彷徨う屍

半道海豚

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Capture01

01-003 生き残る

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 関東と東北を分ける街の周辺には、人の大きな集団が1つしかない。場所は、陸上自衛隊の施設。
 この施設は高いフェンスで囲まれている。近隣を中心に1000人以上の生存者を保護していた。運営は自衛隊と警察で、彼らの生存者もわずかだった。
 運営は厳しく、人の出入りも激しい。民主的な運営を目指しているが、現実は厳しい。強硬な発言を繰り返す人物に閉口し、要求以外何もしない完全に受動的な人々の世話に疲弊していた。
 ゾンビ事変発生から3カ月後には、この生存者保護施設は破綻しかけていた。

 1カ月に一度、良平たちは市街まで物資調達に行く。
 真夏の暑い日、山中の斜面に自衛隊の車輌が滑落しているのを見つける。
 軽装甲機動車であることは、すぐにわかった。落ちたのは数日前。滑落痕がはっきりついている。
 20度ほどの斜面を5メートルほど。
 滑車とロープを使えば、ピックアップでも引き上げられそうに感じた。
 市街は、日を追って危険になっている。ゾンビの着衣は汚れ、顔や身体も薄汚い。洗わないのだから当然で、服が裂け半裸状態になっている個体もいる。
 代謝があるらしく、身体は腐ってはいない。だが、どこかで擦ったのか、血だらけの個体もいる。基本、痛みは感じないらしい。
 この時期、良平たちはゾンビが生きているのか死んでいるのか、はっきりとは知らなかった。だが、生きているようには思えない。 眼球が白く濁っていて、音にしか反応しない。光に反応しないことは、建物内で遭遇したときに確信した。ライトの明かりを向けても、反応がないのだ。空気の振動にも反応する。
 近くを通ると気付かれる。
 良平たちは細心の注意を払っているから、ゾンビに囲まれたことはない。ゾンビからも、人からも、生命の危険を感じさせられた経験は多くない。
 だが、ゾンビに取り囲まれて、逃げられなかった人たちは何度も見た。死体になっても、頭部に損傷がないと、頭だけがゾンビ化する。

 軽装甲機動車に乗っていたと思われる自衛官は、ゾンビになって森の中にいた。
 牽引ロープを取り付け終わると、良平は四つん這いで斜面を登る。それをゾンビが追うが、斜面を登れずずり落ちてしまう。
 滑車を取り付けた杉があまり太くない。それが心配だが、健太が後進しながらロープを引く。
 てこの原理で、半分の力で引けるはず。下り坂であることも利用して、ピックアップで引く。4.5トンの車体がゆっくりと動く。
 10分で道路に引き上げた。

 車内には折曲銃床にダットサイトを付けた89式小銃が2挺残されていた。30発の箱弾倉が4つと、小銃擲弾4発が本来の装備ではないであろう布製バッグに入れられていた。
 銃に付いていたのは、20発弾倉だった。
 良平たちが初めて手に入れた、対人用の武器だった。
 軽装甲機動車を回収した理由は、市街中心部に入るために必要な道具だからだ。

 軽装甲機動車で市内中心部に入る準備をする。以前の偵察で、銃砲店を見つけてある。その後、ゾンビの密度が増して、中心部に入れなくなった。
 この銃砲店で、銃と弾を調達したかった。

 軽装甲機動車を徹底的に整備し、車内も点検する。4人乗りなので、6人が乗っての長距離移動はできない。
 それでも、6人一緒が原則になっている。
 後部荷室にマットを敷いて、座れるようにする。

 6人はいつもより緊張している。住宅密集地に侵入するからだ。
 数カ月前、まだ市街にゾンビが少なかった頃、県道経由で市街に入り、住宅地を回った。ゾンビの存在を確認するためだ。
 この頃、ゾンビの多くは屋内にいた。感染症から逃れるため、室内に留まるように政府から指示が出ていた。
 多くは建物や職場から出ないか、自宅に戻っていた。店舗から、客は逃げ出していた。屋外にいた人は、通常よりも少なかった。
 だが、月日を経て、ゾンビが屋外に漏れ出してきた。音のする方向に移動するからだ。音源は限られるので、ゾンビは群化する。
 群は唐突に現れることがあり、警戒を怠ると、生命を失うことになる。
 ゾンビに囲まれても生き残るには、装甲車を使うしかない。だから、軽機動装甲車がなければ、人口密集地には進入できない。

 途中の米穀店で、店頭にあった米をルーフに積む。

 さすがに銃砲店は厳重な戸締まりだろうが、ワイヤーカッターと電動ドリルを使って、どんな建物にも侵入してきた。
 だが、意外にも店は、シャッターが降ろされているだけで施錠されていなかった。鍵が破壊された様子はなく、住宅を兼ねた銃砲店の家族は、施錠する前に感染したようだ。
 感染初期、凶暴化した人は獲物を求めて動き回る。この時期に施錠された屋内にいないと、屋外でゾンビになる。

 銃砲店でライフル5挺、ショットガン3挺、弾薬多数を確保する。
 幸運だったのは、空気銃を入手できたこと。空気銃ならゾンビに使える。ダイビング用エアタンクと高圧空気充填用シリンダーも手に入れる。
 銃はもっとあるが、必要量だけ確保する。

 この店を出るとき、良平は音が出ることを覚悟の上で、鎖で施錠してから、シャッターを降ろした。
 ガラガラという派手な音でゾンビがすぐに集まるが、猛ダッシュでその場を離れる。
 無音の原則を破り戸締まりをした理由は、全部を積み込んだわけではないので、また来るかもしれないからだ。

 帰路、東京から青森までを貫く国道を北に向かう。
 途中で自衛隊と警察の車列を目撃する。一部は観光バスや民間のトラックだった。
 陸上自衛隊施設のグループだろう。車列の中に見覚えのあるトラックがいた。右フェンダーに大きな凹みがある。ぶつけたのではなく、叩いたような傷なので特徴的なのだ。
 車列は1000人を運んでいるようには思えない。観光バスは3台しか目撃していない。民間人1000人とすれば、大型バスだけで20台は必要なはず。車輌数が少なすぎる。

 良平たちは、車列が通り過ぎるのを待つ。彼らの軽装甲機動車は、路上に放置されている。大型トラックと2トン保冷車、ワンボックスバンに隠れている。
 車列から目撃される可能性は低い。
 車列の状況は、健太と莉子が車外から観察する。

 車列の通過後、用心して10分待つ。車列には、乗用車がなかった。ワンボックス数台と、消防の救急車2台が同行していた。

 過度の緊張が解けると、全員が大きく息を吐く。
 健太が助手席に座り、莉子が後席に乗る。
 良平が「帰ろう」と促すと、反対はなかった。

 この日は、簡単には帰ることができなかった。
 高速道路の高架のやや手前で、脱輪しているランクル60を見つけてしまったのだ。脱輪車なんて珍しくはないのだが、軽装甲機動車を見て手を振る人物が一緒だと、ひどく警戒させる。
 無視して通過することもできるが、距離をとって止める。
 良平が「どうする?」と尋ねると、健太が「1人みたいだ」と答える。莉子が「周辺に潜んでいるかも」と警戒する。
 健太が「俺が行く。莉子、援護してくれ」と降車を促す。
 健太と莉子が車外に出て、莉子が89式小銃の銃口を周囲に向ける。
 この状況で怖いのはゾンビではない。
 人だ。

 益子真琴は、またしても自分の判断の悪さに愕然とする。軽装甲機動車を見て、自衛隊のクルマ=自衛官と短絡的に考えたことが誤りだった。
 車外に出てきたのは、民間人の服装をした、凶暴そうな男女だ。しかも、自衛隊の銃を持っている。
 彼女は、自衛官を殺して銃を奪ったに違いないと確信する。
 男が銃を構えて向かってくる、銃口を小刻みに周囲に向ける。

 健太は年齢がよくわからない女性に話しかける。
「1人ですか?」
 真琴は躊躇ったが、隠せないことは承知している。
「父が乗ってます」
 緊張なのか、女性の顔が奇妙に歪んでいる。
 後席を覗くと、男性が寝ている。明らかに、具合が悪そうだ。
「病気ですか?」
 真琴は焦った。
「心臓が悪いんです。
 あの感染症ではありません。
 お願いだから、殺さないで。
 欲しいものは全部あげるから……」
 健太が微笑む。
「殺したりしませんよ。
 攻撃されなければ、の注釈付きですけど」

 良平は健太の手招きで、ランクルに近付く。
 莉子の警戒は、続いている。
 美保が姉妹に「降りちゃダメ」と言い付け、後席から出る。

 ランクルは右前輪を側溝に落とし、左後輪が浮き上がっている。
 良平が「俺が運転する。健太と美保は重り代わりでバンパーの左側に乗ってくれ。後輪が地面に接したら、強引にバックで出る」

 真琴は、ランクルをいとも簡単に脱出させた良平たちに驚く。
 良平がランクルを降り、真琴に「気を付けて」と言った。髭面で、眼光がギラ付いているが、悪人ではないように感じる。
 自分の判断がまたもや間違っていたらと思うと恐ろしいが、それ以上に父親が心配だった。
「あのぅ、父を休ませたいの……」
 4人の中で美保は一番お人好しだ。だが、このときは莉子だった。
「助けてやろうよ」
 健太が頷き、美保は躊躇う。
 判断は、良平次第だ。
「Uターンして、ついてきて」

 陽咲は益子則之を「おじいちゃん」と呼ぶが、実際の年齢はわからない。
 真琴が美保に尋ねる。
「ここは……?」
「私たちの砦。
 お腹すいてる?
 おばさん……」
 真琴はおばさん呼ばわりされて、少しムッとしたが、今朝、クルマのサンバイザーに取り付けられている鏡に映った自分の顔は確かにおばさんだった。
 過去数カ月で10歳以上老けてしまった。

 則之の意識ははっきりしている。
 極度の疲労と緊張で、体調を崩したのだ。陸上自衛隊の施設を脱出したものの、緊張のわずかな緩みから疲労が噴出してしまった。
 運転していたのは則之で、目眩からハンドル操作を誤った。

 彼は3日間伏せっていたが、4日目には起き上がった。

 真琴は姉妹を除く4人が高校生であったことを知るまで、2日かかった。
 大人びていて、冷静で、情緒的ではない行動に、20歳代後半だと感じていた。
 姉妹が4人に保護されたことも知る。沙耶が「助けてもらったの」と言ったからだ。しかも、2人はのびのびと生活している。ここには、陸上自衛隊施設のような異様な緊張感がない。

 真琴は則之に「お父さん、ここにいさせてもらおうよ」と相談してみた。
 則之は「若い人の足手まといにはなりたくない」と拒む。則之が「老境にさしかかった心臓の悪い男と、中年女が役に立つ世界じゃない。ここを出て行こう」と諭す。
 真琴は過去数カ月、父の判断がすべて正しかったことを知っていた。そして、自分の判断が常に間違っていたことも。
 首を縦に振る。

 5日目の朝、則之から「明日、盛岡に向けて出発します」と挨拶があった。
 良平に「具体的な目的地がありますか?」と問われ、則之は「盛岡に安全な場所があると聞いています」と答える。
 健太から「正確な場所は知らないんだろ。それは危険だぞ」と言われ、莉子には「そういう噂で行動することが一番危ないんだよ」と忠告される。
 則之が「ここにいては迷惑だし……」と真意を伝えると、良平は「迷惑ではない。当分は気温が高いし、食料も調達できる」と答える。
 健太が「いまの状態で、盛岡にたどり着けるかは疑問だし、盛岡に安全な場所がなかったらどうする?」と質される。
 則之は答えに窮する。
 良平が「出て行きたいなら、止めはしないけど、いたいならいてもいい」と伝える。
 真琴は咄嗟に「いさせてください。しばらくでもいいです。もう少しいさせてください」と懇願した。

 良平は真琴の様子を見て、2人に何が起きていたのか、それを気にし始めていた。

 夕食後、良平たちは真琴から衝撃的な話を聞く。
「最初のゾンビが確認されてから、世界が崩壊するまで7日ほどだった。
 最初のゾンビは病院で病死した人だった。進行性のガンで亡くなった若い男性が、死亡直後にゾンビ化したの。
 まず、人は死ねば誰でもゾンビになる。私たちはすでに、Zウイルスに感染している」
 健太が疑問を質す。
「真琴さんは、なぜそれを?
 それと、ゾンビ化する前に人が凶暴化する理由は?」
 真琴は何をどう伝えるか考える。
「人が凶暴化するウイルスと、ゾンビ化するウイルスは別物。
 凶暴化ウイルスは人為的に作られた形跡があり、たぶん生物兵器ではないかと推測している研究者が多かった。
 凶暴化ウイルスは狂犬病ウイルスに似ていて、Zウイルスはまったく未知の新種だった。
 凶暴化ウイルスで死に至り、死んだらゾンビ化する。凶暴化ウイルスだけならワクチンで予防できたと思うし、Zウイルスは死なない限り無害だから……。
 だけど、この2つが同時だったから、世界は簡単に崩壊してしまった。
 私が知っている理由だけど、私はウイルスの研究者だった。この種の研究が専門ではないけど、緊急事態なので急遽集められた1人だった。
 だけど、展開が早すぎて、人の力ではどうにもできなかったの」
 沙耶が怯える。
「私もゾンビになるの?」
 真琴が優しく説明する。
「Zウイルスは、生きている人には無害なの。病気にはならない。
 死んでしまうと発症するけど、死なない限り大丈夫。
 沙耶ちゃんも大丈夫」
 沙耶は納得せず「お姉ちゃんは?」と尋ねる。真琴は「みんな大丈夫。病気にはならないから」と説明する。
 良平は黙っていたが、事態の深刻さと残酷さは想像以上だと感じた。死ねばゾンビになるなら、多くが生き残っている現在、ゾンビは増え続けると言うことだ。
 健太は2人がどこから来たのかを気にした。
「で、2人はどこにいたの?」
 則之が答える。
「陸上自衛隊の民間人保護施設……」
 良平の顔色が変わる。行動圏内にあるからだ。
「そこで何が?」
 則之は少し躊躇ったが、正直に話すことにする。
「感染が拡大して、どうにもならなくなってから、娘が私を心配して家に来てくれた。
 私は娘に避難を促したのだが、娘は政府の指示に従って室内にいるべきだと……。
 死なない限り、ゾンビにはならないから……。
 だけど、凶暴化ウイルスの感染力は強く、噛まれるだけでなく、引っ掻かれても感染してしまう。
 凶暴化ウイルスに感染すると48時間以内に発症し、発症後48時間以内に死ぬ。死ぬとゾンビ化する。
 ゾンビ化した感染者が凶暴化ウイルスを拡散させてしまう。
 この悪循環を止めるには、凶暴化ウイルスのワクチンだけが解決策なのだけど、それを開発する時間はない。
 娘からそれを聞かされて、人の住んでいない場所に避難しようと……。
 だけど、すでに東京は動くに動けない状態だった。
 1カ月かかって東北の入口までたどり着いたのだけど、自衛隊の施設があると聞いて、娘が保護してもらいたいと言い出して……」
 健太はその先を聞きたかった。
「で、自衛隊の施設で何があった?」
 則之が大きく息を吐く。
「自衛隊、警察、消防が力を合わせて、どうにか安全な場所を確保していたんだ。
 避難者の中に彼らの運営に批判的なグループが生まれる……。
 自衛官、警察官、消防隊員、自治体の職員、彼らの家族も避難していたのだけど、対立が起きたんだ。
 そして、暴力沙汰が起きた。
 嫌気が差したのだろう、避難施設を作り、運営していた人たちが突然去ってしまった。
 あとは、弱肉強食の世界だよ。最後のトラックがゲートを出る前に、強い者が弱い者を支配するようになっていた。
 私は娘をどうにか説得して、最後のトラックに続いたんだ」
 真琴がうなだれる。
「政府がないのに、自衛隊や警察があるほうが不思議なのに、私はあることは当然だって考えてしまって……。
 それに、施設の運営は民主的であるべきだとする、一部の人の主張はもっともだなって……。施設の運営は民主的ではなかったから……。少数の意見を無視しているというか……。
 だけど、施設運営の民主化を叫ぶ人たちは、結局は運営権を握りたかっただけで……。
 トラックが次々とゲートから出て行くと、父が私に逃げようって言ったけど、そのときは意味がわからなくて……。
 だけど、すぐに……」
 健太が「何があった?」と涙目の真琴を促す。
「病気や怪我で動けない人はいらないから……って」
 莉子が「殺したの?」と尋ねる。
 則之は「殺すところは見ていないけど、そうしたと思う」と答えた。
 美保が「逃げたのは真琴さんたちだけ?」と尋ね、則之が「10台くらいは続いたと思う」と答える。
 莉子が「真琴さんの気持ちは、正常性バイアスっていうヤツよね。異常な状態なのに、正常だと思い込もうとする感情ってところ」と訳知り顔で解説する。
 美保が「私にはこの状態が正常かな」と。莉子が「異常性格だからね」とからかう。美保が「私のことはほっといて」と笑った。

 真琴は莉子から正常性バイアスに陥っていると指摘され、ようやく自分の精神状態を理解した。
 彼女の人生は順風満帆だった。研究者としての業績は今ひとつだったが、幸せな中学高校生活を過ごし、現役で希望の大学に入り、最短で学位を得た。
 結婚し、離婚も経験するが、離婚のゴタゴタはなし。原因は嫁舅・姑問題で、夫婦双方がゴタゴタを嫌ったからだ。離婚すれば問題解決。その後も元夫とは仲がよかった。
 仕事と私生活の両方とも、充実していた。
 ゾンビ問題が発生して、社会は根本から変わった。彼女はそれを受け入れられずにいた。

 則之は夕食後、全員がいるところで「少し聞いてもらいたい」と切り出した。
「自衛隊の施設のことだけど、現在残っている人は筋のよくない人だと思う」
 ここで一息つく。
「施設にはいろいろな人がいたんだ。
 背中に彫り物がある人、暴走族だった人。私のような学者もいたし、建築関係の技術者や技能者。コンピュータのエンジニアもいた。
 誰もが、自分の持てる力を惜しみなく提供していたんだ。
 生き残るためにね。
 だけど、国会議員だった女が来てから変わった。国会議員だったことは確からしいけど、私は知らないから大物ではないと思う。
 声が大きかった。不平不満をためていた連中をけしかけて、施設の“民主的”な運営を訴えたんだ。
 それに、娘も加担した。
 取り返しのつかないことをしてしまった」
 真琴が泣き出す。
「ごめんなさい。
 立派な政治家だと思ったの」
 則之が「政治家なんて必要ないだろ。こんな状況で!」と娘を叱る。
 則之が続ける。
「ここから近いけど、大丈夫かな?」
 健太が「どのくらい残ってます?」と尋ね、則之が「たぶん、100人以上だと思う」と答える。
 健太が「多いな。準備が必要かもしれない」と物騒なことを言う。冗談なのか「戦車があれば、完璧なんだが……」と笑う。
 良平が「現実的な対応は?」と促すと、健太は「道を塞ぐ。トンネルがあればいいが、残念だがない。一番険しい場所にフレコンバッグを置く。ありったけ置いて、ダム湖方面からは登って来られないようにする」と提案。
 良平が「できるだけ手前に置いて、撤去を簡単にしよう」と提案し、莉子が「物資調達は?」と質し、美保は「あの銃砲店から根こそぎ持ってきたほうがいいよ」と善後策を出す。
 良平が「全部の案が必要だと思うけど、明日、ダム湖周辺を偵察してはどう?」と促す。
 反対はない。

 立花一希は、東京に向かう理由を失っていた。ゾンビの出現後、可能な限り人家を避けて内陸を南下しているが、東京までは無理だと感じ始めていた。
 仙台は混乱の坩堝だった。どうにか市街を脱出し、学内で偶然一緒になった野田芽依と山間の街まで進んで、そこから南下を始めた。
 しかし、盛夏を過ぎて、残暑となっても東北に留まっている。
 道は必ず人界に到る。しかし、そこに人はおらず、ゾンビが群れている。日を追って、人口密集地の突破が困難になっている。
 芽依は、いまだに東京に固執している。一希も東京近郊出身だが、芽依ほどは東京が特別とは思えない。
 もし、環状7号の内側に入れたとしても、そこは地獄だろう。生きて出られるとは思えなかった。
 人口5万に達しない街でさえ、決死の通過だったのだから……。
 一希は移動を続けることに疲れていた。ダム湖は快適で、水があり、魚もいる。物資の調達は不便だが、ゾンビと人がいない。
 ただ、時々クルマが通過するので、見つかると厄介なことになりかねない。銃はなく、武器になりそうな刃物は手斧くらい。
 芽依は長く弓道をやっていたそうだが、弓矢を使うことは拒否している。人とゾンビに向けて射るほどの勇気がないからだ。それは、一希も同じだった。
 それと、ここにはクマがいる。クマを頻繁に目撃する。安全な場所ではないが、だからこそ人が避けるのだ。
 一希は、クマよりも生きている人間に恐怖を感じていた。

 キャンピングカー内で寝ていた一希と芽依は、銃声に震え上がる。
「銃よ!
 銃でしょ!」
 芽依の怯えた声で、一希も怯える。
 非常用デイパックを背負い、夜のためのジャケットをつかんで、森に逃げ込む。身を伏せて、ただ震える。

 健太は外国でライフルを撃ったことがある。昨年のことだ。父親の赴任先で、夏休み中、射撃に興じた。冬休みと春休みも、射撃訓練をしている。
 良平に撃ち方を教えるが、初歩的な扱いはすぐに覚える。莉子は筋がいい。美保はやや心配で、銃に振り回されている。
 .35レミントン弾のマーリン製レバーアクションに変えると、反動が減ったからか命中するようになる。
 良平は、スコープ付きの7.62×51ミリ弾のボルトアクションライフルが気に入る。
 莉子は威力の大きさからポンプアクションのレミントン製散弾銃を選ぶ。
 弾数が限られるので、2時間の射撃訓練にとどめた。
 陽咲と沙耶の目的は自転車。レンタルサイクルを回収するために、2人はついてきた。
 則之と真琴は、釣り堀の状態を見に行った。

 射撃訓練は人工物がほとんどない東岸で行う。銃声が森に吸い込まれると思ったが、湖面を走り遠方までとどろく。良平は、銃を使えばゾンビを呼ぶと確信する。
 それは、健太も同じだ。
「銃は、生きるか死ぬかの土壇場以外使えないな」
 良平が頷く。
「空気銃を使おう。ゾンビには空気銃、クロスボウ、弓で戦わないと。銃を使えば、死ぬことになる」

 一希と芽依は、銃声がやんだことにホッとしていた。だが、彼らの車に戻ることは躊躇われた。
 クルマを失えば身動きできなくなるが、クルマを惜しんで生命を失う危険もある。
 ダム湖周辺には使えそうなクルマが多数遺棄されている。ただ、一希と芽依がいま使っている2トン4WDトラックベースのキャンピングカーは、入手困難なクルマだ。失いたくない。

 軽装甲機動車が先導し、ピックアップが続く。則之はたも網で、釣り堀のニジマスやイワナをすくってきた。大漁だ。
 釣りを楽しみたいところだが、そんな危険は冒せない。真琴によれば、ゾンビは聴覚があるのではなく、振動を感じるのだという。そう推測していた研究者がおり、ほぼ確実らしい。
 骨伝導によって、震動を検知し、震動の発生源に誘導される。体重70キロの人がスニーカーを履いてゆっくり歩く状態で、2キロ離れていても検知できるとか。
 空気の振動は周波数が高いほど、検知できるという。
 ゾンビの動きが緩慢なのは、極端に代謝が低いから。ナマケモノと同じだ。緩慢だが、ぎこちなく動くのではない。ゆっくりだが、スムースだ。
 それが、人らしくない。

 軽装甲機動車が路上に停止すると、女性が飛び出してきた。
「助けてぇ~」

 芽依は、自衛隊のクルマ=自衛官が乗っている、と短絡的に考えた。これで、一緒にいたくもない安物の男と別れられる、そう考えた。

 則之は助手席に顔を向け「益子真琴Part.2だな」と笑った。
 だが、真琴は真剣な顔で「パパ、気を付けて。バカな女のふりはあり得るよ」と忠告する。則之が気を引き締める。
 こういった場合の指示を健太から受けていた。
 ピックアップから健太と莉子が降りる。

 芽依は、自衛隊の制服でないことに不審を感じるが、深くは考えなかった。
 健太に「自衛隊の方ですよね」と問い、健太から「いや、違う。ここで何をしている?」と問い返される。
 芽依はドジを踏んでしまったことを悟る。
「あのう、でも自衛隊のクルマですよね」
 真琴が降りてきた。
「基本はただのクルマだよ。
 あなた1人?」
 周囲を観察するために用心しながら、視界を広げていた莉子が知らせる。
「オフロードタイヤを付けたキャンピングカーがある!」
 良平が向かう。美保がピックアップの運転席に移る。姉妹が不安そうな目をしている。

 一希は、警察官や自衛官ではなさそうなグループの全員が銃を携行していることに驚く。
 芽依は衝動的な行動を取ることが多いが、その理由を知っていた。
 目立ちたいのだ。
 医師になるのも他者から「すご~い」と賞賛されるためであり、外科を選んだのも「女性でぇ~」と驚きを持って迎えられるためだ。
 しかし、現実には何もできない。彼女の能力は2つ。どんな試験にもパスすること、男に寄生すること。どんな男の要求にも合った女を演じられる。短期間なら。
 一希はそれに気付いていたが、見捨てて逃げるのも気が咎めた。
 しばらく、様子を見ることにする。

 良平が健太に「車内を見たが、少なくとももう1人いる。男物の衣類があった。物資不足だが、彼女のものじゃないだろう。サイズが違いすぎる」と伝える。
 莉子が後退してくる。
「行こう。
 イヤな予感がする」

 芽依は置き去りにされることを、ある意味、ホッとしていた。暴力は一切なく、レイプされる兆候もなかった。

 一希は慌てた。
 何も盗らず、何もせず、立ち去ろうとしているからだ。物々交換の提案や、情報の交換もない。善人は少ないが、悪人も多くない。しかし、それでもトラブルはある。
 この混沌とした世界で、人は残虐性を解放している。他者に対して、何もしないという行動は極端に少ない。

 彼は茂みからゆっくりと姿を現した。
「待ってくれ!
 あんたたち何者なんだ?」
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