少年の行く先は

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第一部

閑話:染まらぬ蒼碧⑥

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 城の北面に位置する飛燕宮の端に、庭園に囲まれた大きな池がある。夏でも涼しいが早朝などは靄で視界が悪いことも多い。今もまた。
 池のふちに柵などはないので、おぼつかない視界で誤って足を滑らせでもしたら大変だ。しかしその一角で、今しもぱちり、ぱちりと花を剪る音がしていた。ランファロードは日頃の記憶と感覚でその方向へ迷わず進んだ。時々話し声がするので、目当ての人物は一人きりではなさそうだ。近衛の少女が側についていると思われる。
 今回は唐突に抜け出したわけではなく、毎年一度の恒例行事なのだ。いつもは手厳しい侍女長も、護衛が側につくならばと夜明けからの行動を黙認している。
「姫さま」
 近衛の警戒網に触れた瞬間に声をかけると、返事は早かった。
「ランファか?」
 火を閉じ込めた小さな角灯が白い靄を突き抜けて光りながら揺れた。人影がもぞりと振り返り、すたすたと歩み寄ってくる。その側に慌てて付き従う影も。ランファロードが慣れているなら、そうさせたミアーシャもこの庭園の道には慣れきっている。近衛就任一年目のリンダよりも遥かに。
「おはようございます」
「おはよう、ランファ。仕事があると聞いてたが、どうした?」
「手が離せない仕事は片付けてきたので、お供に馳せ参じました」
「そうか。……リンダ、後はランファに任せるから、お前は休んでくれ。こんな時間に付き合わせてすまなかったな」
 ランファロードが角灯を持つリンダに向き合えば、リンダは渋る素振りを見せた。しかし、いつもなら鷹揚なミアーシャが少し厳しい声で「リンダ」と名を呼べば、ランファロードに角灯を差し出し、一礼して去っていく。後ろ姿が靄に掻き消えた頃に、ミアーシャはぽつりと言った。
「……強く言い過ぎたかな」
「彼女も敏いでしょう、姫さまのお気持ちは多少察していますよ」
「……正直、どこまでリンダを付き合わせようか考えてたんだ。外で待たせようとしても、あいつ、真面目だから拒否してきそうだし。お前が来てくれて助かった」
「何よりです」
 ランファロードは主の腕から切り花の束を奪い取った。ミアーシャは片手にミアーシャ専用の瀟洒な剪定鋏を持っている。花を選び剪る作業に戻った背中を、ゆっくりとランファロードは追った。
 腕に余りある花の束を、リンダには任せなかったが、ランファロードには任せる。
 歳を経るごとにミアーシャは己の立場を理解していき、同時にどうしようもない鬱屈を抱えるようになった。名ばかりの姫、城の厄介者。ランファロードやセレノクール姉弟、数少ない良心的な大人たちはそう嘯く輩を徹底して遠ざけてきたが、賢いミアーシャ自身が気づいて追い込んでいくのには、有効な手立てを取れないままだった。
 ミアーシャは全てを飲み込んで、異母兄の能天気な笑い方まで真似して、いつもなんでもない風に笑う。ランファロードたちが作り笑いだと察しているのもわかっているのにだ。
 本人も知らぬ間についた傷は膿み、毒はいつか溜まりきる。
 つい最近、ナジカやその家族と出会ってからやっと、多少は紛れるようになったが、紛れるだけで消えることはない。消せないものだった。

「夜の間、なにかあったのか?煙が見えたし、なんだか地響きっぽい音もしていたが」
「寝付けなかったのですか」
「ふっと起きたんだ、寝るのは寝た。それで?城の中じゃなくて外だな。火事にしては妙だ」
「火付け強盗紛いが出ました。あらかじめ情報を掴んでいたので焼失は一軒だけで済みました。犯人は捕まっています」
「ティリベルだけじゃなく、ダールもハルジアも動いたような『情報』か」
 振り返ることなく歩みも止めないミアーシャのつむじを、ランファロードは数秒見下ろした。
「……なぜ?」
「リンダがそれっぽいことを言った。手は尽くしてるから心配するなって。でもやけに大掛かりだな。この間のヘーゼルのやつ関連か?」
 ランファロードは今度こそ完全に沈黙した。
 ミアーシャは自身を無価値だと思っている――信じているとも言っていいほど思い込んでいるが、勘は鋭いし、着眼点も目を瞠る。
 そういえば先日、侍女長のライナ経由で、王妃がミアーシャに学び舎を薦めようと考えていると聞いた。十五歳では他より遅く、本来なら数年前にはあってしかるべき提案だったが、シュランツガルドの即位によってやっと変化を求められると見たのだろう。
 しかし、ミアーシャ本人がひどく遠回しな提案を一蹴したとも聞いた。学んだってどうしろというのだと、あの笑顔で即答したと。
「ナジカは大丈夫かな……」
 今もランファロードの沈黙に気づいているのに、気づかないふりをして、花の茎に手を添えて鋏を当てている。
 ミアーシャには友を案じはしても、友のために振るう権力も能力もない。はじめから諦めきっているから、焦りももどかしさもない空っぽな独り言しかこぼれない。
 あぶくのように浮き上がる感情を断っていくように、花をぱちりと剪りとった。そうして雑に投げたそれを、ランファロードは受け取って花束の上に重ねた。
 ミアーシャがまたそぞろ歩き、ランファロードは無言で続く。
 庭園をぐるりと回って、ランファロードが合流してから二周は数えたが、途中から花束のかさは増えていない。ミアーシャがためらい、物思いに耽る時間に、ランファロードは文句も言わず付き合った。

『ランファ、明日、奥の宮までついてきてくれないか……?』
 そうミアーシャに控えめに頼まれたのは、もう五年以上も前のことになる。この年、ミアーシャを孫のように可愛がった老庭師から遺品として贈られた花剪り鋏が、使い道を与えられた。

 成長していくミアーシャは、ネイシャのようにわかりやすくは歪まなかった。しかし、強い気質と食い違うように病弱な体や、優秀であるはずなのに出してもいない杭を砂に埋め込むように押し込まれる環境のせいで、振り子のように精神が揺らされている。普段はそこまで激しくぶれずとも、なにかの拍子に振り切れてしまう懸念は捨てきれなかった。
 特に「この日」は、毎年なにかが起こりそうで、ランファロードはどうにかしてでも暇を空けてミアーシャの側に侍ることにしている。

 飛燕宮の大きな建物とは別の棟で、池の隅、野趣あふれる庭木にうずもれる、開かずの宮よりも狭く小さな奥の宮。
 檻のない牢獄も同然のそこに、今はミアーシャの生みの母が繋がれている。
 年に一度、実の娘の飾る花にすら気づかず、止まった時に身を浸らせ、聞かせる者のない子守唄を口ずさみながら、夢の世界を微睡んでいる。





 陽が城壁の上まで昇り、靄が晴れていく。池の水面でぱしゃりと音がした。鯉もお目覚めの時間のようだ。
 しかしミアーシャが視線を向けたのは、波紋を打つ水面とは真逆の方向だった。
 勢いよく振り向いたため、うなじで結んだだけの長髪がぶわりとしなってランファロードの腕を掠めた。ランファロードはその表情を見て静かに周辺の気配を探った。
 ミアーシャが耳元を擦りながら囁くように尋ねた。
「……ランファ、今、なにか……。……呼んだか?」
「私は、なにも。名前を?」
「いや、なんだろう……わからない。だけど……今、も……?」
 ざわりと庭園の木々が鳴いた。
 水面にさざ波が立ち、朝を囀る鳥の音がわずかに途切れる。
 その一瞬、確かにランファロードも違和感を感じた。辿ろうとした時には余韻すら途絶えて、変わらぬ「朝」の気配がまた満ちる。警戒を緩めぬランファロードの傍らを、ミアーシャがふらりと踏み出した。まるでなにかにいざなわれるように。
 ランファロードの全身が粟立った。
「姫さま!」
 一喝とともに腕を掴んで引き寄せた。角灯の持ち手がかしゃんと音を鳴らし、明かりが振り子のように揺れる。よろめき、たたらを踏んで、ランファロードの懐にぽすりと後頭部を預けたミアーシャは、ぽかんとしてランファロードを見上げた。持っていた花が数本、こぼれてはらりと足元に散っていった。
 ……直前までの、奇妙なほど感情をなくした紫の瞳に、ランファロードの顔が映り込んでいる。夢から覚めるようにゆっくりと瞬くにつれ、表情が取り戻されていく。
「どうした、ランファ?」
 間抜けなほどいつもと同じ声に、ランファロードは慎重に息を吐いた。指を一本ずつ、丁寧に細い腕から離してゆく。視線でゆっくりと頬をなぞりながら、恐る恐る口を開いた。
「……そろそろ、花が萎れますよ」
「……ああ、そうだった。じゃあ、行くか」
 まるでつい先ほど自分が味わった違和感を全部忘れてしまったように、ミアーシャは物憂げに瞳を淀ませてくるりと身を翻して歩き始めた。
 そこには、感情の切り替えではなく、欠落があった。
 ベールを巻いたように優美に色づく花弁が、くしゃりと躊躇なくミアーシャの靴に踏み潰された。無惨な残骸は低く居座る靄に隠れていく。
 ランファロードは信じられないような気持ちでその一瞬を見た。
 どっどっどっ、と今さら心臓が激しく鼓動を鳴らした。冷や汗がつうっと首筋を流れ落ちていくが、両手が塞がっているので拭えない。
 踏みしだかれた花弁にも気づかず、ミアーシャは歩きながら鋏を腰元につけていた革の袋にしまっている。ランファロードは若干遅れて付き従った。ミアーシャが踏んだ花を避けて歩きながら。

















「ランファ、ミアが熱を出したって聞いたぞ」
 夕方、ミアーシャの寝室の隣部屋にばたばたと忙しなく駆けつけて来たのは国王になったシュランツガルドだ。相変わらずの身軽さで、後ろから若い神祇官が息を切らしながらついてきていた。それ以外に付き人がいないのは、なんの偶然か今朝方訪れてきたサレンディアの使者を見送った場で連絡を聞きつけ、そのままやって来たからだろう。
 ランファロードもつい先ほど、また仕事に行って戻ってきたばかりだ。それよりも前にやって来てミアーシャの診察まで済ませていたクヴァルに視線をやれば、老爺は一抱えもある薬箱を開いて何種類か中身の入った小瓶を取り出しつつ頷いた。
「いつものお熱よりも症状がお悪いですが、酷すぎるほどではござりません。よくお休みになられれば大事にはならないでしょう」
 なぜ仮にも一機関の長官が御典医まがいの仕事をしているのかとは今さら誰も突っ込まない。クヴァルはミアーシャの主治医を自称してわかりやすく肩を持っている、今は亡き庭師に続く二番目の「じいや」だ。王位継承権がなく政局に影響が及ばないので誰もが見て見ぬふりをしている。
 息を整えた若い部下がクヴァルの傍で仕事を手伝いはじめ、シュランツガルドはそわそわと寝室を見つめている。ランファロードは今しもそこへ突撃しそうな国王の肩を掴んだ。
「姫さまは今、お召し替えをされています。いずれにせよお眠りだそうです。落ち着いてください」
「今朝は二の母上のところに行ったんだろう?その時様子はどうだった」
 ランファロードは誰にも気づかれないほどごくわずか、言葉を探した。
「……なにも、特に目立った異変はありませんでした」
 後から開かずの宮が開いたと聞いて、あの瞬間のミアーシャの様子になにか符丁のようなものを感じたが、妙に触れがたかった。その後はいつも通りだ。例年のように母の元を尋ね、召使いに任せず己で花を飾り、母が自分ではない子へ歌う子守唄に耳を傾け、一度たりとも振り返らない痩せた容貌を眺めて一時間もせずに飛燕宮へと戻っていった。
 ランファロードは部屋まで送った後は仕事に向かったのだが、これも毎年のごとく、異母姉を気遣うリエラ姫がミアーシャの部屋で待ち構えていて、姉妹で同じ時間を過ごして、昼食まで共にしたという。

 季節の変わり目、風の向き、なんなら天気によってもミアーシャは簡単に体調を崩していた。元気なときは元気だからナジカなどは病弱なのは本当かと疑ったりしていたが、これでも近年は寝込む日数も回数も減ってきた方なのだ。シュランツガルドも平素ならここまで慌てることはなかっただろうが、今日という日に落ち着かないのは理解できた。
 静かに扉が開く音とともに、女官長ライナが「お静かに」と厳しめの声とともに顔を出した。シュランツガルドが早速踏み込もうとしたらぎりぎりまで扉を閉めて牽制している。
「おい、ライナ。なにしてる。着替えは終わったんだろ?」
「セフィアどの、陛下を落ち着かせてください」
「姫さまのお顔をご確認しないと無理でしょうね」
 ライナの顔に使えないとはっきり書かれているので苦笑した。一応シュランツガルドの腕を掴んでみせればため息とともにまた扉が開かれる。先に布を抱えた侍女たちが出ていってから、シュランツガルドとランファロードはミアーシャの寝台へ歩み寄った。
 窓は閉じられカーテンが広がっていたが、その向こうではざあざあと激しく雨が降っているようだった。風もあるのか窓にぱたぱたとひっきりなしに当たっていく音がしている。
 シュランツガルドがミアーシャの赤い頬から首筋まで手の甲を滑らせた。清拭したばかりだがもう汗が浮いていて、呼気も荒い。ほんのりと薄荷の香りが漂っている分まだ呼吸は楽な方なのだろう。
 いつものことだと言えば語弊があるが、ミアーシャの容態は見たところ、かなり悪いというわけではなさそうだった。数ヶ月前の数日間、蒼白を通り越した土気色の顔で前後不覚になった時よりはよほどましだ。
 シュランツガルドがとてもわかりやすくほっと息を吐き、よかった、と声を出さずに呟いた。ランファロードもミアーシャの様子を見て目元を柔らかくした。
 振り返れば扉付近にライナが陣取っている。一言でも発せば強制退場の眼差しである。多分後から暇を見つけて、後回しにしていた勉強を終えたリエラや、ヘーゼルの残党狩りのさらに先を見据えて思案しているエレノアも見舞いにやって来るだろうが、女官長はこれまで通りにミアーシャの安静を守ってくれるだろう。
 シュランツガルドの腕を引けば、すっかり寝入っている異母妹を一瞥してまたなと口を動かした後、あっさりと踵を返した。
 昔のなにも役目もない王子時代ならダラダラ居座っただろうが、今は国王である。ランファロードもティリベルの仕事の隙間を縫って見舞いに来ているので、この後また戻らなくてはならない。
 だがこの際好都合だ。
 ミアーシャが寝込んで動けないうちにヘーゼル関係の処理を全て終わらせる。そうすればカイトの元に保護されているナジカも制限を解かれ、外出できるようになるだろう。リエラ姫にも先に話を通しておくことにする。
 快復したらすぐにお忍びに出られるよう予定を立てておこう。

 そこにシュランツガルドやエレノアまで加わったら絶対面倒くさいので、ランファロードは無表情の下で、ちゃっかりミアーシャの快気祝いからフットワーク極軽な国王夫妻の存在を省くことを決めていた。
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