彼岸の傾城傾国

高嗣水清太

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第二章 悪意を呑んだ天命

第三十話

 李冰りひょう歓迎の宴は、謁見の場と同じ禁城きんじょうの正殿で開かれた。
 正殿は謁見や設宴が催される宮殿であり、遠征出征など儀礼にも用いられる宮殿でもある。慣れ親しんだ、とは言えないものの、李冰りひょうにとっても初めて足を踏み入れる場所ではないぶん、酒宴にも抵抗は少ないだろうと煌威こういが踏んだ結果だった。

 中央の玉座に煌威こういは座し、その左後方に大将軍である紅焔こうえんが控えて立つ。
 本来であれば、宴では皇帝の側近く控えるのは文官どころか給仕のみと決まっていたが、ここでも紅焔こうえんの欲望による約束事は遺憾いかん無く発揮された。

 ――煌威こういの一番近くに。

 それは何時いかなる状況、立場であっても変わらない。

 それでも一応、今回は宴席なのだから、と煌威こうい紅焔こうえんに座卓を進めたが、「属国ではない北戎ほくじゅを迎えての酒宴で何かあってからでは遅い。皇帝の護衛だ」とそれらしいことを言われれば無碍にする訳にもいかず、さすがに煌威こういも二の句は継げなかった。
 周囲からの意味ありげな視線には、気づかないことにする。

 煌威こういの玉座前方には、向かって左右に二列の座卓が広がっていた。 
 左に嗣尤しゆう抄昊しょうこうそして帝国縁者、右には李冰りひょう煌凛こうりん北戎ほくじゅの縁者だ。
 北戎ほくじゅが帝国と結んだのは友好条約であり、基本的には帝国の属国ではない為、本来であれば煌威こういの対極に李冰りひょうの座席を設ける筈だったが、本人から遠慮されては致し方なく、右側の座卓を北戎ほくじゅ縁者の席とした。
 正殿は広い。端から端まで座卓とすれば、対極線上の煌威こうい李冰りひょうはお互いの顔すらはっきり見えない位置になることから、李冰りひょうが対極の座席を辞した理由は、至極簡単なものかもしれなかった。

 しかし宴はそれぞれの心情などお構い無しに、早々と酒の匂いや喧騒で満たされる。
 煌凛こうりんから聞いたことを如何にそれとなく聞こうかと、李冰りひょうにどう話しかけようかと煌威こういが逡巡していたときだ。李冰りひょうが立ち上がり、玉座に向かって歩を進めるのを見て、煌威こういは思わず緊張に背筋を正した。
 李冰りひょうはその手に小酒杯しょうしゅはいを持っている。
 手に杯を持ち、こちらに歩いてくる理由など一つしかない。

 帝国には、酒宴にも作法というものが存在する。とある国には無礼講という言葉が存在するそうだが、煌龍帝国こうりゅうていこくではそういった言葉自体が無い。礼儀作法を重んじる国と言えば聞こえはいいが、堅苦しいことこの上なく、煌威こういからしてみればあらゆる面において形式にばかり囚われている国だという感想しか出てこなかった。

 だから、友好国の作法を勉強して実践してくる李冰りひょうの姿勢は煌威こういにも好ましく映ってはいたのだが、しかしそれ以上に申し訳なさが先立っていた。

「……本当に……変えたい仕来りが多すぎる国だ」

 李冰りひょうの姿を目で追いながら、煌威こういはひっそりと呟いた。

 勿論そんな煌威こういの複雑な胸の内など露知らず、李冰りひょうは玉座一歩手前で一礼する。
 対し、それには煌威こういは動かず、作法にのっとり背後に控えていた紅焔こうえんが先に動いた。
 紅焔こうえん煌威こういの座卓に置かれていた銚子ちょうしを手に取り、玉座の階段を降りていく。
 李冰りひょうの目の前に辿り着いた紅焔こうえんは、先の李冰りひょうならって一礼し、手にしていた銚子を差し出した。それに合わせて李冰りひょうが跪き、小酒杯を持つ右手を添えた左手と共に恭しく掲げる。
 並々と注がれた酒は透明で、一目で上物の白酒パイチュウだと分かる代物だ。

 白酒は穀物から造られる蒸留酒で、農耕で栄えた煌龍帝国こうりゅうていこくならではの酒とも言える。 その芳香は強く、薫り高い。
 白酒は、酒宴の乾杯儀礼に習慣でよく使われる酒だった。

「敬称一杯」

 李冰りひょうがそう言って一気に杯を仰ぐ。
 昔から続く、飲み干すことで敬意を表す乾杯の作法だ。
 李冰りひょうが杯を逆さにして飲み干したことを示した後、それを確認した紅焔こうえんが踵を返して煌威こういの元へ戻ってくる。
 敬意を表されたのだから、こちらもそれに返すのが礼儀だ。その為の、古くから続く乾杯儀礼である。
 本来はお互い手酌で行うものだが、皇帝という煌威こういの立場から、手にした小酒杯に紅焔こうえんが白酒を注いでいる、正にそのときだった。

「……? 李冰りひょう殿?」

 ふと目をやった、紅焔こうえんの肩越しに見えた李冰りひょうの姿に、煌威こういは違和感を覚える。
 李冰りひょうは杯を逆さにした姿勢のまま、何故か動きを止めていた。微動だにしない。まるで、石のように固まっていた。
 よくよく見てみれば、その顔色は青く変色を始めている。

「――!」

 李冰りひょうの身体が、大きく傾いた。

 嫌な記憶を呼び起こす光景だった。
 そう古くもない、かつて目の前で自刃した、母のような――

李冰りひょう殿!?」

 煌凛こうりんの悲鳴に近い声が正殿に響き渡った。

「ッ陛下!」

 何かに気づいたらしい紅焔こうえんから、手にしていた杯を叩き落とす形で奪われる。
 床に転がった杯の甲高い無機質な音と、倒れ込む李冰りひょうの重たい音は同時だった。

 酒による和やかな喧騒は、瞬く間に不穏な空気を孕む喧騒へと変わる。

李冰りひょう殿!? 李冰りひょう……ッ!!」

 倒れた李冰りひょうに、思わずといった風情で駆け寄った煌凛こうりんだが、その苦悶の表情に青紫色の顔と、静止した鼓動に息を呑んだ。

「り、李冰りひょうど、の! り、りひょ……ッ李冰りひょう殿ッ!」

 煌凛こうりんは混乱のあまり、ただ名前を呼び、その身体に縋ることしか出来ない。
 帝国の女武将として戦場をかけた煌凛こうりんの姿はどこにもなかった。
 当然と言っていいものか。李冰りひょうからの返事は一向になく、煌凛こうりんの悲鳴は更に大きくなる。

「あっ……あぁ……ッ李冰りひょう……李冰りひょう殿っ!! いや……いや、です……李冰りひょうどのっ!!」
「典医を呼べ!!」

 紅焔こうえんが顔をしかめながら指示を飛ばす。

 煌威こういは、その様を茫然と見ていた。
 恐怖で思考が停止したわけではない。場の展開についていけないわけでもない。
 煌威こういは、確信していた。
 典医を呼ぶまでもない。――これは、毒だ。



「青酸中毒です」

 煌威こういが予想した通り、急遽酒宴を中止して呼び出した典医から告げられたのは、中毒死という結果だった。

 青酸は、腐らせた牛の血を錆びた鉄鍋で灰と一緒に混ぜ、ときおり鍋を叩きながら煮詰めるという方法で作られる毒だ。
 青酸は独特の香りがあり、無味無臭なわけではない。お世辞にも美味いとはいえない風味は、毒と気づく可能性が高いぶん帝国では滅多に使われないものだが、相手が李冰りひょうとなると話は異なる。白酒は帝国にとって地酒と言ってもいい馴染みのある酒でも、李冰りひょうにとっては違うからだ。 北戎ほくじゅの人間である李冰りひょうからしてみれば、通常と異なる風味すら気づかず、それが普通だと勘違いする可能性も無きにしも非ず、である。

 銚子と杯が銀製ではなく、陶磁器製だったのがまた不運だった。
 銀製であれば、青酸に反応した器の変化に、見た目から気づいただろうに。

 他殺か、自殺か。自殺は考えにくい立場と状況から、他殺だとして。犯人は、帝国の人間か。帝国と和平を結ぶつもりはない北戎ほくじゅ側の誰かか。

 煌威こういはとっさに口元を片手で覆った。
 酒宴は中止になったとはいえ、此処は正殿で。並み居る己の臣下と、北戎ほくじゅの面々が揃っている。
 見られてはいけない、と。脳が警鐘を発した故の行動だ。
 煌威こういはつり上がる口角を手で隠して、変わり果てた李冰りひょうの遺体を見つめる。

 ――李冰りひょうが、死んだ。母である玉環ぎょくかんを抜かせば、わたしの秘密を知る唯一の人間が死んだ。 わたしが皇帝でいなければいけない理由の一つが無くなった――。

「……紅焔こうえん
「はい」

 思わず口をついて出た名だった。
 すぐ傍で応えてくれた声に、煌威こういは込上げるものを感じる。
 身体が、震えた。
 分かっている。こんなことを考えている暇はないことは、煌威こういにも分かっている。外交問題だ。いや、煌凛こうりんのことを思えば、外交問題だけには留まらないし、自国内だけの話でもない。そんな簡単な話ではないことも分かっている。
 だが、いくら否定しようと。いくら最もらしい理由を探して誤魔化そうとしても、煌威こういの心臓を打つのはどうしようもない歓喜だった。

 紅焔こうえんを皇帝とすることが、出来るかもしれない――……



 とうの昔に諦めた筈の願望が、頭をもたげる気配がした。
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