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33 勝沼町 松岡新三郎
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歳三たち三人は、宿役人と名主の立ち会いで、光岡の検視を終えた新町の粂蔵らとともに、仮通夜を行うと、その夜は、石川良介の家に泊まることになった。
身寄りのない光岡の遺体は、付き合いの古い、石川家の墓所の傍らに葬られることに決まり、八郎は、のちほど供養料を送ることを約した。
その晩は光岡を偲び、道場で酒盛りになったが、暗くなりがちな雰囲気を、陽気な師範代の木村佐太郎や、脳天気な峯吉が盛り上げた。
やがて宴も終わり、それぞれが床につく。
酔いつぶれた佐太郎と峯吉を居間に残し、歳三と八郎は、普段は武者修行で訪れる客を泊める、長屋門の四畳の部屋で床を並べた。
布団に入って小半刻あまり。歳三は、八郎が寝つけずにいることに、気付いていた。
「八郎さん……このたびは、とんだ旅でしたね」
「わたしが、気まぐれで旅にでて、あのとき光岡に、出会いさえしなければ、彼はまだ生きていたかもしれません……」
「それは、言ってもしかたのないことでしょう」
「そうですね……つい弱音を吐きました」
「ところで、八郎さんは、義兄の句会に出席するわけでもないのに、なぜ市河先生と日野にきたのですか?」
気まずい雰囲気に、歳三が話題を変えた。
「あのときは、武州の剣術道場を……などと、こたえましたが、じつは、気持ちが切り替われば、どこでもよかったのですよ」
「なにか気が鬱ぐ単語ぐようなことが、あったのでしょうか」
「いえ。気が鬱いだわけではありません……わたしにはいま、どうしても勝ちたい剣客がいます。
だから、毎日、毎日型を練り、義父にしごかれ……なのに、その勝ち筋が見えてこない。
有り体に言って、煮詰まってしまったのです。そこで、気分を一新するため、市河先生の旅に、わたりに舟と、便乗したわけです」
「八郎さんほどの者が、そこまでして勝ちたい相手とは、いったい何者ですか?」
「特に有名な剣客ではありません。名前を言ってもわからないでしょうが、そのかたは、神道無念流岡田十松門人、永倉新八さんといいます」
「な、永倉新八! そりゃ、本当ですか!? 新八っつあんなら、よく知ってますよ」
歳三が、思わず身体を起こした。
「それは、まことですか!?」
驚いたのは、八郎も同じだった。
歳三は、八王子横山宿でやっつけた、祐天一家の代貸を、それ以前に、小仏峠で懲らしめた話を、八郎に語った。
「ははは、新八さんらしいなあ……しかし驚きました。まさかトシさんが、永倉さんと知り合いになっていたとは……」
「なにやら、因縁を感じる話ですね……それよりも、新八っつあんが強いのは知ってましたが、八郎さんより上だとは、意外でした」
「新八さんの試合を見て、義父が言っていました。
“八郎。おまえの剣は剃刀だ。鋭いが脆い。だが、永倉殿の剣は、鉈だ。剃刀など粉々に撃ち砕くだろう”と……」
「なるほど、鉈か……新八っつあんの剣は、豪快だからなあ……」
歳三は、新八が小仏峠で見せた、天然理心流の龍尾剣を、思い出していた。
「それにしても、鉈とぶつかったら、剃刀はバラバラですね。なにか攻略する思案は浮かびましたか?」
「これも義父の言葉です。
“正面からぶつかる必要はない。鉈だとて必ず割れる筋がある”と……
わたしは、それを考え続けています」
「さすが、伊庭の軍兵衛先生だ。おっしゃることが深い」
歳三が、感心したように言った。
「言葉にすれば簡単です……しかし、それを実践するのは、至難の技なのです」
「八郎さんが日野で見せたやり方は、八郎さんの性質にぴったりだったと思いますよ。いまさら、それを変えたって、付け焼き刃のような気がします」
歳三は、井上松五郎を相手に、八郎が見せた、必要最小限の動きで相手をするさまを、頭に浮かべながら続ける。
「だから、新しくなにかをはじめるよりは、剃刀をさらに鋭く研ぎ、軍兵衛先生のおっしゃるとおり、正面からぶつからない方策を考える。それが近道でしょう」
いかにも歳三らしい、理論的な思考だった。
「なるほど。トシさんの言うとおりかもしれません。わたしは、わたしの持ち味を活かす……ありがとう。少し迷いが晴れたような気分です」
「いや、なあに。他人のことは、よく見える……というだけのことですよ」
八郎の声が明るくなったことに、歳三は、胸を撫で下ろした。
「八郎さん。この青梅宿には、先代・岡田十松の門人で、松岡新三郎という師範が道場を構えています。明日訪ねてみませんか?」
「ほう……では、新八さんの兄弟子ですね。それは興味深い。ぜひ案内してください」
――翌朝。
ふたりは、峯吉をともない勝沼町の松岡道場を訪ねた。
「ひゃあ、こっちも立派な道場ですねえ」
峯吉が道場を見上げながら、思わず声をあげた。
松岡道場は茅葺きだが、日野宿脇本陣の佐藤彦五郎邸の長屋門を、一回り大きくしたような、じつに立派な造りだった。
「松岡師範の義理の親父は、青梅宿でも指折りの豪商だからな」
「トシさん、よく知ってますね」
峯吉が感心する。
「そりゃあ、知ってるさ。甲州屋さんは、うちの得意先なんだ」
歳三は、松岡の義理の父が主人の甲州屋にも、石田散薬を卸していた。
松岡の道場は、石川道場に負けず劣らず流行っていた。
ペリー来港以来、武州各地の剣術道場は、かつてない盛況を見せている。つまり、それだけ人びとに危機感があったのだ。
「江戸でも剣術は盛んですが、多摩郡ほどではありませんね」
八郎が言った。この時代、多摩郡などの郊外は、浪人や無宿人が増加し、治安が悪化していたが、江戸の町は、まだ騒乱とは無縁であった。
「おおっ、めずらしい御仁がきたなあ。トシさん、道場にくるのは久しぶりじゃないか。どおれ、今日はたっぷりと揉んでやるか」
歳三が案内を乞うと、松岡が豪快に笑った。
「師範、今日は武者修行の者を、引き合わせにきました」
「ほう……」
「はじめまして。わたしは、心形刀流、伊庭八郎と申します」
「天然理心流、中島峯吉です」
「伊庭! では軍兵衛先生のご子息であられるか」
「はい。先代・軍兵衛は、わたしの父です」
「そうか……俺がまだ岡田門下のころ、先代には、いろいろお世話になったものだ。まあ、上がってくれ」
挨拶を済ませると、八郎が早速松岡に、稽古をつけてもらうことになった。
江戸近郊で、伊庭八郎の名前を知らない剣術修行者はいない。
歳三や峯吉だけでなく、松岡の門人たちも、固唾を飲んで試合稽古の行方を追った。
しかし、その稽古を見ている者はみな、戸惑いを隠せなかった。
松岡は、新八との試合のときと同様に、闘志も殺気も一切表に出さず、穏やかな表情を浮かべており、むしろ、のんびりしているようにさえ見える。
対する八郎の構えにも、表だった闘志は見えない。静かに正眼に構えて、対峙するのみであった。
つまり、それは端から見れば、いたって迫力のない、穏やかな光景だったのだ。
しかし歳三は、ふたりの間に、見えない糸のように張りつめた、かすかな緊張感があることを見逃さなかった。
峯吉も、それに気付いているのか、拳を握りしめて、固唾を飲んでいる。
やがてふたりの間には、耐えがたいほど張りつめた空気が充ち、歳三は息をするのも忘れた。
そのころには、松岡の門人たちも、ようやく、徐々に高まるただならない緊張感に気づき、道場のなかには、ぴんと張りつめた空気が充ちていた。
「む……」
八郎から無声の気合いとともに、鋭い突きがだされた。
以前、義父に見せられた起こりの見えない、一刀流の突きである。
同時に、松岡が半身になりつつ、半歩足を踏みだし、ぴしりと八郎の籠手を撃った。
なんとも呆気ない、そして、素人には、なにが起こったのか、まったく理解できない攻防であった。
「参りました」
八郎が頭を下げた。
それは、まさに、一瞬の攻防であった。
ふたりは、相手の起こりを読みあっていた。その均衡を八郎が破り、それを見抜いた松岡が、後の先を制したのだ。
歳三には、八郎の突きが、いつだされたのか見切れなかった。
ところが、歳三には見えなかった、その突きの起こりを捉え、松岡は的確に反応していた。
(こいつは、すげえ……俺なんぞでは、到底、太刀打ちできまい)
歳三は自分の実力を、第三者の視点で、冷静に分析できる、数少ない人間である。
いまの試合を見て、彦五郎の道場で八郎と試合をしたとき、奇策ですら通用しなかったのも、頷ける思いだった。
武術の上達の段階は、スポーツや格闘技のように、坂道状ではない。
スポーツならば、その日の調子などによって、できたりできなかったりがあるが、武術ではそれが即刻死につながる。できねば無意味なのだ。
つまり、段階は坂道状ではなく、できる、できない、という階段状であり、そこには、曖昧な要素は一切なく、実力の上下には、確固たる格差があった。
(八郎さんは、俺などよりも、ひとつ上の段階にいるにちがいない……)
道場の奥にある居間では、歳三と八郎が、松岡に茶をふるまわれていた。
峯吉は、松岡と八郎のたちあいを見て、刺激を受けたのか、まだ道場で松岡の弟子たちと稽古をしている。
「伊庭の若先生。あんた、その若さで、たいした腕前だ」
「いえ。松岡師範には、手も足も出ませんでした」
「おいおい、若先生。なめてもらっちゃ困るぜ。こう見えても俺は、その昔、岡田十松門下・四天王と呼ばれた男だぞ」
「これは失礼しました」
「八郎さん。気にしなくていいですよ。師範は、いつもこんな調子なんです」
苦笑しながら歳三がとりなした。
「おまけに、両国の香具師の女房に手を出して、挙げ句の果てが刃傷沙汰。江戸を追われて、いまじゃ、こんな田舎の道場主だ」
自分で言って、松岡が豪快に笑う。
「なあ、若先生……あんた、自分の気持ちを、恐れていないかい?」
不意に松岡が、真面目な声で言った。
「恐れているのでしょうか」
「若先生……いや八郎さん。あんたのなかには、自分では、どうしようもない怪物が棲んでいる。
あんたは、それを抑えようとしているが、時々その怪物が、あんたの表面に顔を出そうと牙をむく……」
「なぜそれを……」
「あんたから、一瞬、たしかに殺気を感じたんだ。でも、おかしなことに、それは、試合相手の俺に向けられたものじゃない……」
松岡の言葉の意味がわからず、歳三が怪訝な表情を浮かべる。
しかし、八郎の顔は、一瞬で青ざめた。
「八郎さん……あんたには、どうしても斬りたいやつがいる。でも、その相手に斬られてもいい……とも思っている。――違うかい?」
八郎は、こたえない。だがその沈黙が、なによりも雄弁に、そのこたえを示していた。
「俺がまだ岡田門下だったころは、そりゃあ毎日、血を吐くような稽古をしたもんだ。試合じゃあ、誰にも負ける気がしなかった。でも、俺は、いつも心のどこかで思っていた。
――はたして、真剣で命を懸けて勝負したら、俺の剣は、どこまでやれるのだろうか――ってね」
「…………」
「あんたの想いが、俺と同じだとは言わない。しかしそれは、剣を究めようと志す者は皆、いつか必ず通る道だと言っておこう。俺があんたに教えてやれることは、それだけだ」
八郎が思わず松岡を凝視した。
「驚きました。あの短い時間で、そこまでおわかりになるとは……」
松岡が再び豪快に笑った。
「言っただろ。俺は岡田十松門下・四天王だって」
「師範。八郎さんがたちあいたい相手ってのは、永倉新八さんなんですよ」
「な、なんだって!?」
歳三の言葉に、松岡が唖然とする。
「トシさん……ひとが悪いぜ。それで八郎さんを、俺に引き合わせたのかよ」
「いや、まあ、青梅にきたのは偶然なんですが……」
「その新八なら、ついこないだ、ここにきたぜ」
「えっ、そうなんですか!」
今度は、歳三が驚くが、考えてみれば、歳三が新八と出会ったのは小仏峠。青梅から、さほど遠い場所ではない。
「ああ。なんでも八王子の名主にたのまれて、甲州まで盗賊一味のことを調べに行くって言ってたな」
「盗賊一味……!」
歳三の目が、すうっと細くなり、一瞬、強い光を放った。あの獲物を狙う、肉食獣の目であった。
身寄りのない光岡の遺体は、付き合いの古い、石川家の墓所の傍らに葬られることに決まり、八郎は、のちほど供養料を送ることを約した。
その晩は光岡を偲び、道場で酒盛りになったが、暗くなりがちな雰囲気を、陽気な師範代の木村佐太郎や、脳天気な峯吉が盛り上げた。
やがて宴も終わり、それぞれが床につく。
酔いつぶれた佐太郎と峯吉を居間に残し、歳三と八郎は、普段は武者修行で訪れる客を泊める、長屋門の四畳の部屋で床を並べた。
布団に入って小半刻あまり。歳三は、八郎が寝つけずにいることに、気付いていた。
「八郎さん……このたびは、とんだ旅でしたね」
「わたしが、気まぐれで旅にでて、あのとき光岡に、出会いさえしなければ、彼はまだ生きていたかもしれません……」
「それは、言ってもしかたのないことでしょう」
「そうですね……つい弱音を吐きました」
「ところで、八郎さんは、義兄の句会に出席するわけでもないのに、なぜ市河先生と日野にきたのですか?」
気まずい雰囲気に、歳三が話題を変えた。
「あのときは、武州の剣術道場を……などと、こたえましたが、じつは、気持ちが切り替われば、どこでもよかったのですよ」
「なにか気が鬱ぐ単語ぐようなことが、あったのでしょうか」
「いえ。気が鬱いだわけではありません……わたしにはいま、どうしても勝ちたい剣客がいます。
だから、毎日、毎日型を練り、義父にしごかれ……なのに、その勝ち筋が見えてこない。
有り体に言って、煮詰まってしまったのです。そこで、気分を一新するため、市河先生の旅に、わたりに舟と、便乗したわけです」
「八郎さんほどの者が、そこまでして勝ちたい相手とは、いったい何者ですか?」
「特に有名な剣客ではありません。名前を言ってもわからないでしょうが、そのかたは、神道無念流岡田十松門人、永倉新八さんといいます」
「な、永倉新八! そりゃ、本当ですか!? 新八っつあんなら、よく知ってますよ」
歳三が、思わず身体を起こした。
「それは、まことですか!?」
驚いたのは、八郎も同じだった。
歳三は、八王子横山宿でやっつけた、祐天一家の代貸を、それ以前に、小仏峠で懲らしめた話を、八郎に語った。
「ははは、新八さんらしいなあ……しかし驚きました。まさかトシさんが、永倉さんと知り合いになっていたとは……」
「なにやら、因縁を感じる話ですね……それよりも、新八っつあんが強いのは知ってましたが、八郎さんより上だとは、意外でした」
「新八さんの試合を見て、義父が言っていました。
“八郎。おまえの剣は剃刀だ。鋭いが脆い。だが、永倉殿の剣は、鉈だ。剃刀など粉々に撃ち砕くだろう”と……」
「なるほど、鉈か……新八っつあんの剣は、豪快だからなあ……」
歳三は、新八が小仏峠で見せた、天然理心流の龍尾剣を、思い出していた。
「それにしても、鉈とぶつかったら、剃刀はバラバラですね。なにか攻略する思案は浮かびましたか?」
「これも義父の言葉です。
“正面からぶつかる必要はない。鉈だとて必ず割れる筋がある”と……
わたしは、それを考え続けています」
「さすが、伊庭の軍兵衛先生だ。おっしゃることが深い」
歳三が、感心したように言った。
「言葉にすれば簡単です……しかし、それを実践するのは、至難の技なのです」
「八郎さんが日野で見せたやり方は、八郎さんの性質にぴったりだったと思いますよ。いまさら、それを変えたって、付け焼き刃のような気がします」
歳三は、井上松五郎を相手に、八郎が見せた、必要最小限の動きで相手をするさまを、頭に浮かべながら続ける。
「だから、新しくなにかをはじめるよりは、剃刀をさらに鋭く研ぎ、軍兵衛先生のおっしゃるとおり、正面からぶつからない方策を考える。それが近道でしょう」
いかにも歳三らしい、理論的な思考だった。
「なるほど。トシさんの言うとおりかもしれません。わたしは、わたしの持ち味を活かす……ありがとう。少し迷いが晴れたような気分です」
「いや、なあに。他人のことは、よく見える……というだけのことですよ」
八郎の声が明るくなったことに、歳三は、胸を撫で下ろした。
「八郎さん。この青梅宿には、先代・岡田十松の門人で、松岡新三郎という師範が道場を構えています。明日訪ねてみませんか?」
「ほう……では、新八さんの兄弟子ですね。それは興味深い。ぜひ案内してください」
――翌朝。
ふたりは、峯吉をともない勝沼町の松岡道場を訪ねた。
「ひゃあ、こっちも立派な道場ですねえ」
峯吉が道場を見上げながら、思わず声をあげた。
松岡道場は茅葺きだが、日野宿脇本陣の佐藤彦五郎邸の長屋門を、一回り大きくしたような、じつに立派な造りだった。
「松岡師範の義理の親父は、青梅宿でも指折りの豪商だからな」
「トシさん、よく知ってますね」
峯吉が感心する。
「そりゃあ、知ってるさ。甲州屋さんは、うちの得意先なんだ」
歳三は、松岡の義理の父が主人の甲州屋にも、石田散薬を卸していた。
松岡の道場は、石川道場に負けず劣らず流行っていた。
ペリー来港以来、武州各地の剣術道場は、かつてない盛況を見せている。つまり、それだけ人びとに危機感があったのだ。
「江戸でも剣術は盛んですが、多摩郡ほどではありませんね」
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「おおっ、めずらしい御仁がきたなあ。トシさん、道場にくるのは久しぶりじゃないか。どおれ、今日はたっぷりと揉んでやるか」
歳三が案内を乞うと、松岡が豪快に笑った。
「師範、今日は武者修行の者を、引き合わせにきました」
「ほう……」
「はじめまして。わたしは、心形刀流、伊庭八郎と申します」
「天然理心流、中島峯吉です」
「伊庭! では軍兵衛先生のご子息であられるか」
「はい。先代・軍兵衛は、わたしの父です」
「そうか……俺がまだ岡田門下のころ、先代には、いろいろお世話になったものだ。まあ、上がってくれ」
挨拶を済ませると、八郎が早速松岡に、稽古をつけてもらうことになった。
江戸近郊で、伊庭八郎の名前を知らない剣術修行者はいない。
歳三や峯吉だけでなく、松岡の門人たちも、固唾を飲んで試合稽古の行方を追った。
しかし、その稽古を見ている者はみな、戸惑いを隠せなかった。
松岡は、新八との試合のときと同様に、闘志も殺気も一切表に出さず、穏やかな表情を浮かべており、むしろ、のんびりしているようにさえ見える。
対する八郎の構えにも、表だった闘志は見えない。静かに正眼に構えて、対峙するのみであった。
つまり、それは端から見れば、いたって迫力のない、穏やかな光景だったのだ。
しかし歳三は、ふたりの間に、見えない糸のように張りつめた、かすかな緊張感があることを見逃さなかった。
峯吉も、それに気付いているのか、拳を握りしめて、固唾を飲んでいる。
やがてふたりの間には、耐えがたいほど張りつめた空気が充ち、歳三は息をするのも忘れた。
そのころには、松岡の門人たちも、ようやく、徐々に高まるただならない緊張感に気づき、道場のなかには、ぴんと張りつめた空気が充ちていた。
「む……」
八郎から無声の気合いとともに、鋭い突きがだされた。
以前、義父に見せられた起こりの見えない、一刀流の突きである。
同時に、松岡が半身になりつつ、半歩足を踏みだし、ぴしりと八郎の籠手を撃った。
なんとも呆気ない、そして、素人には、なにが起こったのか、まったく理解できない攻防であった。
「参りました」
八郎が頭を下げた。
それは、まさに、一瞬の攻防であった。
ふたりは、相手の起こりを読みあっていた。その均衡を八郎が破り、それを見抜いた松岡が、後の先を制したのだ。
歳三には、八郎の突きが、いつだされたのか見切れなかった。
ところが、歳三には見えなかった、その突きの起こりを捉え、松岡は的確に反応していた。
(こいつは、すげえ……俺なんぞでは、到底、太刀打ちできまい)
歳三は自分の実力を、第三者の視点で、冷静に分析できる、数少ない人間である。
いまの試合を見て、彦五郎の道場で八郎と試合をしたとき、奇策ですら通用しなかったのも、頷ける思いだった。
武術の上達の段階は、スポーツや格闘技のように、坂道状ではない。
スポーツならば、その日の調子などによって、できたりできなかったりがあるが、武術ではそれが即刻死につながる。できねば無意味なのだ。
つまり、段階は坂道状ではなく、できる、できない、という階段状であり、そこには、曖昧な要素は一切なく、実力の上下には、確固たる格差があった。
(八郎さんは、俺などよりも、ひとつ上の段階にいるにちがいない……)
道場の奥にある居間では、歳三と八郎が、松岡に茶をふるまわれていた。
峯吉は、松岡と八郎のたちあいを見て、刺激を受けたのか、まだ道場で松岡の弟子たちと稽古をしている。
「伊庭の若先生。あんた、その若さで、たいした腕前だ」
「いえ。松岡師範には、手も足も出ませんでした」
「おいおい、若先生。なめてもらっちゃ困るぜ。こう見えても俺は、その昔、岡田十松門下・四天王と呼ばれた男だぞ」
「これは失礼しました」
「八郎さん。気にしなくていいですよ。師範は、いつもこんな調子なんです」
苦笑しながら歳三がとりなした。
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自分で言って、松岡が豪快に笑う。
「なあ、若先生……あんた、自分の気持ちを、恐れていないかい?」
不意に松岡が、真面目な声で言った。
「恐れているのでしょうか」
「若先生……いや八郎さん。あんたのなかには、自分では、どうしようもない怪物が棲んでいる。
あんたは、それを抑えようとしているが、時々その怪物が、あんたの表面に顔を出そうと牙をむく……」
「なぜそれを……」
「あんたから、一瞬、たしかに殺気を感じたんだ。でも、おかしなことに、それは、試合相手の俺に向けられたものじゃない……」
松岡の言葉の意味がわからず、歳三が怪訝な表情を浮かべる。
しかし、八郎の顔は、一瞬で青ざめた。
「八郎さん……あんたには、どうしても斬りたいやつがいる。でも、その相手に斬られてもいい……とも思っている。――違うかい?」
八郎は、こたえない。だがその沈黙が、なによりも雄弁に、そのこたえを示していた。
「俺がまだ岡田門下だったころは、そりゃあ毎日、血を吐くような稽古をしたもんだ。試合じゃあ、誰にも負ける気がしなかった。でも、俺は、いつも心のどこかで思っていた。
――はたして、真剣で命を懸けて勝負したら、俺の剣は、どこまでやれるのだろうか――ってね」
「…………」
「あんたの想いが、俺と同じだとは言わない。しかしそれは、剣を究めようと志す者は皆、いつか必ず通る道だと言っておこう。俺があんたに教えてやれることは、それだけだ」
八郎が思わず松岡を凝視した。
「驚きました。あの短い時間で、そこまでおわかりになるとは……」
松岡が再び豪快に笑った。
「言っただろ。俺は岡田十松門下・四天王だって」
「師範。八郎さんがたちあいたい相手ってのは、永倉新八さんなんですよ」
「な、なんだって!?」
歳三の言葉に、松岡が唖然とする。
「トシさん……ひとが悪いぜ。それで八郎さんを、俺に引き合わせたのかよ」
「いや、まあ、青梅にきたのは偶然なんですが……」
「その新八なら、ついこないだ、ここにきたぜ」
「えっ、そうなんですか!」
今度は、歳三が驚くが、考えてみれば、歳三が新八と出会ったのは小仏峠。青梅から、さほど遠い場所ではない。
「ああ。なんでも八王子の名主にたのまれて、甲州まで盗賊一味のことを調べに行くって言ってたな」
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MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
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