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01-001 最初の2日間
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この街は桜がきれいだ。東京はすでに散っていた。南東北はいまが桜花の盛り。今年の3月は異常に暖かく、東京の桜は4月に入る前に葉桜になっていた。
桂木良平は、この旅行のいいところは桜だけだ、と感じていた。同級生が国際大会に出場するという理由で、応援に駆り出され、貴重な春休みの数日を浪費させられている。
良平は目立たぬように生きている。両親が交通事故で他界して以降、できるだけ目立たぬようにすることが身の安全に役立つことを知った。
誰も信用せず、誰も頼らず、決して不満を言わず、決して意見を言わない。これが、彼が得た処世術だ。
内心とは裏腹に、この応援旅行に自費で参加した。経済的理由で断ることもできたが、不用意に目立てば不知の不利益につながるかもしれない。
感染症の猛威が治まらないのに、学校は何も考えてはいない。慣れもあるのだろうが、浮き世離れしているように感じる。
地球温暖化に起因する異常気象は、次々と起こるパンデミックと関係があるらしい。
同室は4人。2人は仲がよく、荷物を置くとすぐに出かけた。
部屋には真崎健太が残っているが、彼と話をしたことはない。いつも、文庫本を読んでいる。物静かな男だが、実際はどういう人物なのかまったく知らない。
体格はいいが、少なくともアスリート系ではない。労働によって作られた身体に見える。
良平は健太に話しかけることもなく、ノートパソコンで調べ物を始める。
明日の朝までは自由行動とされているが、良平には時間を潰すこと以外することがない。それに、福島市自体は観光地でないから、訪れたい場所もない。
この応援旅行には30人が参加しているが、宿に残っている同級生は多くない。
良平は外食はせず、夕食をコンビニ弁当ですますつもりだった。
異変は唐突だった。ネットワークが途絶し、インターネットが使えなくなる。
良平が原因を調べ始めると、ほぼ同時に停電になる。
健太が明るい窓辺に移動する。
彼が外を見ている。
「桂木、何かヘンだ。
外が妙に騒がしい」
良平は初めて健太から声をかけられる。興味はなかったが、窓に向かう。もめ事を避けるため、関心があるように行動する。これも処世術だ。
だが、確かにヘンだ。
大勢が走っている。一部は建物に入ろうと、入口に押しかけている。建物の一部はシャッターをおろし始めた。
まだ、十分に明るい時間だ。
「1階まで降りてみる」
健太の発言を良平は受け流す。同行すべきか一瞬考えるが、求められていないことは明白だった。
この宿は本来、インバウンド目当てのバックパッカー向けで、部屋は畳だ。詰め込めば6人は寝られる。相部屋雑魚寝は当たり前なのだろうが、世界的な感染症の流行によって、インバウンドが壊滅し、現在は格安ビジネスホテルとして使われている。
健太が部屋に戻ってくる。
「桂木、ホテルの人から外に出るなと言われた。シャッターもおろしていたよ。ホテルの客じゃない人が何人か逃げ込んでいた。
このホテルは、1階のシャッターをおろすと要塞のようになる。
ひとまずは安全だろう」
良平は別のことを尋ねる。
「1階にテレビはあった?」
健太は、確認していなかった。
「テレビ?
わからない。
なぜ?」
「ネットがつながらない。原因はパソコンではなく、回線だと思う。
ネットが使えないから、テレビで情報が得られないかなって」
健太は良平の案には答えない。停電なのに良平がバカなことを言っていると感じた。
自分のバッグに向かうと、ラジオを取り出す。
最初にラジオから聞こえてきた言葉は「ゾンビ」だった。
地元のFM放送が「ゾンビが暴れているようです。家から出ないように」と何度も繰り返している。
隣県の放送も探るが、やはり「ゾンビ……」を報じている。だが、ゾンビ以外の情報がない。
ホテルには同級生6人が残っていた。良平と健太以外は女子だ。
1人はクラス女子のリーダー的存在である桜庭愛。もう1人は彼女の付き人的存在の西条綾。その他、無口な羽月美保、謎めいている鬼丸莉子の2人。
6人は廊下で顔を合わせるが、羽月美保はホテル備え付けの非常用LEDライトを確保しており、鬼丸莉子は自前のLEDライトを手に、デイパックを背負っていた。
声を発したのは莉子だった。
「桂木と真崎はどうするの?」
健太が答える。
「このホテルは、一応安全だと思う。
俺は明日の朝まで待つ。ラジオは放送を続けているので、詳しい情報が得られるだろう」
西条綾が「ネットが使えないの」とスマホを見せる。
良平が他人事のように「そうみたいだね」と答える。
美保が「脱出路は確保しておいたほうがいい」と、美形に似合わない野太い声を出す。それに、莉子が賛成する。
「私も一緒に行く、それと私を桂木たちの部屋に泊めてほしい」
それに美保が賛成する。
桜庭愛は教師からの評価が高い。同時に裏表が激しい。また、原理原則を崩さない。
「何考えているの!
あなたたち男子の部屋に泊まっていいと思っているの?」
美保が愛を見る。
「あなたは好きにすればいい。
私にかまわないで」
莉子が美保を促す。
「行くよ。
冗談だと思うけど、パンデミック以来、世の中は大規模ドッキリの雰囲気ではない。ゾンビが本当なら、生きるか死ぬかになる。
私はまだ、死ぬ気はない」
良平はいまの世界では、何でもありだと感じている。感染症は収束の様子を見せず、南極では氷床が溶けて、未知のウイルスが続々と発見されている。
シベリアでは溶けた永久凍土から太古の細菌が解き放たれ、いくつかの村が全滅したらしい。
ウイルスや細菌だけではない。大規模森林火災や猛烈な熱帯低気圧によって、世界中で甚大な被害が出ている。
ゾンビが現れたって、驚きはしない。
愛は良平と健太に「先生が戻るまで、ジッとしているべきよ」と2人の部屋にやって来てまくし立てた。
綾は「そうよ。そうよ」と民謡のように合いの手を入れる。
良平と健太は、2人をまったく相手にしなかった。
良平は閉めたカーテンの隙間から、外を観察し続けている。健太は海外の短波放送を拾おうと、チューナーを操作している。
外の騒ぎは収まっているが、時折路上を人が走り抜ける。クルマは通らない。路上に遺棄されたクルマが多く、上下2車線が塞がれているからだ。
愛と綾はまだ叫いている。
美保と莉子が戻ってくる。健太がドアを開ける。
「キッチンを抜けると、鉄の扉があって外に出られるよ。
それと、ホテルの従業員がいなくなっている。数人はいるかもしれないけど、見かけなかった。
キッチンで食糧を確保してきた」
愛が叫ぶ。
「それって、ドロボーじゃない」
綾が合いの手。
「そうよ。そうよ」
良平が話題を変える。
「向かいのビルだけど、6階から人が飛び降りた。
ゾンビに追われたらしい。ゾンビらしい姿を見たよ。
ドン引きだった」
健太が失笑する。
「ドン引き?
違う表現はないのか?」
良平が頭を掻く。
「いや、本当に引いた。あんなもの見たことないし、見たくもない。
様子からすると、ホテルの周りはゾンビだらけかもしれない」
健太も迷っていた。
「いま、このホテルを出たほうがいいと思うか?」
良平も判断できない。
「どうだろうな。
いまは、安全だけど。いつまで安全かはわからない。どうなるか、不確定要素が多すぎる」
美保と莉子は意見をすりあわせていた。
「狭いけど、管理室に移動しない?
そこにもドアがあって、すぐに外に出られる」
健太が賛成する。
「そこに行こう。
あと2時間で日没になる。できれば、夜が明けるまではいたい」
美保が「準備する」と告げ、莉子と出て行った。
良平は手早く毛布を丸め、肩にかけられるようにする。健太がそれを真似る。
管理室に集まったのは、桂木良平、真崎健太、羽月美保、鬼丸莉子の4人。
外に出られることを確認し、管理室の内部から鍵をかける。他の宿泊客とは出会っていない。従業員もいない。他に宿泊客がいるかははっきりしない。いたとしても数人だろう。
4人は、無口だった。美保と莉子は意味のないおしゃべりはしない。要点を押さえた簡潔な会話だ。
健太は少しイラついている。21時少し前、すべてのラジオ放送が止まった。情報はない。ラジオから得た情報は、ゾンビの存在と家から出ないことだけ。
それ以外は、何もわからない。
管理室から外に出られるが、この部屋の中に入ってしまうと、室外のことは一切わからなくなる。窓はなく、ホテル内とのドアには覗き穴さえない。鉄製の頑丈なドアは4人を守ってくれるが、同時に情報過疎にする。
エアコンは止まっているが、通気口があり、最低限の換気はできている。
夜明けの直前、ドアを叩く音がする。だが、人の声はしない。
健太がドアに耳をあてる。
首を横に振る。人の気配を感じないのだ。美保と莉子は落ち着いている。高校生の女の子らしく、キャーキャー騒いだり、怯えた様子がない。
日付が変わった直後、莉子が「ゾンビよりも生きた人のほうが怖いよ」と言った。良平は完全同意したが、健太は同意しかねた。
美保は無表情だった。
4人に共通していることもあった。4人とも、愛と綾を「連れてこよう」とは言わないのだ。
太陽が昇った時間、管理室内は真っ暗だが、ホテル内も同様と推測できた。1階に窓はなく、フロントのシャッターが降りているからだ。このシャッターは防災用らしく、頑丈そうに見える。
美保が「トイレに行きたい」と言い、それは莉子も同じで、良平と健太も同じ思いだった。
健太が単独で部屋を出ることになり、はす向かいの男性用トイレに向かう。
小用を済ますが、恐怖からなのか大便は無理。口をすすぎ、顔を洗って、すぐに戻る。
「男子トイレは安全だ。
入ったら鍵を閉めろ。
2人が戻ったら、桂木が行く」
良平が同意する。
「漏れそうだ、早く戻ってくれ」
美保と莉子は3分ほどして戻ってきた。
良平がトイレに行く。
トイレから出る際、内部から外をうかがい、ドアを少し開けて首を出した。
視界に挙動不審な2つの影。良平の頭部を見たからなのか、1人が悲鳴を上げて、フロント側に走り出す。
良平はトイレから飛び出し、健太が明けた管理室のドアに滑り込む。
だが、悲鳴の主が戻ってきた。
健太がドアを閉めることを躊躇う。
良平が「早く閉めろ!」と小声で要求するが、彼は閉めない。
そして手招きした。
「早く来い!」
声は小さいがよく通る。
2つの影が女の子走りで近付く。
2人のあとを3つの影が追う。
2人を管理室に入れ、施錠する。
桜庭愛と西条綾だった。
健太が問う。
「ゾンビを見たか?」
2人が頷く。
「人を襲うところを見たか?」
愛が首を横に振り、綾は縦に振った。
すぐにドアが叩かれる。ドアの外にゾンビがいる。良平たち4人はゾンビを見ていない。
ホテル内で悲鳴がする。フロントの方向だ。ドアをひっかくような音がなくなる。
悲鳴は何度もし、女性の「助けて!」というはっきりした声も聞こえた。男性の「誰か来てくれ!」との声もする。
「お客様、部屋に戻って!」
従業員の声だろう。だが、同じ声が「グワッ」と気味の悪い声を発する。
朝になり、泊まり客が部屋から出てきたのだ。情報がなく、室外を探ろうとしたのだろう。あるいは、ホテル外に出ようとしたのか。
小さなホテルなので、従業員も少ないはず。従業員が残っていることも、やや不思議だった。
健太が良平に「どうする?」と尋ねると、良平は落ち着いた声で「外がここより安全とは限らないが、永遠に立て籠もるわけにはいかない。出るか?」と逆に尋ねる。
美保が「出よう」と即答し、莉子も異存を挟まない。
4人は外に出ることにする。
ホテルの毛布を手早く丸め、端を管理室にあったナイロン製荷さばき紐で縛り、肩に袈裟懸けする。それぞれの荷物を持ち、4人が準備を整えると、愛が異論を述べた。
「先生の指示に従うべきよ。
19時までは自由行動だったけど、今日は違うんだから!」
綾が「そうよ。そうよ」と合いの手を入れる。
美保が「好きにすればいい。だけど、邪魔をするなら痛い思いをすることになる」と脅す。
愛が「どうするって言うの!」と開き直ると、美保は渾身の力で拳を愛の頬に叩き込む。
明らかに訓練したパンチだ。
愛は吹き飛ばず、膝から崩れ落ちる。
健太が「行くぞ!」と確認してから、ホテルの裏手につながるドアを開ける。
外は冷たい外気と柔らかい光に包まれていた。空は晴天ではなく、薄くはない雲に覆われている。雨が降り出すことはない天気だ。
風もある。
ホテルの裏手であることは確かで、エアコンの熱交換器などを避けながら、地面に敷かれた美しい石を踏んで通りを目指す。
上下2車線の通りに出る。左右どちらを見ても、人の姿はない。道路では事故を起こしたクルマが道を塞いでいる。
交差点には、横転した2トントラックがある。
本能的に、新幹線と在来線の駅とは逆方向の西に向かって走る。先頭は健太、美保、莉子、良平の順に歩道を走り、後方から愛と綾が追ってくる。
良平がチラリと振り返ると、愛と綾はスリッパを履いている。
良平は2人の存在を瞬時に意識から消した。
500メートルほど走り、健太が右手を挙げる。健太が片膝をつくと、3人は姿勢を低くする。愛と綾はだいぶ離れた後方で突っ立っている。
健太はゾンビらしい人影が、交差点にいることを知らせる。
近寄ってきた愛が「え! どこどこ!」と騒ぐ、綾が「どこにいるの~」と。
健太が良平に「運転できるか?」と尋ね、良平が「オートマなら」と答える。
あの脱輪しているクルマがいい。
健太が電気自動車を指さす。良平は健太の意図を察する。EVはガソリン車よりも静かだ。
前輪を工事中のマンホールに脱輪しているが、4人なら簡単に持ち上げられる。
だが、キーがない。キーは所有者が持っていったのだろう。
良平が「ハイテク車よりも、ローテク車のほうが確実だ。エンジン音で呼び寄せるとしても、走り出せば逃げきれる」と言うと、健太も同意する。
莉子が「あれは?」と指さす。
側石に乗り上げている、年季の入った4ドアファミリーカーだ。
ゾンビに見つからないよう、健太が身をかがめて道路を渡る。
愛と綾は、相変わらず突っ立っている。
美保と莉子が路上のクルマを利用して、身を隠しながら目当てのクルマに向かっていく。
最後に良平が続く。
健太が「キーは刺さったまま。エンストして、そのまま逃げたらしい」と。
つまり、バッテリーが放電している。
莉子が「あれは?」と指さす。道路上に止まっていて、前後を乗用車に挟まれている。
前のクルマを押せば、そのクルマは出られる。問題は直前のクルマが横転しているのだ。
最近のクルマはスマートキーが多いので、キーが鍵穴に残らない。運転者が去れば、クルマは動かない。
だから、4人は年式を経たクルマを探している。美保と莉子は、古いクルマを探す明確な理由は理解していないが、ただ目的である動くクルマを探すとの趣旨は理解している。
健太が提案する。
「後方のクルマを2台動かせば、この団子から出られる」
良平が同意。
「そうだな。2台とも小型だから、押せば動くだろう。平地だし」
目的のクルマは、20年落ちのツーボックスで、シリンダーにはキーが刺さっていた。ファミリーユースではないらしく、車内は殺風景な上にかなり汚れている。
キーを回すと、燃料計は半分の少し下を示す。
1台目のクルマを後退させる。2人で簡単に押せる。
良平が2代目を後退させようと、運転席側ドアを明けて気付く。
「キーがある。
これ、4ナンバーの商用車だ。
あれよりもきれいだ。
こいつにしよう」
後方のクルマを美保と莉子が押し、さらに後方のクルマに接触するまで後退させる。少し後退して、反対車線に入れば団子状態の車列から脱出できる。
良平がエンジンをふかさずに始動し、運転席に乗り込むと、健太が助手席、美保と莉子が後席に乗る。
愛と綾が走り寄ってくる。
運転席側ドアに手を当てて、怒鳴る。
「何やっているの!
無免許でしょ」
ゾンビが気付く。
良平がアクセルを踏む。
愛と綾が走って追ってくる。その後方にゾンビが群を作る。
ゾンビは激しい動きはできないようなので、愛と綾は逃げ切れるだろう。
良平は、そう思うことにした。見捨てることに罪悪感はあるが、2人に対する気持ち悪さのほうが勝っていた。
「どこに行く?」
健太の問いに美保が明確に答える。
「人口の少ないところ。
このまま進むとスカイラインに入る。浄刹平まで行けば、人はいないと思う。まだ4月だし、そのあたりは雪が残っているはず」
良平が「羽月は東北と関係があるの? 親戚がいるとか?」と尋ねるが、美保は「まったく。地図を見るのが好きなだけ」と答える。
「通れるかどうか、時期的に微妙だけど、どうする?」
美保の問いに莉子が「行けるとこまで行って、ゆっくり考えようよ。誰もいないなら、ゾンビもいないでしょ」と答える。
良平と健太は、もっともな意見だと納得する。それと、今年の3月は異常に暖かかった。例年なら雪に閉ざされているとしても、今年は違うかもしれない。
「閉鎖していなければ、湖北岸まで行ける」
美保の説明に沈黙が支配する。3人の頭に、地図が浮かばないのだ。
「湖に出る前に、これからの行動を考えたほうがいい」
美保の意見はもっともだが、情報がなさ過ぎる。湖に達したら、無免許運転で警察に捕まる可能性だってあるし、ゾンビの大群に襲われるかもしれない。
何もわからないのだ。
良平はこれほどの長距離を運転したことはないが、無難にクルマを進めた。
途中、山間の温泉に到ると、すでにゾンビが路上にいた。浴衣を着ていたり、裸だったり、スーツ姿のゾンビもいる。
たぶん、宿の中には生存者がいる。多くは脱出の機会をうかがっているのだろうが、簡単ではない。ゾンビの数が増える前に、逃げ出さないと。
良平は速度を抑えて、止まることなく、一気に通過する。周囲の観察は、健太たち3人が引き受ける。
浄刹平は寒かった。
しかし、人はいない。クルマもない。
つまり、安全だ。
レストハウスは閉じているが、トイレがあるし、水が出る。
この先のことを、この寒風が吹く、いまとなっては極楽浄土かもしれない場所で、4人は今後の方針を決めることにする。
直近の方針として、可能ならば明日の朝まで留まることにした。
健太が「桜庭たちを置き去りにしたけど……」と言うと、莉子が「連れてきても足手まといになるだけだよ」と冷たく突き放す。
良平は、2人を置いてきたことに対して、罪悪感がまったくなかった。だから、それには触れない。
「湖の北岸に抜けるか、新幹線沿線に向かうか、どっちがいい?」
美保が手帳に簡単な地図を描く。
良平が即断する。
「新幹線に近付けば、この付近で一番大きい街を通ることになる。
ゾンビがどれだけいるのか……」
莉子が異なる推測をする。
「私たちがいた街とは違うかも?」
健太が即座に否定。
「ならば、ラジオ放送があるはず。
一切入らない。どこも同じだよ」
美保が提案する。
「湖に出て、物資を調達する。
できれば、偵察も。
どう?」
健太が「賛成だ」と言い、残る2人にも異存はなかった。
その夜は想像を絶するほどの寒さだった。エンジンをかけてエアコンを作動させたいが、今後のことを考えるとガソリンを使いたくはない。
ホテルから毛布を持ってこなければ、耐えられなかった。狭い車内で極寒に耐える4人は、桜庭たちを置き去りにしてよかったと、心の中で思っていた。
一晩中、泣き言と文句を聞かされたくはないからだ。
完全に夜が明けてから、4人が出発する。ヘッドライトの光芒が、人目を引くことを恐れた。ゾンビの生態がわかっていないし、ゾンビの数もわからない。
ゾンビが何に反応するかも不明。光か、音か、臭いか、あるいはすべてか?
健太が食料を持っていた。チョコバーを10本。12本入りの箱ごとで、2本は騒ぎの前に食べたそうだ。
彼は、2本ずつ3人に渡す。3人は感謝して、1本だけ食べる。食欲がないし、1本で十分なカロリーが得られる。
健太曰く「いざとなればカロリーがものをいう」と。良平はその通りだと思った。良平が持っていたのは、グミとのど飴。
それを持っていることを伝える。美保は板チョコ2枚と、ハチミツ飴1袋。莉子はチョコチップクッキー1箱。
良平を除く3人は、非常時の食料を考えていた。遭難するような旅行ではないから、過剰ではないが1日から数日は何とかなるようにとの想定をしていた。
良平を除く3人は、一定の生存可能性を意識していた。4人に共通していることは、敵と味方を見分ける能力に長けていること。
比較的容易にゾンビの包囲から脱出できた理由がこれだ。
山間の温泉、山腹のスキー場を素通りして、湖に向かう。
街に入る直前、広大な駐車場を有するホームセンターを見つける。
良平がクルマを止める。
駐車場のクルマの数は少ない。死体が複数。ゾンビらしき姿は見えない。
良平が「どうする?」と問うと、健太が「これからの行動次第だ」と答える。
美保が「私は家に帰る積極的な理由はない」と言い、莉子は無言。暗に美保の意見を肯定している。
健太が「物資を調達しよう。何が必要か、わからないが、必要と思うものを集める」と曖昧な判断をする。
良平が「まずはキャンプ道具だ」と言い、誰も賛成しないが反対もない。
良平はライトバンを店の入口に横付けする。
「手早くやろう。
時間は10分。2人で行動。10分後、ここで待ち合わせる」
良平の提案に3人が頷く。
良平と健太、美保と莉子がペアになる。
このとき4人は、建物内におけるゾンビの存在を強く意識していなかった。いるかもしれない、程度の警戒心はあったが、遭遇した場合の具体的な行動計画はなかった。
美保と莉子は、薄暗い建物の中で、一番に探した物資は生理用品。トイレットペーパーとティッシュはその次。
健太は、鍋、薬缶、包丁、まな板などの調理器具と、卓上ガスコンロ。それと、卓上ガスコンロ用のボンベ。
昨夜の寒さが身にしみた良平は、寝具を漁る。人数分の毛布を買い物カートに載せる。
4人が集まる。
良平と健太は、大量のトイレットペーパーに驚く。
健太は呆れ「そんなにウンコしないぞ」とからかうが、莉子は真面目に「なければ困るよ」と答える。
美保が「トイレ」と言い、良平が多機能トイレを指差す。
美保が多機能トイレのドアを開けようとすると、内側から施錠されている。
美保が小声で「誰か中にいる」と知らせると、緊張が走る。
健太が店内に飛び込み、スコップを持ってくる。
良平は、ゾンビと対するにあたって、最強の武器がスコップであることに初めて気付く。自分の迂闊さを恥じるが、同時に全身から嫌な汗が流れる。
姉妹はドアの外の声を聞いていた。妹が「お姉ちゃん、生きている人がいるよ」と泣きそうな顔で言う。
姉は、口に人差し指をあてる。
「声がした」
美保が言う。ゾンビが声を発するかは、わかっていない。
良平が少し大きな声を出す。
「よし、東京に行こう」
健太がスコップの先を床に音をたてて突く。
姉は勇気を出して、トイレのドアを開ける。
「生きている人?」
健太が「あぁ、生きてるよ」と伝える。
妹が飛び出してきて、莉子に抱きつく。
姉が声を殺して泣き出す。
バンの荷室に荷物を積んでいく。想像していたほど積めない。
莉子が食い散らかされた死体に向かって歩いて行く。
彼女の行動を見た健太が「何考えているんだ!」と少し怒る。
莉子は死体に向かったのではなく、その途中にあるキーホルダーを拾う。
キーを操作するが、圏外なのか反応がない。
美保が見つける。
「あの大きいクルマ。バスかな?
道路の近くの……」
良平が視認する。
「マイクロバスだ」
健太が「動かせるか?」と問い、良平が「どうかな。ミッション次第だ。マニュアルだったら無理だ」と答える。
離れていた莉子も気付いたらしく、マイクロバスに向かって走る。
美保が姉妹を促して、ライトバンの後席に乗せ、良平が運転席、健太が助手席、美保が後席に乗る。
咄嗟のことで、ドアを強く閉めてしまう。リアゲートは開いたまま。
低速で莉子を追う。
莉子は、奇妙なグレー系迷彩色のマイクロバスに駆け寄る。
助手席側ドアを開け、車中を覗く。
「キャンピングカー?
違うよね?」
期待とは違ったことから、やや失望する。
良平と健太がライトバンから降り、健太はリアゲートを閉め、良平は莉子がこだわったマイクロバスを確認する。
「真崎、ライトバンを運転してくれ。
俺は、こいつを動かしてみる」
ゾンビ事変発生から2日、6人の生存者は、生き残ることの難しさをまだ知らずにいた。
桂木良平は、この旅行のいいところは桜だけだ、と感じていた。同級生が国際大会に出場するという理由で、応援に駆り出され、貴重な春休みの数日を浪費させられている。
良平は目立たぬように生きている。両親が交通事故で他界して以降、できるだけ目立たぬようにすることが身の安全に役立つことを知った。
誰も信用せず、誰も頼らず、決して不満を言わず、決して意見を言わない。これが、彼が得た処世術だ。
内心とは裏腹に、この応援旅行に自費で参加した。経済的理由で断ることもできたが、不用意に目立てば不知の不利益につながるかもしれない。
感染症の猛威が治まらないのに、学校は何も考えてはいない。慣れもあるのだろうが、浮き世離れしているように感じる。
地球温暖化に起因する異常気象は、次々と起こるパンデミックと関係があるらしい。
同室は4人。2人は仲がよく、荷物を置くとすぐに出かけた。
部屋には真崎健太が残っているが、彼と話をしたことはない。いつも、文庫本を読んでいる。物静かな男だが、実際はどういう人物なのかまったく知らない。
体格はいいが、少なくともアスリート系ではない。労働によって作られた身体に見える。
良平は健太に話しかけることもなく、ノートパソコンで調べ物を始める。
明日の朝までは自由行動とされているが、良平には時間を潰すこと以外することがない。それに、福島市自体は観光地でないから、訪れたい場所もない。
この応援旅行には30人が参加しているが、宿に残っている同級生は多くない。
良平は外食はせず、夕食をコンビニ弁当ですますつもりだった。
異変は唐突だった。ネットワークが途絶し、インターネットが使えなくなる。
良平が原因を調べ始めると、ほぼ同時に停電になる。
健太が明るい窓辺に移動する。
彼が外を見ている。
「桂木、何かヘンだ。
外が妙に騒がしい」
良平は初めて健太から声をかけられる。興味はなかったが、窓に向かう。もめ事を避けるため、関心があるように行動する。これも処世術だ。
だが、確かにヘンだ。
大勢が走っている。一部は建物に入ろうと、入口に押しかけている。建物の一部はシャッターをおろし始めた。
まだ、十分に明るい時間だ。
「1階まで降りてみる」
健太の発言を良平は受け流す。同行すべきか一瞬考えるが、求められていないことは明白だった。
この宿は本来、インバウンド目当てのバックパッカー向けで、部屋は畳だ。詰め込めば6人は寝られる。相部屋雑魚寝は当たり前なのだろうが、世界的な感染症の流行によって、インバウンドが壊滅し、現在は格安ビジネスホテルとして使われている。
健太が部屋に戻ってくる。
「桂木、ホテルの人から外に出るなと言われた。シャッターもおろしていたよ。ホテルの客じゃない人が何人か逃げ込んでいた。
このホテルは、1階のシャッターをおろすと要塞のようになる。
ひとまずは安全だろう」
良平は別のことを尋ねる。
「1階にテレビはあった?」
健太は、確認していなかった。
「テレビ?
わからない。
なぜ?」
「ネットがつながらない。原因はパソコンではなく、回線だと思う。
ネットが使えないから、テレビで情報が得られないかなって」
健太は良平の案には答えない。停電なのに良平がバカなことを言っていると感じた。
自分のバッグに向かうと、ラジオを取り出す。
最初にラジオから聞こえてきた言葉は「ゾンビ」だった。
地元のFM放送が「ゾンビが暴れているようです。家から出ないように」と何度も繰り返している。
隣県の放送も探るが、やはり「ゾンビ……」を報じている。だが、ゾンビ以外の情報がない。
ホテルには同級生6人が残っていた。良平と健太以外は女子だ。
1人はクラス女子のリーダー的存在である桜庭愛。もう1人は彼女の付き人的存在の西条綾。その他、無口な羽月美保、謎めいている鬼丸莉子の2人。
6人は廊下で顔を合わせるが、羽月美保はホテル備え付けの非常用LEDライトを確保しており、鬼丸莉子は自前のLEDライトを手に、デイパックを背負っていた。
声を発したのは莉子だった。
「桂木と真崎はどうするの?」
健太が答える。
「このホテルは、一応安全だと思う。
俺は明日の朝まで待つ。ラジオは放送を続けているので、詳しい情報が得られるだろう」
西条綾が「ネットが使えないの」とスマホを見せる。
良平が他人事のように「そうみたいだね」と答える。
美保が「脱出路は確保しておいたほうがいい」と、美形に似合わない野太い声を出す。それに、莉子が賛成する。
「私も一緒に行く、それと私を桂木たちの部屋に泊めてほしい」
それに美保が賛成する。
桜庭愛は教師からの評価が高い。同時に裏表が激しい。また、原理原則を崩さない。
「何考えているの!
あなたたち男子の部屋に泊まっていいと思っているの?」
美保が愛を見る。
「あなたは好きにすればいい。
私にかまわないで」
莉子が美保を促す。
「行くよ。
冗談だと思うけど、パンデミック以来、世の中は大規模ドッキリの雰囲気ではない。ゾンビが本当なら、生きるか死ぬかになる。
私はまだ、死ぬ気はない」
良平はいまの世界では、何でもありだと感じている。感染症は収束の様子を見せず、南極では氷床が溶けて、未知のウイルスが続々と発見されている。
シベリアでは溶けた永久凍土から太古の細菌が解き放たれ、いくつかの村が全滅したらしい。
ウイルスや細菌だけではない。大規模森林火災や猛烈な熱帯低気圧によって、世界中で甚大な被害が出ている。
ゾンビが現れたって、驚きはしない。
愛は良平と健太に「先生が戻るまで、ジッとしているべきよ」と2人の部屋にやって来てまくし立てた。
綾は「そうよ。そうよ」と民謡のように合いの手を入れる。
良平と健太は、2人をまったく相手にしなかった。
良平は閉めたカーテンの隙間から、外を観察し続けている。健太は海外の短波放送を拾おうと、チューナーを操作している。
外の騒ぎは収まっているが、時折路上を人が走り抜ける。クルマは通らない。路上に遺棄されたクルマが多く、上下2車線が塞がれているからだ。
愛と綾はまだ叫いている。
美保と莉子が戻ってくる。健太がドアを開ける。
「キッチンを抜けると、鉄の扉があって外に出られるよ。
それと、ホテルの従業員がいなくなっている。数人はいるかもしれないけど、見かけなかった。
キッチンで食糧を確保してきた」
愛が叫ぶ。
「それって、ドロボーじゃない」
綾が合いの手。
「そうよ。そうよ」
良平が話題を変える。
「向かいのビルだけど、6階から人が飛び降りた。
ゾンビに追われたらしい。ゾンビらしい姿を見たよ。
ドン引きだった」
健太が失笑する。
「ドン引き?
違う表現はないのか?」
良平が頭を掻く。
「いや、本当に引いた。あんなもの見たことないし、見たくもない。
様子からすると、ホテルの周りはゾンビだらけかもしれない」
健太も迷っていた。
「いま、このホテルを出たほうがいいと思うか?」
良平も判断できない。
「どうだろうな。
いまは、安全だけど。いつまで安全かはわからない。どうなるか、不確定要素が多すぎる」
美保と莉子は意見をすりあわせていた。
「狭いけど、管理室に移動しない?
そこにもドアがあって、すぐに外に出られる」
健太が賛成する。
「そこに行こう。
あと2時間で日没になる。できれば、夜が明けるまではいたい」
美保が「準備する」と告げ、莉子と出て行った。
良平は手早く毛布を丸め、肩にかけられるようにする。健太がそれを真似る。
管理室に集まったのは、桂木良平、真崎健太、羽月美保、鬼丸莉子の4人。
外に出られることを確認し、管理室の内部から鍵をかける。他の宿泊客とは出会っていない。従業員もいない。他に宿泊客がいるかははっきりしない。いたとしても数人だろう。
4人は、無口だった。美保と莉子は意味のないおしゃべりはしない。要点を押さえた簡潔な会話だ。
健太は少しイラついている。21時少し前、すべてのラジオ放送が止まった。情報はない。ラジオから得た情報は、ゾンビの存在と家から出ないことだけ。
それ以外は、何もわからない。
管理室から外に出られるが、この部屋の中に入ってしまうと、室外のことは一切わからなくなる。窓はなく、ホテル内とのドアには覗き穴さえない。鉄製の頑丈なドアは4人を守ってくれるが、同時に情報過疎にする。
エアコンは止まっているが、通気口があり、最低限の換気はできている。
夜明けの直前、ドアを叩く音がする。だが、人の声はしない。
健太がドアに耳をあてる。
首を横に振る。人の気配を感じないのだ。美保と莉子は落ち着いている。高校生の女の子らしく、キャーキャー騒いだり、怯えた様子がない。
日付が変わった直後、莉子が「ゾンビよりも生きた人のほうが怖いよ」と言った。良平は完全同意したが、健太は同意しかねた。
美保は無表情だった。
4人に共通していることもあった。4人とも、愛と綾を「連れてこよう」とは言わないのだ。
太陽が昇った時間、管理室内は真っ暗だが、ホテル内も同様と推測できた。1階に窓はなく、フロントのシャッターが降りているからだ。このシャッターは防災用らしく、頑丈そうに見える。
美保が「トイレに行きたい」と言い、それは莉子も同じで、良平と健太も同じ思いだった。
健太が単独で部屋を出ることになり、はす向かいの男性用トイレに向かう。
小用を済ますが、恐怖からなのか大便は無理。口をすすぎ、顔を洗って、すぐに戻る。
「男子トイレは安全だ。
入ったら鍵を閉めろ。
2人が戻ったら、桂木が行く」
良平が同意する。
「漏れそうだ、早く戻ってくれ」
美保と莉子は3分ほどして戻ってきた。
良平がトイレに行く。
トイレから出る際、内部から外をうかがい、ドアを少し開けて首を出した。
視界に挙動不審な2つの影。良平の頭部を見たからなのか、1人が悲鳴を上げて、フロント側に走り出す。
良平はトイレから飛び出し、健太が明けた管理室のドアに滑り込む。
だが、悲鳴の主が戻ってきた。
健太がドアを閉めることを躊躇う。
良平が「早く閉めろ!」と小声で要求するが、彼は閉めない。
そして手招きした。
「早く来い!」
声は小さいがよく通る。
2つの影が女の子走りで近付く。
2人のあとを3つの影が追う。
2人を管理室に入れ、施錠する。
桜庭愛と西条綾だった。
健太が問う。
「ゾンビを見たか?」
2人が頷く。
「人を襲うところを見たか?」
愛が首を横に振り、綾は縦に振った。
すぐにドアが叩かれる。ドアの外にゾンビがいる。良平たち4人はゾンビを見ていない。
ホテル内で悲鳴がする。フロントの方向だ。ドアをひっかくような音がなくなる。
悲鳴は何度もし、女性の「助けて!」というはっきりした声も聞こえた。男性の「誰か来てくれ!」との声もする。
「お客様、部屋に戻って!」
従業員の声だろう。だが、同じ声が「グワッ」と気味の悪い声を発する。
朝になり、泊まり客が部屋から出てきたのだ。情報がなく、室外を探ろうとしたのだろう。あるいは、ホテル外に出ようとしたのか。
小さなホテルなので、従業員も少ないはず。従業員が残っていることも、やや不思議だった。
健太が良平に「どうする?」と尋ねると、良平は落ち着いた声で「外がここより安全とは限らないが、永遠に立て籠もるわけにはいかない。出るか?」と逆に尋ねる。
美保が「出よう」と即答し、莉子も異存を挟まない。
4人は外に出ることにする。
ホテルの毛布を手早く丸め、端を管理室にあったナイロン製荷さばき紐で縛り、肩に袈裟懸けする。それぞれの荷物を持ち、4人が準備を整えると、愛が異論を述べた。
「先生の指示に従うべきよ。
19時までは自由行動だったけど、今日は違うんだから!」
綾が「そうよ。そうよ」と合いの手を入れる。
美保が「好きにすればいい。だけど、邪魔をするなら痛い思いをすることになる」と脅す。
愛が「どうするって言うの!」と開き直ると、美保は渾身の力で拳を愛の頬に叩き込む。
明らかに訓練したパンチだ。
愛は吹き飛ばず、膝から崩れ落ちる。
健太が「行くぞ!」と確認してから、ホテルの裏手につながるドアを開ける。
外は冷たい外気と柔らかい光に包まれていた。空は晴天ではなく、薄くはない雲に覆われている。雨が降り出すことはない天気だ。
風もある。
ホテルの裏手であることは確かで、エアコンの熱交換器などを避けながら、地面に敷かれた美しい石を踏んで通りを目指す。
上下2車線の通りに出る。左右どちらを見ても、人の姿はない。道路では事故を起こしたクルマが道を塞いでいる。
交差点には、横転した2トントラックがある。
本能的に、新幹線と在来線の駅とは逆方向の西に向かって走る。先頭は健太、美保、莉子、良平の順に歩道を走り、後方から愛と綾が追ってくる。
良平がチラリと振り返ると、愛と綾はスリッパを履いている。
良平は2人の存在を瞬時に意識から消した。
500メートルほど走り、健太が右手を挙げる。健太が片膝をつくと、3人は姿勢を低くする。愛と綾はだいぶ離れた後方で突っ立っている。
健太はゾンビらしい人影が、交差点にいることを知らせる。
近寄ってきた愛が「え! どこどこ!」と騒ぐ、綾が「どこにいるの~」と。
健太が良平に「運転できるか?」と尋ね、良平が「オートマなら」と答える。
あの脱輪しているクルマがいい。
健太が電気自動車を指さす。良平は健太の意図を察する。EVはガソリン車よりも静かだ。
前輪を工事中のマンホールに脱輪しているが、4人なら簡単に持ち上げられる。
だが、キーがない。キーは所有者が持っていったのだろう。
良平が「ハイテク車よりも、ローテク車のほうが確実だ。エンジン音で呼び寄せるとしても、走り出せば逃げきれる」と言うと、健太も同意する。
莉子が「あれは?」と指さす。
側石に乗り上げている、年季の入った4ドアファミリーカーだ。
ゾンビに見つからないよう、健太が身をかがめて道路を渡る。
愛と綾は、相変わらず突っ立っている。
美保と莉子が路上のクルマを利用して、身を隠しながら目当てのクルマに向かっていく。
最後に良平が続く。
健太が「キーは刺さったまま。エンストして、そのまま逃げたらしい」と。
つまり、バッテリーが放電している。
莉子が「あれは?」と指さす。道路上に止まっていて、前後を乗用車に挟まれている。
前のクルマを押せば、そのクルマは出られる。問題は直前のクルマが横転しているのだ。
最近のクルマはスマートキーが多いので、キーが鍵穴に残らない。運転者が去れば、クルマは動かない。
だから、4人は年式を経たクルマを探している。美保と莉子は、古いクルマを探す明確な理由は理解していないが、ただ目的である動くクルマを探すとの趣旨は理解している。
健太が提案する。
「後方のクルマを2台動かせば、この団子から出られる」
良平が同意。
「そうだな。2台とも小型だから、押せば動くだろう。平地だし」
目的のクルマは、20年落ちのツーボックスで、シリンダーにはキーが刺さっていた。ファミリーユースではないらしく、車内は殺風景な上にかなり汚れている。
キーを回すと、燃料計は半分の少し下を示す。
1台目のクルマを後退させる。2人で簡単に押せる。
良平が2代目を後退させようと、運転席側ドアを明けて気付く。
「キーがある。
これ、4ナンバーの商用車だ。
あれよりもきれいだ。
こいつにしよう」
後方のクルマを美保と莉子が押し、さらに後方のクルマに接触するまで後退させる。少し後退して、反対車線に入れば団子状態の車列から脱出できる。
良平がエンジンをふかさずに始動し、運転席に乗り込むと、健太が助手席、美保と莉子が後席に乗る。
愛と綾が走り寄ってくる。
運転席側ドアに手を当てて、怒鳴る。
「何やっているの!
無免許でしょ」
ゾンビが気付く。
良平がアクセルを踏む。
愛と綾が走って追ってくる。その後方にゾンビが群を作る。
ゾンビは激しい動きはできないようなので、愛と綾は逃げ切れるだろう。
良平は、そう思うことにした。見捨てることに罪悪感はあるが、2人に対する気持ち悪さのほうが勝っていた。
「どこに行く?」
健太の問いに美保が明確に答える。
「人口の少ないところ。
このまま進むとスカイラインに入る。浄刹平まで行けば、人はいないと思う。まだ4月だし、そのあたりは雪が残っているはず」
良平が「羽月は東北と関係があるの? 親戚がいるとか?」と尋ねるが、美保は「まったく。地図を見るのが好きなだけ」と答える。
「通れるかどうか、時期的に微妙だけど、どうする?」
美保の問いに莉子が「行けるとこまで行って、ゆっくり考えようよ。誰もいないなら、ゾンビもいないでしょ」と答える。
良平と健太は、もっともな意見だと納得する。それと、今年の3月は異常に暖かかった。例年なら雪に閉ざされているとしても、今年は違うかもしれない。
「閉鎖していなければ、湖北岸まで行ける」
美保の説明に沈黙が支配する。3人の頭に、地図が浮かばないのだ。
「湖に出る前に、これからの行動を考えたほうがいい」
美保の意見はもっともだが、情報がなさ過ぎる。湖に達したら、無免許運転で警察に捕まる可能性だってあるし、ゾンビの大群に襲われるかもしれない。
何もわからないのだ。
良平はこれほどの長距離を運転したことはないが、無難にクルマを進めた。
途中、山間の温泉に到ると、すでにゾンビが路上にいた。浴衣を着ていたり、裸だったり、スーツ姿のゾンビもいる。
たぶん、宿の中には生存者がいる。多くは脱出の機会をうかがっているのだろうが、簡単ではない。ゾンビの数が増える前に、逃げ出さないと。
良平は速度を抑えて、止まることなく、一気に通過する。周囲の観察は、健太たち3人が引き受ける。
浄刹平は寒かった。
しかし、人はいない。クルマもない。
つまり、安全だ。
レストハウスは閉じているが、トイレがあるし、水が出る。
この先のことを、この寒風が吹く、いまとなっては極楽浄土かもしれない場所で、4人は今後の方針を決めることにする。
直近の方針として、可能ならば明日の朝まで留まることにした。
健太が「桜庭たちを置き去りにしたけど……」と言うと、莉子が「連れてきても足手まといになるだけだよ」と冷たく突き放す。
良平は、2人を置いてきたことに対して、罪悪感がまったくなかった。だから、それには触れない。
「湖の北岸に抜けるか、新幹線沿線に向かうか、どっちがいい?」
美保が手帳に簡単な地図を描く。
良平が即断する。
「新幹線に近付けば、この付近で一番大きい街を通ることになる。
ゾンビがどれだけいるのか……」
莉子が異なる推測をする。
「私たちがいた街とは違うかも?」
健太が即座に否定。
「ならば、ラジオ放送があるはず。
一切入らない。どこも同じだよ」
美保が提案する。
「湖に出て、物資を調達する。
できれば、偵察も。
どう?」
健太が「賛成だ」と言い、残る2人にも異存はなかった。
その夜は想像を絶するほどの寒さだった。エンジンをかけてエアコンを作動させたいが、今後のことを考えるとガソリンを使いたくはない。
ホテルから毛布を持ってこなければ、耐えられなかった。狭い車内で極寒に耐える4人は、桜庭たちを置き去りにしてよかったと、心の中で思っていた。
一晩中、泣き言と文句を聞かされたくはないからだ。
完全に夜が明けてから、4人が出発する。ヘッドライトの光芒が、人目を引くことを恐れた。ゾンビの生態がわかっていないし、ゾンビの数もわからない。
ゾンビが何に反応するかも不明。光か、音か、臭いか、あるいはすべてか?
健太が食料を持っていた。チョコバーを10本。12本入りの箱ごとで、2本は騒ぎの前に食べたそうだ。
彼は、2本ずつ3人に渡す。3人は感謝して、1本だけ食べる。食欲がないし、1本で十分なカロリーが得られる。
健太曰く「いざとなればカロリーがものをいう」と。良平はその通りだと思った。良平が持っていたのは、グミとのど飴。
それを持っていることを伝える。美保は板チョコ2枚と、ハチミツ飴1袋。莉子はチョコチップクッキー1箱。
良平を除く3人は、非常時の食料を考えていた。遭難するような旅行ではないから、過剰ではないが1日から数日は何とかなるようにとの想定をしていた。
良平を除く3人は、一定の生存可能性を意識していた。4人に共通していることは、敵と味方を見分ける能力に長けていること。
比較的容易にゾンビの包囲から脱出できた理由がこれだ。
山間の温泉、山腹のスキー場を素通りして、湖に向かう。
街に入る直前、広大な駐車場を有するホームセンターを見つける。
良平がクルマを止める。
駐車場のクルマの数は少ない。死体が複数。ゾンビらしき姿は見えない。
良平が「どうする?」と問うと、健太が「これからの行動次第だ」と答える。
美保が「私は家に帰る積極的な理由はない」と言い、莉子は無言。暗に美保の意見を肯定している。
健太が「物資を調達しよう。何が必要か、わからないが、必要と思うものを集める」と曖昧な判断をする。
良平が「まずはキャンプ道具だ」と言い、誰も賛成しないが反対もない。
良平はライトバンを店の入口に横付けする。
「手早くやろう。
時間は10分。2人で行動。10分後、ここで待ち合わせる」
良平の提案に3人が頷く。
良平と健太、美保と莉子がペアになる。
このとき4人は、建物内におけるゾンビの存在を強く意識していなかった。いるかもしれない、程度の警戒心はあったが、遭遇した場合の具体的な行動計画はなかった。
美保と莉子は、薄暗い建物の中で、一番に探した物資は生理用品。トイレットペーパーとティッシュはその次。
健太は、鍋、薬缶、包丁、まな板などの調理器具と、卓上ガスコンロ。それと、卓上ガスコンロ用のボンベ。
昨夜の寒さが身にしみた良平は、寝具を漁る。人数分の毛布を買い物カートに載せる。
4人が集まる。
良平と健太は、大量のトイレットペーパーに驚く。
健太は呆れ「そんなにウンコしないぞ」とからかうが、莉子は真面目に「なければ困るよ」と答える。
美保が「トイレ」と言い、良平が多機能トイレを指差す。
美保が多機能トイレのドアを開けようとすると、内側から施錠されている。
美保が小声で「誰か中にいる」と知らせると、緊張が走る。
健太が店内に飛び込み、スコップを持ってくる。
良平は、ゾンビと対するにあたって、最強の武器がスコップであることに初めて気付く。自分の迂闊さを恥じるが、同時に全身から嫌な汗が流れる。
姉妹はドアの外の声を聞いていた。妹が「お姉ちゃん、生きている人がいるよ」と泣きそうな顔で言う。
姉は、口に人差し指をあてる。
「声がした」
美保が言う。ゾンビが声を発するかは、わかっていない。
良平が少し大きな声を出す。
「よし、東京に行こう」
健太がスコップの先を床に音をたてて突く。
姉は勇気を出して、トイレのドアを開ける。
「生きている人?」
健太が「あぁ、生きてるよ」と伝える。
妹が飛び出してきて、莉子に抱きつく。
姉が声を殺して泣き出す。
バンの荷室に荷物を積んでいく。想像していたほど積めない。
莉子が食い散らかされた死体に向かって歩いて行く。
彼女の行動を見た健太が「何考えているんだ!」と少し怒る。
莉子は死体に向かったのではなく、その途中にあるキーホルダーを拾う。
キーを操作するが、圏外なのか反応がない。
美保が見つける。
「あの大きいクルマ。バスかな?
道路の近くの……」
良平が視認する。
「マイクロバスだ」
健太が「動かせるか?」と問い、良平が「どうかな。ミッション次第だ。マニュアルだったら無理だ」と答える。
離れていた莉子も気付いたらしく、マイクロバスに向かって走る。
美保が姉妹を促して、ライトバンの後席に乗せ、良平が運転席、健太が助手席、美保が後席に乗る。
咄嗟のことで、ドアを強く閉めてしまう。リアゲートは開いたまま。
低速で莉子を追う。
莉子は、奇妙なグレー系迷彩色のマイクロバスに駆け寄る。
助手席側ドアを開け、車中を覗く。
「キャンピングカー?
違うよね?」
期待とは違ったことから、やや失望する。
良平と健太がライトバンから降り、健太はリアゲートを閉め、良平は莉子がこだわったマイクロバスを確認する。
「真崎、ライトバンを運転してくれ。
俺は、こいつを動かしてみる」
ゾンビ事変発生から2日、6人の生存者は、生き残ることの難しさをまだ知らずにいた。
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