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第一部
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セナトから報せを受けたセレノクール公爵の開口一番のお言葉は、「あのクソ女が」である。
国王や姉の前ではそれなりに可愛がりがいのある弟であり、王女たちからは頼りになる親戚と見なされているカイトは、品行方正な振る舞いを心がけている。しかし、今回はあまりのことに抑えが利かなかったらしい。ナジカとルアの監視役の怠慢に今度こそキレたようだと、セナトは顔をひきつらせた。
「殺気、殺気出てるよ公爵さま。怨念も」
「……む」
カイトは咳払いとともに気持ちを切り替えた。
「ケイは屋敷には寄らなかったのか」
「その辺りローナ君に伝令任せてたみたい。メモが短すぎたけど」
「『銀発見、金も目をつけられた』、か」
カイトは刺繍や縫い付けられた宝石できらびやかな上着をばさりと翻し、セナトを従えつつローナたちの待つ公爵邸に向かった。
使い慣れないキッチンに四苦八苦した、ということはそうなく、ルアはカイトに設備を一通り教えられてすぐに庶民的には立派な夕食を作ってみせた。
本来なら大貴族に出すには素朴すぎる料理をカイトは優雅に食し、セナトも「美味しい」と言ってくれた。ナジカはいつもの通りだが、ローナとクラウスの顔が見えないせいか雰囲気が萎れて見えた。ルアもルアで、丹精込めた食事を食べながらも物問いたげな視線を男たちに向けている。
(あの時、私もナジカもセレノクール家には連れていかないって言っていたのに……って、言えないわ)
なぜ私はセレノクール家で夕食を振る舞っているんだろう、と苛立ちながら思う。クラウスの家の台所が気になる。ローナもクラウスも料理なんてする人じゃないし、潔く諦めて買い食いしてくれた方が心臓に優しい。ああでも足が早い食材が残ってる……。
「……ローナと、クラウスは、無事?」
はっとナジカを振り返った。ナジカは俯いたまま、スープに突っ込んだスプーンがぐるぐると具を引っ掻き回している。
(そうだわ、ナジカは、旦那さまが亡くなった時にもここで数日過ごしたって……)
ナジカの心情など考えていなかったルアは猛烈に自分を恥じた。
「ナジカ、二人は大丈夫よ。今日のお昼にも会ったばかりでしょ?」
「でも……今は……?」
行儀が悪かろうが、ルアは顔色の失せているナジカの肩を引き寄せて、ぎゅうっと抱きしめた。
「きっとね、二人とも、仕事が大変なだけなのよ。後で私がローナたちに明日の朝、顔を見せに来てって手紙を書いておくから、安心して」
「それじゃあその手紙は私が持っていこうか」
セナトがにこやかに言い、カイトも頷いた。それでもナジカの不安は晴れないし、ルアもうまく慰めることができない。なぜなら自分達がここにいる事情をまだ知らないからだ。
「彼女の言うとおりだ、ナジカ。ローナ殿の仕事の都合で数日ここで預かることになっただけで、君はちゃんとあの家に帰れる」
「……本当?」
「本当だ」
カイトの落ち着いた言葉は、自信があるというよりは確定している事実を述べるような響きを持っていた。説得ではない単なる宣言だが、カイトが言うならそうなのだろうと信じ込ませる力がある。それが、先行きの不明に怖がるナジカには抜群に効いた。ルアの胸から顔を離してルアを見上げた。
「ルア、私も手紙、書く」
「わかったわ」
ルアがセナトを見たのは、便箋とペンも用意しますよね、という無言の催促のためだ。セナトは「お安いご用」と笑った。
――君はちゃんとあの家に帰れる。
(……もちろん私も帰れますよね?)
なんていう問いは飲み込んで、ルアも微笑み返した。
あくまでも事情を明かすつもりがないらしい。ナジカの前でそれを指摘する気はないが、後でどうやって問い詰めてやろうか。物騒に企てつつ夕食を終え片付けをし(カイトがしれっとナジカの手伝いに紛れて皿を拭いていたので思わず二度見した)、ナジカと一緒にこれまで使ったことのない滑らかすぎる手触りの高級紙に滑りがよすぎるインクで恐る恐る文字を書き連ね、セナトを送り出してナジカを寝かしつけた……あと。
一つの燭台を頼りに、カイトの姿を探して広い邸内をさ迷っていると、密やかな話し声がした。ルアが気づくのと静寂が戻るのが同時だった。夜の雰囲気に圧されつつ、ルアはそっと声を出した。
「……あの、カイトさんですか」
広々とした屋敷内に使用がいないことは昼間にセナトも最初に言っていた。貧乏生活の癖が抜けなくてとは、どんな癖だ。ただし警備は万全だ、むしろ城より安心とも言っていた。それでも、燭台一つではやっぱり心許ない。田舎育ちなため暗闇を過度に恐れることはないが、ここが慣れた場所でないことも確かで。
「……君か。そろそろ探しに来る頃かと思っていた」
だから、カイトの顔が灯りに照らされた瞬間に、珍しくほっとした。
「カイトさんだけですか?今、他にもいたような……」
「君がここで長期に過ごすなら気にしてもいいが……安心しなさい。君の用件もそれだろう」
「……それじゃあ、私もナジカと一緒に帰れるんですか」
「ああ。ただし別のことも提案しようかと考えていた」
「え?」
カイトは青い瞳を朱く染めながらルアを見つめた。
「うちに侍女見習いという身分で通ってもらおうか、と」
「侍女?」
「近年は廃れてきているが、高位貴族の間ではまだ風習として残っている。他家の娘を行儀見習いに務めさせることで人脈や格式を保つ一面があれば、やんごとなき血筋の落とし胤とか公の場に出せない訳ありの者をそういう口実を使って匿うことがある」
ルアはたじろいだ。これまで仄めかされていても、こうしてはっきり口にされたことはなかったのに。
「い、嫌です」
「君の懸念はわかっている。だから『通い』はどうかと提案しているんだ。それも毎日とは言わない。私たちも常に誰か一人がここに残っている訳じゃないんだ」
「……どうして、急にそんなことを」
「急というほどでもない」
前々から考えていたと暗に告げるカイトは、不意に口許を綻ばせた。
「実際、君の料理は食べ応えがある。今回の滞在のうちも給金を払おう。見習いのお試しということで、これからもできる限り作ってくれるとありがたい。自分ばかりが作っていると、やはり味付けが片寄ってしまっていたみたいだ」
「……後で断ってもいいんですか?」
「後から給金を返せと請求もしないから安心したまえ」
「そもそも庶民料理なんですが」
「私も菓子以外はそういうものしか作れない。姉上は壊滅的な腕前だったし、知り合いの作った温かい食事は久しぶりだった。ローナ殿たちには申し訳ないが、ぜひ頼む」
「……わかりました」
「ああ、それと。ケイトが今日不在だったように、うちでは決まった時間に全員が集まるというのが難しい。それに食事時間が変則的になる場合も。残したりはしないから、多めに作って置いておいてくれるとありがたい」
「日持ちのいいものがいいですよね?もう暖かくなってきた頃ですし。それから、ローナやクラウスさまにも差し入れを作っていいですか?明日の朝に渡したいんです」
「君の望むように取り計らおう」
「しばらく住んでなかった間に幽霊が住んでる」
ナジカが真顔でそうローナに言ってきたのは、ハヴィン家の男女別居生活も数日が過ぎた頃のことだ。
毎朝恒例になった寄り道をしたらこんなことを言われ、ローナは顔をひきつらせた。
隣のクラウスはナジカの前にかがみこんだ。
「そうかい、怖い?」
「怖くないけど、気になる」
「ナジカったら、昨夜も探検に出かけて案の定迷子になってたのよ。セナトさまが連れ帰ってきてくれたんだけど」
広い屋敷の中、毎晩ナジカと同じ部屋で休んでいるルアが肩を竦めた。これは今晩もそうなりそうだ、とルアとローナの認識は一致している。屋敷内の決められた部屋以外は自由に出入りしていいとの許可をカイトが出しているので、ナジカはわりと強気にあちこちを歩き回っている。ただし常に迷子になるのでセナトかルアの救援が入り、たまにカイトも混じる。
幽霊の存在を認識したのは、ルアがセレノクール家人のために取り置いた食事の減り方がおかしいことに気づいたかららしい。数分前はちゃんとパウンドケーキの出来立てが皿に載っていたのに、誰かが近づいた形跡もないのに欠けていたとか。
「……なんで夜に探すんだ?」
「幽霊って、夜に出るのが普通なんでしょ?」
「いや真顔でそう聞かれても……」
「ふ、ふふ。ナジカ、夜でも昼でも、幽霊はいるところにはいつでもいるんだ。ただし会おうとして会えるものではなくて、たまたま会ったから会えた、そういうものなんだよ。無理に夜更かしなんてしてはいけないよ」
「……よくわからない」
「なにもしなくても、会えるときには会える、そういうことさ。君が今会えないなら、それは会うべき時ではない、ということ」
ナジカはいささか不満げだったが、最後にはわかった、と頷いた。クラウスはにっこりと笑ってそんなナジカの頭を撫で、ついでにルアの頭も撫でた。
「じゃあそろそろ私たちも行こうか」
「あ、うん」
ローナもナジカの頭を撫でルアにひらりと手を振り、伯父とともにセレノクール公爵邸を後にした。
「そろそろ、ルアの手の込んだ料理が恋しくなってきたねえ」
「あと二日……多分あれさえ終われば……ごめん伯父さん……」
「仕方ないさ。今日と明日、乗り切ろうね」
「うん」
ここ数日、ルアとナジカは一度もハヴィン宅には帰らず、ずっとセレノクール公爵邸に厄介になっている。 きっかけはあの胡散臭い紳士と遭遇したことだ。驚いたことに、ヘーゼルと関わりがあるとされていた男だったらしい。ハルジアやダールが血眼になって捜索していた男が、どこぞに潜伏していたはずなのにナジカとルアに接触してきたとなれば、二人を保護するのは当然の成り行きだった。
二人を安全な場所に置いている間にさっさと解決してしまおう、という大人たちの決意の元、ローナが押しつけられた夜会の招待状から紳士の潜伏場所とおぼしき伯爵家に攻め込んだのはカイト率いるハルジアの小隊である。しかし一手遅かったようで、例の紳士だけが行方をまたくらませていた。
(……明日、どうなるのかなあ)
ローナが招待状を受け取った最後の日取りのパーティーについてセナトから確認され、衣装も用意すると言われ、あ、もしかしてこのパーティーで何かするつもりなんじゃないか、と考えたが、あながち間違っていないはずだ。具体的な役割を振らないのはそこまでローナに期待をかけていないからか、ローナに関わりないところでもう準備を整えきっているのか。
でも、それなら、ローナにできることはあるのだろうか。
あったとして、なにができるのだろう。
真夜中。気味が悪ぃ、とトーサは舌打ちして庭に出ていった。
足音まで完全に殺しきったはずなのに、あっちは気配の絶ち方すらろくになっていないくせに、しっかりとトーサの後を追ってきていた。時々ぞわりと変な感覚も襲ってくる。
最近、街中をぶらついている時にも感じたことのある、奇妙な気配だ。いつもならあっさり引き離して逃げ切っていたが、今晩はしつこい。しかもここはセレノクール公爵邸で、追っ手は一応客人のはずだ。「エーラの悲劇」のあと、彼の父がナジカを引き取ったのだと、ナジカがもう一人の女とここに寝泊まりするようになってからセナトに教えられた。
明日の夜のことはトーサもカイトから聞いている。いい加減追いかけっこは終わらせないといけない、追っても捕まらないなら釣り出すしかない、と。
トーサが表を荒らし、ケイトが裏から探り回り、それでも尻尾を見せなかったのに――よりにもよってナジカに目をつけた。もう待ってはいられないとはトーサも同じ意見だった。
ナジカは光差す道を歩くべきだ。血みどろの影にいてはいけない。そこに引っ張り込む者は全て殺す。トーサ自身も含めて。
(っつーのに、その光の方にいるヤツがおれになんの用だよ!)
ただでさえナジカが毎晩、邸内を探検しては迷子になっているというのに。いやあれは失敗だった。腹が空いた状態で出来立てが目の前にあったので思わず掠め取ってしまっていたのだ。カイトから許可はもらっていたが。あれは旨かった。
昔から迷子癖があるナジカの行動を予測するのはトーサでも無理だ。ばったり出くわしそうになり冷や冷やしたのだって何回もある。そこに確実に追跡してくる奴まで加われば、面倒さが果てしない。
仕方なしに庭から裏門に回り、小さな小路に出たところで立ち止まってみた。すると、わずかにためらいながらも、追跡者がトーサの前に歩んできた。
「……よう、お巡りさん」
「……本当にあの槍男だったんだな」
「おれを牢屋送りにしに来たのか?」
「違う」
ローナは月明かりの下でつくづくと目の前の男の顔を見つめていた。こうしてまともに相対したのは初めてだが、なんだか、気持ちが波立ってしようがない。剣を抜いて構えて、そうしないとまともに会話もできないような錯覚。こんなに異様な雰囲気をまとう者など見たことがない。
暗がりに立っているのに目が離せないほどの存在感がある……まるで夜の支配者のように、黒髪が闇に溶けていた。同じ闇色の隻眼がローナを見て、わずかに逸らされた。睨まれた蛙状態からやっと我に返った。
今晩は公爵邸に泊まっていけと言われ、この男のことを聞いたのだ。
駆け引きなんてするつもりもないしそもそもできないので、ローナは呼吸を整えるだけをして、正直に明かした。
「……カイトさんに、言われて。あなたと話してみてほしいって」
トーサ・ハーバルト。
滅ぼされたハーバルト侯爵家の生き残り。ヘーゼルを壊滅させた武人。最近警備隊を賑わせる眼帯の槍男。
それから……。
「おれも、あなたと話してみたいと思った」
喪う前のナジカを知っている、たった一人の家族。
「はじめまして、おれはローナ・ハヴィン。ナジカの義理の兄です。……少しだけ時間を頂いてもいいだろうか」
ナジカを避け続ける幽霊は、しばらくの間を置いて、「ああ」と答えた。
国王や姉の前ではそれなりに可愛がりがいのある弟であり、王女たちからは頼りになる親戚と見なされているカイトは、品行方正な振る舞いを心がけている。しかし、今回はあまりのことに抑えが利かなかったらしい。ナジカとルアの監視役の怠慢に今度こそキレたようだと、セナトは顔をひきつらせた。
「殺気、殺気出てるよ公爵さま。怨念も」
「……む」
カイトは咳払いとともに気持ちを切り替えた。
「ケイは屋敷には寄らなかったのか」
「その辺りローナ君に伝令任せてたみたい。メモが短すぎたけど」
「『銀発見、金も目をつけられた』、か」
カイトは刺繍や縫い付けられた宝石できらびやかな上着をばさりと翻し、セナトを従えつつローナたちの待つ公爵邸に向かった。
使い慣れないキッチンに四苦八苦した、ということはそうなく、ルアはカイトに設備を一通り教えられてすぐに庶民的には立派な夕食を作ってみせた。
本来なら大貴族に出すには素朴すぎる料理をカイトは優雅に食し、セナトも「美味しい」と言ってくれた。ナジカはいつもの通りだが、ローナとクラウスの顔が見えないせいか雰囲気が萎れて見えた。ルアもルアで、丹精込めた食事を食べながらも物問いたげな視線を男たちに向けている。
(あの時、私もナジカもセレノクール家には連れていかないって言っていたのに……って、言えないわ)
なぜ私はセレノクール家で夕食を振る舞っているんだろう、と苛立ちながら思う。クラウスの家の台所が気になる。ローナもクラウスも料理なんてする人じゃないし、潔く諦めて買い食いしてくれた方が心臓に優しい。ああでも足が早い食材が残ってる……。
「……ローナと、クラウスは、無事?」
はっとナジカを振り返った。ナジカは俯いたまま、スープに突っ込んだスプーンがぐるぐると具を引っ掻き回している。
(そうだわ、ナジカは、旦那さまが亡くなった時にもここで数日過ごしたって……)
ナジカの心情など考えていなかったルアは猛烈に自分を恥じた。
「ナジカ、二人は大丈夫よ。今日のお昼にも会ったばかりでしょ?」
「でも……今は……?」
行儀が悪かろうが、ルアは顔色の失せているナジカの肩を引き寄せて、ぎゅうっと抱きしめた。
「きっとね、二人とも、仕事が大変なだけなのよ。後で私がローナたちに明日の朝、顔を見せに来てって手紙を書いておくから、安心して」
「それじゃあその手紙は私が持っていこうか」
セナトがにこやかに言い、カイトも頷いた。それでもナジカの不安は晴れないし、ルアもうまく慰めることができない。なぜなら自分達がここにいる事情をまだ知らないからだ。
「彼女の言うとおりだ、ナジカ。ローナ殿の仕事の都合で数日ここで預かることになっただけで、君はちゃんとあの家に帰れる」
「……本当?」
「本当だ」
カイトの落ち着いた言葉は、自信があるというよりは確定している事実を述べるような響きを持っていた。説得ではない単なる宣言だが、カイトが言うならそうなのだろうと信じ込ませる力がある。それが、先行きの不明に怖がるナジカには抜群に効いた。ルアの胸から顔を離してルアを見上げた。
「ルア、私も手紙、書く」
「わかったわ」
ルアがセナトを見たのは、便箋とペンも用意しますよね、という無言の催促のためだ。セナトは「お安いご用」と笑った。
――君はちゃんとあの家に帰れる。
(……もちろん私も帰れますよね?)
なんていう問いは飲み込んで、ルアも微笑み返した。
あくまでも事情を明かすつもりがないらしい。ナジカの前でそれを指摘する気はないが、後でどうやって問い詰めてやろうか。物騒に企てつつ夕食を終え片付けをし(カイトがしれっとナジカの手伝いに紛れて皿を拭いていたので思わず二度見した)、ナジカと一緒にこれまで使ったことのない滑らかすぎる手触りの高級紙に滑りがよすぎるインクで恐る恐る文字を書き連ね、セナトを送り出してナジカを寝かしつけた……あと。
一つの燭台を頼りに、カイトの姿を探して広い邸内をさ迷っていると、密やかな話し声がした。ルアが気づくのと静寂が戻るのが同時だった。夜の雰囲気に圧されつつ、ルアはそっと声を出した。
「……あの、カイトさんですか」
広々とした屋敷内に使用がいないことは昼間にセナトも最初に言っていた。貧乏生活の癖が抜けなくてとは、どんな癖だ。ただし警備は万全だ、むしろ城より安心とも言っていた。それでも、燭台一つではやっぱり心許ない。田舎育ちなため暗闇を過度に恐れることはないが、ここが慣れた場所でないことも確かで。
「……君か。そろそろ探しに来る頃かと思っていた」
だから、カイトの顔が灯りに照らされた瞬間に、珍しくほっとした。
「カイトさんだけですか?今、他にもいたような……」
「君がここで長期に過ごすなら気にしてもいいが……安心しなさい。君の用件もそれだろう」
「……それじゃあ、私もナジカと一緒に帰れるんですか」
「ああ。ただし別のことも提案しようかと考えていた」
「え?」
カイトは青い瞳を朱く染めながらルアを見つめた。
「うちに侍女見習いという身分で通ってもらおうか、と」
「侍女?」
「近年は廃れてきているが、高位貴族の間ではまだ風習として残っている。他家の娘を行儀見習いに務めさせることで人脈や格式を保つ一面があれば、やんごとなき血筋の落とし胤とか公の場に出せない訳ありの者をそういう口実を使って匿うことがある」
ルアはたじろいだ。これまで仄めかされていても、こうしてはっきり口にされたことはなかったのに。
「い、嫌です」
「君の懸念はわかっている。だから『通い』はどうかと提案しているんだ。それも毎日とは言わない。私たちも常に誰か一人がここに残っている訳じゃないんだ」
「……どうして、急にそんなことを」
「急というほどでもない」
前々から考えていたと暗に告げるカイトは、不意に口許を綻ばせた。
「実際、君の料理は食べ応えがある。今回の滞在のうちも給金を払おう。見習いのお試しということで、これからもできる限り作ってくれるとありがたい。自分ばかりが作っていると、やはり味付けが片寄ってしまっていたみたいだ」
「……後で断ってもいいんですか?」
「後から給金を返せと請求もしないから安心したまえ」
「そもそも庶民料理なんですが」
「私も菓子以外はそういうものしか作れない。姉上は壊滅的な腕前だったし、知り合いの作った温かい食事は久しぶりだった。ローナ殿たちには申し訳ないが、ぜひ頼む」
「……わかりました」
「ああ、それと。ケイトが今日不在だったように、うちでは決まった時間に全員が集まるというのが難しい。それに食事時間が変則的になる場合も。残したりはしないから、多めに作って置いておいてくれるとありがたい」
「日持ちのいいものがいいですよね?もう暖かくなってきた頃ですし。それから、ローナやクラウスさまにも差し入れを作っていいですか?明日の朝に渡したいんです」
「君の望むように取り計らおう」
「しばらく住んでなかった間に幽霊が住んでる」
ナジカが真顔でそうローナに言ってきたのは、ハヴィン家の男女別居生活も数日が過ぎた頃のことだ。
毎朝恒例になった寄り道をしたらこんなことを言われ、ローナは顔をひきつらせた。
隣のクラウスはナジカの前にかがみこんだ。
「そうかい、怖い?」
「怖くないけど、気になる」
「ナジカったら、昨夜も探検に出かけて案の定迷子になってたのよ。セナトさまが連れ帰ってきてくれたんだけど」
広い屋敷の中、毎晩ナジカと同じ部屋で休んでいるルアが肩を竦めた。これは今晩もそうなりそうだ、とルアとローナの認識は一致している。屋敷内の決められた部屋以外は自由に出入りしていいとの許可をカイトが出しているので、ナジカはわりと強気にあちこちを歩き回っている。ただし常に迷子になるのでセナトかルアの救援が入り、たまにカイトも混じる。
幽霊の存在を認識したのは、ルアがセレノクール家人のために取り置いた食事の減り方がおかしいことに気づいたかららしい。数分前はちゃんとパウンドケーキの出来立てが皿に載っていたのに、誰かが近づいた形跡もないのに欠けていたとか。
「……なんで夜に探すんだ?」
「幽霊って、夜に出るのが普通なんでしょ?」
「いや真顔でそう聞かれても……」
「ふ、ふふ。ナジカ、夜でも昼でも、幽霊はいるところにはいつでもいるんだ。ただし会おうとして会えるものではなくて、たまたま会ったから会えた、そういうものなんだよ。無理に夜更かしなんてしてはいけないよ」
「……よくわからない」
「なにもしなくても、会えるときには会える、そういうことさ。君が今会えないなら、それは会うべき時ではない、ということ」
ナジカはいささか不満げだったが、最後にはわかった、と頷いた。クラウスはにっこりと笑ってそんなナジカの頭を撫で、ついでにルアの頭も撫でた。
「じゃあそろそろ私たちも行こうか」
「あ、うん」
ローナもナジカの頭を撫でルアにひらりと手を振り、伯父とともにセレノクール公爵邸を後にした。
「そろそろ、ルアの手の込んだ料理が恋しくなってきたねえ」
「あと二日……多分あれさえ終われば……ごめん伯父さん……」
「仕方ないさ。今日と明日、乗り切ろうね」
「うん」
ここ数日、ルアとナジカは一度もハヴィン宅には帰らず、ずっとセレノクール公爵邸に厄介になっている。 きっかけはあの胡散臭い紳士と遭遇したことだ。驚いたことに、ヘーゼルと関わりがあるとされていた男だったらしい。ハルジアやダールが血眼になって捜索していた男が、どこぞに潜伏していたはずなのにナジカとルアに接触してきたとなれば、二人を保護するのは当然の成り行きだった。
二人を安全な場所に置いている間にさっさと解決してしまおう、という大人たちの決意の元、ローナが押しつけられた夜会の招待状から紳士の潜伏場所とおぼしき伯爵家に攻め込んだのはカイト率いるハルジアの小隊である。しかし一手遅かったようで、例の紳士だけが行方をまたくらませていた。
(……明日、どうなるのかなあ)
ローナが招待状を受け取った最後の日取りのパーティーについてセナトから確認され、衣装も用意すると言われ、あ、もしかしてこのパーティーで何かするつもりなんじゃないか、と考えたが、あながち間違っていないはずだ。具体的な役割を振らないのはそこまでローナに期待をかけていないからか、ローナに関わりないところでもう準備を整えきっているのか。
でも、それなら、ローナにできることはあるのだろうか。
あったとして、なにができるのだろう。
真夜中。気味が悪ぃ、とトーサは舌打ちして庭に出ていった。
足音まで完全に殺しきったはずなのに、あっちは気配の絶ち方すらろくになっていないくせに、しっかりとトーサの後を追ってきていた。時々ぞわりと変な感覚も襲ってくる。
最近、街中をぶらついている時にも感じたことのある、奇妙な気配だ。いつもならあっさり引き離して逃げ切っていたが、今晩はしつこい。しかもここはセレノクール公爵邸で、追っ手は一応客人のはずだ。「エーラの悲劇」のあと、彼の父がナジカを引き取ったのだと、ナジカがもう一人の女とここに寝泊まりするようになってからセナトに教えられた。
明日の夜のことはトーサもカイトから聞いている。いい加減追いかけっこは終わらせないといけない、追っても捕まらないなら釣り出すしかない、と。
トーサが表を荒らし、ケイトが裏から探り回り、それでも尻尾を見せなかったのに――よりにもよってナジカに目をつけた。もう待ってはいられないとはトーサも同じ意見だった。
ナジカは光差す道を歩くべきだ。血みどろの影にいてはいけない。そこに引っ張り込む者は全て殺す。トーサ自身も含めて。
(っつーのに、その光の方にいるヤツがおれになんの用だよ!)
ただでさえナジカが毎晩、邸内を探検しては迷子になっているというのに。いやあれは失敗だった。腹が空いた状態で出来立てが目の前にあったので思わず掠め取ってしまっていたのだ。カイトから許可はもらっていたが。あれは旨かった。
昔から迷子癖があるナジカの行動を予測するのはトーサでも無理だ。ばったり出くわしそうになり冷や冷やしたのだって何回もある。そこに確実に追跡してくる奴まで加われば、面倒さが果てしない。
仕方なしに庭から裏門に回り、小さな小路に出たところで立ち止まってみた。すると、わずかにためらいながらも、追跡者がトーサの前に歩んできた。
「……よう、お巡りさん」
「……本当にあの槍男だったんだな」
「おれを牢屋送りにしに来たのか?」
「違う」
ローナは月明かりの下でつくづくと目の前の男の顔を見つめていた。こうしてまともに相対したのは初めてだが、なんだか、気持ちが波立ってしようがない。剣を抜いて構えて、そうしないとまともに会話もできないような錯覚。こんなに異様な雰囲気をまとう者など見たことがない。
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今晩は公爵邸に泊まっていけと言われ、この男のことを聞いたのだ。
駆け引きなんてするつもりもないしそもそもできないので、ローナは呼吸を整えるだけをして、正直に明かした。
「……カイトさんに、言われて。あなたと話してみてほしいって」
トーサ・ハーバルト。
滅ぼされたハーバルト侯爵家の生き残り。ヘーゼルを壊滅させた武人。最近警備隊を賑わせる眼帯の槍男。
それから……。
「おれも、あなたと話してみたいと思った」
喪う前のナジカを知っている、たった一人の家族。
「はじめまして、おれはローナ・ハヴィン。ナジカの義理の兄です。……少しだけ時間を頂いてもいいだろうか」
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