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第一部
5-7
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柏梶宮は白亜の宮殿群に囲まれた、こじんまりとした宮殿だ。木々の枝葉の下に埋もれるようにしてありながら、木漏れ日に透けて薄青く影を落とす様はけして鬱屈を与えはしない。風の揺らすさやかな音は玉響のよう。
空気の澄明さ、大いなる自然の晴れ晴れしさは故郷の方が上だが、鮮やかで彩り豊か、人の手を入れて作られた美しさはまた別だ。あとは普通に暖かいのがいい。
ナランは頬にかかる木漏れ日に目を細めながら、待ち合わせの二人がやって来るのを遠目に見つめていた。
小路を歩むフィリスとリリアはまたフードを被っている。その斜め前で先導するのはクラウスと年若い神祇官で、まるでただの随行員ですという顔で国王までしれっとついてきていた。たった一人で。
ひらりとナランが手を振ると、神祇官は一瞬固まり、クラウスが手を振り返してきた。
「クラウスさま。二人を送ってくれてありがとうございます」
「いいや、こちらこそ礼を言うよ。間に合ったからね」
「それはよかった」
どうやらリギアの石の持ち主は、空になった体を持っていかれる前になんとか守りを完全にされたらしい。後は幽離から戻ってくるだけだが、いつかは戻る。下手なところに捕まらなければ。
(常闇の扉とか)
サレンディアでナランが管轄している危険区域をちらりと思い浮かべたが、結果確認は帰ってからだ。
「それで、陛下はなぜここに?辞去のご挨拶はしたはずですが」
「改めて見送りをしようと思ってな。それから、見られるならぜひもう一度、この宮を見ておきたいと思った」
「入られますか?」
「いいのか?」
さらっと提案したナランにシュランツガルドが身を乗り出す後ろで、神祇官がざあっと顔を青ざめさせた。
クラウスはナランを眼鏡の下から鋭く見て、神祇官の代わりに止めに入った。
「見学程度なら可能ですが、陛下。間違ってもその『奥』には進みませんよう。私が公爵殿他多方面に恨まれます」
「ああ――もしかして、亡命扱いか?」
「そうなります」
「それは困るな。では行き過ぎるようなら止めてくれ。とはいえ、おれも見たいのは扉の内側だからな。あのときは押しても蹴ってもいっかな開かなかったんだ。傷がついていないか、思い出したら心配になってな」
基本的に、柏梶宮の扉はサレンディアの者しか開けられない。外からも内からも同じこと。当時シュランツガルドとミアーシャは避難とはいえ内側に閉じ込められたわけだが、あのときはシェリアが開けてくれた。
今はナランが扉を半開きにしていた。その扉の隙間、うぞりと闇が蠢き、神祇官がまた青くなった。ずいぶんと目がいい、有望な神祇官だ。
「それではどうぞ」
ナランが内側に押し開けば、まだ夕闇には遠い夏の日差しがすっきりと入り込む。一斉に退いた暗色の気配に気づきもせず緊張の欠片もない国王がそれを追って足を踏み入れ、クラウスに続いてフィリスとリリアも入ってきた。
「ナラン、もう一人は?」
「あちらに転がしているよ。意識は奪ってある」
早速シュランツガルドがクラウスを解説役に見学を始めているのを横目に、リリアが奥の闇を見た。
「クラウスさまとはゆっくり話せたかい?」
「馬車の中ではな。ナランはよかったのか」
「いくら私だって怒られるのは嫌なんだよ」
「クラウスさまが?なにを怒るんだ」
意外そうな問いかけと一緒にフィリスも振り返ってくる。二人とも恩人のクラウスのことを聖人とでも勘違いしているのだろうか。ナランは思わず綻んだ唇に人差し指を当てた。
「内緒だ」
リリアはその表情を見て沈黙し、「あっそ」と呟いた。
「……クラウスさまの妹御のお子はご子息だったな。フィリスと同じくらいの歳に見えた」
「へえ、そうなのか」
こちらも賢い子だ、とナランは微笑みつつ相槌を打ったが、次の一言には思わず噴出した。
「フィリスはフードを被ってたんだが、あっちの人間がそれ見て『怪しい占い師が来た』って顔をしてた」
「え、リリア、それ、私?」
「クラウスさままで怪しい占い師に引っかかった風に見えたんだろうな、あれじゃ。その後きっちり礼を言ってきたから誤解は解けてるけど」
ナランはしばし無言でぷるぷるした。
リリアは物凄い顔でフード姿のフィリスとクラウスの顔を見比べていた、ルアと呼ばれた娘の容貌を思い出した。フィリスはごく限られた人間以外へ発揮する人見知りのせいで確認もなにもなかっただろうが――あの顔立ちは……。
リリアはサレンディアの血統でなくても、当主の側仕えとしてある程度学んでいる。帰りの馬車で、クラウスに尋ねようとしたが、無言で微笑まれたので聞けず仕舞いだ。
国王がなにか話しかけているのに応じているクラウスの横顔を遠目に眺めて、まあいいかと思い直す。どうせ外の世界などリリアにはほとんど関係ないし、クラウスが承知しているのならそれで済む。リリアにとってはその程度の問題だった。
ただ。
(……一切血の繋がりのない家族、か)
昏々と寝入るサレンディアに、過剰に気丈に振る舞うありえない血統の娘に、涙を流す己に構わず義兄の側に張り付く、フィリスと同じくらい珍しい色彩の少女。
一人だと名付けようもない「家族」を、行き場のない子どもたち三人が寄せ集まって看板を立てたような、おままごとじみた雰囲気があった。
愛情と恐怖、不安と心配、疑心と執着……。「そのとき」が来れば、看板をしまって解散だ。次の約束などない。
「リリア」
フィリスのとても小さな呼びかけで顔を上げ、フィリスのようにナランの背後に下がった。満足したらしい国王がクラウスを伴って歩み寄って来ていた。
「傷も汚れもなかった」
なんの報告をしに来ているのか。「それはよかった」とまたナランは言って、微笑んだ。
「どうせなのでこのまま見送りたいが」
「いけません」
「とクラウス殿が言うのでな。中途半端になるが、この辺でおれは失礼しよう。今回はろくなもてなしもできなかったから、ぜひ、また今度お会いしよう。そちらのお二人もだ」
ナランの背後で身をすくめるフィリスを、リリアがナランの背中を目隠しにして突いたようだ。
「今度とは?」
「まさかこれっきりじゃないだろう?」
「そうですね、当主次第ではありますが。『雲天』をまた召し上がれるなら、進言してみましょう」
今朝方国王の側近の淹れた、東部ファクサのザラーク一族秘伝の茶の名を出せば、国王が口元を綻ばせた。
「では用意をしておこう」
「心待ちにしています」
「それじゃあな」
国王はなんの未練もなく踵を返した。クラウスも続くかと思ったが、国王が出たあと内側から扉を閉めた。光が途絶え、とっぷりとして暗闇に、歩み寄る靴音が響く。
「クラウスさま?」
「フィリス、リリア。先に奥に行っていてくれるかな。ナランに話がある」
ナランの手の一振りで宮内に点々と火が灯った。青白い炎に照らされたクラウスの表情はいつもと変わらない柔和さなのに、フィリスとリリアがすすすーっと後退していった。
見事に捨て置かれたナランは両手を肩の高さまで挙げた。怒られずにやり過ごしたかったのに。
「言っときますけど、クラウスさま、ぼくじゃありませんよ。起こしたのも、呼び込んだのも」
「そう言われると考えはじめてしまうね」
クラウスがナランの目の前まで来て、足を止めた。ナランが面と向き合えば、ほとんど身長は同じだった。かつてはリギア共々よく面倒を見てくれた人を相手にすれば、どうにも身構えたくなる。
「覚醒したのはケルシュでだろう。失敗したと見なしたのは、捕獲できなかったからか。そこで二度目をやろうとするなんて間が抜けたこと、君がやるわけがない。そう思っていたけど?」
「もちろんですよ」
疑ってはいないと言いつつ、クラウスの眼光は眼鏡越しでもびしびし突き刺さるように強い。
人ならざる者。サレンディアとも比べ物にならないほど強大な力を持ち、己を唯一の主として何にもまつろわぬ存在。
そんなある種の爆発物が、悠然とサレンディアの本拠地に踏み込んで来た時点で、その覚醒と原因は、ナランにもクラウスにも容易に想像がついた。訪問が目覚めた直後でなく、しばらくの時間が経ってのことである意味も。
術式の行使には個々人の力の強弱が肝要であり、足りなければ霊草希石で力を底上げする。それでもなお、人の身に余りある結果を望むならば、血と贄を用いる。
ケルシュで強大な盗賊団が死体の山になったのが、一度目。
少年のように若い公爵が昨夜に火事があったと言っていたが、二度目の贄はかなり少なそうである。どのみち空振りだったわけだが。
「――それでも、君がやらないだけだという可能性も捨てきれなくてね。術式を組むことすら、できる一族は限られる」
ナランは否定も肯定もなく、無言で微笑んだ。
明るくなっても染みのように払われない闇の一角に、城に捕まっていた同族が転がっている。同じ異能持ちだが、能力はナランの方が遥かに上なのは確かだった。
「ぼくを回収に当たらせたのは当主ですから、その辺はあの方にお願いします」
そのナランよりも強力な異能を持つ人物を挙げれば、クラウスはこくりと頷いた。
「姫にはこれから問い合わせるよ」
「……その呼び方、昔から変わりませんね。もしかしなくても、リリアの姫長という呼び方、あなたの影響ですか」
見た目は確かに姫と呼んでもいいくらいの若々しさだが、実年齢で言えば、彼の人はクラウスよりも歳上だ。そんな老ゲフン妙齢な女人を姫と呼ぶなんて、クサくてたまらない。のに、クラウスが言うと決まって聞こえるのが非常に不思議である。クラウスだからだとも思うが。
クラウスにとって、姫と呼んで、かしずくのは一人だけ。
ある意味非常にわかりやすいが、多分、倣っているリリアはそこまでの理解に及んでいない。
「リリアがそう呼んで姫が許したのなら、別に問題はないだろう。君みたいに途中から変わるかもしれないが」
「……リリアはいつ気がつきますかねぇ……」
遠い目になってぼそっと呟いた。正直「姫」本人が何かしら区切ればいいと思うのだが、あの人は、気づいていて知らんふりをしているのか、本当に一切気づいていないのか、よくわからない。どちらもありえるような微妙な関係性で、だからかつてのナランも、気づくのに遅れたのだ。
「……まあでも、リギアと同じ呼び方ですもんね。誰かが話したわけでもないでしょうが。あの方にとってはそれでいいのかな」
クラウスのたった一人の妹の名、ナランの幼なじみの名を出せば、その声音や抑揚まで鮮やかに脳裏に蘇った。会わずにもう二十年以上も経つのに、案外覚えているものだ。
「久しぶりにリギアの作った術式を見ました。外にいてあれだけのものが組めるなら相当ですよ。その子どもは、どうやら振り回されてるばかりのようですが」
「ローナもエルフィズの護りから外の空気に出されて長くなる。本当は慣れているはずだが、今回は箍が外れたようだからね。そのところは本当に感謝している」
「受け取ったのはフィリスで、届けるよう命じたのは当主ですよ。どれもぼくじゃない」
「それでも君はここにいる」
「……」
「幼い頃に常闇に出たり入ったりと遊ぶ君とリギアにはほとほと手を焼かされたものだけど、ローナにはやめてやりなさい。それを守れるなら、この『道』を通らずとも、またいつでも私の家に顔を出しなさい。今ならうちの子たちの作ったおいしいお菓子がついてくるよ」
ナランは呆れて、一つ息を吐いた。
年齢と外見の乖離激しい当主以上に読めないのが、ほぼ常にこの穏和な態度を崩さないクラウスだった。人には読ませないくせに、逆に向こうはあっさり核心をついてくる。常闇のことまでバレてるし。
それにしても心が広すぎるというかなんというか……うちにはもう来るなとか言われると思っていたのだが。
(ぼくはリギアと許嫁の間柄だったのに?)
あえてそう尋ねようかと思ったが、言っても無駄とはわかりきっているのでやめた。
「……そうだったら、また暇ができたら、伺いますよ」
「うん」
「……じゃ、ぼくたち帰りますね」
くるりと踵を返し、フィリスとリリアへ手を振って促しながら、寝こけている同族のところへ歩み寄った。話が終わってもクラウスが出ていく気配がないのは、見送りのためだろう。ありがたいことだ。
「終わったのか?」
「終わった。帰るよ。リリアはそれ見てて」
床に闇を縫いつけるように屹立していた白い鞘入りの小刀を持ち上げ、刃をするりと抜き放つ。同族が息を吹き返したようにびくりと痙攣しはじめた。
本来なら肌身離さず持ち歩くべきこの宝具だが、一応刃物だし、王城で取り上げられたら嫌なのでこの宮に置いて出てきた。腰の帯に鞘を差し、刃先をまた床についた。
コーン、と澄んだ音が鳴る。同時に、周囲の明かりが全て掻き消え、代わりに同族に染みついていた黒い闇が打ち払われ、眩しく光りはじめた。宮殿内にいくつも並ぶ柱に刻まれた紋様が息づくように明滅する。どこからともなく風が吹き、ナランの後頭部で括った髪がふわりと浮き上がった。
……ちらっとクラウスを見たら、のんびり腕を組んで見守っていた。
リリアとフィリスがぺこっと頭を下げているが、ナランは見なかったふりで、光の向こうに同族を蹴り込んで、リリアとフィリスもやんわり押し込んだ。
最後にナランが踏み込み、光が弾けた。
きらきらと力の残滓が星屑のように散っていき、今度こそ柏梶宮は暗闇に閉ざされた。
空気の澄明さ、大いなる自然の晴れ晴れしさは故郷の方が上だが、鮮やかで彩り豊か、人の手を入れて作られた美しさはまた別だ。あとは普通に暖かいのがいい。
ナランは頬にかかる木漏れ日に目を細めながら、待ち合わせの二人がやって来るのを遠目に見つめていた。
小路を歩むフィリスとリリアはまたフードを被っている。その斜め前で先導するのはクラウスと年若い神祇官で、まるでただの随行員ですという顔で国王までしれっとついてきていた。たった一人で。
ひらりとナランが手を振ると、神祇官は一瞬固まり、クラウスが手を振り返してきた。
「クラウスさま。二人を送ってくれてありがとうございます」
「いいや、こちらこそ礼を言うよ。間に合ったからね」
「それはよかった」
どうやらリギアの石の持ち主は、空になった体を持っていかれる前になんとか守りを完全にされたらしい。後は幽離から戻ってくるだけだが、いつかは戻る。下手なところに捕まらなければ。
(常闇の扉とか)
サレンディアでナランが管轄している危険区域をちらりと思い浮かべたが、結果確認は帰ってからだ。
「それで、陛下はなぜここに?辞去のご挨拶はしたはずですが」
「改めて見送りをしようと思ってな。それから、見られるならぜひもう一度、この宮を見ておきたいと思った」
「入られますか?」
「いいのか?」
さらっと提案したナランにシュランツガルドが身を乗り出す後ろで、神祇官がざあっと顔を青ざめさせた。
クラウスはナランを眼鏡の下から鋭く見て、神祇官の代わりに止めに入った。
「見学程度なら可能ですが、陛下。間違ってもその『奥』には進みませんよう。私が公爵殿他多方面に恨まれます」
「ああ――もしかして、亡命扱いか?」
「そうなります」
「それは困るな。では行き過ぎるようなら止めてくれ。とはいえ、おれも見たいのは扉の内側だからな。あのときは押しても蹴ってもいっかな開かなかったんだ。傷がついていないか、思い出したら心配になってな」
基本的に、柏梶宮の扉はサレンディアの者しか開けられない。外からも内からも同じこと。当時シュランツガルドとミアーシャは避難とはいえ内側に閉じ込められたわけだが、あのときはシェリアが開けてくれた。
今はナランが扉を半開きにしていた。その扉の隙間、うぞりと闇が蠢き、神祇官がまた青くなった。ずいぶんと目がいい、有望な神祇官だ。
「それではどうぞ」
ナランが内側に押し開けば、まだ夕闇には遠い夏の日差しがすっきりと入り込む。一斉に退いた暗色の気配に気づきもせず緊張の欠片もない国王がそれを追って足を踏み入れ、クラウスに続いてフィリスとリリアも入ってきた。
「ナラン、もう一人は?」
「あちらに転がしているよ。意識は奪ってある」
早速シュランツガルドがクラウスを解説役に見学を始めているのを横目に、リリアが奥の闇を見た。
「クラウスさまとはゆっくり話せたかい?」
「馬車の中ではな。ナランはよかったのか」
「いくら私だって怒られるのは嫌なんだよ」
「クラウスさまが?なにを怒るんだ」
意外そうな問いかけと一緒にフィリスも振り返ってくる。二人とも恩人のクラウスのことを聖人とでも勘違いしているのだろうか。ナランは思わず綻んだ唇に人差し指を当てた。
「内緒だ」
リリアはその表情を見て沈黙し、「あっそ」と呟いた。
「……クラウスさまの妹御のお子はご子息だったな。フィリスと同じくらいの歳に見えた」
「へえ、そうなのか」
こちらも賢い子だ、とナランは微笑みつつ相槌を打ったが、次の一言には思わず噴出した。
「フィリスはフードを被ってたんだが、あっちの人間がそれ見て『怪しい占い師が来た』って顔をしてた」
「え、リリア、それ、私?」
「クラウスさままで怪しい占い師に引っかかった風に見えたんだろうな、あれじゃ。その後きっちり礼を言ってきたから誤解は解けてるけど」
ナランはしばし無言でぷるぷるした。
リリアは物凄い顔でフード姿のフィリスとクラウスの顔を見比べていた、ルアと呼ばれた娘の容貌を思い出した。フィリスはごく限られた人間以外へ発揮する人見知りのせいで確認もなにもなかっただろうが――あの顔立ちは……。
リリアはサレンディアの血統でなくても、当主の側仕えとしてある程度学んでいる。帰りの馬車で、クラウスに尋ねようとしたが、無言で微笑まれたので聞けず仕舞いだ。
国王がなにか話しかけているのに応じているクラウスの横顔を遠目に眺めて、まあいいかと思い直す。どうせ外の世界などリリアにはほとんど関係ないし、クラウスが承知しているのならそれで済む。リリアにとってはその程度の問題だった。
ただ。
(……一切血の繋がりのない家族、か)
昏々と寝入るサレンディアに、過剰に気丈に振る舞うありえない血統の娘に、涙を流す己に構わず義兄の側に張り付く、フィリスと同じくらい珍しい色彩の少女。
一人だと名付けようもない「家族」を、行き場のない子どもたち三人が寄せ集まって看板を立てたような、おままごとじみた雰囲気があった。
愛情と恐怖、不安と心配、疑心と執着……。「そのとき」が来れば、看板をしまって解散だ。次の約束などない。
「リリア」
フィリスのとても小さな呼びかけで顔を上げ、フィリスのようにナランの背後に下がった。満足したらしい国王がクラウスを伴って歩み寄って来ていた。
「傷も汚れもなかった」
なんの報告をしに来ているのか。「それはよかった」とまたナランは言って、微笑んだ。
「どうせなのでこのまま見送りたいが」
「いけません」
「とクラウス殿が言うのでな。中途半端になるが、この辺でおれは失礼しよう。今回はろくなもてなしもできなかったから、ぜひ、また今度お会いしよう。そちらのお二人もだ」
ナランの背後で身をすくめるフィリスを、リリアがナランの背中を目隠しにして突いたようだ。
「今度とは?」
「まさかこれっきりじゃないだろう?」
「そうですね、当主次第ではありますが。『雲天』をまた召し上がれるなら、進言してみましょう」
今朝方国王の側近の淹れた、東部ファクサのザラーク一族秘伝の茶の名を出せば、国王が口元を綻ばせた。
「では用意をしておこう」
「心待ちにしています」
「それじゃあな」
国王はなんの未練もなく踵を返した。クラウスも続くかと思ったが、国王が出たあと内側から扉を閉めた。光が途絶え、とっぷりとして暗闇に、歩み寄る靴音が響く。
「クラウスさま?」
「フィリス、リリア。先に奥に行っていてくれるかな。ナランに話がある」
ナランの手の一振りで宮内に点々と火が灯った。青白い炎に照らされたクラウスの表情はいつもと変わらない柔和さなのに、フィリスとリリアがすすすーっと後退していった。
見事に捨て置かれたナランは両手を肩の高さまで挙げた。怒られずにやり過ごしたかったのに。
「言っときますけど、クラウスさま、ぼくじゃありませんよ。起こしたのも、呼び込んだのも」
「そう言われると考えはじめてしまうね」
クラウスがナランの目の前まで来て、足を止めた。ナランが面と向き合えば、ほとんど身長は同じだった。かつてはリギア共々よく面倒を見てくれた人を相手にすれば、どうにも身構えたくなる。
「覚醒したのはケルシュでだろう。失敗したと見なしたのは、捕獲できなかったからか。そこで二度目をやろうとするなんて間が抜けたこと、君がやるわけがない。そう思っていたけど?」
「もちろんですよ」
疑ってはいないと言いつつ、クラウスの眼光は眼鏡越しでもびしびし突き刺さるように強い。
人ならざる者。サレンディアとも比べ物にならないほど強大な力を持ち、己を唯一の主として何にもまつろわぬ存在。
そんなある種の爆発物が、悠然とサレンディアの本拠地に踏み込んで来た時点で、その覚醒と原因は、ナランにもクラウスにも容易に想像がついた。訪問が目覚めた直後でなく、しばらくの時間が経ってのことである意味も。
術式の行使には個々人の力の強弱が肝要であり、足りなければ霊草希石で力を底上げする。それでもなお、人の身に余りある結果を望むならば、血と贄を用いる。
ケルシュで強大な盗賊団が死体の山になったのが、一度目。
少年のように若い公爵が昨夜に火事があったと言っていたが、二度目の贄はかなり少なそうである。どのみち空振りだったわけだが。
「――それでも、君がやらないだけだという可能性も捨てきれなくてね。術式を組むことすら、できる一族は限られる」
ナランは否定も肯定もなく、無言で微笑んだ。
明るくなっても染みのように払われない闇の一角に、城に捕まっていた同族が転がっている。同じ異能持ちだが、能力はナランの方が遥かに上なのは確かだった。
「ぼくを回収に当たらせたのは当主ですから、その辺はあの方にお願いします」
そのナランよりも強力な異能を持つ人物を挙げれば、クラウスはこくりと頷いた。
「姫にはこれから問い合わせるよ」
「……その呼び方、昔から変わりませんね。もしかしなくても、リリアの姫長という呼び方、あなたの影響ですか」
見た目は確かに姫と呼んでもいいくらいの若々しさだが、実年齢で言えば、彼の人はクラウスよりも歳上だ。そんな老ゲフン妙齢な女人を姫と呼ぶなんて、クサくてたまらない。のに、クラウスが言うと決まって聞こえるのが非常に不思議である。クラウスだからだとも思うが。
クラウスにとって、姫と呼んで、かしずくのは一人だけ。
ある意味非常にわかりやすいが、多分、倣っているリリアはそこまでの理解に及んでいない。
「リリアがそう呼んで姫が許したのなら、別に問題はないだろう。君みたいに途中から変わるかもしれないが」
「……リリアはいつ気がつきますかねぇ……」
遠い目になってぼそっと呟いた。正直「姫」本人が何かしら区切ればいいと思うのだが、あの人は、気づいていて知らんふりをしているのか、本当に一切気づいていないのか、よくわからない。どちらもありえるような微妙な関係性で、だからかつてのナランも、気づくのに遅れたのだ。
「……まあでも、リギアと同じ呼び方ですもんね。誰かが話したわけでもないでしょうが。あの方にとってはそれでいいのかな」
クラウスのたった一人の妹の名、ナランの幼なじみの名を出せば、その声音や抑揚まで鮮やかに脳裏に蘇った。会わずにもう二十年以上も経つのに、案外覚えているものだ。
「久しぶりにリギアの作った術式を見ました。外にいてあれだけのものが組めるなら相当ですよ。その子どもは、どうやら振り回されてるばかりのようですが」
「ローナもエルフィズの護りから外の空気に出されて長くなる。本当は慣れているはずだが、今回は箍が外れたようだからね。そのところは本当に感謝している」
「受け取ったのはフィリスで、届けるよう命じたのは当主ですよ。どれもぼくじゃない」
「それでも君はここにいる」
「……」
「幼い頃に常闇に出たり入ったりと遊ぶ君とリギアにはほとほと手を焼かされたものだけど、ローナにはやめてやりなさい。それを守れるなら、この『道』を通らずとも、またいつでも私の家に顔を出しなさい。今ならうちの子たちの作ったおいしいお菓子がついてくるよ」
ナランは呆れて、一つ息を吐いた。
年齢と外見の乖離激しい当主以上に読めないのが、ほぼ常にこの穏和な態度を崩さないクラウスだった。人には読ませないくせに、逆に向こうはあっさり核心をついてくる。常闇のことまでバレてるし。
それにしても心が広すぎるというかなんというか……うちにはもう来るなとか言われると思っていたのだが。
(ぼくはリギアと許嫁の間柄だったのに?)
あえてそう尋ねようかと思ったが、言っても無駄とはわかりきっているのでやめた。
「……そうだったら、また暇ができたら、伺いますよ」
「うん」
「……じゃ、ぼくたち帰りますね」
くるりと踵を返し、フィリスとリリアへ手を振って促しながら、寝こけている同族のところへ歩み寄った。話が終わってもクラウスが出ていく気配がないのは、見送りのためだろう。ありがたいことだ。
「終わったのか?」
「終わった。帰るよ。リリアはそれ見てて」
床に闇を縫いつけるように屹立していた白い鞘入りの小刀を持ち上げ、刃をするりと抜き放つ。同族が息を吹き返したようにびくりと痙攣しはじめた。
本来なら肌身離さず持ち歩くべきこの宝具だが、一応刃物だし、王城で取り上げられたら嫌なのでこの宮に置いて出てきた。腰の帯に鞘を差し、刃先をまた床についた。
コーン、と澄んだ音が鳴る。同時に、周囲の明かりが全て掻き消え、代わりに同族に染みついていた黒い闇が打ち払われ、眩しく光りはじめた。宮殿内にいくつも並ぶ柱に刻まれた紋様が息づくように明滅する。どこからともなく風が吹き、ナランの後頭部で括った髪がふわりと浮き上がった。
……ちらっとクラウスを見たら、のんびり腕を組んで見守っていた。
リリアとフィリスがぺこっと頭を下げているが、ナランは見なかったふりで、光の向こうに同族を蹴り込んで、リリアとフィリスもやんわり押し込んだ。
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