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IDEA of IDENTITY
起源/アルケー 二章二節
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イェシュア教会、ひいては付属した司祭館で暮らしはじめて、もう千年近くにもなろうか。
弾圧、迫害、戦争、飢饉。激動する歴史の片隅で、私はこの国の行く末を見守ってきた。人類は成熟するのは早かったが、以降、緩やかに衰退しているように思われる。
時代は変わり、文明が進み、幾多の血が流れても、私達はここにいた。
出ることのかなわないこの場所を、ある男は牢獄のようだと言った。
私はそうは思わない。
ここは楽園だ。私の築いたエデン。私のための安穏の空間。
不完全な私が生きることを許された、唯一の居場所である。
多くの人間が訪れた。羽を休める者もあれば、孤独を癒しにやってきた者もいたし、ただの暇つぶしも、依存も、大歓迎であった。私は識らなければならなかった。傷を抱えた彼らの内側を、産毛の一本一本を数えるように、隅から隅まで覗き、なぞり、時には壊した。結果、皆、ここを去った。惜しくはない。サンプルは多いほうがいい。またそのうち、代わりがやってくる。新鮮で風変りな誰かが。
人は迷い込むものだ。
謎とは甘美な誘惑をも蓄えている。
人間は迷宮が好きなのだ。わからないものを恐れるくせに、知りたがる。怖いもの見たさでパンドラの箱を開ける、罪な生き物だ。イシュもイシャーも、秘密に堪えられなかった。そうして得た知恵と自由には、絶望と嘆きが絡みついていた。
それはもしかしたら、喜びへの布石だったのかもしれないけれど。
その日の夕方、私は紅茶の載ったトレイを持って二階の書斎へと向かった。そこはエハヴ神父の領域である。壁をぐるりと囲む本棚と、あぶれた書物が床に積み上がった部屋だ。窓は換気のために僅か開けられるようになっているが、機能しているかは怪しい。おまけにこれだけ燃えやすい部屋で平然と煙草を吸うのだから、始末に負えない。彼の部屋なので文句はないが、テーブルの上だけは片付けておけと思う。
彼とジュリアは、この時間、この部屋で、勉強会を開いている。
ジュリアの教養のためだ。彼は言語障害が所以でまともに修学をしてこなかったから、エハヴが教師になって空白の埋め合わせをしている。博識な人だから、内容については心配していない。私などよりよっぽど役に立つだろう。
問題なのは、エハヴが悪い人だということだ。
書斎のドアをノックしようとした時、神父様、と呼ぶ声がした。
甘く、蜜のようにとろけた声だ――ああ、と私は思った。扉の向こうで秘め事が紡がれている――まださわりか、それとも終盤か。二回目かもしれない。互いの名を呼び合っている。抑えた声ほど、他者の耳には届きやすいものだ。
エハヴが教えるのは善いことだけではない。煙草も、酒も、隙あらば仕込もうとする。気分が盛り上がるとこうして場所を弁えず行為に走る。彼を愛するジュリアは、罪悪感すらも快感に変えて彼を受け入れてしまう。性交は夜だけと定めているのは私の掟であるからして、エハヴに遵守する義務などないわけだが。
この司祭館へは老若男女問わず招き入れるけれど、一つだけ条件がある。
我々に体を許すことだ。
委ねる、と言い換えてもいいかもしれない。聖霊である我が身にとって、性行為とは魂の触れ合いに他ならない。
彼らの本質が最も剥き出しになるのは、快楽の最中である。
私は体を重ね、感覚を共有し満たされると共に、人間の真ん中に触れてきた。しかしそれは、本来なら禁忌である。姦淫してはならぬという、神の教えに私は背いている。だが私には人を識るためという大義名分がある。困った父は、私に夜間だけ自由を許した。神の眠る一時の間に起きた出来事には、文字通り目を瞑ろうというわけだ。
だから私は、どれだけ奔放に振る舞おうとも、陽の高いうちは手を出さない。無防備に居眠りしていようと小さな口にアイスキャンディーを頬張っていようと仰いだ襟元からぴんとと立ったニップルが覗いていようと、父との契約のために心頭を滅却してきたのである。
羨ましくはあるが嫉妬はしない。私はエハヴに張り合いの感情や克己心を覚えたことはない。彼との関係はうまく言い表せない。腐れ縁、と言ってしまえばそれで終わりだ。
だから今日も、容赦なく扉を開けて、盛大にからかってやろうとしたのだが。
私の手は動かなかった。
手の甲を掲げたまま、硬直してしまった。ポットから立ち昇る香気を気持ち悪いと思った。私は戸惑っていた。次に移すべき行動がわからなくなっていた。呼吸が乱れた。余計に混乱した。邪魔をしたくないのか。いいや――そんな殊勝な態度、私には似つかわしくない。なら何だ? 薄く扉を開けて鑑賞でもするか。それとも漏れる嬌声を録音して酒盛りの際にでも流そうか。早く決めないと紅茶の味が落ちる。渋いのをジュリアは好まない。
唐突に――私は耳を塞ぎたくなった。
神父様、とあの子が呼ぶ。
ジュリア、と悪魔はそれに応える。
二人の世界はこの部屋の中で完成し、また完結しているのだ。
――必要ない。
僕は。
この場所に。
もしかしたら。
僕は――いてもいなくても、同じなのかもしれない。
左腕に負荷がかかった。
私はあやうくトレイを落とすところだった。私は目を剥いて、私の腕を掴んでいる者の顔を見た。
それは私であった。
少なくとも、私と瓜二つの顔をしていた。
イシュ――と。
もう一人の私は僕の名を呼び。
微笑んだ。
「やっと会えた」
弾けたのは暗黒の光だった。意識が、飛んだ。
♰
扉の外で、食器の割れる音がした。
司祭が素早く顔を上げた。彼はジュリアの唇に指を添え、体を離した。体裁を整えると、足音を殺して歩み、薄くドアを開けた。隙間から外を覗く。静かだった。ジュリアもまた下着を身に着け、司祭の大きな体に身を寄せた。
廊下には誰もいない。
にも拘わらず、ポットが床で砕け、中身をぶちまけている。湯気が上がっていた。淹れたての温度だ。壁際にトレイも確認した。
直前まであの人がいたのだ。
いつもの通り、差し入れにやってきた――。
ジュリアは廊下の端から端まで視線をやって、金色の髪を探した。
「イッシュ様……?」
ジュリア達は立ち尽くした。
無残に散った三人分のティーカップが、不吉を教えていた。
弾圧、迫害、戦争、飢饉。激動する歴史の片隅で、私はこの国の行く末を見守ってきた。人類は成熟するのは早かったが、以降、緩やかに衰退しているように思われる。
時代は変わり、文明が進み、幾多の血が流れても、私達はここにいた。
出ることのかなわないこの場所を、ある男は牢獄のようだと言った。
私はそうは思わない。
ここは楽園だ。私の築いたエデン。私のための安穏の空間。
不完全な私が生きることを許された、唯一の居場所である。
多くの人間が訪れた。羽を休める者もあれば、孤独を癒しにやってきた者もいたし、ただの暇つぶしも、依存も、大歓迎であった。私は識らなければならなかった。傷を抱えた彼らの内側を、産毛の一本一本を数えるように、隅から隅まで覗き、なぞり、時には壊した。結果、皆、ここを去った。惜しくはない。サンプルは多いほうがいい。またそのうち、代わりがやってくる。新鮮で風変りな誰かが。
人は迷い込むものだ。
謎とは甘美な誘惑をも蓄えている。
人間は迷宮が好きなのだ。わからないものを恐れるくせに、知りたがる。怖いもの見たさでパンドラの箱を開ける、罪な生き物だ。イシュもイシャーも、秘密に堪えられなかった。そうして得た知恵と自由には、絶望と嘆きが絡みついていた。
それはもしかしたら、喜びへの布石だったのかもしれないけれど。
その日の夕方、私は紅茶の載ったトレイを持って二階の書斎へと向かった。そこはエハヴ神父の領域である。壁をぐるりと囲む本棚と、あぶれた書物が床に積み上がった部屋だ。窓は換気のために僅か開けられるようになっているが、機能しているかは怪しい。おまけにこれだけ燃えやすい部屋で平然と煙草を吸うのだから、始末に負えない。彼の部屋なので文句はないが、テーブルの上だけは片付けておけと思う。
彼とジュリアは、この時間、この部屋で、勉強会を開いている。
ジュリアの教養のためだ。彼は言語障害が所以でまともに修学をしてこなかったから、エハヴが教師になって空白の埋め合わせをしている。博識な人だから、内容については心配していない。私などよりよっぽど役に立つだろう。
問題なのは、エハヴが悪い人だということだ。
書斎のドアをノックしようとした時、神父様、と呼ぶ声がした。
甘く、蜜のようにとろけた声だ――ああ、と私は思った。扉の向こうで秘め事が紡がれている――まださわりか、それとも終盤か。二回目かもしれない。互いの名を呼び合っている。抑えた声ほど、他者の耳には届きやすいものだ。
エハヴが教えるのは善いことだけではない。煙草も、酒も、隙あらば仕込もうとする。気分が盛り上がるとこうして場所を弁えず行為に走る。彼を愛するジュリアは、罪悪感すらも快感に変えて彼を受け入れてしまう。性交は夜だけと定めているのは私の掟であるからして、エハヴに遵守する義務などないわけだが。
この司祭館へは老若男女問わず招き入れるけれど、一つだけ条件がある。
我々に体を許すことだ。
委ねる、と言い換えてもいいかもしれない。聖霊である我が身にとって、性行為とは魂の触れ合いに他ならない。
彼らの本質が最も剥き出しになるのは、快楽の最中である。
私は体を重ね、感覚を共有し満たされると共に、人間の真ん中に触れてきた。しかしそれは、本来なら禁忌である。姦淫してはならぬという、神の教えに私は背いている。だが私には人を識るためという大義名分がある。困った父は、私に夜間だけ自由を許した。神の眠る一時の間に起きた出来事には、文字通り目を瞑ろうというわけだ。
だから私は、どれだけ奔放に振る舞おうとも、陽の高いうちは手を出さない。無防備に居眠りしていようと小さな口にアイスキャンディーを頬張っていようと仰いだ襟元からぴんとと立ったニップルが覗いていようと、父との契約のために心頭を滅却してきたのである。
羨ましくはあるが嫉妬はしない。私はエハヴに張り合いの感情や克己心を覚えたことはない。彼との関係はうまく言い表せない。腐れ縁、と言ってしまえばそれで終わりだ。
だから今日も、容赦なく扉を開けて、盛大にからかってやろうとしたのだが。
私の手は動かなかった。
手の甲を掲げたまま、硬直してしまった。ポットから立ち昇る香気を気持ち悪いと思った。私は戸惑っていた。次に移すべき行動がわからなくなっていた。呼吸が乱れた。余計に混乱した。邪魔をしたくないのか。いいや――そんな殊勝な態度、私には似つかわしくない。なら何だ? 薄く扉を開けて鑑賞でもするか。それとも漏れる嬌声を録音して酒盛りの際にでも流そうか。早く決めないと紅茶の味が落ちる。渋いのをジュリアは好まない。
唐突に――私は耳を塞ぎたくなった。
神父様、とあの子が呼ぶ。
ジュリア、と悪魔はそれに応える。
二人の世界はこの部屋の中で完成し、また完結しているのだ。
――必要ない。
僕は。
この場所に。
もしかしたら。
僕は――いてもいなくても、同じなのかもしれない。
左腕に負荷がかかった。
私はあやうくトレイを落とすところだった。私は目を剥いて、私の腕を掴んでいる者の顔を見た。
それは私であった。
少なくとも、私と瓜二つの顔をしていた。
イシュ――と。
もう一人の私は僕の名を呼び。
微笑んだ。
「やっと会えた」
弾けたのは暗黒の光だった。意識が、飛んだ。
♰
扉の外で、食器の割れる音がした。
司祭が素早く顔を上げた。彼はジュリアの唇に指を添え、体を離した。体裁を整えると、足音を殺して歩み、薄くドアを開けた。隙間から外を覗く。静かだった。ジュリアもまた下着を身に着け、司祭の大きな体に身を寄せた。
廊下には誰もいない。
にも拘わらず、ポットが床で砕け、中身をぶちまけている。湯気が上がっていた。淹れたての温度だ。壁際にトレイも確認した。
直前まであの人がいたのだ。
いつもの通り、差し入れにやってきた――。
ジュリアは廊下の端から端まで視線をやって、金色の髪を探した。
「イッシュ様……?」
ジュリア達は立ち尽くした。
無残に散った三人分のティーカップが、不吉を教えていた。
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