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第一部
閑話︰染まらぬ蒼碧①
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ランファロードとネイシャが産まれたのは、河原街と呼ばれるだけの、どこの領とも知れぬ無法地帯の片隅だった。
川の側にずらっと掘っ立て小屋が軒を連ねているから、河原街。よく雨で家も人も流される。虫も湧くしほぼ毎日悪臭が漂っているが、様々な理由でまともな家に暮らせず、「普通」から弾き出され河原街の住人になった人々にはどうということもない。
河原街の住人はぎりぎりの生存本能以外は怠惰なほど億劫がって退廃しまくっているが、すぐそばの街は狂気と混沌が支配していて、小競り合いは日常茶飯事、川にはよく死体が流された。昼も夜も関係なく大騒ぎ。掏摸に失敗した幼い子どもはその場で殴殺され、通り魔が陽気に歌いながら赤い刃物をちらつかせたかと思えば、娼婦に背中から刺し殺される。街の顔を張る男たちは酒をかっ喰らって毒の混じった血を吐いた。
歓喜も恐怖も怒りも悲しみも、あらゆる感情が殺意に直結する街だった。
ランファロードとネイシャを産んだ娼婦は、この界隈にしては、ものすごくまともな部類だった。河原街に子どもを隠して、混沌たる街で日銭を稼いで、こっそりこつこつ金を貯めていた。幼い頃から際立った容貌の我が子を稼ぎに使う親など珍しくもないというのに、娼婦は、ランファロードの肌を土で汚させ、ネイシャの輝くような金髪も同じく扱って、「かあさんのかえりを待ってて」と、拙い言葉遣いで言いおいて、仕事へ出かけていく。ランファロードとネイシャの顔立ちはそんな娼婦譲りだった。つまりそれほどに整った容姿をしていた娼婦は、街で娼館に雇われずとも常にそれなりの客がついていて、稼ぎも上々だった。
だから、多分、色々あったのだと思う。
いつも仕事に出かけたら次の日の日暮れに帰ってくる母が予定通りに帰ってこず、さらにその次の日の朝に、うつ伏せになって川にぷかりぷかりと浮かんで流されていくのを、ランファロードは見つけた。ざんばらの黒髪と、服を全てひん剥かれ、痣だらけの白い肌を見ただけでなぜか母だとわかったから、一歳のネイシャを蔦で自分の背中に括り付けて、川に入って死体を掴まえた。
仰向けた母の顔はぐちゃぐちゃに焼かれていて、水にぼろぼろと溶けていた。河原街に漂う腐臭を微笑み一つで清めるような美しい顔立ちの、見る影もない。手足はどこもかしこも暴行の痕が残り、舌が切り取られていた。ランファロードは川岸に寄って、死体の両頬に手を当ててじっくりと顔を見た。肌に張り付く黒い髪をちょいちょいと脇にどかして、いつもそうされたように頭を撫でた。
背中で起きたネイシャがふやふやと泣きはじめた。腹が空いたからだろうが、寝ているよりはましだと思って、ランファロードは両耳の辺りの髪もどけて、聞こえるようにしてやった。もう声も感触も届かない場所にいるのだとわかってはいたが、万が一、届いたときのことを考えて。「おやすみ」とランファロードも自分の声を聞かせた。
しばらくネイシャを泣かせるだけ泣かして、ランファロードはまた川の中程まで死体を連れていって、手を離した。川の一部分だけやたらと流れが速く、仰向いた死体が波に乗ってどんどんと流されてゆく。しばらくそのまま見送っていると、とぷりと死体が沈んで見えなくなった。
ランファロードは岸へ上がって、ネイシャに朝食を用意することにした。その後は混沌たる街から隠し財産を回収してこなければ。
娼婦は以前、己が死んだときのことを息子に言い含めていた。ランファロードは、そのときのたどたどしい声を思い出して川を振り返った。
今日は朝からすっきりと晴れていて、乾いた強い風が腐臭を払っていく。青い空に昇った朝日が川面をきらきらと輝かせていた。その川床に死体がごろごろ転がっていることなんて忘れてしまいそうなほど、きれいな景色をしていた。
「にぃー!」
ぼうっとしている間に、背中に括り付けた弟が、泣くばかりじゃなくとうとう暴れ出した。空腹にも我慢の限界というものがあったらしい。と思ったら、ぶちんと蔦が切れて、重みが消えた。
はっと振り返った視界の端をよぎる、小さな小さな体。
水しぶきを上げて川に落ちたネイシャを、ランファロードは慌てて追った。ネイシャは水の中でびっくりしてばたばた暴れているうちに川岸を離れ、流れにさらわれていった。死体を運ぶ川を母は流れていったが、弟はまだ生きている。ランファロードは急流へ飛び込み、ぐるぐる回って押し流されるネイシャへ手を伸ばした。
「人が珍しく感動に浸った余韻が一瞬でパァだぞお前ら」
不意に水から引き揚げられた。勢いのまま宙を飛び、水深の浅い川岸にべちゃりと落ちる。反射で咳き込むランファロードのそばまでじゃぶじゃぶと水をかき分ける足音が寄ってきた。
「おい、吐け」
霞む視界を払って見上げれば、フードの付いた上等な外套から濡れた赤髪に水滴をこぼす男が、ネイシャの両足を掴んで逆さ吊りにしていた。ネイシャがげぼりと水の塊を吐き出すと、腕に抱き直して背中を叩いて次々吐かせる。次第にネイシャの嗚咽に本格的な泣き声が混じりはじめて、やっとランファロードは放心から立ち直った。
男は洗われたネイシャの金髪をまじまじと見つめていた。
「……こいつでちょうどいいな。おい、こいつ産まれてからどのくらいだ?」
ランファロードにちらりと視線を向けて尋ねて、その目がちょっと丸くなる。
「お前ら、その容姿でここにいたのか?」
そういう男こそ整った顔立ちに艶のある肌をしている。この周辺の人間ではないことは間違いなかった。そして金持ちだ。
ランファロードは腰を低くして男を睨みつけた。どうにか隙を見てネイシャを取り返して逃げなければ。周囲から視線だけがちらちらと集まっているのを背中に感じる。河原街の人間は自分から野次馬になりにいくことはないが、周囲の違和感からは絶対に目を逸らさない。色んなとばっちりを受けてなおここで生き続けてきたゆえに。
逃げたらもうここへは戻ってこれないだろう、ランファロードとネイシャの隠していた特異な容姿を、多くの人間に見られてしまった。
「言わないなら別にいいが」
男はそう言ってランファロードにずんずん近づいてきた。ふやふやどころかびえびえと泣き喚くネイシャがランファロードを見つけて両手を伸ばす。思わず腰を浮かせたランファロードの胴ががっちりと掴まれ、そのまま歩く揺れにぶらぶら揺らされながら運ばれていく。
「離せ!」
「暴れるな。殺すぞ。お前は別に必要ってわけじゃない」
お前は。ランファロードはその含みに気づいてしまった。男はランファロードが押し黙ったのを見下ろしてくすりと笑った。彼の兄によく似た、気まぐれで残虐な笑みだった。
「弟一人残して野垂れ死にしたくなければ、おれに従え」
ランファロードはその男が王の弟であることを知ったのは、連れられていった彼の居城でのこと。偉そうというか偉かった。氏や素性も怪しいランファロードやネイシャなど、本当に殺そうと思えばたやすく殺せる。身分的にも、実力としても。
しかし兄弟は生かされた。
「お前の弟はおれの子の身代わりだ。最近産まれたばかりなんでな。あの顔だからうまく化けりゃ十五年はいけるだろうが、とっくに兄上に睨まれてるから、そう長い期間必要としてるわけじゃない。で、お前はそのついでだ。おれの子の従者として仕込んでやるよ。ひとまずはな」
長く生きたければ価値を示せと酷薄な紫の瞳が嗤う。
「……長い期間じゃ、ない?」
「兄上が巷でなんて呼ばれてるか知ってるか?『虐殺王』だよ。親兄弟山ほど殺してきて、まだ生きてるおれだって例外じゃない。殺されないためには先に殺すしかない」
それはランファロードの知らない哲学だった。人を殺める力を持たず、守るべき弟をたった一人で抱えるしかなかったこれまででは。逃げて躱して、掘っ立て小屋の片隅に戻って母の帰りを待つ。それがこれまでのランファロードの人生だった。
だがもう母はいない。ずぶ濡れだったネイシャは今、見たこともないほど高級そうな暖かい部屋で、高級そうな毛布にくるまって、柔らかい長椅子に横になってランファロードの膝に頭を預けて眠っている。身代わりだというなら、ささやかな程度では収まらない悪意に、この小さな弟が晒されるということだった。
この男に捕まってしまった以上、もはやこれまでのようにはネイシャを守ることはできない。
無垢な心に一つ、掟が刻まれた。
殺される前に殺せ。
「……それでネイシャを守れるのなら」
「お前の立ち回り次第だ」
男は機嫌がよさそうに笑った。
ランファロードの運命が、音を立てて動きはじめた。
みぞれ混じりの雪が全身を殴りつけてくる。
ランファロードは絡みつく風の手を掻い潜って、追っ手をまた一人、斬り倒した。
赤が舞う。その血が自分のものか敵のものかもわからないほど、ランファロードは傷だらけだった。よろりと振り返れば、早くも雪に埋もれゆく死体と、にじみ浮かぶ血の花。もう全員倒してしまったようだ。これで次が来るまでまだ先に行ける。……どこまで?
猛吹雪のせいだけでなく、ランファロードの視界は霞んでいた。風の鳴き声が耳を塞ぐ。かじかんだ手指から剣が滑り落ちた。音もなく雪に落ち、ランファロードの体もまた、沈み込むようにその場に倒れ伏した。早く起きろ、行かなくてはと心が急かし、頭が別に充分離れたからもういいだろうと言う。実際、起き上がろうにも、手足がぴくりとも動かなかった。荒い呼吸で鼻先の雪が融けるのをぼんやりと見つめた。
三年。ランファロードが得られたのは三年という短すぎる安寧だった。
主となった王弟ヴィタレスは思考も行動も鬼畜で、子どもであるランファロードに容赦はなかったが、経緯を知るその妻や子の乳母は、ネイシャ共々良くしてくれた。文字を学び、作法を身につけ、書を読み、剣を振って。「どれだけ身についたか試験だ」と王弟にいじめられ、その妻に仲裁してもらい、乳母に傷の手当てをしてもらう。
ネイシャは健康に、純真に育った。身代わりのために王弟の子と同じ待遇を受けている。一歳の歳の差と、そっくり似ている色彩のせいで、ランファロードよりも二人の方が血の繋がりがあるように見えた。ランファロードはそれに満足していた。河原街での暮らしからは到底考えられない、裕福な生活だった。
もちろんそれをただ甘受するだけのつもりはなかった。「案外お前も掘り出しもんだったな」と王弟に評されるほど、ランファロードは多方面に才能の手を伸ばし、着実にものにした。突然の拾い物に感心しない顔をしていた臣下たちから排除されかけたこともあったが自力で切り抜けた。いずれ、好意的な人間から「将来が楽しみです」と称賛されるようになり、ランファロードは王弟とその周辺に受け入れられるようになっていた。
その「将来」は、もう来ない。
蜂起した王弟一派はたやすく蹴散らされ、王弟は戦場で討ち死に、妻は居城に自ら火を付けた。降伏しないという宣言とともに。
叛逆者は一族郎党血祭り、残虐王に命乞いをすればしただけ首を落とされるのだから、王弟に与した者たちには自殺するか殺されるかの違いしかない。
その渦中、乳母は王弟の子、ランファロードは弟を抱え、別方面に逃亡した。二度と再会することはないだろうとわかっていた。そもそも、逃げ切れるわけがない。
――特にネイシャは、逃げ切ってはいけない。
そのために拾い上げられた駒。生贄。
しかしランファロードはそれに従うだけの従順さは持ち得ていなかった。王弟もそれを肯定した上でランファロードを生かし、智と剣を与えた。だいたい身代わりにしても平時のものかと思うような口振りをしておきながら、あの王弟、あっさり死んでくれやがった。
ランファロードは追っ手を多く引きつけるように動いた。乳母は捕まれば抗うすべがないが、ランファロードは剣を持っている。既に後世に戴く最強の武人の誉れにふさわしく、その片鱗を見せていたランファロードなら、追っ手の数を減らせる。山ほどの死体を積み上げられる。
ある程度倒して追っ手が途絶えたところで、とっくに疲労と緊張とで弱りきっていたネイシャを隠して置いてきた。代わりにお包みのように布を腕に抱えて、ランファロードは一人、血塗られた道を進む。それこそが弟の生き延びる唯一の方法であり……ランファロードは、はじめから、自分が生きることは前提にしていなかった。
王弟の子の存在そのものが伏せられており、容姿も曖昧で、それそのものにかかる刺客などほぼいない。それに、捨て子ならば戦乱に巻き込まれればいくつも生まれてゆくものだ。
(ネイシャ)
母のことをもはや覚えていない弟。いつかランファロードのことも忘れてゆくだろう。それでも生きていってくれるならば、ランファロードにはそれで充分だった。
雪が融けて顔が濡れ、その端から凍りついていく。「もういいだろう」が勝って、ランファロードは震えるようにまぶたを下ろした。
直前、鈍色の世界に、きらりと差し込む金の光を見た気がした。
……雪を踏む足音が鳴った。
川の側にずらっと掘っ立て小屋が軒を連ねているから、河原街。よく雨で家も人も流される。虫も湧くしほぼ毎日悪臭が漂っているが、様々な理由でまともな家に暮らせず、「普通」から弾き出され河原街の住人になった人々にはどうということもない。
河原街の住人はぎりぎりの生存本能以外は怠惰なほど億劫がって退廃しまくっているが、すぐそばの街は狂気と混沌が支配していて、小競り合いは日常茶飯事、川にはよく死体が流された。昼も夜も関係なく大騒ぎ。掏摸に失敗した幼い子どもはその場で殴殺され、通り魔が陽気に歌いながら赤い刃物をちらつかせたかと思えば、娼婦に背中から刺し殺される。街の顔を張る男たちは酒をかっ喰らって毒の混じった血を吐いた。
歓喜も恐怖も怒りも悲しみも、あらゆる感情が殺意に直結する街だった。
ランファロードとネイシャを産んだ娼婦は、この界隈にしては、ものすごくまともな部類だった。河原街に子どもを隠して、混沌たる街で日銭を稼いで、こっそりこつこつ金を貯めていた。幼い頃から際立った容貌の我が子を稼ぎに使う親など珍しくもないというのに、娼婦は、ランファロードの肌を土で汚させ、ネイシャの輝くような金髪も同じく扱って、「かあさんのかえりを待ってて」と、拙い言葉遣いで言いおいて、仕事へ出かけていく。ランファロードとネイシャの顔立ちはそんな娼婦譲りだった。つまりそれほどに整った容姿をしていた娼婦は、街で娼館に雇われずとも常にそれなりの客がついていて、稼ぎも上々だった。
だから、多分、色々あったのだと思う。
いつも仕事に出かけたら次の日の日暮れに帰ってくる母が予定通りに帰ってこず、さらにその次の日の朝に、うつ伏せになって川にぷかりぷかりと浮かんで流されていくのを、ランファロードは見つけた。ざんばらの黒髪と、服を全てひん剥かれ、痣だらけの白い肌を見ただけでなぜか母だとわかったから、一歳のネイシャを蔦で自分の背中に括り付けて、川に入って死体を掴まえた。
仰向けた母の顔はぐちゃぐちゃに焼かれていて、水にぼろぼろと溶けていた。河原街に漂う腐臭を微笑み一つで清めるような美しい顔立ちの、見る影もない。手足はどこもかしこも暴行の痕が残り、舌が切り取られていた。ランファロードは川岸に寄って、死体の両頬に手を当ててじっくりと顔を見た。肌に張り付く黒い髪をちょいちょいと脇にどかして、いつもそうされたように頭を撫でた。
背中で起きたネイシャがふやふやと泣きはじめた。腹が空いたからだろうが、寝ているよりはましだと思って、ランファロードは両耳の辺りの髪もどけて、聞こえるようにしてやった。もう声も感触も届かない場所にいるのだとわかってはいたが、万が一、届いたときのことを考えて。「おやすみ」とランファロードも自分の声を聞かせた。
しばらくネイシャを泣かせるだけ泣かして、ランファロードはまた川の中程まで死体を連れていって、手を離した。川の一部分だけやたらと流れが速く、仰向いた死体が波に乗ってどんどんと流されてゆく。しばらくそのまま見送っていると、とぷりと死体が沈んで見えなくなった。
ランファロードは岸へ上がって、ネイシャに朝食を用意することにした。その後は混沌たる街から隠し財産を回収してこなければ。
娼婦は以前、己が死んだときのことを息子に言い含めていた。ランファロードは、そのときのたどたどしい声を思い出して川を振り返った。
今日は朝からすっきりと晴れていて、乾いた強い風が腐臭を払っていく。青い空に昇った朝日が川面をきらきらと輝かせていた。その川床に死体がごろごろ転がっていることなんて忘れてしまいそうなほど、きれいな景色をしていた。
「にぃー!」
ぼうっとしている間に、背中に括り付けた弟が、泣くばかりじゃなくとうとう暴れ出した。空腹にも我慢の限界というものがあったらしい。と思ったら、ぶちんと蔦が切れて、重みが消えた。
はっと振り返った視界の端をよぎる、小さな小さな体。
水しぶきを上げて川に落ちたネイシャを、ランファロードは慌てて追った。ネイシャは水の中でびっくりしてばたばた暴れているうちに川岸を離れ、流れにさらわれていった。死体を運ぶ川を母は流れていったが、弟はまだ生きている。ランファロードは急流へ飛び込み、ぐるぐる回って押し流されるネイシャへ手を伸ばした。
「人が珍しく感動に浸った余韻が一瞬でパァだぞお前ら」
不意に水から引き揚げられた。勢いのまま宙を飛び、水深の浅い川岸にべちゃりと落ちる。反射で咳き込むランファロードのそばまでじゃぶじゃぶと水をかき分ける足音が寄ってきた。
「おい、吐け」
霞む視界を払って見上げれば、フードの付いた上等な外套から濡れた赤髪に水滴をこぼす男が、ネイシャの両足を掴んで逆さ吊りにしていた。ネイシャがげぼりと水の塊を吐き出すと、腕に抱き直して背中を叩いて次々吐かせる。次第にネイシャの嗚咽に本格的な泣き声が混じりはじめて、やっとランファロードは放心から立ち直った。
男は洗われたネイシャの金髪をまじまじと見つめていた。
「……こいつでちょうどいいな。おい、こいつ産まれてからどのくらいだ?」
ランファロードにちらりと視線を向けて尋ねて、その目がちょっと丸くなる。
「お前ら、その容姿でここにいたのか?」
そういう男こそ整った顔立ちに艶のある肌をしている。この周辺の人間ではないことは間違いなかった。そして金持ちだ。
ランファロードは腰を低くして男を睨みつけた。どうにか隙を見てネイシャを取り返して逃げなければ。周囲から視線だけがちらちらと集まっているのを背中に感じる。河原街の人間は自分から野次馬になりにいくことはないが、周囲の違和感からは絶対に目を逸らさない。色んなとばっちりを受けてなおここで生き続けてきたゆえに。
逃げたらもうここへは戻ってこれないだろう、ランファロードとネイシャの隠していた特異な容姿を、多くの人間に見られてしまった。
「言わないなら別にいいが」
男はそう言ってランファロードにずんずん近づいてきた。ふやふやどころかびえびえと泣き喚くネイシャがランファロードを見つけて両手を伸ばす。思わず腰を浮かせたランファロードの胴ががっちりと掴まれ、そのまま歩く揺れにぶらぶら揺らされながら運ばれていく。
「離せ!」
「暴れるな。殺すぞ。お前は別に必要ってわけじゃない」
お前は。ランファロードはその含みに気づいてしまった。男はランファロードが押し黙ったのを見下ろしてくすりと笑った。彼の兄によく似た、気まぐれで残虐な笑みだった。
「弟一人残して野垂れ死にしたくなければ、おれに従え」
ランファロードはその男が王の弟であることを知ったのは、連れられていった彼の居城でのこと。偉そうというか偉かった。氏や素性も怪しいランファロードやネイシャなど、本当に殺そうと思えばたやすく殺せる。身分的にも、実力としても。
しかし兄弟は生かされた。
「お前の弟はおれの子の身代わりだ。最近産まれたばかりなんでな。あの顔だからうまく化けりゃ十五年はいけるだろうが、とっくに兄上に睨まれてるから、そう長い期間必要としてるわけじゃない。で、お前はそのついでだ。おれの子の従者として仕込んでやるよ。ひとまずはな」
長く生きたければ価値を示せと酷薄な紫の瞳が嗤う。
「……長い期間じゃ、ない?」
「兄上が巷でなんて呼ばれてるか知ってるか?『虐殺王』だよ。親兄弟山ほど殺してきて、まだ生きてるおれだって例外じゃない。殺されないためには先に殺すしかない」
それはランファロードの知らない哲学だった。人を殺める力を持たず、守るべき弟をたった一人で抱えるしかなかったこれまででは。逃げて躱して、掘っ立て小屋の片隅に戻って母の帰りを待つ。それがこれまでのランファロードの人生だった。
だがもう母はいない。ずぶ濡れだったネイシャは今、見たこともないほど高級そうな暖かい部屋で、高級そうな毛布にくるまって、柔らかい長椅子に横になってランファロードの膝に頭を預けて眠っている。身代わりだというなら、ささやかな程度では収まらない悪意に、この小さな弟が晒されるということだった。
この男に捕まってしまった以上、もはやこれまでのようにはネイシャを守ることはできない。
無垢な心に一つ、掟が刻まれた。
殺される前に殺せ。
「……それでネイシャを守れるのなら」
「お前の立ち回り次第だ」
男は機嫌がよさそうに笑った。
ランファロードの運命が、音を立てて動きはじめた。
みぞれ混じりの雪が全身を殴りつけてくる。
ランファロードは絡みつく風の手を掻い潜って、追っ手をまた一人、斬り倒した。
赤が舞う。その血が自分のものか敵のものかもわからないほど、ランファロードは傷だらけだった。よろりと振り返れば、早くも雪に埋もれゆく死体と、にじみ浮かぶ血の花。もう全員倒してしまったようだ。これで次が来るまでまだ先に行ける。……どこまで?
猛吹雪のせいだけでなく、ランファロードの視界は霞んでいた。風の鳴き声が耳を塞ぐ。かじかんだ手指から剣が滑り落ちた。音もなく雪に落ち、ランファロードの体もまた、沈み込むようにその場に倒れ伏した。早く起きろ、行かなくてはと心が急かし、頭が別に充分離れたからもういいだろうと言う。実際、起き上がろうにも、手足がぴくりとも動かなかった。荒い呼吸で鼻先の雪が融けるのをぼんやりと見つめた。
三年。ランファロードが得られたのは三年という短すぎる安寧だった。
主となった王弟ヴィタレスは思考も行動も鬼畜で、子どもであるランファロードに容赦はなかったが、経緯を知るその妻や子の乳母は、ネイシャ共々良くしてくれた。文字を学び、作法を身につけ、書を読み、剣を振って。「どれだけ身についたか試験だ」と王弟にいじめられ、その妻に仲裁してもらい、乳母に傷の手当てをしてもらう。
ネイシャは健康に、純真に育った。身代わりのために王弟の子と同じ待遇を受けている。一歳の歳の差と、そっくり似ている色彩のせいで、ランファロードよりも二人の方が血の繋がりがあるように見えた。ランファロードはそれに満足していた。河原街での暮らしからは到底考えられない、裕福な生活だった。
もちろんそれをただ甘受するだけのつもりはなかった。「案外お前も掘り出しもんだったな」と王弟に評されるほど、ランファロードは多方面に才能の手を伸ばし、着実にものにした。突然の拾い物に感心しない顔をしていた臣下たちから排除されかけたこともあったが自力で切り抜けた。いずれ、好意的な人間から「将来が楽しみです」と称賛されるようになり、ランファロードは王弟とその周辺に受け入れられるようになっていた。
その「将来」は、もう来ない。
蜂起した王弟一派はたやすく蹴散らされ、王弟は戦場で討ち死に、妻は居城に自ら火を付けた。降伏しないという宣言とともに。
叛逆者は一族郎党血祭り、残虐王に命乞いをすればしただけ首を落とされるのだから、王弟に与した者たちには自殺するか殺されるかの違いしかない。
その渦中、乳母は王弟の子、ランファロードは弟を抱え、別方面に逃亡した。二度と再会することはないだろうとわかっていた。そもそも、逃げ切れるわけがない。
――特にネイシャは、逃げ切ってはいけない。
そのために拾い上げられた駒。生贄。
しかしランファロードはそれに従うだけの従順さは持ち得ていなかった。王弟もそれを肯定した上でランファロードを生かし、智と剣を与えた。だいたい身代わりにしても平時のものかと思うような口振りをしておきながら、あの王弟、あっさり死んでくれやがった。
ランファロードは追っ手を多く引きつけるように動いた。乳母は捕まれば抗うすべがないが、ランファロードは剣を持っている。既に後世に戴く最強の武人の誉れにふさわしく、その片鱗を見せていたランファロードなら、追っ手の数を減らせる。山ほどの死体を積み上げられる。
ある程度倒して追っ手が途絶えたところで、とっくに疲労と緊張とで弱りきっていたネイシャを隠して置いてきた。代わりにお包みのように布を腕に抱えて、ランファロードは一人、血塗られた道を進む。それこそが弟の生き延びる唯一の方法であり……ランファロードは、はじめから、自分が生きることは前提にしていなかった。
王弟の子の存在そのものが伏せられており、容姿も曖昧で、それそのものにかかる刺客などほぼいない。それに、捨て子ならば戦乱に巻き込まれればいくつも生まれてゆくものだ。
(ネイシャ)
母のことをもはや覚えていない弟。いつかランファロードのことも忘れてゆくだろう。それでも生きていってくれるならば、ランファロードにはそれで充分だった。
雪が融けて顔が濡れ、その端から凍りついていく。「もういいだろう」が勝って、ランファロードは震えるようにまぶたを下ろした。
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アゼット様。まだ間に合います。
今なら、引き返せますよ?
※現在体調の影響により、感想欄を一時的に閉じさせていただいております。
復讐のための五つの方法
炭田おと
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