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9 石田村 土方歳三
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その男は、東海道川崎宿から稲毛道を西へ、飛ぶような速さで歩いていた。
背中には、三角の下に丸が印された漆塗りのつづらと、大きな風呂敷包みが背負われ、さらには、竹刀までくくりつけられている。
菅笠を首の後ろに回し、頭に白い手拭いをかぶり、めくら縞の紺の着物の裾を端折って、火消しや川並が穿くような、ぴたりとした黒に近い濃紺のパッチを身につけていた。
だが異様なのは、腰に差した薩摩拵えの道中差である。
旅商いをするものが、自衛のため道中差をするのは、特に珍しいことではないが、それは短い脇差が普通だった。
ところが、男が腰に差した道中差は、上州の博徒が差すような、二尺あまりもある、黒鞘の長脇差だったのだ。
しかしそれが、着物を含めて憎いほど男に似合っている。
よく見ると、着物や帯だけではなく、かぶった手拭いや足袋、背中の荷物にすら神経がゆき届き、男が相当な洒落者なのは、まちがいなかった。
男は、のどかな畑道を古市場、下平間とすぎ、丸子宿に立ち寄り商いをしたあと、中原往還を横切って、二ヶ領用水沿いの稲毛道をすすむ。
その役者のような男振りは、すれ違う女たちが、顔を赤らめるほど颯爽としていた。
男の生業は、薬の行商だった。前日は、江戸とその周辺の得意先を回り、二軒ある川崎宿の得意先に品物を卸したあと、そこで一泊。
この日は、さらに、別の得意先にゆくため矢倉沢往還の二子溝口宿(現在の溝の口)に向かっていた。
二子溝口宿は、小さな宿場しかない脇往還の矢倉沢往還のなかでは、厚木、伊勢原とならんで、珍しくにぎやかな宿場である。
文化年間の調べで、家数は二百二十八軒、下駄と傘造りが盛んで、下駄屋だけで十軒を数えた。
得意先も、明和二年創業、薬種商の『灰吹屋』、酒屋兼雑貨屋の『稲毛屋』と二軒あって、なかでも、この往還で唯一の薬種商である灰吹屋は、重要な得意先だった。
余談だが、この灰吹屋は、現在も武蔵溝ノ口駅前のショッピングビルで営業を続けている。
男の楽しみは、行商先のあちこちにある剣術道場を訪れ、修行をすること、そして、旅先で出合う美味い食べ物にあった。
二子溝口宿は、鮎の産地として知られ、江戸から行楽に行くものが多く、高級な川魚料理屋もあったが、男の目当ては、二子の渡し場の近くにある『奥沢屋』という茶店だった。
その店には、品書きなどはなく、料理は定食だけである。茶飯に味噌汁がつき、主菜は季節の川魚、それに沢庵漬がついていた。
男は、なによりも、この沢庵漬が好きだった。
男が茶店に向かうと、どういうわけか、店の周りに、人だかりができており、なにやら騒がしい。
不審に思って様子を伺うと、食器が割れる甲高い音、そして若い女の短い悲鳴がきこえた。
「おい。これは、いったいなんの騒ぎだ」
男は、野次馬のひとりをつかまえて訊いた。
「なにやら、さっきから浪人者が、酔って暴れているらしいぜ」
「ちっ、厄介な……」
軽く舌打ちすると、野次馬をかき分け、暖簾越しに、店のなかの様子を伺う。
「おい、酒だ、酒! もっと酒を持ってこい!」
茶店のなかでは、たちの悪そうな浪人者が、酔って叫んでいた。
男は、素早く店のなかの様子を頭に焼きつけ、並びにある団子屋に向かった。
磯辺団子をひと串購って口にすると、なにやら店の親父に話しかけ、親父がうなずくと、素早く荷物を預けて、団子屋のなかに入っていった。
茶店のなかでは、見るからに食いつめ浪人のような風体をした男が、くだを巻いている。
ペリー来航以来、こうした攘夷を口実に暴れる浪人が、あちこちで騒ぎを起こしていた。この男も、そうした浪人のひとりであろう。
浪人は、大刀を抱えるように持ち、徳利から直接酒をあおっている。
月代は伸び放題。無精髭が顔を覆った、いかにも凶暴そうな面構えだ。
「おいっ、女っ! もっと酒を持ってこんか!」
言いつけられた娘は、怯えきった表情で、がくがくと首をふった。
「はい、ごめんなすって。えー、ご注文の団子をお持ちいたしましたー」
そこに、場違いな陽気な声で、みすぼらしい半纏を着て、薄汚い手拭いをほっかむりした男が、店のなかに入ってきた。
「なんだ、てめえはっ!」
浪人が割れ鐘のような怒声を浴びせる。
「へえ。たしかこちらさんで、みたらし団子を四つご注文。と、きいてきましたが……」
男の声は、この場にふさわしくない陽気で間抜けな調子である。
「たわけ者! わしは団子など注文しておらんっ!!」
「へっ、さようでございますか……うちの団子は、美味しゅうございますのに……」
と、言いながら、男は、団子の包みを、いきなり浪人に投げつけた。
「うわっ!」
浪人が、包みを手で払いのけると、白い煙が舞いあがった。
竹包みに入っていたのは、団子ではなく、重り石入りの薄紙に包まれた、団子を焼くための炭の灰だったのだ。
「き、貴様! なにを……」
浪人の台詞は、そこまでだった。
灰で目潰しを喰らった浪人が刀を抜くよりも速く、男が隠し持った心張り棒で、浪人の頭に、鋭い一撃をくわえたからだ。
浪人が気絶すると、男は、懐から真田紐を取りだし、素早く浪人を縛りあげる。
野次馬から、称賛の歓声があがった。
「あ、ありがとうございます」
娘が震える声で感謝すると、男は、手拭いをとり、
「おい、俺だ。なに他人行儀な挨拶をしていやがる」
と、朗らかに笑った。
「と、トシさん!」
それは、先ほど団子屋に入っていった、旅の商人だった。
男の名は土方歳三。商い先では、石田村のトシさんという名前で知られていた。
「おまさちゃんも薄情だな。いつも贔屓にしてるのに、俺の顔を忘れるなんてよ」
歳三が薄汚い半纏を脱ぎ捨てると、粋な青梅縞の着物があらわれた。
「なあに、この半纏と手拭いは、団子屋からの借り物さ」
「もうっ、トシさんたら! あたし、殺されるんじゃないかと……生きた心地がしなかったわ」
そこに、ようやく役人がやってきて、浪人者を連行する。江戸屋の主人が、役人に事情を説明していた。
「おまさちゃん、俺はまだ昼飯前なんだ。定食はできるかい?」
「あきれた。あれだけ大暴れしといて、昼飯の注文?」
「腹が減っては、なんとやら……さ」
歳三は、憎らしいほど落ちついていた。
というのも、最初に店のなかを覗いたとき、すでに浪人が大した腕ではないことを見抜いていたからだ。
歳三という男は、すべてにおいて、物事を合理的に考え、繊細な神経を持ちながら、物事を大胆に実行する能力を持っていた。
「トシさん……あたし、いまでも怖くて胸が張り裂けそう……」
おみつが歳三にしなだれかかる。
「おい、よせやい。俺は、これから灰吹屋さんに商いにいくんだぜ。白粉なんかついたら、変に勘繰られちまうじゃねえか」
「もうっ、トシさんたら……どうして、いつもそんな冷たいのかしら」
おみつが、恨めしげな眼をして歳三を睨んだ。
その膨れっ面が妙に色っぽかったが、歳三は、あえて突き放し、
「俺には、女よりも、こいつが大事なのさ」
と、言って、剣を振る身ぶりをした。
それは、気取りではなく歳三の本心からの言葉だった。
というのも、以前、江戸の商家に奉公にでたとき、女では手痛い失敗をしていたからだ。
幼いころから暴れ者だった歳三が、剣術に興味が向くのは、当然のことであった。
姉の嫁ぎ先の日野宿名主、佐藤彦五郎の屋敷で、天然理心流の教授がはじまると、歳三も手解きを受けてはいたが、その剣術は自己流に近い。
石田散薬を売り歩きながら、歳三は流派に頓着せず、ゆく先々の道場で教えを受けた。
剣術というのは、流派により異なった術理をそなえている。
したがって、自分勝手に技を改変したり他流の技を加えたりすれば、意味がないだけではなく、先人が命懸けで作り上げた、術理そのものを失うことになりかねない。
しかし歳三には、物事の本質をとらえ、それを抽出する特異な才能があった。
だから、ゆく先々で習った技は、ほとんどが歳三にとって、血となり肉となっていた。
この男が、これほどまでに剣術に執着するのには、理由があった。
かつて歳三の家系は、三沢郷十騎衆と呼ばれる野武士集団に属していたが、いまは武州日野の石田村の百姓である。
そして、土方という名字を名乗ってはいたが、それは、あくまでも私称で、人別には、
武州多摩郡 石田村 百姓 歳三
と、あるだけだ。
歳三は百姓ではなく、先祖のように、武士として身を立てようと考えていた。
武蔵の国には、歳三の土方家のように、隠し姓を持つ者は多い。
なかには、名字帯刀を許された名主や豪農もいたが、歳三の住む日野では、名主の佐藤彦五郎ですら、名字は私称(慶応四年、名字を許される)であった。
それが実情であり、歳三が武士になるなどというのは、現実的な話ではない。
ちなみに、江戸も中期以降になると、そういった規則は、なし崩し的に弛み、八王子千人同心株や、徳川の御家人株ですら売買されていた。
だが歳三が武士になる、というのは、そういった身分的なことを指していたのではない。
乱世のころ、戦になると農民が鍬や鋤を槍に持ちかえ、雄々しく戦場に立ったように、正々堂々と武士になろうと思っていた。
ペリー来航以来、世の中は、どこか重苦しい不安に満ちて、かつてないほど騒然とした空気が漂っている。
歳三は、直感的に再び乱世が来ることを感じ、自分の望みが現実になることを、まったく疑っていなかった。
――そのときのために、俺は剣を磨く。
それが、歳三が剣にうちこむ理由であった。
しかし、いくら大百姓の家とはいえ、働きもせず、剣術修行などしていたら、周囲から非難されるのは、火を見るより明らかだ。
そこで歳三も、江戸の商家に奉公にだされたが、番頭と喧嘩になり、すぐに戻ってきてしまった。
この男にとって、効率が悪く前近代的なでっち奉公は、不合理にしか感じられず、耐えられなかったのだ。
その後も、奉公先で女性問題を起こすなど、しくじりが多く、家長である兄の隼人(喜六)は、歳三を奉公にだすのはあきらめ、家伝の石田散薬の行商をさせていた。
しかし隼人は、世間体を気にする性格なので、寺請証文には、石田散薬の取引先である四谷の『いわし屋』にたのんで、奉公していると、偽りの記載をしていた。
歳三が定食に舌鼓をうっていると、そこにひとりの男が歩みよった。
道中合羽とつづらを振り分け荷物に担ぎ、三度傘を背中に回して、歳三と同じように長脇差を腰にぶちこんだ渡世人だ。
歳三は、その男に一瞥をくれるが、敵意を感じなかったので、再び茶飯をかきこんだ。
「ごめんなすって……手前、甲州無宿の旅烏。初雁の貫太郎と、はっしやす」
「承った。――で、旅人さんが堅気の俺に、いったいなんの用事だ?」
いかにもめんどくさそうに、歳三がこたえた。
「へい……先ほどは、大変お見事な手際。すっかり感心いたしやした。
あっしも、長らく旅人を続けておりやすが、兄いほど度胸の座った漢《おとこ》は、めったにおりやせん」
「回りくどいな……要件を言ってくれ」
「これは。失礼しやした。もし、よろしかったら、あっしを弟分にしておくんなせえ」
「おい、よしてくれよ。さっきから言ってるように、俺は、かたぎ、
――石田村の歳三だ。無頼なんかを兄弟分にしたら、故郷の親類に顔向けできなくなる」
「こいつは、うっかりしておりやした……」
初雁の貫太郎が、顔を赤らめた。
どうやら、悪いやつではないらしい。
「つい興奮して、先走ってしまいやした。兄弟分とはいかなくても、あっしのことは、どうか心に留めておいてくださいまし」
「貫太郎さんとやら。あんたの気持ちは受けとった。まあ、俺も旅の商人だ。いつかまた出会うこともあるだろう。そんときは、ゆっくり酒でも飲もう」
「ありがとうございやす。――では、ごめんなすって」
歳三が、口からでまかせの愛想を並べると、初雁の貫太郎は、すっかり感激した面持ちで、最敬礼せんばかりの勢いで店をあとにした。
歳三は、苦笑を浮かべていたが、のちに思わぬ場所で貫太郎と再会するとは、このときは、思ってもみなかったのである。
「トシさん。いまの渡世人は、知り合いなの?」
おみつがきいた。
「いや。挨拶していっただけだ」
「ふうん。長脇差なんか差して、おっかない……あっ、トシさんは別よ」
「俺は商人だぜ。やくざ者といっしょするな」
「わかってるわよ。ねえ、今日の仕事が終わったら、あたしのところで、ゆっくりしていかない?」
「莫迦いうな。今夜は、登戸泊まりだ」
登戸は、二子溝口からすぐの宿場だが、直接向かわずに、いったん多摩川をわたり、得意先の用賀、三軒茶屋を回り、そこで分岐している津久井道を戻るかたちで、若林、代田橋、世田谷、船橋、喜多見と回って渡し舟で登戸へ……と、考えていた。
石田散薬は、薬種商や雑貨屋に卸すだけではなく、富山の薬売りと同じように、置き薬として、使ったぶんだけ精算する。という商をしていたので、膨大な数の得意先を回らなければならなかった。
その販売範囲は、武州は川越から、相模、甲州の一部まで、五百軒におよぶ。
したがって、効率的なコースをとらねば、とてもではないが、剣術なぞをしている暇はない。歳三は、そういった計画を立てるのが得意だった。
歳三が世田谷を回って、登戸宿に着いたころには、もう、すっかり陽が落ちていた。
登戸には、友人の千人同心・戸倉又兵衛が居を構えている。
又兵衛は、千人同心に門人が多い天然理心流の目録だったが、近所に対等に試合ができる者がいないので、歳三が来るのを心待ちにしていた。
千人同心といえば八王子がその拠点である。
ところが、近年は、同心株の売買が盛んで、五日市や青梅、果ては、相模や飯能にまでその分布を拡げていた。
しかし、その身分は中途半端で、組頭など役付き以外は、名字は許されず、帯刀は、公務中に限られ、平素は農業を営む、いわば郷士的な存在であった。
歳三が訪れると、又兵衛は、抱きつかんばかりに歓迎した。
「トシさん。ご無沙汰だったなあ……待ちかねたぞ。今度は、どこを商っていたんだ」
「又さん。また世話んなるぜ。――どこって、久しぶりに江戸の得意先をな」
「ふっふふ。さては、吉原でお楽しみだったな」
「いや、今度は女っ気なしだ。まあ、こっちのほうは、打ってきたけどよ」
と、賽子を転がす真似をする。
「たんまり稼いだかい?」
「いや……それが、活きのいいのと喧嘩になってさ。やっぱり江戸っ子は、気が短けえ」
「勝ったんだろうな」
「当たり前だ。この歳三様が、町の喧嘩ごときに、負けてたまるか」
「そうこなくっちゃ。――でなければ、いつも負けてる俺の立場がねえ」
「へっ、なに言ってやがる。この前の突きを喰らったときは、三日ぐらい痛くてしかたなかったぜ。――今回は、その借りを返しにきた」
「ふふふ、望むところだ。明日も泊まっていくのかい?」
「いや、明日の昼には発たないと……」
歳三は、このあと津久井道の上菅生を抜けて、小野路の名主の小島家で稽古をしてから、その向かい側にある親戚の橋本家に一泊する予定だった。
歳三は、この橋本家の沢庵漬けが大の好物で、石田村まで漬け物樽をかついで、山道を帰ったことさえあった。
「そいつは、あわただしいな。まあ、今夜ぐらいは、ゆっくりしていってくれ。いま、女房に燗をつけさせるからよ」
「おう。いつもすまねえな」
歳三は、ゆっくりと旅装をときはじめた。
背中には、三角の下に丸が印された漆塗りのつづらと、大きな風呂敷包みが背負われ、さらには、竹刀までくくりつけられている。
菅笠を首の後ろに回し、頭に白い手拭いをかぶり、めくら縞の紺の着物の裾を端折って、火消しや川並が穿くような、ぴたりとした黒に近い濃紺のパッチを身につけていた。
だが異様なのは、腰に差した薩摩拵えの道中差である。
旅商いをするものが、自衛のため道中差をするのは、特に珍しいことではないが、それは短い脇差が普通だった。
ところが、男が腰に差した道中差は、上州の博徒が差すような、二尺あまりもある、黒鞘の長脇差だったのだ。
しかしそれが、着物を含めて憎いほど男に似合っている。
よく見ると、着物や帯だけではなく、かぶった手拭いや足袋、背中の荷物にすら神経がゆき届き、男が相当な洒落者なのは、まちがいなかった。
男は、のどかな畑道を古市場、下平間とすぎ、丸子宿に立ち寄り商いをしたあと、中原往還を横切って、二ヶ領用水沿いの稲毛道をすすむ。
その役者のような男振りは、すれ違う女たちが、顔を赤らめるほど颯爽としていた。
男の生業は、薬の行商だった。前日は、江戸とその周辺の得意先を回り、二軒ある川崎宿の得意先に品物を卸したあと、そこで一泊。
この日は、さらに、別の得意先にゆくため矢倉沢往還の二子溝口宿(現在の溝の口)に向かっていた。
二子溝口宿は、小さな宿場しかない脇往還の矢倉沢往還のなかでは、厚木、伊勢原とならんで、珍しくにぎやかな宿場である。
文化年間の調べで、家数は二百二十八軒、下駄と傘造りが盛んで、下駄屋だけで十軒を数えた。
得意先も、明和二年創業、薬種商の『灰吹屋』、酒屋兼雑貨屋の『稲毛屋』と二軒あって、なかでも、この往還で唯一の薬種商である灰吹屋は、重要な得意先だった。
余談だが、この灰吹屋は、現在も武蔵溝ノ口駅前のショッピングビルで営業を続けている。
男の楽しみは、行商先のあちこちにある剣術道場を訪れ、修行をすること、そして、旅先で出合う美味い食べ物にあった。
二子溝口宿は、鮎の産地として知られ、江戸から行楽に行くものが多く、高級な川魚料理屋もあったが、男の目当ては、二子の渡し場の近くにある『奥沢屋』という茶店だった。
その店には、品書きなどはなく、料理は定食だけである。茶飯に味噌汁がつき、主菜は季節の川魚、それに沢庵漬がついていた。
男は、なによりも、この沢庵漬が好きだった。
男が茶店に向かうと、どういうわけか、店の周りに、人だかりができており、なにやら騒がしい。
不審に思って様子を伺うと、食器が割れる甲高い音、そして若い女の短い悲鳴がきこえた。
「おい。これは、いったいなんの騒ぎだ」
男は、野次馬のひとりをつかまえて訊いた。
「なにやら、さっきから浪人者が、酔って暴れているらしいぜ」
「ちっ、厄介な……」
軽く舌打ちすると、野次馬をかき分け、暖簾越しに、店のなかの様子を伺う。
「おい、酒だ、酒! もっと酒を持ってこい!」
茶店のなかでは、たちの悪そうな浪人者が、酔って叫んでいた。
男は、素早く店のなかの様子を頭に焼きつけ、並びにある団子屋に向かった。
磯辺団子をひと串購って口にすると、なにやら店の親父に話しかけ、親父がうなずくと、素早く荷物を預けて、団子屋のなかに入っていった。
茶店のなかでは、見るからに食いつめ浪人のような風体をした男が、くだを巻いている。
ペリー来航以来、こうした攘夷を口実に暴れる浪人が、あちこちで騒ぎを起こしていた。この男も、そうした浪人のひとりであろう。
浪人は、大刀を抱えるように持ち、徳利から直接酒をあおっている。
月代は伸び放題。無精髭が顔を覆った、いかにも凶暴そうな面構えだ。
「おいっ、女っ! もっと酒を持ってこんか!」
言いつけられた娘は、怯えきった表情で、がくがくと首をふった。
「はい、ごめんなすって。えー、ご注文の団子をお持ちいたしましたー」
そこに、場違いな陽気な声で、みすぼらしい半纏を着て、薄汚い手拭いをほっかむりした男が、店のなかに入ってきた。
「なんだ、てめえはっ!」
浪人が割れ鐘のような怒声を浴びせる。
「へえ。たしかこちらさんで、みたらし団子を四つご注文。と、きいてきましたが……」
男の声は、この場にふさわしくない陽気で間抜けな調子である。
「たわけ者! わしは団子など注文しておらんっ!!」
「へっ、さようでございますか……うちの団子は、美味しゅうございますのに……」
と、言いながら、男は、団子の包みを、いきなり浪人に投げつけた。
「うわっ!」
浪人が、包みを手で払いのけると、白い煙が舞いあがった。
竹包みに入っていたのは、団子ではなく、重り石入りの薄紙に包まれた、団子を焼くための炭の灰だったのだ。
「き、貴様! なにを……」
浪人の台詞は、そこまでだった。
灰で目潰しを喰らった浪人が刀を抜くよりも速く、男が隠し持った心張り棒で、浪人の頭に、鋭い一撃をくわえたからだ。
浪人が気絶すると、男は、懐から真田紐を取りだし、素早く浪人を縛りあげる。
野次馬から、称賛の歓声があがった。
「あ、ありがとうございます」
娘が震える声で感謝すると、男は、手拭いをとり、
「おい、俺だ。なに他人行儀な挨拶をしていやがる」
と、朗らかに笑った。
「と、トシさん!」
それは、先ほど団子屋に入っていった、旅の商人だった。
男の名は土方歳三。商い先では、石田村のトシさんという名前で知られていた。
「おまさちゃんも薄情だな。いつも贔屓にしてるのに、俺の顔を忘れるなんてよ」
歳三が薄汚い半纏を脱ぎ捨てると、粋な青梅縞の着物があらわれた。
「なあに、この半纏と手拭いは、団子屋からの借り物さ」
「もうっ、トシさんたら! あたし、殺されるんじゃないかと……生きた心地がしなかったわ」
そこに、ようやく役人がやってきて、浪人者を連行する。江戸屋の主人が、役人に事情を説明していた。
「おまさちゃん、俺はまだ昼飯前なんだ。定食はできるかい?」
「あきれた。あれだけ大暴れしといて、昼飯の注文?」
「腹が減っては、なんとやら……さ」
歳三は、憎らしいほど落ちついていた。
というのも、最初に店のなかを覗いたとき、すでに浪人が大した腕ではないことを見抜いていたからだ。
歳三という男は、すべてにおいて、物事を合理的に考え、繊細な神経を持ちながら、物事を大胆に実行する能力を持っていた。
「トシさん……あたし、いまでも怖くて胸が張り裂けそう……」
おみつが歳三にしなだれかかる。
「おい、よせやい。俺は、これから灰吹屋さんに商いにいくんだぜ。白粉なんかついたら、変に勘繰られちまうじゃねえか」
「もうっ、トシさんたら……どうして、いつもそんな冷たいのかしら」
おみつが、恨めしげな眼をして歳三を睨んだ。
その膨れっ面が妙に色っぽかったが、歳三は、あえて突き放し、
「俺には、女よりも、こいつが大事なのさ」
と、言って、剣を振る身ぶりをした。
それは、気取りではなく歳三の本心からの言葉だった。
というのも、以前、江戸の商家に奉公にでたとき、女では手痛い失敗をしていたからだ。
幼いころから暴れ者だった歳三が、剣術に興味が向くのは、当然のことであった。
姉の嫁ぎ先の日野宿名主、佐藤彦五郎の屋敷で、天然理心流の教授がはじまると、歳三も手解きを受けてはいたが、その剣術は自己流に近い。
石田散薬を売り歩きながら、歳三は流派に頓着せず、ゆく先々の道場で教えを受けた。
剣術というのは、流派により異なった術理をそなえている。
したがって、自分勝手に技を改変したり他流の技を加えたりすれば、意味がないだけではなく、先人が命懸けで作り上げた、術理そのものを失うことになりかねない。
しかし歳三には、物事の本質をとらえ、それを抽出する特異な才能があった。
だから、ゆく先々で習った技は、ほとんどが歳三にとって、血となり肉となっていた。
この男が、これほどまでに剣術に執着するのには、理由があった。
かつて歳三の家系は、三沢郷十騎衆と呼ばれる野武士集団に属していたが、いまは武州日野の石田村の百姓である。
そして、土方という名字を名乗ってはいたが、それは、あくまでも私称で、人別には、
武州多摩郡 石田村 百姓 歳三
と、あるだけだ。
歳三は百姓ではなく、先祖のように、武士として身を立てようと考えていた。
武蔵の国には、歳三の土方家のように、隠し姓を持つ者は多い。
なかには、名字帯刀を許された名主や豪農もいたが、歳三の住む日野では、名主の佐藤彦五郎ですら、名字は私称(慶応四年、名字を許される)であった。
それが実情であり、歳三が武士になるなどというのは、現実的な話ではない。
ちなみに、江戸も中期以降になると、そういった規則は、なし崩し的に弛み、八王子千人同心株や、徳川の御家人株ですら売買されていた。
だが歳三が武士になる、というのは、そういった身分的なことを指していたのではない。
乱世のころ、戦になると農民が鍬や鋤を槍に持ちかえ、雄々しく戦場に立ったように、正々堂々と武士になろうと思っていた。
ペリー来航以来、世の中は、どこか重苦しい不安に満ちて、かつてないほど騒然とした空気が漂っている。
歳三は、直感的に再び乱世が来ることを感じ、自分の望みが現実になることを、まったく疑っていなかった。
――そのときのために、俺は剣を磨く。
それが、歳三が剣にうちこむ理由であった。
しかし、いくら大百姓の家とはいえ、働きもせず、剣術修行などしていたら、周囲から非難されるのは、火を見るより明らかだ。
そこで歳三も、江戸の商家に奉公にだされたが、番頭と喧嘩になり、すぐに戻ってきてしまった。
この男にとって、効率が悪く前近代的なでっち奉公は、不合理にしか感じられず、耐えられなかったのだ。
その後も、奉公先で女性問題を起こすなど、しくじりが多く、家長である兄の隼人(喜六)は、歳三を奉公にだすのはあきらめ、家伝の石田散薬の行商をさせていた。
しかし隼人は、世間体を気にする性格なので、寺請証文には、石田散薬の取引先である四谷の『いわし屋』にたのんで、奉公していると、偽りの記載をしていた。
歳三が定食に舌鼓をうっていると、そこにひとりの男が歩みよった。
道中合羽とつづらを振り分け荷物に担ぎ、三度傘を背中に回して、歳三と同じように長脇差を腰にぶちこんだ渡世人だ。
歳三は、その男に一瞥をくれるが、敵意を感じなかったので、再び茶飯をかきこんだ。
「ごめんなすって……手前、甲州無宿の旅烏。初雁の貫太郎と、はっしやす」
「承った。――で、旅人さんが堅気の俺に、いったいなんの用事だ?」
いかにもめんどくさそうに、歳三がこたえた。
「へい……先ほどは、大変お見事な手際。すっかり感心いたしやした。
あっしも、長らく旅人を続けておりやすが、兄いほど度胸の座った漢《おとこ》は、めったにおりやせん」
「回りくどいな……要件を言ってくれ」
「これは。失礼しやした。もし、よろしかったら、あっしを弟分にしておくんなせえ」
「おい、よしてくれよ。さっきから言ってるように、俺は、かたぎ、
――石田村の歳三だ。無頼なんかを兄弟分にしたら、故郷の親類に顔向けできなくなる」
「こいつは、うっかりしておりやした……」
初雁の貫太郎が、顔を赤らめた。
どうやら、悪いやつではないらしい。
「つい興奮して、先走ってしまいやした。兄弟分とはいかなくても、あっしのことは、どうか心に留めておいてくださいまし」
「貫太郎さんとやら。あんたの気持ちは受けとった。まあ、俺も旅の商人だ。いつかまた出会うこともあるだろう。そんときは、ゆっくり酒でも飲もう」
「ありがとうございやす。――では、ごめんなすって」
歳三が、口からでまかせの愛想を並べると、初雁の貫太郎は、すっかり感激した面持ちで、最敬礼せんばかりの勢いで店をあとにした。
歳三は、苦笑を浮かべていたが、のちに思わぬ場所で貫太郎と再会するとは、このときは、思ってもみなかったのである。
「トシさん。いまの渡世人は、知り合いなの?」
おみつがきいた。
「いや。挨拶していっただけだ」
「ふうん。長脇差なんか差して、おっかない……あっ、トシさんは別よ」
「俺は商人だぜ。やくざ者といっしょするな」
「わかってるわよ。ねえ、今日の仕事が終わったら、あたしのところで、ゆっくりしていかない?」
「莫迦いうな。今夜は、登戸泊まりだ」
登戸は、二子溝口からすぐの宿場だが、直接向かわずに、いったん多摩川をわたり、得意先の用賀、三軒茶屋を回り、そこで分岐している津久井道を戻るかたちで、若林、代田橋、世田谷、船橋、喜多見と回って渡し舟で登戸へ……と、考えていた。
石田散薬は、薬種商や雑貨屋に卸すだけではなく、富山の薬売りと同じように、置き薬として、使ったぶんだけ精算する。という商をしていたので、膨大な数の得意先を回らなければならなかった。
その販売範囲は、武州は川越から、相模、甲州の一部まで、五百軒におよぶ。
したがって、効率的なコースをとらねば、とてもではないが、剣術なぞをしている暇はない。歳三は、そういった計画を立てるのが得意だった。
歳三が世田谷を回って、登戸宿に着いたころには、もう、すっかり陽が落ちていた。
登戸には、友人の千人同心・戸倉又兵衛が居を構えている。
又兵衛は、千人同心に門人が多い天然理心流の目録だったが、近所に対等に試合ができる者がいないので、歳三が来るのを心待ちにしていた。
千人同心といえば八王子がその拠点である。
ところが、近年は、同心株の売買が盛んで、五日市や青梅、果ては、相模や飯能にまでその分布を拡げていた。
しかし、その身分は中途半端で、組頭など役付き以外は、名字は許されず、帯刀は、公務中に限られ、平素は農業を営む、いわば郷士的な存在であった。
歳三が訪れると、又兵衛は、抱きつかんばかりに歓迎した。
「トシさん。ご無沙汰だったなあ……待ちかねたぞ。今度は、どこを商っていたんだ」
「又さん。また世話んなるぜ。――どこって、久しぶりに江戸の得意先をな」
「ふっふふ。さては、吉原でお楽しみだったな」
「いや、今度は女っ気なしだ。まあ、こっちのほうは、打ってきたけどよ」
と、賽子を転がす真似をする。
「たんまり稼いだかい?」
「いや……それが、活きのいいのと喧嘩になってさ。やっぱり江戸っ子は、気が短けえ」
「勝ったんだろうな」
「当たり前だ。この歳三様が、町の喧嘩ごときに、負けてたまるか」
「そうこなくっちゃ。――でなければ、いつも負けてる俺の立場がねえ」
「へっ、なに言ってやがる。この前の突きを喰らったときは、三日ぐらい痛くてしかたなかったぜ。――今回は、その借りを返しにきた」
「ふふふ、望むところだ。明日も泊まっていくのかい?」
「いや、明日の昼には発たないと……」
歳三は、このあと津久井道の上菅生を抜けて、小野路の名主の小島家で稽古をしてから、その向かい側にある親戚の橋本家に一泊する予定だった。
歳三は、この橋本家の沢庵漬けが大の好物で、石田村まで漬け物樽をかついで、山道を帰ったことさえあった。
「そいつは、あわただしいな。まあ、今夜ぐらいは、ゆっくりしていってくれ。いま、女房に燗をつけさせるからよ」
「おう。いつもすまねえな」
歳三は、ゆっくりと旅装をときはじめた。
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