孤独な王女

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傷薬

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 どれくらいの間二人で泣き倒したかわからないけれど、気づいたらヴィーは寝ていた。私の上で。

 ……重い。
 片手しか動かせない。でもぺしぺし頭を叩こうにも、すぴすぴ眠ってるご尊顔はまさしく天使で、非情になれない。寝ていてもあざとい奴め。

「……うー……」

 涙を流し尽くして、乾いてきたほっぺたが痒い。声も嗄れている。だるさは増していくばかり。鼻水をずずっと啜ると、またカーテンが捲れた。

「……落ち着かれましたわね」

 エルサだった。しょうがない子を見るように私たちを眺めて、そっと近づいてきた。私はもう拒絶しなかった。壁を壊したのはヴィーだ。

「ふふ、ひどい顔でしてよ」
「エルサさま……」

 思わずジト目で睨むと、怖い怖いと笑顔で言って振り返った。
「ベリオルさま。王子殿下をお願いします」
「……いいのですか」
「このままではいつか王女殿下が窒息しますわよ」

 カーテンがしゃっと払われ、ベリオルが顔を出した。慌てている様子にくすくすとエルサが笑う。ベリオルはため息をついて、ヴィーを抱え上げてくれた。ついでにさっと頬に手を当てられた。

「……大丈夫か?」

 そういえば、この人たちは姉さまの存在を知っていたのだった。なら、伝えるべきだった。私のなかで姉さまを消してしまうわけにはいかなかった。

「ベリオル、姉さまが……ナヅミ姉さまが、消えちゃった。もういなくなったの」

 泣き疲れたあとは、空虚な声しかでなかった。

 ベリオルはエルサと顔を見合わせたあと、くしゃりと雑に頭を撫でた。

「……そうか」

 そのたった一言だけでも。私を痛ましそうに見てくるのも。
 今だけは素直に受け止められる気がした。
 ……この人たちは、こんなに私に優しかったのだと、今さら気づいた。

 情けなくて瞑目すると、最後の一滴がこぼれて、目尻を伝っていった。










 オルゴールの音はまだ続いていた。
 誰かが巻き直してはまた奏でているのだと、気づいたのは何とか起き上がったあと。


 エルサが連れてきたお医者さんがとてもまともな人だったし、ベリオルだって平然とこの場にいるから、後宮じゃないのはぼんやりわかってた。だいたい女王陛下がうるさくないのもおかしいのだ。

 じゃあどこかというと、王さまの居室だった。




 診察を終えて、とろとろに煮込まれたお粥を食べてる間にベリオルやエルサからお披露目のその後のことを教えてもらって、申し訳なくなった。会食で、勉強の成果を見せるつもりだったのに。

「お前が病気とかじゃなけりゃ、それでいい」
「あなたさまからは対価をいただいておりますので、お気になさらず」

 二人は口々にそう言っては、倒れたと聞いて動転したらしい、今は私の隣でぐっすり眠っているヴィーを生暖かい目で見ていた。

「……ここ、どこ?」
「陛下の寝室だ。外宮のな」

 仰天して言葉に詰まった。……あの無機質な目をした人が。

「……どうして?」
「後宮では、そなたはゆっくり休めないだろう」

 そこで初めて、椅子に座るベリオルの後ろから歩み寄ってくる人に気づいた。
 肩ほどまでの金髪をうなじでひと括りにし、無造作に肩にマントを引っかけて。薄い青の瞳は氷のように冷ややかで、でもそれだけでもなさそうな色。端正な顔はどこかしらやつれて見える。三日前にみたときと変わらないくらい、この人は疲れきっていた。

 だいたい診察も食事もやってたのに、ここまで近づかれるまで気づかなかったのはなぜだろうと思って……エルサがはりぼての笑みを深め、ベリオルが一瞬舌打ちしたげな顔をしたので、納得した。

 ヴィーも、ベリオルも、エルサも。あとやって来たお医者も。 誰一人としてこの人に注意を払わなかったからだ。
 ……臣下に空気扱いされる王さまとは、これいかに。


 王さまは、ベリオルの後ろから私をじっと見下ろしていた。その空っぽな瞳を見ていると。
『――なれば、そなたの夢とは、何だ』
 その声を思い出した。なにも持たない、持とうとしない私がどう歩いていくのかを確かめるような、そんな声。
 自嘲の笑みがこぼれた。

『一人の力で立つことです。大切なものを大切にすることです』

 あんな啖呵を切ったのに、その直後にたった一本、すがっていた杖が消えてしまった。止められなかった。何てざまだ。
「陛下、寝台を貸してくださりありがとうございます」
「……ナヅミ、とは。誰だ」
「陛下」

 ベリオルが窘めている前で、ぶわりと怒りが沸き起こり……王さまのがらんどうの瞳を見て、虚無の瞳を見て、すぐに悲しくなった。怒る気力もないくらい私は疲れているらしい。

「……私の、とても大切だった人です。私が壊れるのを止めてくれて、守ってくれて、私をたった一人愛してくれた人で、でも……消えました」

 喉がひきつった。まだなんとか耐えられるのは、みんなの前だから。ヴィーが一人にしないでくれたから、絶望の一歩手前で踏みとどまってる。

「――ベリオル。エルサ」

 厳かな声に、名を呼ばれた二人はそれぞれに反応し、……諦めたように立ち上がった。ベリオルは鋭い眼光を、エルサは相手を凍らせるような視線を王さまに送り、黙って部屋から出ていった。

 ……気づけばオルゴールの音は止んでいた。










 この人は何が言いたくて人払いをしたのだろう。ずっと黙ったままだ。
「……陛下?」
 呼びかけると、それで我に返ったように、ベリオルが腰かけていた椅子に座り込んだ。
「……ナヅミ、とは。そなたの唯一だったのか」
 言われて少し首をかしげた。唯一……。
「それがなくては生きてはいけない、という意味なら、そうです」

 昔、ベリオルに「一番」の話をしたことを思い出した。ベリオルの一番は王さまで、ネフィルは私らしい。私は姉さまだった。
 ……じゃあ、この人の一番は?

 あの謁見で初めて会ったとき、空っぽな人だと思った。私のように義務感しかない、だから何もかもを突き放したような顔をしていた。

「……なぜ、失ったというのにそなたは正気でいられる?」

 ぴんとくるものがあった。

「これから一人で生きねばならないと、絶望しないのか?」

 少なくとも娘に訊くようなことではない。だけど、この人は私をそう見ていない。純粋に「同類」だと、そう思っている。
 ……大切な人を亡くしてしまったのだ、この人は。

 どんな風に大切だったのか手に取るようにわかった。「同類」だから。

 愛して、でもそれ以上に愛され過ぎたのだ。たくさん与えられて甘やかされて、どろどろに溶かされて。
 いなくなってしまえば立ち直れないほどに、依存してしまって……。なのに失って、この人は壊れたのだ。

(まるで、麻薬だな)

 姉さまに教えてもらった危険物のようだ。姉さまも、この人の大切な人も。じゃあ私たちは麻薬中毒者か。何となく笑えた。すぐに掻き消えたけど。
 政治を教えてもらって、この王さまが私を放置してきた時の情勢を知った。……笑える事態ではないのだ、どこも。

「私のことを聞いたんです。あなたの大切な人は、誰だったんですか?」
 聞いたけど、確信があった。ベリオルもネフィルも当時を教えてくれるときにすごく痛ましそうな顔をしていたから。
 王さまは、ぱちりと一つ瞬いて、言った。
「……リーナだ」
「……そうですか」

 なんて可哀想な人なんだろうと思った。
 愛しい人を失い。慰めてくれる人がいなくて、この人は静かに壊れたのだとわかって。
 ベリオルは立て直しに奔走したらしい。ネフィルは衝撃のあまり退官してしまったとか。エルサは辺境だから駆けつけられなかっただろう。そうして、この人の周りには誰もいなかったのだ。
 ……でも、失ったのは、私もだった。

「あなたは、私のことを忘れるくらい、お母さまのことが大切だったんですね」

 当時の私は、多分お母さまが死んでしまったという実感はなかっただろう。ゆりかごに揺れているような年齢だ。だからこの人を慰めるために歩くことなどできなかった。

「どうして私のもとへ来なかったんです?私ならあなたに寄り添えたのに。忘れてしまえるなら、その程度の存在なら、私を産むなんて中途半端な真似をしなければよかったのに」

 壊れたいとは何度も思った。その方が楽になるからと。でも、死にたいと思ったことはなかった。……今この時までは。
 やるせない怒りが込み上げてくる。じめじめじめじめと。
 仕方がないと諦めていた、けど。諦めていたぐらいじゃ消えてくれない憤怒が、体の内側でぐるぐると螺旋を描く。
「どうせ私はお母さまじゃないから、あなたを満たすことはできないでしょう。でも、寄り添うことはできました。一緒に泣くことだって。がらんどうな自分を憐れむ前に私をどぶから拾い上げるくらいのことをどうしてできなかったんですか」

 世界でひとりぼっち。でも、二人でいれば、悲しみも切なさも消えなくても、せめて寂しさは紛らわせられたのに。

 何も言い返せず無表情でいる王さまをせせら笑った。

「あなたの先程の質問に答えましょう」

 馬鹿にしてるのがわかったのか、憎しみを感じ取ったのか。知らないけど、王さまの瞳の色が濃くなった。

「一緒に泣いてくれる人がいたからです。拒絶しても無視して強引に寄り添う人がいたからです。……あなたにはいなかったようですが。残念でしたね?傷の舐め合いができなくて」

 ――ざまあみろ。私を振り返らなかったからだ。

 悲しみを分かち合うことはできない。けど、そばにいればそれだけでここにいると実感できる。私はまだ存在してる。どんなに最低な世界でも、そばに人がいる……たったそれだけのことが、碇になる。
 横ですやすやと寝ているヴィーの頭をさらりと撫でる。……本当にたいした理由もないのにこの子はここにいる。それで王さまの寝室にまで押し掛けているのだから驚きだ。

『リィはぼくのおねえさまなの』

 血の繋がる姉だというそれだけの理由で、ひたむきに追いかけてきた子ども。絆されるしかない。壊れずに私が踏みとどまる理由は、今はこの子にしかないのだから。

 姉さまが大好きと言ってくれた私を守ってくれた存在なのだから。  
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