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42 祐天仙之助

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 御子神紋多は、甲府緑町にある料理屋『まさご』の黒板塀の前に立った。
 まさごでは、一と六のつく日に、祐天仙之助が賭場をひらいていたが、この夜は、しんと静まりかえっている。
 入り口から入るのが煩わしいのか、あたりを見回し、ひと気がないことをたしかめて、御子神は、黒板塀を軽々と跳びこえ、音もなく庭に降りたった。
 仙之助は、店の経営は情婦にまかせ、賭場の運営にちからを注いでおり、賭場が開帳しない日にも、この店の離れ座敷にいることが多かった。

 足音を消して離れに忍び寄ると、座敷からは、かすかな鼾がきこえてくる。
 御子神は、不気味な笑みを浮かべ、足元の小石を拾い、離れの障子に向かって投げつけた。
 鈍い音をたて、障子に小さな穴が開くと、鼾がぴたりと止まり、座敷のなかから、凄まじい殺気が溢れ出た。
「クックックックッ……」
 御子神が、声に出して笑う。
 すると、障子がスウーッと開き、憮然とした表情の祐天仙之助が顔を出す。その手には、抜きはなたれた大刀が握られていた。

「御子神の旦那……悪い冗談ですぜ。てっきり、刺客の襲撃かと思って、胆を冷やしやしたよ」
「見事な反応だ。博徒にしておくのは、もったいない……だが、拙者が庭に降りたった時点で気付かないようでは、命《たま》を獲られるぞ」
「いえ。そんときには、気付いておりやした」
「では、あの鼾は?」
「へえ。狸寝入りでさ」
「クックック……やりおる。一杯喰ったのは、拙者でござるか」
「ところで、こんな夜更けに、いったい、何のご用でございましょうか?」

 御子神が、新家の女房が離縁して、八王子の子安宿に、身を寄せたことを説明すると、
「あっしに、女房の始末をつけろってえ、ご依頼ですかい」
 間髪を入れず仙之助がこたえた。
「察しがよいな。おぬし……やはり、博徒にしておくのは、もったいない」
 そう言うと、仙之助に切り餅(二十五両)をさしだした。
 仙之助は、切り餅を懐に仕舞いながら口を開く。
「ちょうどようござんした。じつは、横山宿の舎弟が出入りで怪我を負いやして、明日見舞いに出向く予定でいやした」
 舎弟を痛めつけたのは、言うまでもなく歳三たちである。

「ほう……殴りこみか?」
「いえ。どうやら剣術遣いと喧嘩になったようで……」
「神道無念流・免許皆伝のおぬしがおれば、舎弟も怪我せずに済んだろうに」
「へえ……ですが、先ほど道場に、武者修行の者がまいりやして、見事にしてやられました」
「おぬしを、うち負かすとは、なかなかの使い手だな。何者だ?」
「それが……情けねえことに、天然理心流とかいう無名の流派の、まだ元服したばかりのような青二才に、してやられました」
「ほう。天然理心流……きいたことがあるぞ。八王子に増田蔵六なる者が道場をひらいているはずだ」
「そやつは、山本満次郎の門弟とか言っておりやした」
「ほう。山本では、おぬしと同じ名字ではないか」
 御子神が嬉しそうに笑った。

「笑いごとではありやせんぜ。あっしは、少し自信を失いやした」
「ふふふ。勝負は水物だ。気にするな。それよりも……言い忘れたが今度の仕事は、きっちり三日後にやってくれ。なに、相手は女ひとり。三下にもつとまるような簡単な仕事だ」
「いえ……ちょうど強え浪人の客分がいるので、そやつに殺らせましょう」
「そうか……殺りかたは、おぬしにまかせる。三日後というのを守ってもらえば、それでよい」
「そんな楽な仕事に、切り餅をはずんでくださって、ありがとうござんす」
「なに……おぬしには、これからも、ちからを貸してもらわねばならぬ。では、たのんだぞ」
 本心はおくびにも出さず、御子神は笑顔で言うと、立ち上がる。
「へえ。たしかに引き受けやした……清河先生に、よろしくお伝えください」
「うむ」
 御子神はうなずき、座敷をあとにすると、入ってきたときと同じように、黒板塀を軽々と跳びこえ、闇夜に消えた。
 このときふたりは、この仕事が、簡単にはいかないなどとは、考えてもいなかった。

 山口一は、深夜の甲州道中を、提灯も持たず、ひたすら歩いていた。
 樹木が視界を狭める暗闇のなか、ぼんやり浮かんだ道と、頭上に広がる満天の星だけが頼りだ。
 石和の宿場を抜けてしばらくゆくと、笛吹川を、わたらねばならぬが、そのような刻限に、渡し舟などは当然あろうはずもない。
 笛吹川は、渇水期の九月から五月ぐらいまでは、仮橋を架けていたが、水量が増える夏期は渡船であった。
 しかし、梅雨前のこの時期は、さほど増水しておらず、着物を脱ぎ、帯で縛って背負うと、迷うことなく流れに足を踏みいれた。

 笛吹川は、下流で富士川と名前をかえる。
 日本三大急流と言われている富士川の上流だけに、流れはきつく身を切るように冷たい。
 何度か足をとられそうになりながらも、腰まで水に浸かり、なんとか対岸までたどり着いた。
 梅雨入りしていたら、とてもわたりきることは、出来なかったであろう。
 着物を身につけると、山口は再び歩きだす。歩みぶりには、いささかの迷いもなかったが、気持ちは揺れていた。
 山口は自分が、八王子に行って、何をしようというのか。はっきりとした目的があるわけではない。

 何をしたらよいのか、それすらもわからず、ただ焦燥感に駈られて、ひたすら歩いている。
 男谷に敗れ、剣士としての自信を失い、それでもまだ、ひとかどの剣士と思いあがっていたその矜持は、ともに暮らした女ひとり護ることができなかったことにより、大きく揺らいでいた。
 自分の剣をどう活かすのか。自分は、これからいったい何を為すべきなのか。山口には、それさえも見えず、憑かれたように、夜道を速足で歩む。
 慚愧の想いと喪失感だけが、激しく山口を駆りたてていた。

 この当時、よほどのことがないかぎり、夜旅をするものなどはいない。
 宿場の棒鼻にある常夜灯以外、灯りなどはないので、闇稽古で暗闇に慣れた武芸者や、夜目が効く盗賊でもなければ、山あいの夜旅などは、不可能に近かった。
 笹子峠にさしかかり、道は勾配がきつくなり、生い茂った樹木が、さらに道を狭めたあたりで、ふと、なにかの気配を感じた。
 ひらけた東海道と違い、甲州道中は急峻な山道である。猿や鹿はおろか、熊や狼さえいるときいていた。
 山口は一瞬、緊張から殺気を発するが、相手が野生動物であれば、察知される恐れがあるので、すぐに自分の気配を絶ち、立ち止まって、あたりの気配を探る。
 しばらく周辺の気配を探ったが、物音ひとつせず、あたりはしんと静まりかえっていた。
「気のせいか……」

 そして、そのとき気持ちが定まった。
 たった一度目にしただけの女だが、殺されるとわかっていて、見捨てるわけにはいかない。
 その行為によって、己が救えなかった女が戻ってくることなど、あるはずもないし、それが自己満足にすぎないことは、百も承知だ。
 だが、山口は、そうせずにはいられなかった。
「ちっ」
 自分の感情をもて余し、山口は鋭く舌打ちをすると、再び闇夜の道を歩きだした。

 捨五郎は、提灯も持たずに、深夜の甲州道中を急いでいた。
 十七の歳から、盗賊稼業に身をやつした捨五郎にとっては、夜の暗闇など、どうということもない。
 大盗賊・名栗の文平のもと、夜目を鍛える訓練をしていたので、提灯などは必要がなかった。

 捨五郎は、安房の国の一の宮、安房神社の神職の子として生まれた。言い伝えによると、安房神社は、神武天皇元年のころというから、紀元前660年の創建といわれている。
 捨五郎の父親吉三は、神職といっても正階という職階(資格)だったので、安房神社のような、格式の高い神社の宮司にはなれないが、禰宜ねぎの生活は安定していた。
 吉三は勉強熱心で、勤王の意思が強く藤田東湖などとも親交があり、捨五郎も幼いころから水戸学を学び、いずれは神職に就くつもりであった。

 ところが十六のとき、地元のやくざ者と喧嘩になり、もののはずみで、あやまって相手を殺害してしまった。
 故郷を追われた捨五郎は、盗みやかっぱらいなどで、かろうじて糊口をしのいでいたが、先行きに何ひとつ希望はなかった。

 ひと口に、かっぱらいというが、当時の量刑は、追い落とし、つまり相手を脅かし、とり落とした物品を奪えば死罪。追い剥ぎ、直接物品を奪えば獄門と、極めて苛烈であった。
 だから、荒っぽいことで知られる箱根の雲助なども、態度や口で脅すことはあっても、決して直接手をだすことはなかった。

 そんな捨五郎を拾ったのが、盗賊・名栗の文平である。
 わずかな金銭のため命を賭すよりも、同じ死罪ならば、大金と秤にかけたほうが、わりがあうというものだ。
 そうして捨五郎は、盗賊の世界に足を踏み入れた。
 とはいえ、名栗の文平の一味は、しっかり統率がとれており、過去二十年間に捕まった一味の者は、ひとりもいなかった。

 文平が病死したあと、捨五郎は、一味を抜けたが、いまは、再会したかつての仲間である御子神の配下として、重要な役目をはたしていた。
 以前の捨五郎は、ただ金銭と己の快楽のために、盗みをはたらいていたが、いまは違う。
 強欲な商人から奪った金が、夷狄を排除し、皇国の尊厳を守るために使われるのだ。
 水戸学を学び、攘夷の意思の強い捨五郎にとって、これ以上のことはなかった。

 盗みは、あと四日後にせまり、御子神一味は、時間をずらし、それぞれが、単独で八王子に向かっていた。
 捨五郎は、一味の番頭役なので、最初に到着して、いろいろと支度をせねばならず、こうして夜道をひとり歩いている。

 ひっそりと静まりかえった駒飼宿を抜けると、甲州道中の最大の難所、笹子峠である。
 桃の木茶屋をすぎ、清水橋で笹子沢川をこえると、甲州道中は、いよいよ山道の様相を呈してきた。
 ここから先は、足元に、いっそう注意をはらわねばならないが、捨五郎は先ほどから、他のことに注意をはらっていた。
 というのは、誰かが自分をような気がしてならないからであった。
 駒飼宿を抜けたあと振り向いたときに、常夜灯の前を、一瞬、黒い影が横切るのを見たような気がするのだ。
 お上に目をつけられるようなをした覚えはない。しかし、盗賊としての勘は、後ろに気をつけろと、さかんに警鐘を鳴らしていた。
 山道に入ると、道はぐねぐねと曲がりくねり、相手の影は見えないが、相手からも自分の影は、見えていないはずだ。

 捨五郎は、見通しの悪い場所を曲がったとたん、道ばたの下草に、素早く身をひそめた。
 こうした場合の心得は、名栗の文平より、みっちりと仕込まれている。捨五郎は、ゆっくりと細く長く呼吸した。
 頭のなかで自分の鼻の前に、細くて長い糸があるように想い描き、その糸が呼吸によって、一切揺れないようイメージする。
 呼吸、すなわち気配である。そうすることによって、己の気配を殺し、なおかつ、心に浮かぶ動揺や恐怖といった感情を絶つのだ。

 しばらく身をひそめていると、足早に、誰かが近づいてくる気配を感じた。しかし、速足にも関わらずほとんど足音がしない。
 そのとき、ちょうど隠れていた月が顔を出し、はっきりと近づいてきた男の姿が浮かびあがる。
 男は、二本差しの武士だった。腰が座り、身体を上下左右に揺らすことなく、滑るように歩みをすすめている。

(こいつは、かなりの使い手に、ちげえねえ……)

 捨五郎は、緊張しそうになる己の気持ちを鎮めるため、心に浮かべた、鼻の前に垂らした糸に、意識を集中した。
 男は立ち止まると、一瞬、かすかな殺気を放つ。

(!――嗅ぎつけられたか)

 捨五郎は、ますます糸に意識を集中し、動揺しないように、気持ちを落ち着かせる。
 男は、一瞬で殺気を消し、あたりの様子をうかがっていたが、しばらくすると、
「気のせいか……」
 そうつぶやいて、再び早足で歩き去った。
 捨五郎は、それからしばらくは、細く長く呼吸しながら、その場にじっとしていたが、男が去ってから四半刻あまりして、ようやく大きく息を吐きだした。

(どうやら俺を尾けていたわけじゃあなさそうだが……)

 立ち上がると、膝が震えているのがわかった。よほど緊張していたらしい。
「それにしてもあの野郎、只者じゃあねえな……」
 今度は声に出してつぶやくと、八王子を目指して、捨五郎は、再び歩きだした。

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