烏の鎮魂歌

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第一章 月の記憶

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 その定期市は、いつも月の終わりに開かれる。一番客が多くなるのは朝のひと仕事を終えた昼頃で、寒い冬場でも町の広場は祭りのごとく人でごった返し、商人たちと客の値切り対決の幕が上がると喧騒はさらに盛り上がる。
 ロアは国有数の穀倉地帯というだけあって農作物が非常に豊かだ。しかも標高が高いところならいざ知らず、領地を縦断する大河周辺は冬場でも作物が栽培できる。ガルドが言うには、遥か昔は広大な湿地帯だったらしい。そこに手を入れ、水を抜き、人が住み……。飢饉や水害もあったが、国の食料庫としてそれにまさる繁栄を成し遂げた土地だった。しかしそれゆえに他の産業はなかなか発展しなかった。知識も意欲も商売より農業に傾き、それに付随するように桑などを作る鍛冶職や農業の効率化を目指す工具が発展したが、原料となる鉄などは西や北の他領に頼っている。
 それとは別に、装飾品などの嗜好品も、簡単に手が届くわけではない。衣服などは領内でまかなえるが、広大な農地を一人ひとりが持つロアでは生産など限られた人しかできない。
 それらを領内に流通させるのにうってつけなのが、この定期市だった。他領や領内の商隊や単独商には儲けるのに絶好の機会だし、領民にしても生活が楽になるからありがたい。領の運営もそれらで手に入れた税で領内が潤うといういいとこ尽くめだ。
 そのおかげで、農民でないトルカも貧しいながら生活できている。クランの家にお世話になっている身としては誠にありがたいことだった。



 朝早くに家を出立し、えっちらおっちら歩いてそこへやって来たトルカは、町の外郭に立つ、この日のために雇われた門番に挨拶し、すぐ側の詰め所の窓口で町長から発行された商人の身分証の符を見せ、場所代として少ないお金を渡した。ついでにほぼ毎月顔を合わせるので顔なじみになった町長の息子とちょっと雑談して、広場へ向かった。
 まだ広場は閑散としていた。ちらほらとたなの準備をしている者やもう準備を終えて店番をしている商人たちを除けば、後の混雑を嫌った子ども連れの客が数組程度。トルカはちらりと広場の様子を一瞥すると、すたすたと広場を横切って、入り口からよく見える場所に向かった。定位置となっているそこに背負ってきた大きな竹籠を置くと、竹のむしろを広げた。よく使い込まれているが、暗褐色のそれはまだまだ丈夫でしなやかだ。
 商品を整然と、見た目よく――ほとんど緑や茶色と地味だが――並べ終わると、出し忘れはないかと籠の中を覗き見る。そして、予想外のものを見つけて目を丸くした。

「……おれが入れた覚えもないし、クランの仕業か……?」

 それを取り出すと、からん、と木の実の殻が素朴な音を立てた。小さな木の実を取り囲むのは複雑緻密に編まれた竹の繊維で、所々に細い切れ目が入っているので中の様子がわかる。トルカの片手にちんまりと載るくらい小さな鞠だ。クランの手なら丁度いいくらいだ。
 籠やむしろと同様、この手毬もトルカのお手製だった。クランが冬の雪のひどい一時期、室内で転がして遊んでいた。しかしなぜ入れたのか。この状況だ、売れというのだろうか。作り方も技能も持っているトルカなら遠慮なく売るが、クランはわりとものを溜め込む質で、こういったものは大切にしそうなものなのに。

(じゃあ、ふざけて入れたんだな、きっと。籠の一番下に入っていたし、一月前に入れてあいつ自身忘れてたんだろう)

 決着をつけて、ころん、と鞠をむしろの上に転がした。からんからんと音が鳴るので、無音よりは退屈しない。クランが欲しがるならまた作ってやれるが、こういったものは売れるのかどうか。とりあえず薬草の横にそれとなく並べておくことにした。欲しい人に売ってやろう。

 そうこうしているうちに徐々に広場も賑わいを持ち始め、トルカのもとにも数人の客が訪れた。売っているものが薬なだけに、体にがたがきやすい高齢者たちが不安な体調を相談をしてくる。トルカはそれに丁寧に答えつつ、いくつかの薬草と助言を渡し、小銭をもらった。ある程度さばけてくると、今度はトルカと同い年からその年下、年上と近い年齢の少女たちがお小遣いを握ってやって来る。いかにもお遣いに出されたという者もいれば、トルカの容姿を目当てに来た者、ただ単純に売り物に興味を持った者など目的は様々だが、トルカも自分の顔は最大限利用する心づもりで、とびきりの笑顔を浮かべながら金を稼いでいった。
 その辺りからはもう目まぐるしい。
 ひっきりなしに来る客に商品を渡し金をもらい、相談されては受け答えし、雑談にも引っ張り込まれ、そんな忙しさにも関わらず全てを卒なくこなした。クランが見れば唖然とするほど鮮やかな手際の良さであり、サンナなら不器用な我が娘に爪の垢を煎じて飲ませたいと呟くところである。

 いつの間に日も中点を過ぎ、トルカはようやく引いた人の波に思わず安堵の声を漏らした。額に汗を浮かべているが、拭わずに春風にさらし、心地よく目を細める。座り続けていたので腰も限界だ。
 春先というのもあって体調を崩しやすいと思って、風邪薬やそれに準じるものを多めに用意していたのだが、一気に売れてしまった。あとは傷薬や気付けの薬、ここらでは採集できない薬草各種も残り少なく、トルカにとってまずまずの戦績だ。気のいい町医者も、トルカの採集する薬草は保存状態がいいと贔屓にしてくれるので、大量に買ってくれたのだ。

 年齢が成人前とまだ若く、それでいて一人で商っているので、トルカは商人や客人にも未熟と侮られやすいが、実績と頭の回転の速さでその認識を覆してきた。その成果が最近とみに現れているので、仕事はやりやすくなった方だ。一部からは感心され、何かと手助けしてくれる人も増えた。トルカがそれで生計を立てているのをどう誤解したのかは知らないが、本人にはありがたいことだった。一年前に訪れた新参者を快く迎えてくれるこの町が、トルカは居心地が悪いなど思えるはずもない。
 しかし、それはこの辺りが豊かな土地だというのが一番の原因だ、とありがたく思いながらも冷めた思考をしてしまうのがトルカだった。
 実際この辺りは二期作が盛んで、豊作の恩恵を受けて余裕があるからこそ、余所者を排除するほどの関心を持たないだけなのだ。よく言えば寛容、悪く言えば無関心、というのがトルカがこの一年商ってきて断言できる待遇である。
 町医者も自分の仕事が奪われないという状況が確保できているからこそトルカを邪険に扱わないだけであり、ご機嫌伺いのようにトルカのものを買っていくだけなのだ。
 実に打算にまみれた社会だ、と小さく嘆息した。十二歳になって人里に降りてくるようになったクランにはあまり見せたい光景じゃあない。クランが打算で生きていたら、トルカは今ここで生きてはいなかった。だから、深い深い森の奥で助けてくれたクランを心から大切に思うし、ご都合主義の町人にはいくらよくされようと信頼することは絶対にない。

(……こうして考えるとずいぶんひねくれているというか、おれも打算にまみれてるな)

 そう思うも、仕方ない。クランに助けられる前から既にひねくれていたのだ。その角度がひどくなったところで修復は不可能。最後の良心はクランにとっておこうではないか。

 いくつか売れ残ったが、トルカは早々に店仕舞することにした。トルカも薬売りで生計を立てる中で買う必要のあるものもそれなりにあるので、
絶好の機会を逃すことはない。籠に商品だったものを丁寧に素早く戻していく中、からん、と聞き覚えのある音に目を上げ、目の前でそれをもてあそぶ人物を見つけて絶句した。

「やあ、久しぶり。繁盛したかい?」

 低めの声にトルカより頭ひとつ分背の高い、顔の整った若い男が、トルカを見下ろして微笑んでいた。







「これ、なんて道具?君の仕事関係のものじゃないでしょ。売りもの?」

 大人になりかけの体格と風貌、柔らかな声にトルカははっと我に返った。しばらく見ないうちに髪が伸びていたが、それだけだ。他は何も変わってない。

「ルー!お前なんで来てるんだ!」

 慌てて立ち上がり手毬を取り上げる。すっかり忘れていたが、そういえば売れ残っていた。というか客の誰もが商品として認識していなかった気がする。置物とか。
 トルカの大声に、その少年はわざとらしく傷ついたように苦笑した。

「ひどい言い草だなあ。三ヶ月ぶりに会ったっていうのに。感動の抱擁とかないの?」
「あるわけあるか。野郎と抱き合って何が楽しい」

 冷ややかな対応に、ルーと呼ばれた少年は笑みをからかうようなものに改めた。それだけで身にまとう雰囲気が変わるが、トルカにとってはさっきの笑みの方が気持ち悪いと思うのだった。こいつの性格からして、徹底的に似合わないのが繊細な微笑みだ。

「同感だけど、正直だねえ。相変わらず君のお姫さまに一途なのかな?」

 ほらな、と内心呟きながら、トルカは苦々しくため息をついた。ずばりと人の内面に切り込んでいくこの性格が、繊細なわけがあるものか。

「お前もだろ。今日も自慢に来たのか」
「いいや。それもあるけど。仕事関係で、この辺りに用事があってね。定期市だと知って寄ってみたんだ」
「いつもの連れはいないのか」
「抜け出してきたからね。休憩中だしばれないでしょ」

 飄々と言い切った少年に、トルカはまたため息を吐いた。大変哀れな護衛連中だ。
 ルーはにこにこと微笑んでいるだけなのだが、嘘くさくてたまらない。目の前の少年が本当はどこぞのボンボンだろうと、お忍びと称してあちこち飛び回っていようと、視察で町に訪れていようと、本人が身分を明かすつもりがない以上トルカはこれっぽっちも興味がないし関心を持ちたくもないのだが、それに振り回される護衛たちには心底同情する。

「これから暇?一緒になにか食べようよ。お腹空いた」

 とっさに断ろうとして、昼食を食べそこねていたことを思い出してトルカはげんなりした。

「……ちょっと待ってろ」

 先程の丁寧さはどこへやら、ぽいぽいと籠に荷物を放り込むと、さっさと肩に担いだ。護衛たちが騒ぎ出す前にこのやんちゃな年上男を叩き返すつもりだった。

 定期市には、町の内外から集まる人を狙って食べ物を売る屋台もいくつかある。その一つに目をつけたトルカと、他の屋台に目をつけたルーの間で悶着など起きず、それぞれ別れて買いに行き、広場の片隅にある平たい大きな石で合流して腰掛けた。
 板についたものだ、とトルカは心の中で皮肉った。仕立てのいい服を身にまとい、トルカと話すときこそ柔和な口調だが、粗野な口調で喋ることも、野性味ある表情を作ることもできる少年だった。
 今も平然と姿勢を崩し、座る前からまんじゅうを頬張っている。中のタレが指に付けばぺろりとお下品に舐めとる、そんな仕草が見た目とちぐはぐな感じもするが、逆にそれが目を引いている。
 これで三年前は立ち食いなど以ての外とばかりにお上品に食べていたのだから、この変化はトルカの影響だと言われれば否定しようがない。
 しかし責任は本人にもあると思う。正体を明かしていないのだし。そう開き直ったトルカもまた団子に齧り付いた。
 ちらちらと二人を遠巻きに見ている若い娘たちがいるのは知っていたが、二人は今更とばかりに丸々無視を決め込んだ。
 行動範囲がルーに比べてかなり狭いトルカにとって、ルーと会うのは定期市のある日だけだが、それも一年経てば町人も見慣れてるものだ。二人揃って見目が良いだけあり人目を引くが、片やそれを利用し金を稼ぎ、片や無頓着に娘たちに微笑みを投げかけてはうちの子がやっぱり一番可愛いとのたまうのだ。性格の悪さは折り紙つきである。
 さっきルーがぺろりと指を舐めたときは、上品な雰囲気に似合わない仕草に色っぽさを見出したのか頬を染める者が多数見られたが、今度はトルカがやや不機嫌な様子で団子を食べ終えたのに、ルーと何ごとか話してやんちゃな笑みを浮かべ、額にかかる髪をかきあげた時は小さく悲鳴も上がっていた。他愛もない話を交わし、行儀が悪くとも何気なく居住まいを正しているだけなのに騒がれるのには、いささか辟易した二人だった。

「暇だな、どいつもこいつも」

 ぽそりとトルカが漏らせば、ルーもしっかと頷いて、

「憧れる前に現実見ないと行き遅れるのにね」

 と容赦なく切り捨てた。もちろん自分たちの容姿を充分把握した上での発言である。

「それはそうと、三ヶ月も空けるなんて珍しかったじゃないか」
「ああ、家業がね。新年の宴に駆り出されて年末年始は忙しかったんだ。予想外の問題も起きて、後始末にも時間がかかってさ。もうくたくただったよ」

 その苦労を思い出したのか深々と疲労のため息を吐くルーに、なるほどとトルカは頷いた。要点をぼかしていたが、今年は先王の崩御と新王の即位がひと月の間に立て続きに騒がれたのだ。ボンボンの具体的な地位は知らないがそれなりに忙しかっただろう。
 新王は特にこのひと月何かやったわけでもないのですっかり忘れていたが、代替わりとそれに伴う式典は煩雑を極めるのだろうな、というのはなんとなくわかる。それでなくとも、先王が崩御した時が時だったのだ。クランの家でその夜を過ごし、新年の鐘が鳴ったな、と暢気に聞いていたら実はそれが崩御を告げる音だったのだ。下手に明けましておめでとうなどと祝っていたら反逆罪にとられかねない。立場あるものは大変だ。

「それでさ、さっきの道具って何だったの?見たことないけど」
「ないのか?」
「うん。あれ面白いね。中に何が入ってるのか知らないけど、飾り物にしてもいいんじゃない?子どもにあげたら喜びそうだし、見た目がいいから女の子にも受けそうだね。地味だけど」
「地味なのは仕方ないだろう。竹で作ってるんだから。ちなみに中はくるみの殻だ」
「え」

 ここで初めてルーが驚愕した。ずいっと身を乗り出して、いつになく真剣な表情で問いかけてくる。

「竹なの?あれが?」
「あ、ああ。ほら」

 気圧されて籠から手毬を出して見せると、食い入るようにルーが見つめた。しばらくそのまま硬直し、ふと、ぱちりとトルカと目を合わせる。

「トルカ。これ、売れるよ」
「はあ?」
「特別な材料で作ってるのかと思ったら、意外に手頃だ。それにさっき言ったけど文様も綺麗だし。この他にも作れるの?」
「二、三種類なら作れるが……」
「実物作って売ってもいいし、何ならその知識だけでもぼくに売らない?ぼくというかそれを作れる領都の技術者に、だけど。色をつけても良さそうだね。どう?」
「……どうと言われても、手慰みに作ったやつだぞ。それにこれくらいなら領都にも作れる奴はいるだろ」

 めったに見ない勢いに慄きつつ、慎重にトルカは言った。その裏でちらりとこの間のことを思い出す。……そういえば、この毬を籠に放り込んだのは他でもないトルカ自身だった。棚から転がり落ちたそれを手に取り、邪魔だからとぽいと投げ込んだのだ。どうして忘れていたんだ、自分。

「甘いね、君は。自分の技術力をわかってない。僕は実際に使うことがあんまりないけど、その籠も、敷物も、上等の部類に入るものだというくらいはわかるんだよ。物を見極めるのがぼくの仕事だからね。そんな君の手慰みで、しかもこの出来。……そこらの竹細工師から刺されるか泣いて裸足で逃げられちゃうよ」

 不穏な発言と迫力にごくりと唾を飲み、ふとなぜそこまで言わしめるのか疑問に思った。

「……欲しいならやるけど」
「本当⁉」

 果たして、正解だった。

「ただし金は払えよ」
「もちろん!いくら?」

 その場でさくさくと取引を行い、言い値より高値で購入された手毬を手に嬉しさを隠そうとしないルーと、予想外の収入にほくほく顔を隠せないトルカの図が出来上がったのだった。

「いやぁ、助かった。母さんがこういったものを好きでさ。ちょうどいいお土産になるよ」
「大げさだな」
「さっき言ったことは嘘じゃないよ。ねえ、技術も売らないかい?暇人が多い領都なら絶対に流行るから。新しい編み方も発案されるかもしれないし、ぼくが表に出るから君が直接顔を出す必要もない。ちゃんと技術料としてお金も出す。どう?悪い話じゃないでしょ」

 確かに、ルーの提案は旨味が大きい。こちらの事情を察しているからこそ適切に落とし穴を塞いできている。確かにトルカが直接売って変な注目を集めることは避けたいので、金を稼ぐならルーの提案が最も最適だ。そして、本命の手毬は手に入れたのに技術を欲しがるルーの意図は……と、そこまで考えてにやりと口端を吊り上げた。
 トルカは金が欲しい、ルーは実績が欲しい。
 ルーからすれば有能な技術者の保護と珍しい品を取り扱い、ひと財産を築けるが、ボンボンなのだ、それが目的ではなく、欲しいのは名声と経験。最終的に、想い人に婚姻を持ちかけるきっかけの一つにしたいのだろう。ルーの母はともかく父親がひどく反対しているそうなので、納得させる材料としたいのだ。
 実際、毎月定期市に顔を出していたのは暇を持て余していたからではない。ロアの各地に赴き知識と経験を積み上げ、人材の確保も行う。仕事仕事と言っていてもそれ以上の成果を上げようと必死なのだ。
 そして、そんなルーから見ると、トルカは絶好のだった。

 ルーはトルカの表情を見てこちらも悪賢い笑みで応えた。三年前に出会った時と同じように二人は笑い合う。

「で、どうする?」
「乗った。ただし、金は売り上げの二割を三ヶ月分でいい。それからこれが欲しい」

 トルカが上げた品の名前に、一瞬ルーは考え込み、すぐに頷いた。

「わかった。確かにそれなら報酬として妥当だ。来月までにはじめの報酬と一緒に持ってこよう。それから、たまにここらじゃ珍しい薬草も融通しよう。あの一族なら大抵のものの処理の仕方なら知ってるだろうからね。これのお礼だよ」

 言って手毬をからからと鳴らす。ルーは珍しく送り人を怖がらない稀有な存在だ。だからこそトルカにとっても最善で最高のたり得ているのだが。

「ふふふ……」
「……ずいぶん機嫌がいいな。そんなに切羽詰まってるのか」
「まさか。成人まであと一年しか残されてないのに、一向に頭の固い老人の相手をしなくちゃならないからって、ぼくは諦めたりなんて絶対にしない。最後にあの人を跪かせて高笑いをするのはこのぼくだ。それに……」

 ルーがトルカをちらっと見た。

「君、領官になるの?」
「あくまでも選択肢の一つだ。おれがあそこで隠れ住むにも限度があるからな。地位を固めに行ったほうがいいと思って」

 トルカが欲しがったのは何冊かの書物。全て平民へ開かれている狭い門を潜り抜けるための知識を溜め込んだものだ。
 そもそも識字率が高くない平民になぜ官吏への門戸を開いているのかは謎だが、最低限の教養を持つトルカはそれを利用するつもりだった。その書物の内容を網羅すればそこらの木っ端官吏より有能になれる。貴族があふれる政治の場へ放り込まれる不安はあるが、優秀ならともかく、陰険に才あるものをいびり抜くぐらいの能しかない連中に負けるような打たれ弱さはトルカにはない。でなければ、案外手厳しいルーの眼鏡に叶うこともなかった。

「君がもしその道を進むなら、後見くらいならしてやれるからいつでも言って。間違えないでね?あくまで君が君のままなら、の話だから」
「ふっ、お前こそな。お前が変わることがないようだったら、親父に勝てたらとびきりの報酬を用意してやる」

 ああ、素晴らしきかな、打算的協力関係。
 二人はしばし黒い笑みを浮かべて高らかに笑い合った。








「あ、いた!ルシ―……ルーさ……ルー!」

 聞き覚えのある声に二人で広場の中央を見やる。ルーは思わずしかめっ面で「ばれたか」と舌打ちをし、トルカは感心したように「よくこらえたな、今。ずいぶん惜しかったが」と呟いた。
 例の哀れな護衛の到着である。

「やれやれ。帰るかな」
「あ、ルー、待て」

 トルカは立ち上がったルーを呼び止めつつ、懐から巾着を取り出した。

「これ、やる。獣避けだ」
「へえ……?」

 またきらりと焦げ茶の目が煌めいた。まだ隠し玉が存在していたとは、という顔だ。

「効果の程は?」
「言っとくが売るなよ、それ。あくまでお前が私用で使え。効果は二、三日。雨が降ったなら一日。匂いに反応するから。香の使い方はわかるだろう?」
「なるほどね。わかった。これについての報酬はいらないのかい?」
「いらないが、その代わりにこれは今限りだ。材料が特殊な上におれが定期的に卸したら危険だからな。その毬の発掘料でいいだろ」
「そうだね。君が作ったのが知れたら危ないね、どちらも」

 どちらも、という言葉の指す意味を受け取り、トルカは初めてルーを睨むように視線を鋭くした。

「……迂闊な真似をするなよ。お前がおれのものに手を出すなら報復は覚悟しておけ」
「それは君もだけどね。ぽいと渡さなければよかったのに。大切に使わせてもらうよ」

 ルーはトルカの警戒する様子を見て僅かに笑ってみせたが、それでトルカが安心できるはずもない。するも、ルーもまた、初めてうそ寒くなるような冷たい微笑みを浮かべた。

「ぼくも、君も、大切なもののためならなりふり構わない。君の方が喪失を知ってるから人一倍かな。それ故に、お互いを裏切ることはないと僕は信じてるんだ、トルカ。ぼくはぼくのために君を利用し、守ろう。君は君のためにそうしてくれ」

 二人は一歩も引くことなく睨み合う。しかし、すぐにため息をついたのは欲しい言葉を聞けたトルカの方だった。

「……わかった」

 ただし、と付け加える。年不相応の真摯な黒い瞳が年上の少年を貫いた。

「おれが利用できる余地を残しておけ、ルー。そのための獣避けだ。切羽詰まっていても最低限の護身くらい対策しておけ」

 ぱちくりと目を丸くして、何か言おうと口をルーが開ける。
 しかし、その前に護衛が到着した。

「ルー!探しましたよ!」

 よほど慌てていたのか、二十歳を幾らか越した程の青年が駆け寄ってくる。襟が緩み、うなじで括っているくせっ毛もぼさぼさだ。

「遅かったな」
「お疲れさん。相変わらずお守りは大変そうだな」

 護衛は平然と迎える二人に毒気を抜かれたようだった。

「トルカ殿。ルーが迷惑をかけただろう。申し訳ない」
「今更だな。おれも無茶言ったし。それより、ちゃんと目を配ってろよ。危なっかしいぞ、こいつ」
「それはもう……」

 たとえトルカの他人事とばかりの物言いにかちんときたところで、護衛はその役目を果たせていないのだ。恐縮したように身を縮めるのが精一杯である。こういう素直なところが、トルカにルーとこの護衛との関係を推測させる隙を与えている。
 確かは仕事上の同僚で幼馴染、だったような。……全然そう見えない。

「見ろ、母上への土産を見つけたんだ。トルカのおかげだ」
「ああそうですか、さっさと帰りますよ……」
「やっぱりお前の反応はつまらん。そこは多少なりとも怒ってみせろ」
「あなたが抜け出していった時点で沸点は通り過ぎてるんです!ほら、早くしないと旅程をこなせないでしょうが」
「はいはい、わかったよ」
「……全く、ご友人同士で会いたいならせめて一言言ってくれれば……」
「こいつが友人?冗談じゃない」
「トルカが、ぼくの?うそでしょ」

 理不尽に言われ続け、うつむき加減に護衛がぽそりとぼやいた言葉に、二人とも聞き捨てならない単語を聞いて眉間にしわを寄せ、即座に否定した。ちらりと互いを見て、指を指して護衛の方を向く。

「こんな性悪、こっちから願い下げだ」
「こんなひねくれ小僧、友人になりたいやつなんていないでしょ」

 異口同音の返答に、また互いが互いを見る。にやりと意地の悪い笑みを浮かべ、よくわかってるじゃないか、君のその割り切り方だけは好感が持てるよ、と称え合う。どっからどう見ても同類。しまいには二人して、

「さすがはおれ(ぼく)の同盟者だ」

 護衛は言葉をなくし、その場で深く頭を抱えたのだった。




   * * *

  


『ぼくも、君も、大切なもののためならなりふり構わない。君の方が喪失を知ってるから人一倍かな。それ故に、お互いを裏切ることはないと僕は信じてるんだ、トルカ。ぼくはぼくのために君を利用し、守ろう。君は君のためにそうしてくれ』


 トルカにとってクランとその両親が大切なように、ルーにも大切なものがある。想い人と、自分の母親。ルーとトルカは出会った時にそれを知り、手を組んだ。泣かせ、困らせ、傷つけた相手に生き地獄を味合わせるような報復を欲していた二人が意気投合するのに時間はかからなかった。なにせお互いに分を弁えることを知っているのだ。一人は本能的に、もう一人は経験として。深く互いの事情を知る必要もなかったことも一因だろう。知らずとも協力して敵をどん底に落とし込むのに苦労はしなかったので。
 だからトルカはルーがやんごとなき血筋であることを言外に匂わせても頓着せず、ルーもトルカが隠れ住むように生活していることを知りながら深く探ろうとしなかった。
 合理的で、最も効率的な協力者。大切なもののためなら何だろうと牙を剥き、徹底的に害意をへし折り、二度と同じことのないように叩き潰す。
 やり方が同じだから同志。方向性が同じだから同盟者。その他の感性などどうでもいい。普段軟弱者だろうとその時だけ利用し合えばいいのだから。
 そして、それ故に互いを一方的に利用することはない。

「……そのはずだったんだけど」

 ルーは苦笑して色あせた巾着を摘んだ。がたごとと揺れる馬車の中にいるのはルー一人だ。
 服装を庶民のものから改め、かっちりとした衣装に、左横に愛用の剣を立てかけている。足は傲然と組まれ、その膝の上で優雅に頬杖をつく。行儀が悪いが、緩んだ眉を引き締めれば誰も咎めない。雰囲気はトルカと会っていたときとは違っても、これがルーの一面だった。むしろ、こちらのほうが本当か。
 忠告も、この『お守り』も、あの少年からもらったというのが信じられない。そんなにひどい顔色してたかな、ぼく。

「……いや、トルカのことだし。勝手に気づいたんだろうなあ」

 巾着に鼻を寄せると、懐かしいような、記憶のどこかを刺激するような匂いが鼻孔をくすぐった。……本物だ。

「……いつの間に獣避けだなんて作ったんだか。技術も、知識量も桁外れだ。危なっかしいのはそっちだよ、全く……」

 しかもぽんと渡してきた。報酬もいらないという。売り込むものが違うだろう。

 ここまで価値観が違うと調子が狂う。ルーは生まれゆえ合理的な性格になったが、トルカはその不幸な境遇がそうさせたのだろうことを思わせる無防備さだった。

「友人……ね」

 本当に友だちだったなら。どれほど愉快だろうか。
 真面目な護衛のジンを毎日一緒にからかって、悪巧みを考えて、ああだこうだと騒ぎながら日々を過ごしてゆく。その背後に送り人がいようとルーは仲良くなれる自信がある。表面上は。……こういった一線を引く癖がある以上、真に友だちになどなれはしないのだろうな、と自分に呆れた。心にも予防線を引き、他者に踏み込ませることを嫌う。そう教育されてきて、受け入れてきた。変えられるものではない。

(……それでも、ねえ)

 もらいっぱなしというのも癪だし、とまるで言い訳するように呟く。
 トルカも不信の塊だ。あの少年の場合、人というより未来にそれが向いている。いっぺんに大切だったものを失えば、変わらぬ明日など何もせず待てるものでもないだろう。守銭奴のごとく、薄っぺらい笑みを浮かべ金を稼ぎ、ルーと取り引きし、急ぐように経済的な地盤を整えているのはそのためだ。
 しかし、彼はルーに利害の一致とはいえ人に心を預けることを教えてくれた。なら、未来あしたをあの少年に教えてみせようじゃないか。全てが移ろおうと変わらぬものを見せてあげようではないか。

「その時なら、友だちって言えそうな気がするなぁ……」

 打算でもない、心からの言葉。いつか対等に、表舞台に。腹黒くない清々しい笑顔を浮かべ合うのだ。
 それは、悪くない夢だった。

「さっさと視察を終えて、カランに戻ろう。ふふ……。楽しくなってきた」

 仕事がこれから増えることを予期しつつ、ルーは楽しげに笑った。仕事にやりがいはあったほうがいいからね、と蛇足気味に呟きながら。

 ルーを乗せた馬車は、がたごとと次の視察場所へ轍の跡を刻んでいった。


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