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第5章 解放編
第42話 陸軍特種船
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赤い海は、40万平方キロほどの南北に長い巨大な塩湖だ。塩湖ではあるが、塩分濃度は海水の半分もない。
南北最大1000キロ、東西最大450キロ、最大水深1000メートル以上、平均水深200メートル弱、流れ込む小河川多数、大河は4、流れ出る川はない。外部とは白い海とつながる海峡のみ。巨大な水面は、周囲の気候に影響を及ぼす。
巨大内海の周囲には、多数の湖沼と湿原が点在する。
私は大学で機械工学を学んだ。専攻はターボ機械だった。
職業は出版社の編集員で、ミリタリー・オタク向けのMOOKを担当していた。明治維新前後から第二次世界大戦期の読み物が多く、20世紀後半から21世紀にかけての軍事情報については詳しいわけじゃない。
だが、20世紀前半の軍事についてなら、ほとんどのことは概略の知識はあるつもりだ。
この世界に来る直前は、海外旅行関係のクラスマガジンを担当していたが、編集経験はミリタリー系が断然長い。
そんな私でも、眼前の巨船は驚かずにはいられない。
「何でこんなものが、アークティカに現れたんだ……」
リリィの父親の研究によれば、異界物は3年間隔で現れる。1回ではなく、短い期間に3回ほど連続する。
発生する地域はかなり広い。私は発生域の西端付近に現れたようだ。
多くは赤い海の周囲に現れる。調査の結果、地下空間も異界物だった。既知の異界物では、地下空間は最大であった。
全長100メートルに達する病院船トルボルグ号も最大クラスの異界物だが、眼前の全長150メートルはありそうな巨大船も驚くべき大きさだ。
この世界では、古くから異界物の恩恵を受けてきた。蒸気機関も異界物からの技術移転らしい。火薬の製法は異界人が数百年前に伝えたとされる。
武器もそうだ。銃は異界人が持ってきた。多種多様な銃が持ち込まれたが、弾薬がつきれば使えなくなる。結果、黒色火薬の製法伝来によって、マッチロック(火縄)とフリントロック(燧石)の2種が残った。
無線火薬を大量製造し、金属薬莢を使う連発銃の開発にも成功したのは、赤い海を起点に半径1500キロ圏内ではアークティカが最初だった。
ただ、黒色火薬を発射薬とする連発小銃や後装砲はアークティカ以外にも存在する。
異界物や異界人は、転移してきても多くは誰に発見されるでもなく、消えていく。
自動車が湖水の上に転移したり、船が陸上に現れたり、高空に転移することもあるらしい。
リシュリンが「この船、船体だけみたい。船橋とかマストとか、ないみたいだし……。
造りかけなのかな?」と私に問う。
メルトが走り寄る。
「右舷船首側に死体があります」
私はメルトに「カール・ビルト船長を呼んできて欲しい。こういう船は彼が専門家だ」と指示し、彼は馬でアレナスに向かった。
死体を検分すると、どこかの海軍の軍服らしい。水兵で、1950年代以前のようだ。日米英独伊の海軍ではない。それは明確だ。私は、軍装の本も結構手がけていたから、確かだ。
2人の遺体は、丁重に扱っている。甲板から落ちたらしく、手足と腰などに骨折がある。
甲板までの高さは、15メートルはある。甲板まで登坂する手段がない。
「誰かいる!」
女性が指差す、上方を見る。甲板に男が1人。
ロープを投げ下ろしてきた。
ジャベリンが「私が登ろう」に、スコルが反対する。
「私のほうが身軽だ」
確かにその通りだ。ジャベリンの体躯では、登り切れるとは思えない。
甲板の男が何かを叫ぶ。だが、意味がわからない。
陸上にいる15人ほどが、首を上に向け、反射的に口を開けている。
数分後、パイロットラダー(縄ばしご)が落とされてきた。水先案内人などを乗船させるためのものか?
スコル、リシュリン、私の順で登り始める。
この巨大な物体が、海岸から10キロ内陸の湿地に現れたのは11時間前だった。
ルカーンとの国境から50キロ離れていて、隣国がアークティカに送り込んでいる間者の報告で、この船の存在を知るには4、5日はかかる。
森に囲まれた南北2キロ、東西5キロの湿原に全長150メートルの巨船が現れたのは、濃い霧の朝だった。
この付近に人家はなく、見つけたのは郷土防衛隊のパトロ-ルだ。パトロールの発見時、船は動いていたという。
ゆっくりと前進し、湿原の泥に乗り上げた。座礁だが、内陸の奥深くでの出来事を座礁と表現していいのだろうか?
船首は泥に浅く埋まっているが、船体の3分の2は浮いている。船体は、ごくわずか右に傾いている。
パイロットラダーは右舷側に降ろされた。
甲板には、精悍な顔つきの金髪を短く刈った男がいた。
銃を構えている。
リシュリンがM2カービンを構える。
私は、M2カービンの銃口を左手で押し下げた。
異界人であろう男に「英語はわかるか?」と問いかける。
男は「少しだけ」と答える。
「ブンタウ沖を航行していたんだ。ごく近距離の移動だった。低速で、2ノットか3ノットしか出ていなかったはずだ。
気付いたら森に囲まれていた。
ここは熱帯じゃない。寒い土地のようだ。
どこなんだ?」
男はひどく動揺していた。M1ガーランドに似た銃を腰だめにしているが、M1ガーランドじゃない。
私はその銃を知っていた。
日本海軍が開発した四式自動小銃だ。弾薬は、九九式実包ではなく、日本海軍が使用していたルイス軽機関銃と同じ.303ブリティッシュ。
私は「今年は何年だ?」と尋ねた。
男はさらに動揺する。姿勢が前屈みになる。「1945年10月……」
「フランス領インドシナにいたのか?」
「そうだ。
反乱軍を押さえるため、プノンペンからサイゴン(現在のホーチミン市)に飛行機を運んでいた」
「フランス人か?」
「そうだ。
フランス空軍の技術将校だ」
「ここは、アークティカという国だ。
元の世界とは、異なる」
「どういうことだ」
「正確には、私にもわからない。
だが、この世界にはアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、日本は存在しない。
まったく別の世界だ」
「そんなバカなこと……」
「ブンタウ沖を航行していたのに、針葉樹に囲まれた湿地にいる理由は?」
「……」
「答えられないだろう?
私は東京の高速道路を走っていた。2013年のことだった。
気付いたら草原の真っ只中にいた。
あなたと同じだ。
私もこの世界に迷い込んだ。
もう、何年も前のことだ」
フランス空軍技術将校は、銃口を下げ、フラフラと歩き回る。
「この船の艦長が愚かすぎるんだ!
だから、こんなことになった。
この船の船員をブンタウで全員降ろしてしまった。
結局、船長以下5人でブンタウを発したんだ。海軍軍人とか言っていたが、輸送艦の艦長か何かだったらしい。
そんな経歴で、空母を動かせると思うか?
しかも5人で……」
「5人の中にあなたは入っているのか?」
「いいや。
日本人のパイロットや整備将校もいたんだが、全員降ろしやがった。
黄色いサルに用はないって!」
私が手を差し出す。
「危害を加えるつもりはない。
その銃を渡してくれないか?」
フランス空軍技術将校は、銃を広大な甲板に置いた。そして、手を上げて、後方に数歩下がる。
私は銃を拾い、フランス人の顔を真正面から見た。金髪で、透き通るような青い瞳だ。
「名前は?」
「フランス空軍技術中尉ロシュディ・コンシニ」
「ロシュディ、私はシュン。
スコルとリシュリンだ。
他に生存者は?」
「船長と航海士、機関長も生きているはずだ」
航海士はひどく頭を打っており、船橋で発見して10分後に息を引き取った。
船長も船橋で発見。発砲したため、応射しなければならず、結果的に負傷させてしまった。
機関長は何が起きたのかまったく理解しておらず、機関室で我々の姿を見ても抵抗しなかった。
機関はディーゼルで、湿地に乗り上げた直後に、機関長が停止した。座礁時、スクリュープロペラは回転しておらず、船は惰性で動いていた。
ロシュディの案内で、船内を点検し、確保したと判断するのに2時間を要した。
この2時間の間に、厄介な連中が大勢やって来た。
タルフォン交易商会のネストルやアレナス造船所のシビルスなど……。
舷側タラップを降ろしたが、地上へは届かず、彼らは登ってこれないはずだった。そこは強引で、急遽周辺の樹木を切り出して、階段を作ってしまった。
甲板は広大だった。概算全長150メートル、最大幅20メートルの平甲板。つまり、空母のような全通甲板だ。正規空母に比べたらずっと小さいが、それでも第二次世界大戦期のアメリカ海軍護衛空母と同等のサイズがある。
この船は、アメリカ海軍の護衛空母じゃない。日本製の船だ。海軍の船じゃない。陸軍の特種船らしい。
ロシュディは「この船は日本の陸軍の空母で、特殊任務に就いていたらしい。どんな任務かはわからないが、移動中、プノンペンで足止めされたか、そこが目的地だったのかはわからないけれど、港で戦争が終わった」と。
ここまで聞いて、私の視線の先にシビルスとネストル、そして彼らのスタッフがいた。
私は、この船の正体をおおよそだが理解していた。
ロシュディの背後にいる欲深いアークティカの商人たちに向かって、この世界の言葉で説明する。
「この船は異界物だ。
エミール先生がいた時代の数年後からやって来た。
日本という国、私が住んでいた国だが、が造った船だ。
陸軍特種船。
世界初の揚陸強襲艦だ。
丙型かM丙型の1隻だろう」
シビルスが背後を振り返る。
「飛行機を運ぶ船なのか?」
「あぁ、飛行機と上陸用舟艇を運ぶんだ。
飛行機は上陸を支援するために上空を警戒し、地上を攻撃する。上陸用舟艇は海から陸に戦闘部隊を運ぶ。
脅威の輸送船だ」
シビルスは飛行機を見詰めている。
振り向く。両手を広げる。
「飛行機は全部で10機。
とてつもなく大きい飛行機が2機。単発機が4機。双発機が4機。
たいへんな戦力だ」
ネストルがシビルスの背を叩く。
「この船を、もし、海に出せたら、それこそ凄い戦力だ。商売の役にも立つ。
この船は、トルボルグ号と同じ仕組みで動くのか?」
「基本は同じだ。ディーゼルエンジンで動く」
私には腑に落ちない点があった。全通甲板を持つ陸軍特種船には、あきつ丸と熊野丸があった。どちらも蒸気タービン機関を装備している。
この船は、ディーゼルエンジンだ。全通甲板ではない陸軍特種船甲型とM甲型には摩耶山丸などディーゼルエンジン船があった。
この船は熊野丸相当のM丙型のようだが、M丙型にはディーゼルエンジン船はない。
不思議な船だし、船名を示す銘板もいまのところ見つかっていない。
ロシュディは日本兵が「無名船」と呼んでいたことを知っていた。
見物人は引きも切らずに15メートルの、高さ5階建てのビルに相当する階段を上って、上甲板までやって来る。
この世界にはない広大な甲板を見て驚き、飛行機の搭載に感嘆した。
私は飛行甲板の全幅よりも翼幅ある双発機が四式重爆撃機の派生型キ109であることは、すぐにわかった。何しろ機首に75ミリ高射砲を搭載しているのだから、簡単に判別できる。
双発の小型機はキ102甲。二式復座戦闘機“屠龍”の発展型だが、制式名称はない。機首に37ミリ機関砲を搭載し、エンジンは空冷星型14気筒1500馬力だ。
単発機は4ブレードのプロペラで、四式戦闘機だとわかった。オリジナルのエンジンは18気筒で、その点に違いはないのだが、キャブレター用空気吸入口の形状が微妙に異なる。
この機も通常の四式戦闘機(キ84)ではないようだ。
10機とも、この世界で作れるものじゃない。
大事に使えば、30年は維持できる。その間に作れるように、技術を育てていけばいい。
ロシュディは「見物〈みもの〉だぞ」と言って、舟艇格納庫に案内した。
シビルスとネストル、彼らのスタッフが同行する。
舟艇格納庫には22艇の大発動艇があった。
シビルスが「何なんだこの船は!」と驚きの声を上げ、ネストルは「このボートで荷を運べば、簡単に揚陸できるぞ!」と。
続けて「この船なら、大きな港がない街とも大商いができる!」
俺の関心は別にあった。
「あれを見てくれ、戦車だ。
本物の戦車だ」
大発によじ登り、戦車を検分する。
一式中戦車(チヘ)四輌が舟艇1艇ずつに積まれている。二式砲戦車(ホイ)も2輌ある。4艇に一式装甲兵車(ホキ)が。世界初の装軌式装甲兵員輸送車だ。
一式装甲兵車の各兵員室には、九四式37ミリ速射砲(対戦車砲)2門と四一式山砲の歩兵用(防盾付き)2門が1門ずつ載せられている。
残り10艇には空荷の日産80型キャブオーバートラックが積まれていた。
2艇の積荷は、これも希少な機材であった。コマツG40ブルドーザーだ。
重要な特殊任務だったのだろうが、そんなことはどうでもいい。
本物の戦車が手に入った。
これで、戦車が作れる。
それにしてもどんな任務なのかわからないが、大戦末期にこれだけの新型装備をかき集めて何をなそうとしたのか?
歴史に埋もれた作戦があったのか?
作戦があったならば、アークティカが感謝する。誰に感謝すればいいのかわからないが……。
シビルスとネストルは、帰る様子を見せない。リシュリンは子供たちが気になり帰りたい素振りだが、メハナト穀物商会の幹部がこの地にいないと、アレナス造船所やタルフォン交易商会の専横を許しそうで、留まっている。
リケルはアレナス地方行政府の代表、ジャベリンは郷土防衛隊の代表として居座っている。
郷土防衛隊総司令官スコルは軍務があり、アレナスに戻った。彼は司令官ジャベリンに自分の代わりに戻れと命じたが、陸戦の長は毅然と拒否した。
「総司令官の命令でも、こんな面白いものを見逃すなんてできない!」と。
甲板に天幕が張られ、この巨船をどうするかの会議が始まる。前年、アレナス議会は異界物法を可決。即時、施行した。
この法は、異界物の発見者には報奨金が与えられ、隠匿者は罰せられ、アレナス地方行政府の施政権が及ぶ範囲において発見された異界物は、地方行政府に帰属するというものだ。
リケルが「この船と搭載物のすべては、アレナス地方行政府に帰属する」と宣すると、誰も異論を唱えない。
そんなことをする必要はない。
この巨船を修理できるのは、アレナス造船所だけだし、このディーゼルエンジン船を運用できるのは、トルボルグ号を要するタルフォン交易商会しかない。
そして、甲板にある10機の飛行機は、イファ航空隊に預けるしかない。この航空隊は、メハナト穀物商会の下部組織だ。
実によくできた利権配分じゃないか!
積荷のうち10台のトラックの帰属は、相当に揉める。
1年前、メハナト穀物商会は海運部門をタルフォン交易商会に売却した。
海運のトップであったミクリンは、タルフォン交易商会に移籍している。妻子を失っているネストルは、最大のライバルであった若き商人ミクリンを後継者に指名した。
また、国力の落ちているアークティカは、海運に何社もが並立できる状況ではない。他国の海運と競争するのならば、1社寡占にする必要があった。
ミクリンはメハナト穀物商会から離れることを嫌がったが、最後はネストルが直接説得して口説き落とした。
陸運は海運の真逆。大小各社が入り乱れている。
各社は蒸気車よりも速度が出せて、走行距離が長いガソリン車を求めている。
ガソリン車はいまだハンドメイドに近い。10台ものガソリントラックは、誰もが欲しい。
地方行政府も、郷土防衛隊も、農民や商人たちも……。
この時点で、私は全通甲板下の航空機格納庫を見ていなかった。もちろん、その存在は知っていたし、分解した一式戦闘機(キ43)“隼”ならば30機を運べることも知っていた。
日没近く、分け前の主張にヴェルンドがやって来た。エミールも同行している。医療関係の機材が欲しいと……。
私を含む欲深なアークティカ人が拾得品の分配を話し合っていると、ロシュディが話しかけてきた。
彼も暖房用に持ち込んだ火鉢を囲む車座の中にいた。火鉢は前部全通甲板にある。
ロシュディは、楽しそうな面持ちで興味深い話を始める。
「無名船は、日本陸軍の諜報船だった。
一式戦闘機の新型30機をどこかに運んでいた。一説ではシャム湾(タイランド湾)を目指していたそうだ。タイ王国に供与しようとした、とも言われているがはっきりしない。供与したのか、供与しなかったのかもはっきりしない。
私は空軍の技術将校なんだが、諜報にも関係していたんだ。敵国の航空機の技術情報を収集していた。
私は父の仕事の関係で、一時期、神戸に住んでいた。上海にいたこともある。そんなこともあって、大戦終結直後にカンボジアに派遣されたんだ。
プノンペンを中心に活動していたんだが、信じられない噂を聞いた。
プノンペン港の少し上流、メコン川の河畔に日本の空母が隠れていると……。
それが無名船だった。
当然だが、当初は海軍艦だと判断していた。
幸運だったが、イギリスやアメリカよりもフランスが一足早く、この船を見つけたんだ。
無名船の船長と指揮官は、戦争の終結を知っていたし、乗員も知っていた。
抵抗の意思はないようだが、どうしたらいいのかわからないようだった。
フランス空軍は日本製航空機には興味がなく、一通り調べたらスクラップにしようと考えていた。
飛行甲板での調査を終えた後、サイゴンの我が空軍から航空機の要求があった。
サイゴンには日本の武器で再編したフランス軍がいたのだが、飛行機の数が足りないってね。
以前、一式戦闘機をラングーン(現在のヤンゴン)から運んだはずなんだが……。
舟艇格納庫には戦車もあるから、陸軍も喜ぶ、空母が手に入れば海軍も喜ぶ。サイゴンには、軽戦車しかなかったし……。
イギリスやアメリカに見つかる前に、サイゴンに送ってフランスのものだと既成事実化しようと考えたんだ。
それで、日本側を説得して、メコン川を下ることにした。
ブンタウ港までは何事もなかった。
ここで、あの船長が乗り込んできた。海軍さんの意向で、日本人は全員下船させられたんだ。
戦争は終わった。無名船の日本人とは良好な関係を築いていたんだが、あの船長が台無しにした。
私も残念だったが、それ以上に日本人たちは無念だったと思う。
結果だが……。
私は日本人を欺してしまった。
船長はとんでもない愚か者で、この船を5人で操船できると言い張った。
まぁ、ブンタウからサイゴンまで80キロもないが……」
私は空を見上げていた。星がきれいだ。上空の大気はかなり冷えている。
「で、航空機の格納庫には何があるんだ?」
ロシュディは少し笑った。
「日本人だそうだが、あんたは私が知っている日本人とはだいぶ違う。
それはいいとして……。
飛行甲板下の格納庫には、日本製の14気筒の空冷エンジンが30基。
横浜で積み込んだまま、降ろす時間の余裕なく新しい任務に就いたそうだ。
無名船の指揮官がそう言っていた」
私はロシュディを真っ直ぐに見ていた。何人もに急かされて、私とロシュディの会話をエミール医師が通訳している。
「船倉に、飛行機のエンジンが30基もあるそうだ」
シビルスがロシュディのコップにワインを注ぐ。
自分のコップにもワインを注ぎ、「アークティカの未来に! 勝利に!」と叫ぶ。
ロシュディは状況をわかっていない。現状に対するある程度の認識はあるようだが、深く理解しているわけではない。
当然だが……。
私はロシュディが何をどう考えているのか、尋ねてみたかった。
「あなたにとって、この異常な状況をどう感じているんだ?」
「戦争前のことなんだが……。
1940年5月以前のことだ。
両親と妹はチュニスにいた。
私は航空力学を学ぶため、パリにいた。
母はムスリム。父はクリスチャン。
そんな家庭で育ったせいか、私はイエスにもアラーにも、興味はない。
神の怒りを買ったのか、強盗が押し入った。白昼、父の家に。
両親と妹が殺された。母と妹は、陵辱されていた。
私は1人になってしまった」
ロシュディが、ワインを飲む。
「北アフリカで戦った。
ドイツとね。
自暴自棄だったのかもしれない。
戦争が終わって、やることがなくなった。
本国では、フランスとアラブの混血は生きにくい。
だから、東南アジアに来た。
もっと遠くに行きたいと思っていたら、望みが叶ったのだろう。
ここがどこかは知らないが、フランスから遠いならそれでいい」
ロシュディがワインを飲み干し、シビルスが彼のコップに注ぐ。
「ここにパイロットの仕事はあるか?」
私は、言葉さえわからないのに求職する気でいる男に好感を感じた。
リシュリンが「何を言ったの?」と尋ねたので、私は「飛行機の操縦ができるそうだ。仕事はあるかと、聞いている」と。
リシュリンが微笑み「仕事ならたくさんあるよ」と、ロシュディに直接言った。
ロシュディは意味がわかったのか、何度も頷く。
夜が明ける。
夜明けの1時間前から、船内調査の準備が始まる。熊野丸とほぼ同型とすれば、9500総トンに達する大型船だ。この船の時代の正規空母は全長250メートル以上、排水量で2万トンから4万トンだから、空母とするには船形が小さすぎる。
それでも、船内をくまなく捜索するには、アレナスに残っていたトルボルグ号の航海士は3日はかかると判断していた。
トルボルグ号は、この事態に急遽航海を中止して、アレナスへの帰還を始めている。
航空機格納庫には、空冷星型14気筒のエンジンが30基ある。放射状配置の7気筒エンジンが2重になったタイプだ。
広い航空機格納庫には、30基のエンジンの他にもいろいろとあった。だが、満載ではない。
正直、これだけ広いのだから、もっと物資を積んでいて欲しかった。それでも、大量の航空機整備用機材がある。
これは、助かる。
ロシュディは「プノンペンに係留されていた状態のまま、サイゴン向かった」と言っていたが、嘘ではなさそうだ。
この日から、船内捜索は機関長も協力してくれることになった。
彼は、我々がホーチミン派ではないかと疑っていたが、無名船の異常な状況から「それはない」と判断したようだ。
異界人の命運は、現状を受け入れる早さにかかっている。私は10分程度しか動揺しなかった。無闇な移動もしなかった。積荷を点検し、できることとできないことを仕分けした。
現状を受け入れず、無理に現状と感情を整合しようとすれば、精神に破綻をきたすか、その前に殺される。
ロシュディと機関長は、生存における最初の条件をクリアした。
無名船の自衛用兵器だが、八八式7.5センチ単装高射砲マル特が10基、九六式25ミリ単装機関砲12基、二式120ミリ迫撃砲1基、九七式81.3ミリ曲射歩兵砲2基とかなりの重装備だ。
このうち、九六式25ミリ単装機関砲は日本海軍の対空機関砲で、九七式81.3ミリ曲射歩兵砲は世界中の軍隊が装備したストーク・ブラン迫撃砲のコピーだ。
迫撃砲は、対潜水艦用の前方投射兵器として搭載されている。
八八式7.5センチ高射砲は通常、駐退復座機の強度不足で、水平射撃の連続発射はできないのだが、マル特は重量増を許容して、直射照準射撃を可能にしたタイプだ。
ヴェルンドは、7.5センチ高射砲と25ミリ機関砲にたいへんな興味を示し、部下とともに詳細な調査を始めた。
午後には、イファからフェイトとキッカがWACO複葉機で飛来。近くの草原に降り、2キロほどを徒歩でやって来た。
2人の関心は、飛行甲板上の爆撃機と戦闘機だ。言葉が通じないことを承知で、ロシュディに質問の雨を降らせている。
尋ねられずにいられないのだ。
同日同時刻、アレナス造船所の技師たちが調査のために大挙してやって来た。
船体損傷部の確認と技術的な調査が目的だ。現状では船体に亀裂はなく、浸水もしていない。湿地の泥に低速で接触し、慣性で乗り上げた状態だ。
船首が持ち上がり、船尾がやや沈んだ傾斜角3度になっている。船首下の泥をかき出し、後進するよう牽引すれば、小さな沼に無名船は浮く。無名船の喫水よりも、沼のほうがわずかに深い。
もちろんスクリュー・プロペラを回せはしない。沼の底を叩いてしまったら、プロペラが損傷してしまう。
どこにも行けないが、水の上に浮く。
沼の底は厚く積もった泥。長い年月をかけて枯死した植物が沈殿している。無名船の騒ぎで、この湿地全体が泥炭化していることがわかった。
想定外の収穫だ。
スコップで泥をすくうと、すぐに水が湧いてくる。作業はしにくいが、砂のように掘っても掘っても、崩れたりはしない。
無名船の処置については、議論があった。私はこの場での解体を提案。シビルスとネストルは、何カ月かかろうとも運河を掘削して、赤い海に出すことを主張した。
搭載している物資については、船体を軽くするためにすべてを陸揚げすることをシビルスとネストルが主張している。
イファ航空隊は、全機回収を「強く望む」と意見を表明した。
無名船の積載物資の回収は、簡単ではなかった。この湿地までの道がない。登山道のような荒れた道はあるが、車輌が通れるような道幅はない。
加えて、湿地は広く、そのほぼ中心にある最大面積の沼に無名船はある。この沼は0.5平方キロもあり、最大水深は12メートルほど。無名船が着底しないギリギリの深さだ。形状は正方形よりは円のほうが近い。直径ならば、800メートルくらいだ。
直径800メートルの沼に全長150メートルの船が半分座礁して浮かんでいる。
異様な光景だ。
赤い海の海岸からだと約10キロ。この10キロに運河を掘らないと、船は広い水面に出せない。ほぼ不可能だ。
街道まで5キロある。湿地を埋め立てて、車輌が通れる道を造るだけでも大工事になる。
全体に平坦な地形なので、道を造ることは難しくはないだろうが、湿地の地面はスポンジのようで、蒸気車が乗り入れたら、すぐに沈み始めるだろう。
仮に船体の傾斜を補正できたとしても、搭載機は飛行甲板からは飛び立てない。
たったの150メートルしかないのだ。いや、そうともいえないかもしれない。日本海軍の小型空母龍驤の飛行甲板は158メートルだったから……。
四式戦闘機“疾風”(キ84)とキ102は飛び立てるかもしれないが、四式重爆撃機(キ67)系列のキ109はどう考えても無理だ。この機は機首を船首に正対させたら、主翼が飛行甲板からはみ出す。現在は、横向きに繋止されている。
飛行甲板上の10機を地上に降ろさないことには何もできないし、現在のように船体が傾いていては、飛行機は降ろせない。
何をするにしても、離礁させるしかないし、そのためには道を造って蒸気牽引車を20輌ほど運び込む必要がある。
この一帯は掘れば真水が出る。海岸近くは海水が湧き出る。運河を造るとして、湧水の心配がさほどないのは、全行程のうち3キロか4キロだろう。残り6キロから8キロは、掘削よりも排水が問題になる。
無名船の喫水は、8メートルくらいある。8メートル掘削したら、8メートルの深さの水が湧き出る。
これを蒸気エンジンで常時排水しながら、掘り進めなくてはならない。
想像を絶する難工事になる。
シビルスとネストルは、これをやろうとしている。美しい湿原の景観を残したいとは、誰も思ってはいない。
アークティカは、生と死の間〈はざま〉にいる。景観に気を配る余裕はない。
それに役目を終えれば、この運河はすぐに埋め戻す。
無名船の航海速力は、私の推測では12ノット程度と考えていた。この時代のディーゼル船ならば、この程度だろうと。
だが、機関長は最大20ノット以上、航海速力16.5ノットを出せると言った。
私は半信半疑だが、この情報に接したシビルスとネストルは驚喜して、何が何でもこの船を赤い海に出す決意を固めてしまった。
数少ないアークティカの土木の専門家は、湿地は6の工区に分け、工区の間には防水壁を設け、水深が9メートルになるよう掘削していく方法を提示した。
アレナス地方行政府の許可があれば、直ちに工事には入れるよう資材の準備を行う。
だが、地方行政府長官チルルは、アレナス造船所とタルフォン交易商会に対して、工事の許可と無名船の移動を認めなかった。
無名船の移動は、アレナス地方行政府直轄の事業となった。その上で、アレナス造船所とタルフォン交易商会に協力の要請があった。
ある種のまやかしではあるのだが、これで無名船と貨物の所有権は明確にアレナス地方行政府になった。
これは、公平性の面からも大事なことだし、異界物法の趣旨にも合致している。
シビルスとネストルは、無名船までの道路建設からはじめる。
湿地を埋め立てる土砂だが、これには海岸寄りの工区から掘り出した乾いた土が使われた。
道路の建設に1カ月。その間に船の左右を水平にするための船首部下部の土砂取り除き工事が行われる。
船体は2週間かけて左右水平になり、船尾泛水扉から大発動艇D型(上陸用舟艇)の発進が可能になった。
舟艇の発進は、天井に設置されたトロリーワイヤーによってローラーを使った軌道に載せ、スロープを滑るように水面に移動させる。
軌道は2条あり、連続して発進できた。
日産80型トラックを載せた最初の舟艇を発進させると、たいへんな興奮をアークティカ人たちの間に巻き起こした。
ロシュディまでもが高揚している。舟艇を陸からロープで牽き、接岸させ、艇体前部のランプドアを下げて、トラックを人力で押し出すと、この様子も騒ぎとなった。
こういった船舶は、この世界には例が少ないからだ。私はドビ海峡で見ているが、海峡のフェリーは異界人や異界物の影響があった可能性が高い。
セミキャブオーバーの日産80型は、アメリカのグラハムページ社が設計・開発したトラックで、日産は製造治具ごと製造権を購入している。水冷直列6気筒サイドバルブ、排気量3670ccのガソリンで85馬力を発揮するエンジンを搭載している。
私が感じる車格は、小型トラックだ。2トンのワイドボディ標準尺とほぼ同サイズ。
日産80型トラックのエンジンは、バッテリーが放電していて、蒸気車で引き掛けする。エンジンはすぐに始動した。
大発のエンジンも始動する。
舟艇格納庫から1艇ずつ発進させ、車輌を揚陸し、エンジンを始動させて移動に備える。 戦車とブルドーザーは、大型蒸気車で牽引した。こちらも、引き掛けでエンジンを始動させる。
無名船の周囲には500人を超える人々が集まり、各自の作業に余念がない。
大型蒸気車20輌が集められ、無名船を離礁させるための牽引の準備も始まる。
無名船が離礁に成功したのは、発見から30日後のことだった。
揚陸した車輌は、トラックは自走してイファ蒸気車工場に向かう。戦車とブルドーザーも、初期の操縦訓練を行い、調査のためイファ蒸気車工場へ。
飛行甲板上の航空機は、この時点では積んだままだった。
結論としては、しっかりと繋止して、船ごと赤い海に引き出す以外、回収の方法がない。
蒸気エンジン駆動の排水ポンプが集められ、湧き出る水を排水しながら、発見からわずか2カ月で運河を掘削してしまった。
蒸気車で牽引しながら、10キロを5日かけて赤い海に引き出した。
この大事業は、近隣諸国、マルマやカフカにも知られており、大勢が見物する中で行われた。神聖マムルーク帝国の間者にも見られているはずで、妨害工作を警戒したが、警備が厳重だったためか、赤い海まで無事に引き出すことができた。
無名船はトルボルグ号に曳航され、ルドゥ川を遡り、イファに向かう。ここで飛行甲板上の航空機をすべて揚陸し、一切の損傷なしで、飛行場に移す。
無名船が空荷になり、アレナス造船所の乾ドックに収まったのは、発見から2カ月半後のことだった。
ドックに入り詳細な調査が始まってから、日本陸軍の航空機用20ミリ機関砲ホ5が120門発見される。同時に200万発の20ミリ機関砲弾も搭載されていた。
星型空冷14気筒エンジンは、ハ112-Ⅱ(海軍名金星62型)であることが判明。
機関砲とエンジンをどこかに運ぶ途中で、秘密任務に就くことになったようだ。
我々は、無名船と航空機を含む搭載物資をどうするのか、深く考えないと、後々大いに悔いることになる。
南北最大1000キロ、東西最大450キロ、最大水深1000メートル以上、平均水深200メートル弱、流れ込む小河川多数、大河は4、流れ出る川はない。外部とは白い海とつながる海峡のみ。巨大な水面は、周囲の気候に影響を及ぼす。
巨大内海の周囲には、多数の湖沼と湿原が点在する。
私は大学で機械工学を学んだ。専攻はターボ機械だった。
職業は出版社の編集員で、ミリタリー・オタク向けのMOOKを担当していた。明治維新前後から第二次世界大戦期の読み物が多く、20世紀後半から21世紀にかけての軍事情報については詳しいわけじゃない。
だが、20世紀前半の軍事についてなら、ほとんどのことは概略の知識はあるつもりだ。
この世界に来る直前は、海外旅行関係のクラスマガジンを担当していたが、編集経験はミリタリー系が断然長い。
そんな私でも、眼前の巨船は驚かずにはいられない。
「何でこんなものが、アークティカに現れたんだ……」
リリィの父親の研究によれば、異界物は3年間隔で現れる。1回ではなく、短い期間に3回ほど連続する。
発生する地域はかなり広い。私は発生域の西端付近に現れたようだ。
多くは赤い海の周囲に現れる。調査の結果、地下空間も異界物だった。既知の異界物では、地下空間は最大であった。
全長100メートルに達する病院船トルボルグ号も最大クラスの異界物だが、眼前の全長150メートルはありそうな巨大船も驚くべき大きさだ。
この世界では、古くから異界物の恩恵を受けてきた。蒸気機関も異界物からの技術移転らしい。火薬の製法は異界人が数百年前に伝えたとされる。
武器もそうだ。銃は異界人が持ってきた。多種多様な銃が持ち込まれたが、弾薬がつきれば使えなくなる。結果、黒色火薬の製法伝来によって、マッチロック(火縄)とフリントロック(燧石)の2種が残った。
無線火薬を大量製造し、金属薬莢を使う連発銃の開発にも成功したのは、赤い海を起点に半径1500キロ圏内ではアークティカが最初だった。
ただ、黒色火薬を発射薬とする連発小銃や後装砲はアークティカ以外にも存在する。
異界物や異界人は、転移してきても多くは誰に発見されるでもなく、消えていく。
自動車が湖水の上に転移したり、船が陸上に現れたり、高空に転移することもあるらしい。
リシュリンが「この船、船体だけみたい。船橋とかマストとか、ないみたいだし……。
造りかけなのかな?」と私に問う。
メルトが走り寄る。
「右舷船首側に死体があります」
私はメルトに「カール・ビルト船長を呼んできて欲しい。こういう船は彼が専門家だ」と指示し、彼は馬でアレナスに向かった。
死体を検分すると、どこかの海軍の軍服らしい。水兵で、1950年代以前のようだ。日米英独伊の海軍ではない。それは明確だ。私は、軍装の本も結構手がけていたから、確かだ。
2人の遺体は、丁重に扱っている。甲板から落ちたらしく、手足と腰などに骨折がある。
甲板までの高さは、15メートルはある。甲板まで登坂する手段がない。
「誰かいる!」
女性が指差す、上方を見る。甲板に男が1人。
ロープを投げ下ろしてきた。
ジャベリンが「私が登ろう」に、スコルが反対する。
「私のほうが身軽だ」
確かにその通りだ。ジャベリンの体躯では、登り切れるとは思えない。
甲板の男が何かを叫ぶ。だが、意味がわからない。
陸上にいる15人ほどが、首を上に向け、反射的に口を開けている。
数分後、パイロットラダー(縄ばしご)が落とされてきた。水先案内人などを乗船させるためのものか?
スコル、リシュリン、私の順で登り始める。
この巨大な物体が、海岸から10キロ内陸の湿地に現れたのは11時間前だった。
ルカーンとの国境から50キロ離れていて、隣国がアークティカに送り込んでいる間者の報告で、この船の存在を知るには4、5日はかかる。
森に囲まれた南北2キロ、東西5キロの湿原に全長150メートルの巨船が現れたのは、濃い霧の朝だった。
この付近に人家はなく、見つけたのは郷土防衛隊のパトロ-ルだ。パトロールの発見時、船は動いていたという。
ゆっくりと前進し、湿原の泥に乗り上げた。座礁だが、内陸の奥深くでの出来事を座礁と表現していいのだろうか?
船首は泥に浅く埋まっているが、船体の3分の2は浮いている。船体は、ごくわずか右に傾いている。
パイロットラダーは右舷側に降ろされた。
甲板には、精悍な顔つきの金髪を短く刈った男がいた。
銃を構えている。
リシュリンがM2カービンを構える。
私は、M2カービンの銃口を左手で押し下げた。
異界人であろう男に「英語はわかるか?」と問いかける。
男は「少しだけ」と答える。
「ブンタウ沖を航行していたんだ。ごく近距離の移動だった。低速で、2ノットか3ノットしか出ていなかったはずだ。
気付いたら森に囲まれていた。
ここは熱帯じゃない。寒い土地のようだ。
どこなんだ?」
男はひどく動揺していた。M1ガーランドに似た銃を腰だめにしているが、M1ガーランドじゃない。
私はその銃を知っていた。
日本海軍が開発した四式自動小銃だ。弾薬は、九九式実包ではなく、日本海軍が使用していたルイス軽機関銃と同じ.303ブリティッシュ。
私は「今年は何年だ?」と尋ねた。
男はさらに動揺する。姿勢が前屈みになる。「1945年10月……」
「フランス領インドシナにいたのか?」
「そうだ。
反乱軍を押さえるため、プノンペンからサイゴン(現在のホーチミン市)に飛行機を運んでいた」
「フランス人か?」
「そうだ。
フランス空軍の技術将校だ」
「ここは、アークティカという国だ。
元の世界とは、異なる」
「どういうことだ」
「正確には、私にもわからない。
だが、この世界にはアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、日本は存在しない。
まったく別の世界だ」
「そんなバカなこと……」
「ブンタウ沖を航行していたのに、針葉樹に囲まれた湿地にいる理由は?」
「……」
「答えられないだろう?
私は東京の高速道路を走っていた。2013年のことだった。
気付いたら草原の真っ只中にいた。
あなたと同じだ。
私もこの世界に迷い込んだ。
もう、何年も前のことだ」
フランス空軍技術将校は、銃口を下げ、フラフラと歩き回る。
「この船の艦長が愚かすぎるんだ!
だから、こんなことになった。
この船の船員をブンタウで全員降ろしてしまった。
結局、船長以下5人でブンタウを発したんだ。海軍軍人とか言っていたが、輸送艦の艦長か何かだったらしい。
そんな経歴で、空母を動かせると思うか?
しかも5人で……」
「5人の中にあなたは入っているのか?」
「いいや。
日本人のパイロットや整備将校もいたんだが、全員降ろしやがった。
黄色いサルに用はないって!」
私が手を差し出す。
「危害を加えるつもりはない。
その銃を渡してくれないか?」
フランス空軍技術将校は、銃を広大な甲板に置いた。そして、手を上げて、後方に数歩下がる。
私は銃を拾い、フランス人の顔を真正面から見た。金髪で、透き通るような青い瞳だ。
「名前は?」
「フランス空軍技術中尉ロシュディ・コンシニ」
「ロシュディ、私はシュン。
スコルとリシュリンだ。
他に生存者は?」
「船長と航海士、機関長も生きているはずだ」
航海士はひどく頭を打っており、船橋で発見して10分後に息を引き取った。
船長も船橋で発見。発砲したため、応射しなければならず、結果的に負傷させてしまった。
機関長は何が起きたのかまったく理解しておらず、機関室で我々の姿を見ても抵抗しなかった。
機関はディーゼルで、湿地に乗り上げた直後に、機関長が停止した。座礁時、スクリュープロペラは回転しておらず、船は惰性で動いていた。
ロシュディの案内で、船内を点検し、確保したと判断するのに2時間を要した。
この2時間の間に、厄介な連中が大勢やって来た。
タルフォン交易商会のネストルやアレナス造船所のシビルスなど……。
舷側タラップを降ろしたが、地上へは届かず、彼らは登ってこれないはずだった。そこは強引で、急遽周辺の樹木を切り出して、階段を作ってしまった。
甲板は広大だった。概算全長150メートル、最大幅20メートルの平甲板。つまり、空母のような全通甲板だ。正規空母に比べたらずっと小さいが、それでも第二次世界大戦期のアメリカ海軍護衛空母と同等のサイズがある。
この船は、アメリカ海軍の護衛空母じゃない。日本製の船だ。海軍の船じゃない。陸軍の特種船らしい。
ロシュディは「この船は日本の陸軍の空母で、特殊任務に就いていたらしい。どんな任務かはわからないが、移動中、プノンペンで足止めされたか、そこが目的地だったのかはわからないけれど、港で戦争が終わった」と。
ここまで聞いて、私の視線の先にシビルスとネストル、そして彼らのスタッフがいた。
私は、この船の正体をおおよそだが理解していた。
ロシュディの背後にいる欲深いアークティカの商人たちに向かって、この世界の言葉で説明する。
「この船は異界物だ。
エミール先生がいた時代の数年後からやって来た。
日本という国、私が住んでいた国だが、が造った船だ。
陸軍特種船。
世界初の揚陸強襲艦だ。
丙型かM丙型の1隻だろう」
シビルスが背後を振り返る。
「飛行機を運ぶ船なのか?」
「あぁ、飛行機と上陸用舟艇を運ぶんだ。
飛行機は上陸を支援するために上空を警戒し、地上を攻撃する。上陸用舟艇は海から陸に戦闘部隊を運ぶ。
脅威の輸送船だ」
シビルスは飛行機を見詰めている。
振り向く。両手を広げる。
「飛行機は全部で10機。
とてつもなく大きい飛行機が2機。単発機が4機。双発機が4機。
たいへんな戦力だ」
ネストルがシビルスの背を叩く。
「この船を、もし、海に出せたら、それこそ凄い戦力だ。商売の役にも立つ。
この船は、トルボルグ号と同じ仕組みで動くのか?」
「基本は同じだ。ディーゼルエンジンで動く」
私には腑に落ちない点があった。全通甲板を持つ陸軍特種船には、あきつ丸と熊野丸があった。どちらも蒸気タービン機関を装備している。
この船は、ディーゼルエンジンだ。全通甲板ではない陸軍特種船甲型とM甲型には摩耶山丸などディーゼルエンジン船があった。
この船は熊野丸相当のM丙型のようだが、M丙型にはディーゼルエンジン船はない。
不思議な船だし、船名を示す銘板もいまのところ見つかっていない。
ロシュディは日本兵が「無名船」と呼んでいたことを知っていた。
見物人は引きも切らずに15メートルの、高さ5階建てのビルに相当する階段を上って、上甲板までやって来る。
この世界にはない広大な甲板を見て驚き、飛行機の搭載に感嘆した。
私は飛行甲板の全幅よりも翼幅ある双発機が四式重爆撃機の派生型キ109であることは、すぐにわかった。何しろ機首に75ミリ高射砲を搭載しているのだから、簡単に判別できる。
双発の小型機はキ102甲。二式復座戦闘機“屠龍”の発展型だが、制式名称はない。機首に37ミリ機関砲を搭載し、エンジンは空冷星型14気筒1500馬力だ。
単発機は4ブレードのプロペラで、四式戦闘機だとわかった。オリジナルのエンジンは18気筒で、その点に違いはないのだが、キャブレター用空気吸入口の形状が微妙に異なる。
この機も通常の四式戦闘機(キ84)ではないようだ。
10機とも、この世界で作れるものじゃない。
大事に使えば、30年は維持できる。その間に作れるように、技術を育てていけばいい。
ロシュディは「見物〈みもの〉だぞ」と言って、舟艇格納庫に案内した。
シビルスとネストル、彼らのスタッフが同行する。
舟艇格納庫には22艇の大発動艇があった。
シビルスが「何なんだこの船は!」と驚きの声を上げ、ネストルは「このボートで荷を運べば、簡単に揚陸できるぞ!」と。
続けて「この船なら、大きな港がない街とも大商いができる!」
俺の関心は別にあった。
「あれを見てくれ、戦車だ。
本物の戦車だ」
大発によじ登り、戦車を検分する。
一式中戦車(チヘ)四輌が舟艇1艇ずつに積まれている。二式砲戦車(ホイ)も2輌ある。4艇に一式装甲兵車(ホキ)が。世界初の装軌式装甲兵員輸送車だ。
一式装甲兵車の各兵員室には、九四式37ミリ速射砲(対戦車砲)2門と四一式山砲の歩兵用(防盾付き)2門が1門ずつ載せられている。
残り10艇には空荷の日産80型キャブオーバートラックが積まれていた。
2艇の積荷は、これも希少な機材であった。コマツG40ブルドーザーだ。
重要な特殊任務だったのだろうが、そんなことはどうでもいい。
本物の戦車が手に入った。
これで、戦車が作れる。
それにしてもどんな任務なのかわからないが、大戦末期にこれだけの新型装備をかき集めて何をなそうとしたのか?
歴史に埋もれた作戦があったのか?
作戦があったならば、アークティカが感謝する。誰に感謝すればいいのかわからないが……。
シビルスとネストルは、帰る様子を見せない。リシュリンは子供たちが気になり帰りたい素振りだが、メハナト穀物商会の幹部がこの地にいないと、アレナス造船所やタルフォン交易商会の専横を許しそうで、留まっている。
リケルはアレナス地方行政府の代表、ジャベリンは郷土防衛隊の代表として居座っている。
郷土防衛隊総司令官スコルは軍務があり、アレナスに戻った。彼は司令官ジャベリンに自分の代わりに戻れと命じたが、陸戦の長は毅然と拒否した。
「総司令官の命令でも、こんな面白いものを見逃すなんてできない!」と。
甲板に天幕が張られ、この巨船をどうするかの会議が始まる。前年、アレナス議会は異界物法を可決。即時、施行した。
この法は、異界物の発見者には報奨金が与えられ、隠匿者は罰せられ、アレナス地方行政府の施政権が及ぶ範囲において発見された異界物は、地方行政府に帰属するというものだ。
リケルが「この船と搭載物のすべては、アレナス地方行政府に帰属する」と宣すると、誰も異論を唱えない。
そんなことをする必要はない。
この巨船を修理できるのは、アレナス造船所だけだし、このディーゼルエンジン船を運用できるのは、トルボルグ号を要するタルフォン交易商会しかない。
そして、甲板にある10機の飛行機は、イファ航空隊に預けるしかない。この航空隊は、メハナト穀物商会の下部組織だ。
実によくできた利権配分じゃないか!
積荷のうち10台のトラックの帰属は、相当に揉める。
1年前、メハナト穀物商会は海運部門をタルフォン交易商会に売却した。
海運のトップであったミクリンは、タルフォン交易商会に移籍している。妻子を失っているネストルは、最大のライバルであった若き商人ミクリンを後継者に指名した。
また、国力の落ちているアークティカは、海運に何社もが並立できる状況ではない。他国の海運と競争するのならば、1社寡占にする必要があった。
ミクリンはメハナト穀物商会から離れることを嫌がったが、最後はネストルが直接説得して口説き落とした。
陸運は海運の真逆。大小各社が入り乱れている。
各社は蒸気車よりも速度が出せて、走行距離が長いガソリン車を求めている。
ガソリン車はいまだハンドメイドに近い。10台ものガソリントラックは、誰もが欲しい。
地方行政府も、郷土防衛隊も、農民や商人たちも……。
この時点で、私は全通甲板下の航空機格納庫を見ていなかった。もちろん、その存在は知っていたし、分解した一式戦闘機(キ43)“隼”ならば30機を運べることも知っていた。
日没近く、分け前の主張にヴェルンドがやって来た。エミールも同行している。医療関係の機材が欲しいと……。
私を含む欲深なアークティカ人が拾得品の分配を話し合っていると、ロシュディが話しかけてきた。
彼も暖房用に持ち込んだ火鉢を囲む車座の中にいた。火鉢は前部全通甲板にある。
ロシュディは、楽しそうな面持ちで興味深い話を始める。
「無名船は、日本陸軍の諜報船だった。
一式戦闘機の新型30機をどこかに運んでいた。一説ではシャム湾(タイランド湾)を目指していたそうだ。タイ王国に供与しようとした、とも言われているがはっきりしない。供与したのか、供与しなかったのかもはっきりしない。
私は空軍の技術将校なんだが、諜報にも関係していたんだ。敵国の航空機の技術情報を収集していた。
私は父の仕事の関係で、一時期、神戸に住んでいた。上海にいたこともある。そんなこともあって、大戦終結直後にカンボジアに派遣されたんだ。
プノンペンを中心に活動していたんだが、信じられない噂を聞いた。
プノンペン港の少し上流、メコン川の河畔に日本の空母が隠れていると……。
それが無名船だった。
当然だが、当初は海軍艦だと判断していた。
幸運だったが、イギリスやアメリカよりもフランスが一足早く、この船を見つけたんだ。
無名船の船長と指揮官は、戦争の終結を知っていたし、乗員も知っていた。
抵抗の意思はないようだが、どうしたらいいのかわからないようだった。
フランス空軍は日本製航空機には興味がなく、一通り調べたらスクラップにしようと考えていた。
飛行甲板での調査を終えた後、サイゴンの我が空軍から航空機の要求があった。
サイゴンには日本の武器で再編したフランス軍がいたのだが、飛行機の数が足りないってね。
以前、一式戦闘機をラングーン(現在のヤンゴン)から運んだはずなんだが……。
舟艇格納庫には戦車もあるから、陸軍も喜ぶ、空母が手に入れば海軍も喜ぶ。サイゴンには、軽戦車しかなかったし……。
イギリスやアメリカに見つかる前に、サイゴンに送ってフランスのものだと既成事実化しようと考えたんだ。
それで、日本側を説得して、メコン川を下ることにした。
ブンタウ港までは何事もなかった。
ここで、あの船長が乗り込んできた。海軍さんの意向で、日本人は全員下船させられたんだ。
戦争は終わった。無名船の日本人とは良好な関係を築いていたんだが、あの船長が台無しにした。
私も残念だったが、それ以上に日本人たちは無念だったと思う。
結果だが……。
私は日本人を欺してしまった。
船長はとんでもない愚か者で、この船を5人で操船できると言い張った。
まぁ、ブンタウからサイゴンまで80キロもないが……」
私は空を見上げていた。星がきれいだ。上空の大気はかなり冷えている。
「で、航空機の格納庫には何があるんだ?」
ロシュディは少し笑った。
「日本人だそうだが、あんたは私が知っている日本人とはだいぶ違う。
それはいいとして……。
飛行甲板下の格納庫には、日本製の14気筒の空冷エンジンが30基。
横浜で積み込んだまま、降ろす時間の余裕なく新しい任務に就いたそうだ。
無名船の指揮官がそう言っていた」
私はロシュディを真っ直ぐに見ていた。何人もに急かされて、私とロシュディの会話をエミール医師が通訳している。
「船倉に、飛行機のエンジンが30基もあるそうだ」
シビルスがロシュディのコップにワインを注ぐ。
自分のコップにもワインを注ぎ、「アークティカの未来に! 勝利に!」と叫ぶ。
ロシュディは状況をわかっていない。現状に対するある程度の認識はあるようだが、深く理解しているわけではない。
当然だが……。
私はロシュディが何をどう考えているのか、尋ねてみたかった。
「あなたにとって、この異常な状況をどう感じているんだ?」
「戦争前のことなんだが……。
1940年5月以前のことだ。
両親と妹はチュニスにいた。
私は航空力学を学ぶため、パリにいた。
母はムスリム。父はクリスチャン。
そんな家庭で育ったせいか、私はイエスにもアラーにも、興味はない。
神の怒りを買ったのか、強盗が押し入った。白昼、父の家に。
両親と妹が殺された。母と妹は、陵辱されていた。
私は1人になってしまった」
ロシュディが、ワインを飲む。
「北アフリカで戦った。
ドイツとね。
自暴自棄だったのかもしれない。
戦争が終わって、やることがなくなった。
本国では、フランスとアラブの混血は生きにくい。
だから、東南アジアに来た。
もっと遠くに行きたいと思っていたら、望みが叶ったのだろう。
ここがどこかは知らないが、フランスから遠いならそれでいい」
ロシュディがワインを飲み干し、シビルスが彼のコップに注ぐ。
「ここにパイロットの仕事はあるか?」
私は、言葉さえわからないのに求職する気でいる男に好感を感じた。
リシュリンが「何を言ったの?」と尋ねたので、私は「飛行機の操縦ができるそうだ。仕事はあるかと、聞いている」と。
リシュリンが微笑み「仕事ならたくさんあるよ」と、ロシュディに直接言った。
ロシュディは意味がわかったのか、何度も頷く。
夜が明ける。
夜明けの1時間前から、船内調査の準備が始まる。熊野丸とほぼ同型とすれば、9500総トンに達する大型船だ。この船の時代の正規空母は全長250メートル以上、排水量で2万トンから4万トンだから、空母とするには船形が小さすぎる。
それでも、船内をくまなく捜索するには、アレナスに残っていたトルボルグ号の航海士は3日はかかると判断していた。
トルボルグ号は、この事態に急遽航海を中止して、アレナスへの帰還を始めている。
航空機格納庫には、空冷星型14気筒のエンジンが30基ある。放射状配置の7気筒エンジンが2重になったタイプだ。
広い航空機格納庫には、30基のエンジンの他にもいろいろとあった。だが、満載ではない。
正直、これだけ広いのだから、もっと物資を積んでいて欲しかった。それでも、大量の航空機整備用機材がある。
これは、助かる。
ロシュディは「プノンペンに係留されていた状態のまま、サイゴン向かった」と言っていたが、嘘ではなさそうだ。
この日から、船内捜索は機関長も協力してくれることになった。
彼は、我々がホーチミン派ではないかと疑っていたが、無名船の異常な状況から「それはない」と判断したようだ。
異界人の命運は、現状を受け入れる早さにかかっている。私は10分程度しか動揺しなかった。無闇な移動もしなかった。積荷を点検し、できることとできないことを仕分けした。
現状を受け入れず、無理に現状と感情を整合しようとすれば、精神に破綻をきたすか、その前に殺される。
ロシュディと機関長は、生存における最初の条件をクリアした。
無名船の自衛用兵器だが、八八式7.5センチ単装高射砲マル特が10基、九六式25ミリ単装機関砲12基、二式120ミリ迫撃砲1基、九七式81.3ミリ曲射歩兵砲2基とかなりの重装備だ。
このうち、九六式25ミリ単装機関砲は日本海軍の対空機関砲で、九七式81.3ミリ曲射歩兵砲は世界中の軍隊が装備したストーク・ブラン迫撃砲のコピーだ。
迫撃砲は、対潜水艦用の前方投射兵器として搭載されている。
八八式7.5センチ高射砲は通常、駐退復座機の強度不足で、水平射撃の連続発射はできないのだが、マル特は重量増を許容して、直射照準射撃を可能にしたタイプだ。
ヴェルンドは、7.5センチ高射砲と25ミリ機関砲にたいへんな興味を示し、部下とともに詳細な調査を始めた。
午後には、イファからフェイトとキッカがWACO複葉機で飛来。近くの草原に降り、2キロほどを徒歩でやって来た。
2人の関心は、飛行甲板上の爆撃機と戦闘機だ。言葉が通じないことを承知で、ロシュディに質問の雨を降らせている。
尋ねられずにいられないのだ。
同日同時刻、アレナス造船所の技師たちが調査のために大挙してやって来た。
船体損傷部の確認と技術的な調査が目的だ。現状では船体に亀裂はなく、浸水もしていない。湿地の泥に低速で接触し、慣性で乗り上げた状態だ。
船首が持ち上がり、船尾がやや沈んだ傾斜角3度になっている。船首下の泥をかき出し、後進するよう牽引すれば、小さな沼に無名船は浮く。無名船の喫水よりも、沼のほうがわずかに深い。
もちろんスクリュー・プロペラを回せはしない。沼の底を叩いてしまったら、プロペラが損傷してしまう。
どこにも行けないが、水の上に浮く。
沼の底は厚く積もった泥。長い年月をかけて枯死した植物が沈殿している。無名船の騒ぎで、この湿地全体が泥炭化していることがわかった。
想定外の収穫だ。
スコップで泥をすくうと、すぐに水が湧いてくる。作業はしにくいが、砂のように掘っても掘っても、崩れたりはしない。
無名船の処置については、議論があった。私はこの場での解体を提案。シビルスとネストルは、何カ月かかろうとも運河を掘削して、赤い海に出すことを主張した。
搭載している物資については、船体を軽くするためにすべてを陸揚げすることをシビルスとネストルが主張している。
イファ航空隊は、全機回収を「強く望む」と意見を表明した。
無名船の積載物資の回収は、簡単ではなかった。この湿地までの道がない。登山道のような荒れた道はあるが、車輌が通れるような道幅はない。
加えて、湿地は広く、そのほぼ中心にある最大面積の沼に無名船はある。この沼は0.5平方キロもあり、最大水深は12メートルほど。無名船が着底しないギリギリの深さだ。形状は正方形よりは円のほうが近い。直径ならば、800メートルくらいだ。
直径800メートルの沼に全長150メートルの船が半分座礁して浮かんでいる。
異様な光景だ。
赤い海の海岸からだと約10キロ。この10キロに運河を掘らないと、船は広い水面に出せない。ほぼ不可能だ。
街道まで5キロある。湿地を埋め立てて、車輌が通れる道を造るだけでも大工事になる。
全体に平坦な地形なので、道を造ることは難しくはないだろうが、湿地の地面はスポンジのようで、蒸気車が乗り入れたら、すぐに沈み始めるだろう。
仮に船体の傾斜を補正できたとしても、搭載機は飛行甲板からは飛び立てない。
たったの150メートルしかないのだ。いや、そうともいえないかもしれない。日本海軍の小型空母龍驤の飛行甲板は158メートルだったから……。
四式戦闘機“疾風”(キ84)とキ102は飛び立てるかもしれないが、四式重爆撃機(キ67)系列のキ109はどう考えても無理だ。この機は機首を船首に正対させたら、主翼が飛行甲板からはみ出す。現在は、横向きに繋止されている。
飛行甲板上の10機を地上に降ろさないことには何もできないし、現在のように船体が傾いていては、飛行機は降ろせない。
何をするにしても、離礁させるしかないし、そのためには道を造って蒸気牽引車を20輌ほど運び込む必要がある。
この一帯は掘れば真水が出る。海岸近くは海水が湧き出る。運河を造るとして、湧水の心配がさほどないのは、全行程のうち3キロか4キロだろう。残り6キロから8キロは、掘削よりも排水が問題になる。
無名船の喫水は、8メートルくらいある。8メートル掘削したら、8メートルの深さの水が湧き出る。
これを蒸気エンジンで常時排水しながら、掘り進めなくてはならない。
想像を絶する難工事になる。
シビルスとネストルは、これをやろうとしている。美しい湿原の景観を残したいとは、誰も思ってはいない。
アークティカは、生と死の間〈はざま〉にいる。景観に気を配る余裕はない。
それに役目を終えれば、この運河はすぐに埋め戻す。
無名船の航海速力は、私の推測では12ノット程度と考えていた。この時代のディーゼル船ならば、この程度だろうと。
だが、機関長は最大20ノット以上、航海速力16.5ノットを出せると言った。
私は半信半疑だが、この情報に接したシビルスとネストルは驚喜して、何が何でもこの船を赤い海に出す決意を固めてしまった。
数少ないアークティカの土木の専門家は、湿地は6の工区に分け、工区の間には防水壁を設け、水深が9メートルになるよう掘削していく方法を提示した。
アレナス地方行政府の許可があれば、直ちに工事には入れるよう資材の準備を行う。
だが、地方行政府長官チルルは、アレナス造船所とタルフォン交易商会に対して、工事の許可と無名船の移動を認めなかった。
無名船の移動は、アレナス地方行政府直轄の事業となった。その上で、アレナス造船所とタルフォン交易商会に協力の要請があった。
ある種のまやかしではあるのだが、これで無名船と貨物の所有権は明確にアレナス地方行政府になった。
これは、公平性の面からも大事なことだし、異界物法の趣旨にも合致している。
シビルスとネストルは、無名船までの道路建設からはじめる。
湿地を埋め立てる土砂だが、これには海岸寄りの工区から掘り出した乾いた土が使われた。
道路の建設に1カ月。その間に船の左右を水平にするための船首部下部の土砂取り除き工事が行われる。
船体は2週間かけて左右水平になり、船尾泛水扉から大発動艇D型(上陸用舟艇)の発進が可能になった。
舟艇の発進は、天井に設置されたトロリーワイヤーによってローラーを使った軌道に載せ、スロープを滑るように水面に移動させる。
軌道は2条あり、連続して発進できた。
日産80型トラックを載せた最初の舟艇を発進させると、たいへんな興奮をアークティカ人たちの間に巻き起こした。
ロシュディまでもが高揚している。舟艇を陸からロープで牽き、接岸させ、艇体前部のランプドアを下げて、トラックを人力で押し出すと、この様子も騒ぎとなった。
こういった船舶は、この世界には例が少ないからだ。私はドビ海峡で見ているが、海峡のフェリーは異界人や異界物の影響があった可能性が高い。
セミキャブオーバーの日産80型は、アメリカのグラハムページ社が設計・開発したトラックで、日産は製造治具ごと製造権を購入している。水冷直列6気筒サイドバルブ、排気量3670ccのガソリンで85馬力を発揮するエンジンを搭載している。
私が感じる車格は、小型トラックだ。2トンのワイドボディ標準尺とほぼ同サイズ。
日産80型トラックのエンジンは、バッテリーが放電していて、蒸気車で引き掛けする。エンジンはすぐに始動した。
大発のエンジンも始動する。
舟艇格納庫から1艇ずつ発進させ、車輌を揚陸し、エンジンを始動させて移動に備える。 戦車とブルドーザーは、大型蒸気車で牽引した。こちらも、引き掛けでエンジンを始動させる。
無名船の周囲には500人を超える人々が集まり、各自の作業に余念がない。
大型蒸気車20輌が集められ、無名船を離礁させるための牽引の準備も始まる。
無名船が離礁に成功したのは、発見から30日後のことだった。
揚陸した車輌は、トラックは自走してイファ蒸気車工場に向かう。戦車とブルドーザーも、初期の操縦訓練を行い、調査のためイファ蒸気車工場へ。
飛行甲板上の航空機は、この時点では積んだままだった。
結論としては、しっかりと繋止して、船ごと赤い海に引き出す以外、回収の方法がない。
蒸気エンジン駆動の排水ポンプが集められ、湧き出る水を排水しながら、発見からわずか2カ月で運河を掘削してしまった。
蒸気車で牽引しながら、10キロを5日かけて赤い海に引き出した。
この大事業は、近隣諸国、マルマやカフカにも知られており、大勢が見物する中で行われた。神聖マムルーク帝国の間者にも見られているはずで、妨害工作を警戒したが、警備が厳重だったためか、赤い海まで無事に引き出すことができた。
無名船はトルボルグ号に曳航され、ルドゥ川を遡り、イファに向かう。ここで飛行甲板上の航空機をすべて揚陸し、一切の損傷なしで、飛行場に移す。
無名船が空荷になり、アレナス造船所の乾ドックに収まったのは、発見から2カ月半後のことだった。
ドックに入り詳細な調査が始まってから、日本陸軍の航空機用20ミリ機関砲ホ5が120門発見される。同時に200万発の20ミリ機関砲弾も搭載されていた。
星型空冷14気筒エンジンは、ハ112-Ⅱ(海軍名金星62型)であることが判明。
機関砲とエンジンをどこかに運ぶ途中で、秘密任務に就くことになったようだ。
我々は、無名船と航空機を含む搭載物資をどうするのか、深く考えないと、後々大いに悔いることになる。
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