に頬を擦り寄せ、兄の清涼感ある香水の匂いをいっぱいに吸い込んだ。
彼らがどれほど「至宝」に固執しているか。ヒルダもあの短剣を見るまで、そこまでとは思っていなかった。油断というならみんな同じだ。
いつか。
いつか、ヒルダがなにも隠さずに済むような。その持てる力を正しく認め、頼り、三人で数多を成し遂げ、スートライトの誇りとするような。
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ニコラスに至っては、彼との逃避行もありかなと本気で考えていたのに、まさか未練に向かって突き飛ばしてきた。
一度絡め取られてしまえば、「合わせる顔がない」というそれだけでは、足枷を断つには鈍らすぎる。
相変わらず向き合うことにはとてつもない勇気がいるけれど、恥も後悔も、兄妹が支えるのだと、この間約束してくれたばかりだ。今さら反故にはさせない。
「……姉さまっ」
もう一度抱きしめ、ぱっと離す。アデルの焦った声、伸ばされる手を一歩下がって躱し、ヒルダは最後に一つだけ問いかけた。
「兄上、シドは今頃、あたしやジュストさまを助けてくれた人の素性について、聴取を受けているかしら。あたしもね、以前学園で行き合った人なのだけど」
戸惑うような沈黙が答えだった。マリーナもしっかり聞いているようだし、下ごしらえはこのくらいでいいだろう。兄ならちゃんと役立ててくれる。
あとは最後の切り札を切る。ここまで来たら出し惜しみはなしだ。
「セシル・スートライトさま。アデライト・スートライトさま」
ドレスの裾を捌いて、片膝をついた。立てた膝には拳を置き、もう片手は床に。二人の前に無防備に首をさらす。ドレスだと不格好だろうが、仕方がない。後でスートライト別邸に置いてある護衛服をもらっていこうと思っている。以前ルーアン公爵家の夜会でヒルダが着たものだ。
「このヒルディア・スートライト。我が名、我が生にかけて、お二人に無上の忠誠を奉る。お二人の慶びは我が誇り。憂いは我が仇敵。安寧たるにお二人の誉れを戴き、我が勲と成す」
頭上の二人の気配がはっと固まった。突然のかしこまった口上が一体なにを指すのか、アデルも気づいたようだった。
一生一度。正真正銘一回こっきり。家を出たヒルダには本来なかったのだから、ちょっともじるくらいはご愛敬ということで見逃してほしい。
「――先駆けにはなりますが、スートライト家一門当主ご就任、心よりお喜び申し上げます」
瞬閃。
絶たれたヒルディア・スートライトの「いつか」は、今ここにある。
「ご下命を。我が主」
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当主就任における一門臣下の言祝儀礼。
最後の一言追記しましたー!(土下座)
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そんな私は、学園を辞めて遠くの街に引っ越し、平民として新しい生活を始めてみたんだけど、ん? 誰かからストーカーされてる? それだけじゃなく、ミランが私を見つけ出してしまい…!?
え、これじゃあ、私、何のために引っ越したの!?
※恋愛メインで書くつもりですが、ざまぁ必要のご意見があれば、微々たるものになりますが、ざまぁを入れるつもりです。
※ざまぁ希望をいただきましたので、タグを「ざまぁ」に変更いたしました。
※史実とは関係ない異世界の世界観であり、設定も緩くご都合主義です。魔法も存在します。作者の都合の良い世界観や設定であるとご了承いただいた上でお読み下さいませ。
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※作者創作の世界観です。史実等とは合致しない部分、異なる部分が多数あります。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係がありません。
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