どーでもいいからさっさと勘当して

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間章

もみじの宝箱・序

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 リーシャンが扉の隙間を押し開いて目にしたのは、どうしようもないほどの悲しみとやるせない諦観に浸された光景だった。すすり泣く声と嗚咽、慰めと労りを込めた囁きが、水たまりのように低く落ちて広がっていく。それはリーシャンの室内履きの足元にも到達し、波紋を寄せ返した。

 ……人生の岐路は、誰にだってある。
 それを岐路とわかって、覚悟して選んで決めて進む者もいれば、なにも気づかず通り過ぎるようにして引き返せない道を選ぶ者もいる。

 幼いリーシャンは、「ここ」が岐路だと妙にはっきりと気がついた。雨垂れがつむじに一直線に落ちてくるように、唐突に。

 後戻りできない、一生に一度の機会。

 リーシャンは片手と一本の指で数えられる半生で得た、ほんの少しの自分のかけがえのないものをじっと見つめた。これからどんどん増えていくだろう。それに合わせて、生き方はいくらでも変わり移ろっていくだろう。
 だけど。
 開いた手を握りしめた。増えるなら、減ることだってある。
 今のちっぽけな宝物が、失われる?

「……おとうさま。おかあさま」

 そんなことあってたまるか。

「このいえは、わたしがつぎます」














☆☆☆










 早朝。太陽より一歩早くの時間に自分で起きて、自分で着替えをして髪を結う。
 厚めのシャツに半ズボン、下にタイツを履いて、靴底が頑丈で足首の辺りは柔らかいブーツを紐で締め上げる。大事に丁寧に伸ばされてきた髪は無造作に後頭部に一本括る。リーシャンが自分でできる髪型はこれだけだ。はじめの頃はごそっと取り逃した後れ毛があったりすぐにほどけたりしたが、今では慣れたもの。そのまま部屋を出れば、侍女と騎士が待ち構えていた。挨拶を交わしたあと、侍女はリーシャンの部屋に入っていった。部屋の主が出ている間に、掃除やリーシャンの「本当の身支度」の準備もある。騎士の方はランタンを片手に持ったまま話しかけてきた。

「お嬢さま」
「今の時間にお嬢さまはやめてください」
「失礼しました、ジェ、ジェイト」

 リーシャンは胡乱な目で騎士を見上げた。騎士は顔だけはなんとか真面目を保っているが、ランタンの灯りがぷるぷる小刻みに震えているので台無しだった。もう数ヶ月も経つのに、まだこの呼び名に慣れないらしい。いやそれだけならいいが、聞く者が総じて噴き出すところ、リーシャンには大変納得がいかない。ナッツの糖蜜漬けジェイト、おいしいのに。

「ンンっ、そ、それでなんですが。隊長から今日の走り込みは巡路を変えるように指示を受けました」
「急ですね。昨夜にでもお客さまが?そういえばランジアス領が長雨続きだと……ご当主とご嫡男はさすがに無理でしょうから、弟君がいらしましたか」
「そのようです。ずいぶん遅くにいらしたので、旦那さまお一人でお出迎えをなされました」
「万が一間に合わなくなるよりは、早すぎるくらいに到着する方がましですか」
「そう、ですね」

 リーシャンは淡々とひとりごちたつもりだったが、騎士の相づちの歯切れの悪さにちょっぴり苦笑した。どうやら心配してくれているらしい。

「ましなのは私の方もで、願ったりですよ。それで、鍛錬の課程に他の変更は?」
「いえ、ありません。ただ、隊長は、のご都合に合わせると」
「問題ないわ」

 思わずジェイトとしての敬語を忘れて即答したが、今度のお嬢さまは言い間違いではない方なので問題はない。ちなみに本日リーシャンお嬢さまのご予定として、夕方頃からパーティーに出なくてはならない。ただ一人の主役として。
 騎士がまた物言いたげに眉を下げたが、リーシャンは負けず嫌いなので、見ないふりをして、先に歩きはじめた。
 今、リーシャンが背負おうと目指しているもの。それを他のことに手を抜く理由にはしないと、一番はじめからリーシャンは決めているのだ。










 


 騎士見習いの見習いジェイトとして、基礎の基礎である体力づくりに勤しんでいる間に日が昇り切る。ルーアン公爵家騎士隊の鍛錬場は使用人の住まう離れの館の側にあり、庭園を挟んで公爵家本邸や正門はさらにその奥だ。来客の目に触れにくいが、念には念を入れるという騎士隊長の考えの元、ジェイトは使用人館周辺の走り込みを裏手の納屋や使用人用の花壇などの経路に変えてこなした。まだ暗いとはいえリーシャンが到底立ち入りの許されない場所なので物珍しく思ったが、一緒に走る見習いの少年たちにはありふれた光景だ。リーシャンは彼らに倣って素通りしていった。というより、ただでさえ歳上の彼らに遅れないように必死だった。同じ子どもでも数年の差は大きい。背丈も体力も全然違う。決まった巡路を一周走破できるようになったのは始めて一ヶ月で、それ以降はより長くより速く走れるようにするのが目下のリーシャンの目標だった。これでは木剣を握れるようになるまでどれだけかかることか。父も騎士隊長も、リーシャンの意見にひとしきり反対した後は、真剣に課程を練ってくれたし、それがどれほど地道で厳しくとも、やると決めたのはリーシャンだった。
 走り終えたら柔軟をして息を整える。他の見習いたちが木剣で素振りをはじめているのに、リーシャンはそれを横目にして監督の騎士に頭を下げ、用意の手拭いで汗を拭きながらよたよたと使用人館へ入る。いつものことだが悔しさは減らない。

(体力が、ほしい……!)

 八歳のリーシャンの願いは、地味ながら切実である。
 とはいえ現実は無情であり、時間は有限だ。使用人館を経由してリーシャンの部屋まで戻れば、「本当の身支度」の始まりである。不在の間に増えた侍女たちに囲まれ、汗を洗い流すのみならず、髪から足の爪先まで、全身くまなく磨き立てられる。今日はパーティーがあるので特別手が込んでいるが、されるがままのリーシャン本人はうつらうつらしていた。合間に水を飲んだのもほとんど記憶にないほど。

「お嬢さま、体調はいかがですか?」
「……大丈夫よ。みんなの手際がよすぎて気持ちよくて、眠くなってきただけなの」
「だといいのですが。お熱もありませんでしたものね。昨夜はきちんとお休みになられましたか?」
「……うん」

 本当は、すぐには寝付けず寝返りばかり打っていたが。
 寝たりないと訴えてくるくらいなら、最初から寝かせておけばよかったのに、自分の体のままならなさにまた悔しくなった。なんとか目を見開いて(まぶたを擦ろうとして怒られた)、パーティーのことでも考えることにした。段取りを思い出すだけで、みるみる眠気があとじさった。
 下着の上から締め付けのないドレスに袖を通す。髪は艷やかに解きほぐされ、両耳の上で編み込みを作りながらうなじでまとめられる。
 仕上がった頃には朝食の時間という寸法で、侍女の一人がリーシャンに付き、残りに見送られながら部屋を後にする。
 食堂に向かえば、夜遅くに起きていたという父が母と寄り添うように入っていく途中で出くわした。二人はリーシャンに気づくと、なにか目配せしあって、結局入らずにリーシャンが来るのを待った。両親も、扉を押さえたままの従僕も、なんだか笑いを堪えているような神妙な表情だ。

「お父さま、お母さま、おはようございます」
「ああ、おはよう」
「おはよう、リサ」

 いつものようにかわるがわる抱擁をしたあと、父が先に母の手を取って中へと誘導する、と見せかけてその手を従僕が引き継ぎ、リーシャンには改めて父の手が伸ばされた。しかも――床に膝をついて。
 リーシャンはぎょっとした。

「ルーアン公爵家の誇る一輪、英邁なる姫君のお手を取らせていただきたく。お許し願えますか?」

 リーシャンと同じ目の高さで向かい合う父の手は恭しく差し出され、口調さえ王に傅くように敬虔だった。それなのに目だけがいたずらっぽく笑って、立ち尽くすリーシャンを見つめている。いや、違う。目だけが笑っているのに、顔も仕草も、全部が真剣だった。
 リーシャンは意味がわからずたじろいだ。父の雰囲気が怖い。逃げるように視線を動かせば、母が少し進んだ先から父の肩越しにリーシャンを見つめていて、目が合った。母はじんわりと微笑みかけた。笑っているのにもの悲しげだった。
 なぜか唐突に閃いた。今日で、最後。
 リーシャンはもう、この人たちにひたすら愛でられる、そんな存在ではなくなるのだ。

「ええ、許します」

 リーシャンは口調だけは気取って返したものの、父の手に手を重ねる、のではなく、両手を伸ばして父の首に勢いよく抱きついた。父は立ち上がりながら数歩よろめき、苦笑とともにリーシャンのぶらぶら揺れる足を腕に座らせた。

「英邁だがやんちゃなお姫さまだ。それにしても大きくなったなあ、リサ」
「重いですか?」
「まさか。花のように軽いとも」

 父のいつもの冗談めかした笑顔にリーシャンはあどけなく笑い返し、そのまま自分の席まで抱いて運ばれた。座る前に、母が近寄ってリーシャンの額に口づけを落とした。

「あなたを愛しているわ。生まれたときからずっと。明日よりその先も。たとえ……」

 母の唇が震えた。たとえあなたが道を引き返しても。そう、言ったかもしれないし、リーシャンの幻聴だったかもしれない。母以外が言うなら見くびられていると思ったかもしれないが、リーシャンが母の愛を疑ったことはなかった。だからこそ、その愛の籠から飛び出すことを決めたのだ。
 ――引き返しはしない。

「私も、愛しています。お母さま」

 父の腕から身を乗り出して母をまた抱きしめる。分厚い父の体と違って、細くて柔らかくて……子どものリーシャンがちょっと力加減を間違えただけでも折れてしまいそうな体だった。なのに決死の覚悟で人間一人を産んだ。もうそれで充分だ。
 リーシャンだって、昨日も今日も明日も、その先も。ずっとずっと、母を愛している。
 父の手が片方外れ、母の背に回る。リーシャンは前後に父と母の温もりを感じて、ついうっかり微睡んでしまった。










ーーー
明けましておめでとうございます。いつも読んでくださる方々には感謝しています。まだまだ全然さっぱり書けてないリーシャン編、とりあえず序文だけできたので投稿しました。
今年もよろしくお願いします。
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