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42 祐天仙之助
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御子神紋多は、甲府緑町にある料理屋『まさご』の黒板塀の前に立った。
まさごでは、一と六のつく日に、祐天仙之助が賭場をひらいていたが、この夜は、しんと静まりかえっている。
入り口から入るのが煩わしいのか、あたりを見回し、ひと気がないことをたしかめて、御子神は、黒板塀を軽々と跳びこえ、音もなく庭に降りたった。
仙之助は、店の経営は情婦にまかせ、賭場の運営にちからを注いでおり、賭場が開帳しない日にも、この店の離れ座敷にいることが多かった。
足音を消して離れに忍び寄ると、座敷からは、かすかな鼾がきこえてくる。
御子神は、不気味な笑みを浮かべ、足元の小石を拾い、離れの障子に向かって投げつけた。
鈍い音をたて、障子に小さな穴が開くと、鼾がぴたりと止まり、座敷のなかから、凄まじい殺気が溢れ出た。
「クックックックッ……」
御子神が、声に出して笑う。
すると、障子がスウーッと開き、憮然とした表情の祐天仙之助が顔を出す。その手には、抜きはなたれた大刀が握られていた。
「御子神の旦那……悪い冗談ですぜ。てっきり、刺客の襲撃かと思って、胆を冷やしやしたよ」
「見事な反応だ。博徒にしておくのは、もったいない……だが、拙者が庭に降りたった時点で気付かないようでは、命《たま》を獲られるぞ」
「いえ。そんときには、気付いておりやした」
「では、あの鼾は?」
「へえ。狸寝入りでさ」
「クックック……やりおる。一杯喰ったのは、拙者でござるか」
「ところで、こんな夜更けに、いったい、何のご用でございましょうか?」
御子神が、新家の女房が離縁して、八王子の子安宿に、身を寄せたことを説明すると、
「あっしに、女房の始末をつけろってえ、ご依頼ですかい」
間髪を入れず仙之助がこたえた。
「察しがよいな。おぬし……やはり、博徒にしておくのは、もったいない」
そう言うと、仙之助に切り餅(二十五両)をさしだした。
仙之助は、切り餅を懐に仕舞いながら口を開く。
「ちょうどようござんした。じつは、横山宿の舎弟が出入りで怪我を負いやして、明日見舞いに出向く予定でいやした」
舎弟を痛めつけたのは、言うまでもなく歳三たちである。
「ほう……殴りこみか?」
「いえ。どうやら剣術遣いと喧嘩になったようで……」
「神道無念流・免許皆伝のおぬしがおれば、舎弟も怪我せずに済んだろうに」
「へえ……ですが、先ほど道場に、武者修行の者がまいりやして、見事にしてやられました」
「おぬしを、うち負かすとは、なかなかの使い手だな。何者だ?」
「それが……情けねえことに、天然理心流とかいう無名の流派の、まだ元服したばかりのような青二才に、してやられました」
「ほう。天然理心流……きいたことがあるぞ。八王子に増田蔵六なる者が道場をひらいているはずだ」
「そやつは、山本満次郎の門弟とか言っておりやした」
「ほう。山本では、おぬしと同じ名字ではないか」
御子神が嬉しそうに笑った。
「笑いごとではありやせんぜ。あっしは、少し自信を失いやした」
「ふふふ。勝負は水物だ。気にするな。それよりも……言い忘れたが今度の仕事は、きっちり三日後にやってくれ。なに、相手は女ひとり。三下にもつとまるような簡単な仕事だ」
「いえ……ちょうど強え浪人の客分がいるので、そやつに殺らせましょう」
「そうか……殺りかたは、おぬしにまかせる。三日後というのを守ってもらえば、それでよい」
「そんな楽な仕事に、切り餅をはずんでくださって、ありがとうござんす」
「なに……おぬしには、これからも、ちからを貸してもらわねばならぬ。では、たのんだぞ」
本心はおくびにも出さず、御子神は笑顔で言うと、立ち上がる。
「へえ。たしかに引き受けやした……清河先生に、よろしくお伝えください」
「うむ」
御子神はうなずき、座敷をあとにすると、入ってきたときと同じように、黒板塀を軽々と跳びこえ、闇夜に消えた。
このときふたりは、この仕事が、簡単にはいかないなどとは、考えてもいなかった。
山口一は、深夜の甲州道中を、提灯も持たず、ひたすら歩いていた。
樹木が視界を狭める暗闇のなか、ぼんやり浮かんだ道と、頭上に広がる満天の星だけが頼りだ。
石和の宿場を抜けてしばらくゆくと、笛吹川を、わたらねばならぬが、そのような刻限に、渡し舟などは当然あろうはずもない。
笛吹川は、渇水期の九月から五月ぐらいまでは、仮橋を架けていたが、水量が増える夏期は渡船であった。
しかし、梅雨前のこの時期は、さほど増水しておらず、着物を脱ぎ、帯で縛って背負うと、迷うことなく流れに足を踏みいれた。
笛吹川は、下流で富士川と名前をかえる。
日本三大急流と言われている富士川の上流だけに、流れはきつく身を切るように冷たい。
何度か足をとられそうになりながらも、腰まで水に浸かり、なんとか対岸までたどり着いた。
梅雨入りしていたら、とてもわたりきることは、出来なかったであろう。
着物を身につけると、山口は再び歩きだす。歩みぶりには、いささかの迷いもなかったが、気持ちは揺れていた。
山口は自分が、八王子に行って、何をしようというのか。はっきりとした目的があるわけではない。
何をしたらよいのか、それすらもわからず、ただ焦燥感に駈られて、ひたすら歩いている。
男谷に敗れ、剣士としての自信を失い、それでもまだ、ひとかどの剣士と思いあがっていたその矜持は、ともに暮らした女ひとり護ることができなかったことにより、大きく揺らいでいた。
自分の剣をどう活かすのか。自分は、これからいったい何を為すべきなのか。山口には、それさえも見えず、憑かれたように、夜道を速足で歩む。
慚愧の想いと喪失感だけが、激しく山口を駆りたてていた。
この当時、よほどのことがないかぎり、夜旅をするものなどはいない。
宿場の棒鼻にある常夜灯以外、灯りなどはないので、闇稽古で暗闇に慣れた武芸者や、夜目が効く盗賊でもなければ、山あいの夜旅などは、不可能に近かった。
笹子峠にさしかかり、道は勾配がきつくなり、生い茂った樹木が、さらに道を狭めたあたりで、ふと、なにかの気配を感じた。
ひらけた東海道と違い、甲州道中は急峻な山道である。猿や鹿はおろか、熊や狼さえいるときいていた。
山口は一瞬、緊張から殺気を発するが、相手が野生動物であれば、察知される恐れがあるので、すぐに自分の気配を絶ち、立ち止まって、あたりの気配を探る。
しばらく周辺の気配を探ったが、物音ひとつせず、あたりはしんと静まりかえっていた。
「気のせいか……」
そして、そのとき気持ちが定まった。
たった一度目にしただけの女だが、殺されるとわかっていて、見捨てるわけにはいかない。
その行為によって、己が救えなかった女が戻ってくることなど、あるはずもないし、それが自己満足にすぎないことは、百も承知だ。
だが、山口は、そうせずにはいられなかった。
「ちっ」
自分の感情をもて余し、山口は鋭く舌打ちをすると、再び闇夜の道を歩きだした。
捨五郎は、提灯も持たずに、深夜の甲州道中を急いでいた。
十七の歳から、盗賊稼業に身をやつした捨五郎にとっては、夜の暗闇など、どうということもない。
大盗賊・名栗の文平のもと、夜目を鍛える訓練をしていたので、提灯などは必要がなかった。
捨五郎は、安房の国の一の宮、安房神社の神職の子として生まれた。言い伝えによると、安房神社は、神武天皇元年のころというから、紀元前660年の創建といわれている。
捨五郎の父親吉三は、神職といっても正階という職階(資格)だったので、安房神社のような、格式の高い神社の宮司にはなれないが、禰宜の生活は安定していた。
吉三は勉強熱心で、勤王の意思が強く藤田東湖などとも親交があり、捨五郎も幼いころから水戸学を学び、いずれは神職に就くつもりであった。
ところが十六のとき、地元のやくざ者と喧嘩になり、もののはずみで、あやまって相手を殺害してしまった。
故郷を追われた捨五郎は、盗みやかっぱらいなどで、かろうじて糊口をしのいでいたが、先行きに何ひとつ希望はなかった。
ひと口に、かっぱらいというが、当時の量刑は、追い落とし、つまり相手を脅かし、とり落とした物品を奪えば死罪。追い剥ぎ、直接物品を奪えば獄門と、極めて苛烈であった。
だから、荒っぽいことで知られる箱根の雲助なども、態度や口で脅すことはあっても、決して直接手をだすことはなかった。
そんな捨五郎を拾ったのが、盗賊・名栗の文平である。
わずかな金銭のため命を賭すよりも、同じ死罪ならば、大金と秤にかけたほうが、わりがあうというものだ。
そうして捨五郎は、盗賊の世界に足を踏み入れた。
とはいえ、名栗の文平の一味は、しっかり統率がとれており、過去二十年間に捕まった一味の者は、ひとりもいなかった。
文平が病死したあと、捨五郎は、一味を抜けたが、いまは、再会したかつての仲間である御子神の配下として、重要な役目をはたしていた。
以前の捨五郎は、ただ金銭と己の快楽のために、盗みをはたらいていたが、いまは違う。
強欲な商人から奪った金が、夷狄を排除し、皇国の尊厳を守るために使われるのだ。
水戸学を学び、攘夷の意思の強い捨五郎にとって、これ以上のことはなかった。
盗みは、あと四日後にせまり、御子神一味は、時間をずらし、それぞれが、単独で八王子に向かっていた。
捨五郎は、一味の番頭役なので、最初に到着して、いろいろと支度をせねばならず、こうして夜道をひとり歩いている。
ひっそりと静まりかえった駒飼宿を抜けると、甲州道中の最大の難所、笹子峠である。
桃の木茶屋をすぎ、清水橋で笹子沢川をこえると、甲州道中は、いよいよ山道の様相を呈してきた。
ここから先は、足元に、いっそう注意をはらわねばならないが、捨五郎は先ほどから、他のことに注意をはらっていた。
というのは、誰かが自分を尾けているような気がしてならないからであった。
駒飼宿を抜けたあと振り向いたときに、常夜灯の前を、一瞬、黒い影が横切るのを見たような気がするのだ。
お上に目をつけられるようなへまをした覚えはない。しかし、盗賊としての勘は、後ろに気をつけろと、さかんに警鐘を鳴らしていた。
山道に入ると、道はぐねぐねと曲がりくねり、相手の影は見えないが、相手からも自分の影は、見えていないはずだ。
捨五郎は、見通しの悪い場所を曲がったとたん、道ばたの下草に、素早く身をひそめた。
こうした場合の心得は、名栗の文平より、みっちりと仕込まれている。捨五郎は、ゆっくりと細く長く呼吸した。
頭のなかで自分の鼻の前に、細くて長い糸があるように想い描き、その糸が呼吸によって、一切揺れないようイメージする。
呼吸、すなわち気配である。そうすることによって、己の気配を殺し、なおかつ、心に浮かぶ動揺や恐怖といった感情を絶つのだ。
しばらく身をひそめていると、足早に、誰かが近づいてくる気配を感じた。しかし、速足にも関わらずほとんど足音がしない。
そのとき、ちょうど隠れていた月が顔を出し、はっきりと近づいてきた男の姿が浮かびあがる。
男は、二本差しの武士だった。腰が座り、身体を上下左右に揺らすことなく、滑るように歩みをすすめている。
(こいつは、かなりの使い手に、ちげえねえ……)
捨五郎は、緊張しそうになる己の気持ちを鎮めるため、心に浮かべた、鼻の前に垂らした糸に、意識を集中した。
男は立ち止まると、一瞬、かすかな殺気を放つ。
(!――嗅ぎつけられたか)
捨五郎は、ますます糸に意識を集中し、動揺しないように、気持ちを落ち着かせる。
男は、一瞬で殺気を消し、あたりの様子をうかがっていたが、しばらくすると、
「気のせいか……」
そうつぶやいて、再び早足で歩き去った。
捨五郎は、それからしばらくは、細く長く呼吸しながら、その場にじっとしていたが、男が去ってから四半刻あまりして、ようやく大きく息を吐きだした。
(どうやら俺を尾けていたわけじゃあなさそうだが……)
立ち上がると、膝が震えているのがわかった。よほど緊張していたらしい。
「それにしてもあの野郎、只者じゃあねえな……」
今度は声に出してつぶやくと、八王子を目指して、捨五郎は、再び歩きだした。
まさごでは、一と六のつく日に、祐天仙之助が賭場をひらいていたが、この夜は、しんと静まりかえっている。
入り口から入るのが煩わしいのか、あたりを見回し、ひと気がないことをたしかめて、御子神は、黒板塀を軽々と跳びこえ、音もなく庭に降りたった。
仙之助は、店の経営は情婦にまかせ、賭場の運営にちからを注いでおり、賭場が開帳しない日にも、この店の離れ座敷にいることが多かった。
足音を消して離れに忍び寄ると、座敷からは、かすかな鼾がきこえてくる。
御子神は、不気味な笑みを浮かべ、足元の小石を拾い、離れの障子に向かって投げつけた。
鈍い音をたて、障子に小さな穴が開くと、鼾がぴたりと止まり、座敷のなかから、凄まじい殺気が溢れ出た。
「クックックックッ……」
御子神が、声に出して笑う。
すると、障子がスウーッと開き、憮然とした表情の祐天仙之助が顔を出す。その手には、抜きはなたれた大刀が握られていた。
「御子神の旦那……悪い冗談ですぜ。てっきり、刺客の襲撃かと思って、胆を冷やしやしたよ」
「見事な反応だ。博徒にしておくのは、もったいない……だが、拙者が庭に降りたった時点で気付かないようでは、命《たま》を獲られるぞ」
「いえ。そんときには、気付いておりやした」
「では、あの鼾は?」
「へえ。狸寝入りでさ」
「クックック……やりおる。一杯喰ったのは、拙者でござるか」
「ところで、こんな夜更けに、いったい、何のご用でございましょうか?」
御子神が、新家の女房が離縁して、八王子の子安宿に、身を寄せたことを説明すると、
「あっしに、女房の始末をつけろってえ、ご依頼ですかい」
間髪を入れず仙之助がこたえた。
「察しがよいな。おぬし……やはり、博徒にしておくのは、もったいない」
そう言うと、仙之助に切り餅(二十五両)をさしだした。
仙之助は、切り餅を懐に仕舞いながら口を開く。
「ちょうどようござんした。じつは、横山宿の舎弟が出入りで怪我を負いやして、明日見舞いに出向く予定でいやした」
舎弟を痛めつけたのは、言うまでもなく歳三たちである。
「ほう……殴りこみか?」
「いえ。どうやら剣術遣いと喧嘩になったようで……」
「神道無念流・免許皆伝のおぬしがおれば、舎弟も怪我せずに済んだろうに」
「へえ……ですが、先ほど道場に、武者修行の者がまいりやして、見事にしてやられました」
「おぬしを、うち負かすとは、なかなかの使い手だな。何者だ?」
「それが……情けねえことに、天然理心流とかいう無名の流派の、まだ元服したばかりのような青二才に、してやられました」
「ほう。天然理心流……きいたことがあるぞ。八王子に増田蔵六なる者が道場をひらいているはずだ」
「そやつは、山本満次郎の門弟とか言っておりやした」
「ほう。山本では、おぬしと同じ名字ではないか」
御子神が嬉しそうに笑った。
「笑いごとではありやせんぜ。あっしは、少し自信を失いやした」
「ふふふ。勝負は水物だ。気にするな。それよりも……言い忘れたが今度の仕事は、きっちり三日後にやってくれ。なに、相手は女ひとり。三下にもつとまるような簡単な仕事だ」
「いえ……ちょうど強え浪人の客分がいるので、そやつに殺らせましょう」
「そうか……殺りかたは、おぬしにまかせる。三日後というのを守ってもらえば、それでよい」
「そんな楽な仕事に、切り餅をはずんでくださって、ありがとうござんす」
「なに……おぬしには、これからも、ちからを貸してもらわねばならぬ。では、たのんだぞ」
本心はおくびにも出さず、御子神は笑顔で言うと、立ち上がる。
「へえ。たしかに引き受けやした……清河先生に、よろしくお伝えください」
「うむ」
御子神はうなずき、座敷をあとにすると、入ってきたときと同じように、黒板塀を軽々と跳びこえ、闇夜に消えた。
このときふたりは、この仕事が、簡単にはいかないなどとは、考えてもいなかった。
山口一は、深夜の甲州道中を、提灯も持たず、ひたすら歩いていた。
樹木が視界を狭める暗闇のなか、ぼんやり浮かんだ道と、頭上に広がる満天の星だけが頼りだ。
石和の宿場を抜けてしばらくゆくと、笛吹川を、わたらねばならぬが、そのような刻限に、渡し舟などは当然あろうはずもない。
笛吹川は、渇水期の九月から五月ぐらいまでは、仮橋を架けていたが、水量が増える夏期は渡船であった。
しかし、梅雨前のこの時期は、さほど増水しておらず、着物を脱ぎ、帯で縛って背負うと、迷うことなく流れに足を踏みいれた。
笛吹川は、下流で富士川と名前をかえる。
日本三大急流と言われている富士川の上流だけに、流れはきつく身を切るように冷たい。
何度か足をとられそうになりながらも、腰まで水に浸かり、なんとか対岸までたどり着いた。
梅雨入りしていたら、とてもわたりきることは、出来なかったであろう。
着物を身につけると、山口は再び歩きだす。歩みぶりには、いささかの迷いもなかったが、気持ちは揺れていた。
山口は自分が、八王子に行って、何をしようというのか。はっきりとした目的があるわけではない。
何をしたらよいのか、それすらもわからず、ただ焦燥感に駈られて、ひたすら歩いている。
男谷に敗れ、剣士としての自信を失い、それでもまだ、ひとかどの剣士と思いあがっていたその矜持は、ともに暮らした女ひとり護ることができなかったことにより、大きく揺らいでいた。
自分の剣をどう活かすのか。自分は、これからいったい何を為すべきなのか。山口には、それさえも見えず、憑かれたように、夜道を速足で歩む。
慚愧の想いと喪失感だけが、激しく山口を駆りたてていた。
この当時、よほどのことがないかぎり、夜旅をするものなどはいない。
宿場の棒鼻にある常夜灯以外、灯りなどはないので、闇稽古で暗闇に慣れた武芸者や、夜目が効く盗賊でもなければ、山あいの夜旅などは、不可能に近かった。
笹子峠にさしかかり、道は勾配がきつくなり、生い茂った樹木が、さらに道を狭めたあたりで、ふと、なにかの気配を感じた。
ひらけた東海道と違い、甲州道中は急峻な山道である。猿や鹿はおろか、熊や狼さえいるときいていた。
山口は一瞬、緊張から殺気を発するが、相手が野生動物であれば、察知される恐れがあるので、すぐに自分の気配を絶ち、立ち止まって、あたりの気配を探る。
しばらく周辺の気配を探ったが、物音ひとつせず、あたりはしんと静まりかえっていた。
「気のせいか……」
そして、そのとき気持ちが定まった。
たった一度目にしただけの女だが、殺されるとわかっていて、見捨てるわけにはいかない。
その行為によって、己が救えなかった女が戻ってくることなど、あるはずもないし、それが自己満足にすぎないことは、百も承知だ。
だが、山口は、そうせずにはいられなかった。
「ちっ」
自分の感情をもて余し、山口は鋭く舌打ちをすると、再び闇夜の道を歩きだした。
捨五郎は、提灯も持たずに、深夜の甲州道中を急いでいた。
十七の歳から、盗賊稼業に身をやつした捨五郎にとっては、夜の暗闇など、どうということもない。
大盗賊・名栗の文平のもと、夜目を鍛える訓練をしていたので、提灯などは必要がなかった。
捨五郎は、安房の国の一の宮、安房神社の神職の子として生まれた。言い伝えによると、安房神社は、神武天皇元年のころというから、紀元前660年の創建といわれている。
捨五郎の父親吉三は、神職といっても正階という職階(資格)だったので、安房神社のような、格式の高い神社の宮司にはなれないが、禰宜の生活は安定していた。
吉三は勉強熱心で、勤王の意思が強く藤田東湖などとも親交があり、捨五郎も幼いころから水戸学を学び、いずれは神職に就くつもりであった。
ところが十六のとき、地元のやくざ者と喧嘩になり、もののはずみで、あやまって相手を殺害してしまった。
故郷を追われた捨五郎は、盗みやかっぱらいなどで、かろうじて糊口をしのいでいたが、先行きに何ひとつ希望はなかった。
ひと口に、かっぱらいというが、当時の量刑は、追い落とし、つまり相手を脅かし、とり落とした物品を奪えば死罪。追い剥ぎ、直接物品を奪えば獄門と、極めて苛烈であった。
だから、荒っぽいことで知られる箱根の雲助なども、態度や口で脅すことはあっても、決して直接手をだすことはなかった。
そんな捨五郎を拾ったのが、盗賊・名栗の文平である。
わずかな金銭のため命を賭すよりも、同じ死罪ならば、大金と秤にかけたほうが、わりがあうというものだ。
そうして捨五郎は、盗賊の世界に足を踏み入れた。
とはいえ、名栗の文平の一味は、しっかり統率がとれており、過去二十年間に捕まった一味の者は、ひとりもいなかった。
文平が病死したあと、捨五郎は、一味を抜けたが、いまは、再会したかつての仲間である御子神の配下として、重要な役目をはたしていた。
以前の捨五郎は、ただ金銭と己の快楽のために、盗みをはたらいていたが、いまは違う。
強欲な商人から奪った金が、夷狄を排除し、皇国の尊厳を守るために使われるのだ。
水戸学を学び、攘夷の意思の強い捨五郎にとって、これ以上のことはなかった。
盗みは、あと四日後にせまり、御子神一味は、時間をずらし、それぞれが、単独で八王子に向かっていた。
捨五郎は、一味の番頭役なので、最初に到着して、いろいろと支度をせねばならず、こうして夜道をひとり歩いている。
ひっそりと静まりかえった駒飼宿を抜けると、甲州道中の最大の難所、笹子峠である。
桃の木茶屋をすぎ、清水橋で笹子沢川をこえると、甲州道中は、いよいよ山道の様相を呈してきた。
ここから先は、足元に、いっそう注意をはらわねばならないが、捨五郎は先ほどから、他のことに注意をはらっていた。
というのは、誰かが自分を尾けているような気がしてならないからであった。
駒飼宿を抜けたあと振り向いたときに、常夜灯の前を、一瞬、黒い影が横切るのを見たような気がするのだ。
お上に目をつけられるようなへまをした覚えはない。しかし、盗賊としての勘は、後ろに気をつけろと、さかんに警鐘を鳴らしていた。
山道に入ると、道はぐねぐねと曲がりくねり、相手の影は見えないが、相手からも自分の影は、見えていないはずだ。
捨五郎は、見通しの悪い場所を曲がったとたん、道ばたの下草に、素早く身をひそめた。
こうした場合の心得は、名栗の文平より、みっちりと仕込まれている。捨五郎は、ゆっくりと細く長く呼吸した。
頭のなかで自分の鼻の前に、細くて長い糸があるように想い描き、その糸が呼吸によって、一切揺れないようイメージする。
呼吸、すなわち気配である。そうすることによって、己の気配を殺し、なおかつ、心に浮かぶ動揺や恐怖といった感情を絶つのだ。
しばらく身をひそめていると、足早に、誰かが近づいてくる気配を感じた。しかし、速足にも関わらずほとんど足音がしない。
そのとき、ちょうど隠れていた月が顔を出し、はっきりと近づいてきた男の姿が浮かびあがる。
男は、二本差しの武士だった。腰が座り、身体を上下左右に揺らすことなく、滑るように歩みをすすめている。
(こいつは、かなりの使い手に、ちげえねえ……)
捨五郎は、緊張しそうになる己の気持ちを鎮めるため、心に浮かべた、鼻の前に垂らした糸に、意識を集中した。
男は立ち止まると、一瞬、かすかな殺気を放つ。
(!――嗅ぎつけられたか)
捨五郎は、ますます糸に意識を集中し、動揺しないように、気持ちを落ち着かせる。
男は、一瞬で殺気を消し、あたりの様子をうかがっていたが、しばらくすると、
「気のせいか……」
そうつぶやいて、再び早足で歩き去った。
捨五郎は、それからしばらくは、細く長く呼吸しながら、その場にじっとしていたが、男が去ってから四半刻あまりして、ようやく大きく息を吐きだした。
(どうやら俺を尾けていたわけじゃあなさそうだが……)
立ち上がると、膝が震えているのがわかった。よほど緊張していたらしい。
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今度は声に出してつぶやくと、八王子を目指して、捨五郎は、再び歩きだした。
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貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
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