少年の行く先は

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第一部

5-6

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「この馬鹿アホ間抜けあんぽんたんおたんこなすのすっとこどっこい!!!!」

 世界が揺れたかと思うほどの怒号だった。少なくともローナは座っているのに目眩がして後ろに倒れそうになった。元々寝台の縁から壁に寄りかかる格好だったので倒れずに済んだ。
 耳がキーンと鳴っているが、ルアのお説教は開幕したばかり。なんとか神妙な顔を繕った。
「生身で炎に突進してくなんてなにしてんのよ!人助けしにいって自分が死んでたら元も子もないわよ!セナトさまやケイトさま、クラウスさまだって呆れてたわ!ちゃんと出てこれたのは奇跡よ奇跡、わかってる!?運!偶然!!いつ崩れるかもわかんないのにド直球に突っ込むなんてなんてアホなの外から当たりぐらい付けなさいよ!しかも中にネックレス落としてくなんて!間抜けの極みだわよ馬鹿!!」
 ローナは目を逸らした。屋敷に逆戻りしたとき、確かにそこら辺なんにも考えず特攻した。だが一応確実に通れるルートを探ったりはしたのである。本当の本当に無策だったわけではない……。
「結果無事だったから、とかふざけたことほざくんじゃないでしょうね。あんた夜から朝の短期間で二回も気絶したのよ。どれだけ心配したと思ってるの?目の前で二回も倒れて、ナジカがどれだけ取り乱したか。考えてごらんなさいよ。ちょっと考えればわかるでしょう。ほんの少しの立ち止まる猶予くらいあったでしょうが……!」
 図星を指されて小さくなったローナは、ふと語尾が震えているのに気づいて視線を上げた。
 ぎょっとした。
「ル、ルア」
「これはね、怒りすぎて泣いてるの。断じて安心したからじゃないわよ安心できる要素がないわよこの馬鹿ローナ!!」
「ご、ごめん。本当にごめん。迷惑かけた」
「めいわくぁ!?」
「どこから出した声だそれ!?じゃなくて、えーと、心配!かけてごめん!反省してます!」
 もそもそ寝台の上で正座になって深く頭を下げる。自分の握りこぶしが二つ分目に入って、そこで、ごめんの他に言うべきことがあったと思い出した。
「ルア」
 目元を拭っていた手を一つ拾った。涙で濡れている。
 ルアはずびっと鼻を啜って「なに」とぶっきらぼうに返した。ナジカがこの場にいればもっと上品にあれこれ取り繕ったが、幼なじみの馬鹿しかいないならそんな手間かけるのも面倒だ。包帯の巻かれた手のひらを抓ってやろうと思って、思いとどまった。一応怪我人だ。
「おれが寝てる間、ずっと手を繋いでてくれてありがとう。おかげで戻ってこれた」
「……私だけじゃないわよ」
「うん。ナジカにもちゃんと言う。でも……」
 ローナは言いかけて黙った。守り石もなくたった一人で力を使ったら、戻ってこれないから用心しろというのが母の教え。以前力を使ったときのように、誰かと手を繋いでいれば帰り道ができる。……ルアだけでも十分に足りたはずだった。必要なかったとは言わないし、言いたくないけど。
 トーサがいれば、ナジカにローナたちの方がむしろ必要ない。
(ナジカと話を……その前にトーサか?どんな風に引き取るんだろう)

「なによ。ナジカがどうかしたの。あの子あんたが起きるまでずっと泣いてたんだからね。……多分旦那さまのこと考えてたと思うわ」
 ローナは無言でルアを見た。今度はルアの方が少し視線を逸らした。ローナの手の中でルアの手がきゅっと丸まる。同じように唇が震えて、つっかえるように言葉が吐き出された。
「……私は奥さまの時のこと、思い出していたから」
 ルアはその時のローナの表情の変化を、完全に無視することができずに横目に見ていた。すうっと瞳から光がなくなっていく様を。ストンと感情が奈落に抜け落ちていった顔を。
 だいたい能天気で考えなしなローナの、五年以上経っても生晒しの傷痕が露わになる。言おうか言うまいか悩んで結局口にしたことを後悔した。だけど、そう。それくらい怖かったと知ってほしい。いや違う。ナジカがひどく怖がってるときに、ルアまで同じになってはいけない。それだけだ。ローナのように火の海に飛び込もうとした、血なんて繋がってないのにそっくり同じことをしようとするナジカ。
 こんな困った兄妹のためには、ルアがしっかりとしなくてはいけないから。
「…………母さん、おれみたいに倒れたことがあったのか?」
 ルアはひっそりと深呼吸をした。ありったけの勇気が必要だった。
「……そうよ。直前までのんびり歩き回ってたのに、いきなり、ぱたっ、て」
「いつ?」
「亡くなる……少し前に」
 その頃にはもう起き上がれる日の方が少なくなっていた。ローナの母はいつの間にか徐々に徐々に体が弱っていた。亡くなる半年前にローナが王都から帰省して来たときには寝台の上で暮らしていて、それに愕然としていたのを思い出した。とはいえ学園の長期休暇が明ける頃になってもぐずぐず後ろ髪を引かれていたのを声と勢いで叩き出したくらいには元気が残っていたし、時々は寝台から放浪の旅にも出ていた。
 それでも、誰も知らないうちに命をすり減らして、体に限界が来たのが、あのときだった。

 ルアはローナの足元に蹲るように膝を落とした。勇気は品切れ。もうローナの顔は見られなかった。
 気づいたはずだった。
「……あの人が、手紙を出したって、言ってたの、そのとき?」
 ルアのつむじが震えるのを、丸まった手が力なく手のひらから滑り落ちていくのを、ローナがどんな目で見ているのか。
 他人には父と言うのに、ルアやベスタたちの前ではもうそう呼ぶことはなかった。父親の言も信じない。愛情も信頼もないただの記号としてしか、ローナの中では存在を許されない人にまで成り下がっている。
(だけど)
 二人はローナを愛していたと、ルアは言えない。どうしても言えなかった。罪深く重苦しい気分の転落を、寝台の縁に額を押し付けて踏みとどまった。 
 
「と、とにかく」
 今は、伝えたいことを伝えなきゃ。ルアはその一念で声を振り絞った。
「見てるだけしかできないのは、本当に辛いの。なにかしたいのになんにもできないの。どうすればいいのかわからないんだもの。今回はクラウスさまが、色々、してくださったけど……私もナジカも、ほんの半日で、二回もまたそんな思いをするなんて、想像したくもなかったわ」
 今度はルアからローナの手を握った。ぽたりと膝の上に落ちていたから、拾って、下からローナを見上げた。まだ虚無から戻ってこない目をしていたけれど、ルアを見返してくれた。
「無鉄砲はやめて。誰かを助けるなら、自分を守ってからにして。いい?」
「……」
「返事は?」
「……うん。うん。わかった」
「ほんとね?」
「うん」
 ルアが握りきれなかったローナの指先が、そっとルアの指を撫でた。落とした宝物の傷を調べようと輪郭をなぞるように。ローナはナジカの頭を撫でるのが好きだし、ルアとは手を繋ぐのが好き。だけど時々、こういう風に手探るように、相手の反応を気にするように、引け腰になる。今さらなのに。
 ルアはとっさに尋ねようかと思った。――ない方がよかったって、思うかもしれないけど。
 自分から生みの親を切って捨てたローナが自分の価値を見失うように、ルアも自分がいなければとよく思う。薪代わりに燃やした紙片が脳裏に舞い散る。
 ――でも、それと同じくらい、必要を思い知らされて、手を離しがたく、ずるずるとここまで来た。
(ローナが傷付いたのが、私のせいでも、それでも必要としてくれる?)
 物心付く前に出逢ってしまった。今さらそれがかけがえのないものかどうか、ルアには見つめ直す気がない。離しがたくても、いつか離さなきゃいけない日のために。
 いつか本当に口にして尋ねてしまうだろうけど、それは今じゃない。

「さ、てと!」
 ルアは弾みをつけて立ち上がった。
「私、これから夕飯作ってくるわ。出来たら起こすからまたしばらく寝てなさい。お腹は空いてる?」
 ローナはううんと首を捻った。もういつものような表情だった。
「……すっごく腹減ってる。減りすぎて寝るどころじゃない……」
「寝てなさい」
「いや、おれもなにか手伝う」
「ね、て、な、さ、い。返事は?」
「……はい」
 さすがにもう倒れはしない……とは(ルアの眼光が怖くて)言えなかったローナは、ルアが仁王立ちで腕を組んでいるので、すごすごと巣ごもり態勢になった。枕に頭を落とせば、ルアが満足したように頷いて、ローナの肩を叩いて部屋を出ていった。
 今朝はじめに目覚めた部屋と違い、ローナは今一人きりだった。
 どうやら倒れたあとここに運び込まれたらしく、ローナが目覚めたときには、寝台の両端に座るルアとナジカがローナの両手を握っていた。ナジカはその後、入れ替わるように寝入って、自分の部屋に戻されていた。
(よく考えたら、おれ、昨日の夜からなにも食ってない……)
 三食抜いた空きっ腹で寝ているくらいなら別のことで気を紛らわせたい。なのに話し相手もいない。ローナは寝返りを打った。枕元に焚かれていた香炉はとっくに片付けられているのに、紫煙のくすみと残り香はまだ鮮明だった。クラウスが置いていったらしいが、ローナはまだ会っていない……なんでか母の同族もここまで来たらしいのに、寝てる間にまた城に戻っていったそうだ。クラウス以外の同族とはぜひ会ってみたかった。力の大暴走をした直後ともなればなおさら。
(……母さんは)
 母は、どうだったのだろう。
 ローナは今さらのように考えた。本当に今さらだった。

 母は外より屋敷の中で寛ぐのが好きで、特に日向ぼっこがお気に入り。掃除は一度始めると止まらなくなる。料理は大味な煮込み料理しか作れず、ユエが夏場に作るハーブの利いた冷製スープを毎年のように不思議そうな顔でぺろりと平らげる。アンナがルアにお菓子作りを教えていると、ローナを連れて厨房に潜り込んでつまみ食いに専念する。ローナは時々生地の型抜きのお手伝いをした。
 のんびりするのが好きで、働くのも好きで、食べるのが好きで、ずっと、なんでもないときでも笑う人だった。ローナにとってそれが母の全てだった。
 だけど、ローナに力を制御する守り石を作ってくれたのは、クラウスではなく、母だった。力の使い方も、使う時の注意も教えてくれた。
(母さんは……母さん自身は、力を使ったことがあったんだっけ?)
 空腹で集中を削がれつつ掘り返す記憶に、なにか引っかかった。泣きそうな顔。
 思わず手を伸ばせば、薄暗い天井があった。記憶でなくても、過去の残影を掴めるわけがない。なぜ、いつあんな顔をするようなことがあったのか。
 ローナは額に手の甲を当てた。自分一人の体温。匂いも音も常人の感知できる程度に収まっている。意識が千々にばらけたときはもう駄目かと思ったりもしたが、母はどうだったんだろう。
『ロニィ!厨房に行きましょ!晩ごはんはなにかしらね?』

 記憶の泉から湧き出た声に釣られて、呟きがこぼれた。
「……腹減った……」
 今晩、ルアはどんな料理を作ってくれるだろう。

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