47 / 51
46 甲州道中 黒野田宿
しおりを挟む笹子峠を越えて、山口が黒野田宿に入ったころには、すでに真夜中を回っていた。
黒野田宿は、本陣一、脇本陣一、旅籠は十四軒、人口は三百三十人ほどで、あまり大きな宿場ではない。
しかし、隣の阿弥陀海道宿まで、わずか十二町。その隣の白野宿は、そこから十八町と、三つの宿場でひとつのようになっており、合わせると、人口は九百人を越える。
甲州道中は、山あいの狭い往還なので、総じて宿場間の距離が短かかった。
もっとも短いのは、意外なことに、江戸からすぐの布田五宿の国領と下布田(現在の調布市)の間で、わずか二町というから、220メートルしか離れていない。
黒野田は、笹子峠を控えているため、足を止める旅人が多く、人口のわりには、にぎやかな宿場である。
さすがにこの時間だと、常夜灯以外の明かりはなく、宿場は死んだように静まりかえっていた。
一晩歩き通しで、山口は仮眠をとる場所を探していた。宿場の外れで、小さな山門を見つけて足を止める。
境内に足を踏み入れると、正面に、茅葺きの大きな屋根の本堂が目に入った。
山口は本堂に向かう。あたりを見回して、安全をたしかめると、賽銭箱の後ろにある階の裏側に潜りこんだ。
大刀を抱くようにして横になると、たちまち眠りに落ちた。
――山口が眠りについたころ。
捨五郎も黒野田宿に、足を踏み入れ、迷うことなく『三州屋』という荒物屋の戸を叩いた。
すると、静かに潜り戸が開いた。室内は薄暗い。捨五郎は、懐から短刀を取りだし、頭上に掲げつつ左足から室内に入る。
「捨五郎さん。相変わらず用心深いね」
嗄れた声で老人が言った。盗人宿の番人の友吉である。
「なに、友さんを疑っているわけじゃねえ。身についた習慣《ならい》ってやつさ」
「ふふっ。御子神の旦那仕込みだね……あんたは、昔からそうだったからな」
「朝まで世話んなるぜ。今夜は、肝を冷やしたんで、妙に疲れちまった」
「あんたでも、肝を冷やすことなんて、あるのかい?」
友吉が笑ったので、捨五郎が笹子峠での経緯を話した。
「ふうん、そいつあ剣呑な野郎だな。でも、あんたを追っていたわけじゃあないだろうね」
捨五郎が話し終えると、友吉が断定した。
「友さんもそう思うかい?」
「ああ。もしそうなら、あんた、いまごろ三途の川さ」
そう言いながら、友吉が酒の支度をはじめる。
「おっかねえことは、言いっこなしだぜ……なんにせよ、あの侍には、ゾッとしたぜ。なんか、身体じゅうから、ひんやりとした殺気を放っていやがった」
「まあ、こうして無事だったんだ。楽しく一杯やろう」
友吉は捨五郎に杯をわたすと、徳利から、なみなみと酒を注いだ。
山口は、なにかをこするような物音で目を覚ました。
空気が澄んでいた。あたりは、うっすらと明るくなり、小鳥の囀ずりが耳につく。
音がした方を見ると、寺の小僧が境内の箒がけをしていた。
(少し寝過ごしたか……)
小僧が視界から外れて見えなくなると、山口は、静かに立ちあがり、刀を腰に差す。
そして着物についた砂ぼこりを払い、あたりを見回すと、おもむろに歩きだした。
――そのとき。
「ぐっすりとお休みでしたな」
いきなり背後から声がかかり、山口は、反射的に腰を落とし、柄に手をかけた。瞬く間の速さである。
「おっと、驚かせてしまったようだな。わしは、この寺の住職で芳年と申す」
振り向くと、後ろには、いつの間にか老いた僧侶が立っていた。
(俺が見回したときは、たしかに誰もいなかった。この坊主いつの間に……)
山口の脇の下を、冷たい汗が流れた。
芳年は、山口の殺気を孕んだ、険しい視線を気にする様子もなく、穏やかに続ける。
「腹は減っておらぬか? 朝餉は、いかがかな」
断ろうと口を開きかけたとき、大きな音を響かせ腹が鳴り、山口が赤面する。
甲府を出て以来、馴染みの茶店の団子を食べただけなので、無理もない。山口は、返事もきかず歩きだした芳年に従った。
質素な膳である。麦飯に根深汁、そして古漬けの沢庵だけの食卓であった。
しかし、これが驚くほど美味い。山口は江戸育ちなので、白米しか食べたことがなかった。麦飯などは、卑しい者の食べ物と、はなから決めつけていたからだ。
江戸っ子は、麦飯を臭い飯と見下し、白い米を食すことを誇りにしていた。山口も麦飯を食べるなど、考えたこともなかった。
ところが、臭いどころか香ばしい匂いが食欲をそそり、米に混ざった弾力のある麦の食感が楽しく、夢中で掻きこんだ。
具が葱だけの根深汁も、山口には新鮮な驚きだった。よく火のとおった葱は、柔らかく甘い。その自然な甘さが、古漬けの塩気によって引き締まる。
気がつくと飯を三杯もおかわりし、根深汁も二杯飲み干していた。
「飯を食べたら、殺気が消えましたな」
芳年が微笑みを浮かべた。
「殺気? まさか……僧侶に手をかけるほど、俺は、落ちぶれてはおらぬ」
「その殺気は、わしに向けられたものではない。おぬしが、おぬし自身に向けたものだ。なにがあったのかは存ぜぬが、わしには、おぬしが抜き身の刀に見えた」
怪訝な表情の山口に、芳年が続ける。
「だが、飯を食っただけで、その殺気は消えた……人間なんぞは、しょせんそんなものよ」
言われてみれば、昨日までの心にあった、刺々しい気持ちが薄れているのに山口は気づいた。
それは物理的に、空腹が満たされたからでは、決してなかった。
山口は、親からも兄からも疎外されて育った。とはいえ、父親は裕福だったので、三食きちんと白い飯を食べさせてもらっていた。
当時は、まず当主がひとりで飯を食い、そのあと家族が食べるのが武家の一般的な食事風景であった。
しかし、山口は兄や母と同じ食卓につくことはなく、たったひとりの食事が常で、冷えきった台所で流しこむ食事を、美味いと思ったことは、一度もなかった。
山口は、穏やかな表情の芳年から顔をそむけ、懐から小粒を取りだすと、素早く紙に包み、差しだした。
「すっかり馳走になった。少ないが喜捨を……」
「ありがたく頂戴いたす」
麦飯に根深汁と沢庵の値には、過剰な金額だが、芳年は、当たり前のようにうけとった。
「いかい世話になった……では、御免」
山口は、立ちあがると、作法どおり右側に置いた刀を腰に戻し、一礼すると、踵を返した。
「怒りや憎しみは、なにも生まず、身を滅ぼすのみ……飯を食べたあとの、あの気持ち。それを忘れずにいなさい」
その言葉をきき流し、山口が部屋を出ようとした刹那、斬りつけるように芳年が続けた。
「――それは、剣術の極意でもある」
一瞬、山口の動きが止まる。が、振り向いて一礼すると、そのまま歩み去った。
「さて、哀しきかな。修羅を背負った男よ……」
芳年がつぶやいた。
山口は山門を出ると、本堂に一瞥をくれて歩きだす。甲州道中は、すでに旅人が行きかっている。すぐ横を、僧侶が軽く会釈しながらすれ違う。
振り向くと、僧侶が山門をくぐるのが目に入った。
(それにしても、あの芳年とかいう坊主……ただ者ではない。元は、名のある武芸者にちがいない)
山口は、どんな人物に出会っても、その相手を斬れるかどうか、たしかめる癖がある。つい剣客の目で見てしまうのだ。
しかし芳年には、そういう気持ちが起こらなかった。いや、正確には、そういう気持ちを起こす瞬間、見事にそうした気を逸らされていた。
もし、これが剣の勝負なら、山口は、見事に攻撃の起こりを、捉えられていたことになる。
「――ちっ」
鋭く舌打ちすると、山口は、憮然とした表情で、八王子に向かって歩きだした。
芳年は、山口を見送ったあと、しばらくその方角を見つめていたが、ため息をつくと、食器を片付けはじめた。
そのとき、小僧が呼ぶ声がきこえた。
「和尚様、全福寺の秀全住職がいらっしゃいました」
「すぐ参る」
客間では、強瀬村の全福寺の住職・秀全が待っていた。
「さてさて……今日は朝から、剣術に取り憑かれた者共が、千客万来だな」
芳年は、笑みを浮かべながら秀全に言った。
「先ほどすれ違ったあの若い男ですな……かなりの使い手と見ましたが、お知り合いですか?」
「いや……陛の下で眠っておった。空腹と見たので、朝餉を共にしただけにすぎぬ」
「さようでしたか……しかし、あの若者から、なにやら深い苦悩を感じました」
秀全がそう言うと、芳年の目がかすかに見開かれた。
「ほう……それがわかれば、たいしたものだ。どうやらおぬしも、少しは大人になったようだ」
「やめてください。拙僧は、もう五十路ですぞ」
「早いものだ。おぬしを、今戸の潮江院に送ったのは、もう四十年も前のことか……」
「あのとき護ってくださったおかげで、いまの拙僧があります。感謝しております」
「あの子どもが、いまでは五十路か……わしも老けるわけだ」
「あのときの、芳年さまの見事な剣を、どうしても忘れることが、できません。だから、いつまでも剣術に執着するのかもしれませぬ」
「なに。村人は喜んでおるのだから、青空道場は、続けるがよい。物騒な世の中だからの。しかし、五十路にもなって、執着を捨てられぬとは、おぬしも、まだまだ青二才だのう……
すべての執着を捨ててこそ、剣術の極意が見えてくるのだ」
「拙僧には、まだその境地は、わかりかねます」
「よいではないか……もがき苦しむのもまた、修行のひとつ。わしのように枯れるには、まだ早い」
芳年は笑い飛ばすが、不意に表情を引き締め、
「だが、あの若者……危うい。修羅道に堕ちねばよいが……」
と、つぶやいた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【時代小説】 黄昏夫婦
蔵屋
歴史・時代
江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。
そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。
秋田藩での仕事は勘定方である。
仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。
ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。
そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。
娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。
さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。
「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。
今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。
この風習は広く日本で行われている。
「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。
「たそかれ」という言葉は『万葉集』に
誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」
— 『万葉集』第10巻2240番
と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。
「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に
「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」
— 『源氏物語』「夕顔」光源氏
と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
作家 蔵屋日唱
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる