少年の行く先は

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第一部

5-5

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 高さはなく横に広い屋敷の中は、探検するのにうってつけだったが、いざ生活するとなると、使う部屋は限られていた。その中でも母のお気に入りが、まばらに木が生えるだけで、ほとんど殺風景な草原の広がる裏庭を一望できる、一階のテラスだった。
 備え付けの揺り椅子が、きぃ、きぃと揺れて、遠くで太い枝に通したブランコもふらふら風に押されている。
 どちらもあなたのお父さんが作ってくれたのよと、なぜか自慢げに言っていた。細かい調整はベスタがしてくれたけど、木材を切ったり仕上げに磨いたりとか。一から物を作れる腕前じゃなかったけど、そこも可愛いわよね。
『ロニィ、こっちに来て?』
 草原で追いかけっこをしていたところを呼び止めて、揺り椅子から手招く母がどんな表情だったか、覚えていない。
『お守り、ちょっと貸してね。手を出して』
 言われるまま、最近もらったばかりの重い首飾りを預けて、差し出された両手に両手を載せる。遊び相手を取られたルアがなになにと横から覗き込んで、アンナが編み物をしながらルアを窘める。
『奥さまのお邪魔をしてはいけませんよ』
『じゃま?』
『邪魔じゃないわよ、ルア。そうねえ、たとえば、いつかローナがお守りを失くしてしまった時は、私みたいにするのよ。覚えていて』
『……?手をつなぐの?』
 ローナのつむじに、綿毛のような笑い声が降ってきた。
『そうよ。それだけでいいの。特別なものはなにもいらないわ。ふふ、そうなの。こうやってね!』
 ぎゅむ、とルアと一緒くたに抱きしめられた。思わずきゃあと声を上げて喜んでしまう。母の髪がローナやルアの頬を撫でてくすぐったい。
『ローナ、重いものを持たせてごめんね。だけど、外してもいいの。……ルアもね、知らないままでいさせたいけど、無理なときがくるかもしれない。でも、あなたたちが辛いのは、あなたたちのせいじゃないの』
『……奥さま』
 アンナが編み物を置いてそっと近寄ってきた。母はアンナにも手を伸ばして、手を握り合った。縋るように。なにかを分かち合うように。
『忘れないでね。「なかった方がよかった」って思うかもしれなくても。私は雪の果てからレイソルを見つけたから、ローナと出逢えたし、ルアともこうして出逢えたのよ。そんな出逢いがあなたたちにもきっとある』
 ルアと顔を見合わせた。母の言うことは難しくて、お互いきょとんとしっぱなし。だけど、二人の大事な人が泣いてるような声だったから、背伸びをしていっぱいに手を伸ばした。
『おかあさん、アンナ、なかないで』
『よしよししてあげる。どこがいたいの?』
 母はますますぎゅうっと二人を抱きしめてきた。頬ずり付き。
『ああもう、ほんっと可愛い……。ルアはともかくローナは後数年で嫌がるようになるでしょ?アンナも今のうちにいっぱいいっぱい抱きしめてあげて。私の弟みたいな子もそうだったけど、男の子ってある時からすごぉくこういう触れ合いを恥ずかしがるのよ。兄さんにはべったり甘えるくせに、可愛げがないったら』
『誰のことだ?』
『あら、レイソル。おかえりなさい。ふふ、誰のことだと思う?』
『……おれのことじゃないのは確実だな』
『そうね。あなたは可愛げがあるもの。そうやって拗ねるとこだったり。ご不満ならローナたちごと抱きしめてあげるわよ』
『……遠慮する』
 ローナとルアは後ろからいきなり持ち上げられてびっくりした。父の短い髭が一瞬頬を掠める。片腕ずつ子どもたちを抱えて、いつの間にかベスタとユエが出したテーブルの方に歩み寄っていく。
『ちょっと、取らないでよ。さみしいんだけど』
『ご不満ならお前も抱っこしてあげようか』
 父がいたずらっぽく言い返す。母はわざとらしく頬を膨らませて……素直に両手を差し出してきた。

 からかった側なのに固まったレイソルに、ベスタが思わず噴き出した。主人の睨みからそっと目を逸らしながらも肩は震えたままだ。
 ユエはにこにこと笑ってお菓子とお茶を並べ、アンナはそっとレイソルからルアとローナを取り上げて、子ども用の椅子に座らせた。子どもたちは大変大人しくしていたが、そこにユエがひそっと話しかけてきた。
『奥さまと旦那さま、とっても可愛いですねえ』
 子どもたちはよくわからないなりに頷いた。しっかりこっくり。
 ベスタがとうとう笑いを堪えきれず逃げ出したのを横目に、レイソルはリギアを抱き上げ、おやつのテーブルまで大事に運んだ。ユエがにこにことベスタを呼び戻しに行く間に、アンナがそれぞれのカップにお茶を注いでいく。子どもたちは強制的にミルク一択。
 使用人も客人も一切関係ない、ハヴィン家全員の団らんがはじまる――……。

「   」

 ローナはふと振り返って、そして、あれ、とぱちぱちと瞬いた。
 呼ばれた気がしたんだけどな。
 誰もいないし、なにもない。首を傾げながら向き直ったら、テーブルも椅子も、みんなもどこかに行っていた。
 見果てぬ真っ暗な闇のど真ん中に、ローナはたった一人、ぽつんと立っている。
 なにをしてたんだっけ。適当にぽてぽて歩いてみた。目の前にかざした自分の手さえ見えないほどとっぷりと暗闇に浸っているのに、不思議と怖くはなかった。むしろ、自分の形が溶けていくようで、なんとなく心地いい。まぶたがとろりと落ちていく。
 このまま溶けて、溶け去ったら、どんなにか楽だろう。毬のようにうずくまって微睡んでいると、ひやりとした闇に触れた。はっと我に返ったときには、冷たい黒い手が、幾重にもローナを取り囲んでいた。
 ローナを溶かしていくのではなくて、ローナをむしって千切って、ほしいままに奪い去っていく影どもが、ケラケラ笑っていた。いくつもいくつも重なって響き合い、広く遠くまで鳴り渡る。
 そのど真ん中に、ローナは知らない間に追い詰められていた。逃げようにも逃げられない。囲まれて、覆われて、押しつぶされる。

 ――消される。
 このままだと跡形もなく食い散らかされる。

 悲鳴は声にならなかった。頭を抱えて丸くなった。助けてとも言えなかった。だってには誰もいない。
 ローナの欠片が千切られた。端っこからちびちび味わうように奪われて、笑い声は恍惚とし、嘲弄の手は止まない。泣いてぎゅうぎゅう縮こまっても笑われる。恐ろしくて恐ろしくて、あまりの怖気に、黒い手を振り払った。
「ち、ちかよるな!」
 ぱっ、と、一瞬だけ黒い手が掃かれた。一度叫んだら堰きが外れたように声が出た。意味は考えなかった。黒い手のことも。必死に自分の震えるからだを抱きしめて、目をぎゅうっと瞑っていたから。
 戦うすべも己を守る力さえもない赤子の駄々のように、泣き叫んだ。
「くるな!うばうな!ーーかえして!」
 かえせ。ローナの欠片。ローナのいのち。

「かえせ!!」

 ぱんっと弾けた音がした。闇の爆ぜた音。まぶたの奥から強烈な光が差した。思わず目を開けると、はらはらと涙の雫がこぼれ落ちた。
「……だれ?」
 遠くて近いところに誰かの人影があった。くゆる灰と香の匂い、鈴の音がローナの傷痕をするりと撫でる。温かくてほっとして、涙が止まった。誰かはべそべそ顔のローナを見下ろして、呆れたように嘆息した。
「……全く。手のかかる迷い子よ。一直線に吸い込まれていきおって」
 大きな手にがしりと鷲掴みにされたようだった。ぐいぐいぶん回されて、どこかへ――庭とテラスの風景から次々と色んな景色を通り過ぎるようにして、どこかへ流されていく。
 目も眩むような鮮やかな風景がしんしんと雪の色に霞んだ。波紋の浮かぶ底に背の低い書き物机。線と文字と紋様が至るところに刻まれた薄暗く静かな空間、光が差し込んだと思えば淡い赤い髪の少年が小さななにかを抱えて転がり込んで、後ろに叫んだ。光の向こう、黒髪の少年の背中は振り返らずよたよた進む。破魔の青色そのままを人型にしたような少年。血脂に濡れた剣が鈍く煌めく。新しい血が飛ぶ。
 その赤い――朱い夕焼け色に呑み込まれそうになった瞬間、叱るようにいっそう速く情景が流れ去った。
「そなたの母も頻繁に幽離していたが、そなたと違って方向感覚は抜群だったぞ。またどこを彷徨うつもりだ」
 金の髪の少年が影の道をひたひた歩いて下りていく。どこまでも暗くて寒い道の底に、ぽつんと光る人影が見えた。光っているのに、足元から背後からどす黒い影が這い寄り絡みつこうとしている。なのに一切気にせず、その人はを見た。闇を切り裂く金の目。

 とたん、その人に指で弾かれて、一気に明るい空の上まで吹っ飛んだ。
『ああ、しょぼい幽霊かと思ったら、サレンディアの……迷子?王や王妃の前でなくてよかったわね。魔剣でぶった斬られずに済んだわよ』
 古びた血やじめじめと沈殿した匂いが強い風に流され、新鮮な緑の香りに取って代わった。春の草むしりをしたあとの青臭さ。
 駆け回って転がり回った草むらが広がっている。いつかの幸せを置いてきた場所。いつか帰りたいと願って出てきた。だけどまだ帰れない。
 帰れない。

 寄り添い合うような二つの墓石の前に、野花が添えられているのを最後に首を背けた。はじめて自分の意志で。

 どくり。
 ローナは自分のを感じた。どくり、どくり。
 拍動が呼吸を思い出させる。呼吸が熱を呼び覚ます。熱が輪郭を取り戻す。
 両手になにかを握っていた。それぞれ別のもの。両方大事。大切な宝物。手を繋いで、さらに抱きしめられれば、それで充分。
 それ以外はなにもいらない。
 なにも。

「ありがとうございます、もう大丈夫です」
 大きな手が、ローナの意識を包んでいた悠大な力が、ゆるりとほどける。
 もっとちゃんと礼を言って別れたかったけれど、さすがに無理だった。ぐいぐいと両手が引っ張られていく。今のローナの在るべき場所、ローナを呼ぶ「家族」の元へ。待たせていると思うと申し訳なくなって、自分からも飛んでいく。
 それでも、一度だけ未練がましく振り返った。
 ローナが生前聞けずにいた母の過去を知る人。雪の果て。凍てつく炉火の番人。
「また、いつか……」
 その人が何度もローナにやったからやり方はわかった。「声」を送って、ローナは自分の体に還り着いた。
 意識がほどけて体中に散らばる。けれど体より外にはもう出ていかなかった。
 散らばり、流れて、またゆるりゆるりと集まっていく。

 目覚める頃には、ローナは自分が見た「夢」のことを全て忘れ去ってしまっていた。
 ……闇に奪われ、失くした欠片のことさえも。

『また、いつか』
 声の余韻だけが、雪のように胸の奥に降りしきっていた。
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