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第5章 解放編

第47話 外交的地位

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 戦争終結でも、休戦でもないつかの間の平和が訪れたアークティカには、一切の外交的地位がなかった。
 国として無視され、交易を拒否され、港の使用や他国領の通行はもちろん、公海上の自由航行さえままならなかった。
 北の隣国パノリアや南で国境を接するルカーンは同情的ではあるが、同時に神聖マムルーク帝国の顔色をうかがっていた。
 秘密外交はあるが、公の国交はなかった。

 バタ沖海戦以降、この状況が一変する。どのように一変したのかよい例がある。

 バタ沖海戦の1カ月前、タルフォン交易商会のミクリンは、ドビ海峡の赤い海出入口南岸の大国ラウリカを尋ねた。
 ラウリカは変則的立憲君主制の国で、民衆議会から選出された首相が民衆に対する行政の長となっていた。議院内閣制で、議会は一院制。推薦人のみに投票権がある選挙制度だ。
 表向き、首相は国王を補佐するとされていた。だから、国王の裁可がなければ、何事も決まらない仕組みであった。国王が民衆向け政治に意見を言うことはほとんどないが、稀にあるし、その稀は国王の意向であった。
 国王の意向は、首相でも無視できない。
 また、民衆首相の行政権は、王族や貴族には及ばない。司法や警察も同じ。だが、国王の統治権も民衆には及ばない。
 問題は、貴族の領地に住む農民の扱いだ。民衆政府の行政権が及ぶのか、貴族の統治権が優先されるのか、曖昧だった。
 貴族は領地内農民は領主の民だと主張したが、民衆政府はラウリカの民であり、民衆政府の行政権下にある、と主張している。
 結論は出ていないが、ある事件から貴族は強攻策に出ることができなかった。

 ラウリカは古い国で“千年王国”との別称がある。
 この千年王国が変則的専制君主制に移行していく過程で、現在の体制が決まる重要な事件がある。
 ある貴族の次男坊が、馬車で領内を通過中の他領の農民に暴虐を働いた。
 こういったことは少なくなく、多くは農民側が泣き寝入りしている。
 他領の農民の娘を連れ去り、城内で性的暴行を行った。次男坊と彼の取り巻きにとっては、暇つぶしの遊びでしかなかった。
 だが、翌日、彼の城は他領の農民軍に包囲される。
 指揮していたのは、ラウリカ民衆政府軍の将校と下士官兵。彼らは農民に扮して、農民軍を指揮していた。
 農民側には拉致された娘を取り戻すこと、貴族の専横を許さないこと、の2つの目的があった。
 民衆政府側には、貴族の武力の限界を自覚させる目的があった。

 城主は慌てた。突然、数千の武装集団に包囲され。「娘を解放しろ」と要求され、その要求の意味がわからない。
 この時点で、次男坊は城主である父の叱責を恐れて、娘を殺してしまった。
 城主は、娘の遺体を引き渡せば、農民はおとなしく帰ると考えた。
 死体の扱いはぞんざいで、かつ惨い姿だった。
 農民軍は、当地にはなかった前装式ライフル砲を保有していた。もちろん、民衆政府軍の装備だ。操砲も民衆政府軍砲兵だ。
 ライフル砲の数撃で城門が破壊され、農民軍が城内に雪崩れ込む。
 城主と妻、次の城主たる長男と妻、その6カ月の赤子、城内にいたすべての貴族が虐殺される。
 遺体は、城壁に飾られた。

 この事件には続きがある。領主を失った貴族の領地を民衆政府が勢力圏に組み込んだ。
 つまり、民衆政府が奪った。
 王家・貴族と民衆政府との“対話”は、紛糾した。ある貴族が「貴族の生命は貴い。たかが農民の娘など人のうちに入るか!」と言い放つと、民衆政府の官吏は「そうですか。我々も貴族を人とは考えておりません。害獣と認識しています」と答えた。

 この事件以降、王家・貴族と民衆の立場が微妙になっていく。民衆側は、常に王家・貴族に対して、軍事力をちらつかせるようになる。ただ、強大な財力のある貴族もおり、貴族側が完全に劣勢となったわけではない。

 赤い海とドビ海峡の接点、北のバタと南のラウリカは、長年、貿易の中継地として競い合う仲であった。バタが独占したことはないし、ラウリカが突出したこともない。
 だから、他国の商人には“親切”だった。
 しかし、バタが神聖マムルーク帝国に占領されて以降、貿易中継地としてのラウリカは、独占的地位を得た。
 そして、傲慢になった。
 特に王家が……。

 現国王は、女王バトリー3世。夫は小国の王子で、彼女は自分の夫を“種馬”と呼んでいた。借金のかたとして、無理やり連れてこられたとも噂されている。
 夫が人前に出ることはほとんどない。

 ラウリカの権勢は、赤い海南岸では並ぶ国はない。かつては、バタとラシュットが国力として拮抗していたが、この2国は帝国に飲み込まれた。
 ラウリカ政府は、帝国との間合いをどうにか維持していた。ラウリカの国力では、帝国と正面から軍事力を含む外交戦を戦えないことを知っていた。
 アークティカが通商の再開を求めているが、応じる意思はなかった。それは、帝国が怖いからだ。
 しかし、アークティカとの接点を閉じる意思は、民衆政府にはまったくない。細い接点を持ち続けるつもりだ。
 それが、女王には不満だった。アークティカごときをなぜ視界に入れるのか、理解できない。
 アークティカとの通商など、不要。恥をかかせて、追い払えばいいと考えている。
 そうすれば、ラウリカ王家の威信が保て、帝国への信義も立つ。

 ミクリンは、チルルの信書を携え、女王との拝謁までこぎつけた。
 女王は玉座に座り、臣下や女官が左右に並び、ミクリンは謁見の間の中央に立っていた。「このたびは、女王陛下の拝謁を賜り、恐悦にございます」
 女王は興味なさそうに、扇を顔の下半分にあててあくびをする。
「アークティカのものとか?
 そなたも男どもに犯されたのか?
 何人の男に弄ばれた?
 人数を言ってみよ」
 民衆政府の首相と外相は慌てた。通商相は自国女王の言葉に絶句する。
 それだけではない。女王があらかじめ命じていたのであろう、女官たちのクスクス笑いは、国の品格を貶めるものだった。
 ミクリンは、こんなことに慣れてはいたが、面と向かって問われるのは初めてだった。
 頭にきていたが、冷静だった。悲しくはない。どう答えればいいのかも知っている。
「数えておりません」
 今年16歳になるという王位継承権第1位の王女がいい放つ。
「無礼者!
 女王陛下のお尋ねなるぞ、答えぬか!」
 ミクリンは笑った。
「夫を借金のかたでなければ得られぬお方と違い、私はもてますので、もてすぎて床をともにした男の数など数えてはおりません」
 首相は、ミクリンを評価していた。商家の娘と侮ってはいない。国を背負っている、志士の1人であろうと推察している。
 次の瞬間、外相が絶句した。若い頃は浮名を流した男だが、いまでは妻一筋のよき夫だ。「外相閣下、貴殿は若き頃、たいへんおもてになったとか。
 床をともにした女の数を覚えておられるか?」
 そんなこと、覚えていたとしても答えられるはずはない。
 外相の絶句が、振動として伝わってくる。まだ若い通商相ではなく、枯れた男の代表のような外相を狙った巧みさにも感心する。
「外相閣下も忘れているようだ。
 私も同じ。
 ところで、女王陛下は何人の男と床をともにされたか?
 まさか、1人ではあるまい?」
 謁見の間にいる男たちが下を向いている。ミクリンの返しが巧みで、笑いをこらえて必死なのだ。
 ラウリカ王家は、政府からも、国民からも、崇敬の念はもたれていない。存在するから、そのままにしているだけだ。
 王女が金切り声を上げる。
「無礼者!
 この女を下がらせよ!」
 ドレスを着ていないミクリンは、男がする王宮風の挨拶をすると、衛兵に促されて退出させられた。

 バタ沖海戦後、ミクリンは通商を求めて、再度、ラウリカを訪れる。
 首相と外相は前回と同様、女王との謁見の機会を設ける。
 ラウリカの民衆政府中枢は、帝国の東方侵攻を恐れていた。
 近隣諸国で、帝国と明確な対立姿勢を見せているのは、アークティカだけ。
 帝国がラシュットを攻略した理由は、赤い海南部の制海権を確保するためで、本格的な侵攻ではない、と判断している。
 すでに、海峡対岸のバタは攻略されている。隣国ラシュットは占領された。帝国は、バタからラシュットに物資の補給をしていたが、バタ港の入口にはアークティカが沈めた巨艦が横たわっている。
 港の機能は、ほぼ失われた。
 バタの代替が必要になる。
 この場合の最適港はどこか?
 考える必要はない。
 ラウリカだ!
 帝国は、ラウリカに攻めてくる。
 帝国の侵攻を跳ね返すには、支援国や同盟国が必要。どこがなってくれる。

 アークティカだけだ。

 帝国は、欲しいものは必ず手に入れる。ラウリカに目を付けたら、必ず攻めてくる。
 真っ先に降るのは、王家と王族、そして貴族たち。彼らは自分たちのことしか考えていない。
 では、民衆政府と民衆はどうか?
 こちらも、王家と王族、貴族のことなど気にしていない。そもそも、王家の存在意義は、他国と争い、万一不利な講和となった場合、差し出す首が必要になるからだ。
 ラウリカの王家と民衆との関係は、実に冷たいものだった。

 ラウリカの社会構造は、やや特異だ。王家、王族、貴族と、彼らが借金漬けにして土地を奪い半奴隷化した農民たち。商工業者。独立農民。
 彼らの利害は一様ではない。合致する部分もあるし、対立もある。
 ラウリカにおける民衆の代表である民衆政府は、王家、王族、貴族の代表である女王と、利害の一致はほとんどない。
 国王が民衆の支配権を放棄し、政府が国王を頂点とする王族と貴族社会に干渉しなくなって以降、両者には話し合うべき課題はほとんどなかった。
 外交と、王族や貴族によって奴隷化された一部民衆の処遇くらいだ。

 軍事は、王家、王族、貴族には国王に統帥権がある軍がある。
 民衆政府には、民衆政府軍と民兵である市民軍がある。

 通商は外交の一環だ。軍事も同じ。軍事行動は、経済活動の一部。
 だから、ミクリンは、ラウリカに通商を求めるたびに、不愉快な女王と顔を合わせなくてはならない。
 首相が女王に頭を垂れる。
「女王陛下、アークティカより、通商を求めて使者が参っております」
 女王は下賎な生まれの首相が、自分に直言すること自体、気に入らなかった。
「例の女か?」
「左様でございます。
 ミクリン殿は、予言の娘の従姉妹との噂がございます」
「予言の娘?
 実在するのか?」
「マーリンという名と、聞き及んでおります」
「魔女か?」
 首相は呆れた。魔女などいるはずはない。王家は強欲で迷信深い愚か者の集まりだとの考えは、心に仕舞ってある。
「魔女ではございませぬ。
 勇気ある女性と噂されております」
 女王は、バタ港沖で沈められ、横転している船のことは知っていた。100キロ以上離れているので、実際に見てはいないが、近くを航行していた貴族の船が偶然目撃し、女王に報告していた。
 アークティカは巨艦を一撃で沈めたと伝えられている。
「バタ港沖の船とも関係があるのか?」
 首相は脅した。欲深な人間には、損得を問えばいい。
「関係はございましょう。
 今回、もし、通商を断れば、我が港に災いが及ばぬとは……。
 皆様方の収穫を輸出する手立てが消えることも……」
 女王は内心うろたえていた。帝国は怖い。しかし、アークティカも恐ろしい。
「帝国との関係、悪化は困る」
 首相は、腹の内で微笑んだ。
「では、お任せいただけましょうか?
 今日のところは、お声をおかけいただき、小職にご一任する、とだけ……」
 女王は何も言わなかった。了解したという意味だ。

 ミクリンが謁見の間に通される。
「女王陛下にあらせられましては、ご機嫌麗しゅうございます」
「ミクリン殿か、遠路はるばるご苦労でした。以後のことは、下々と話されよ」
「ありがとうございます。
 本日は、女王陛下に贈り物がございます」
 ミクリンに同行していた若い男が袱紗〈ふくさ〉のかけられたトレイを侍女に渡す。
 侍女が女王にトレイを捧げ、高位の侍女が袱紗を外す。
 蓋のある美しい小壷が現れる。
 高位の侍女が蓋を取る。思わず言葉を発してしまった。
「これは!」
 ミクリンは、勝ち誇った声音にならないよう注意している。
「砂糖にございます。
 特別に精製し、結晶がやや大きくなるように仕上げました。
 お茶などに入れてお召し上がりください」
 純白の砂糖は珍しい。さらに、さらさらとした結晶まで精製した品など、王侯貴族でも滅多に見られない。
 この砂糖には、金の重さ以上の価値がある。
「そなたの国で産するのか?」
「はい、アークティカは砂糖の産地を目指しております」
 女王は沈黙した。
 アークティカは、想像以上に豊かなのかもしれない。

 ラウリカ政府との交渉はこれからが本番。秘密交渉の舞台はミクリンが作った。これからは、リケルやスコルの出番だ。

 私は、キ109に対して強い疑念があった。キ109の原型であるキ67、四式重爆撃機“飛龍”は、陸軍機でありながら雷撃ができる機体だ。しかし、雷撃時は爆弾倉扉を開けた状態で、爆弾架から伸びた魚雷架に懸吊される。つまり、魚雷自体は機外に出ているはず。
 だが、このキ109は、爆弾倉に魚雷を格納できた。さらに、500キロ爆弾なら1発しか搭載できないはずだが、このキ109は2発積める。
 爆弾倉が拡張されているのだ。
 さらに、内翼下面にはハードポイントが両翼に各1カ所ある。機外に250キロ爆弾2発を積めるようだ。外翼にもハードポイントがあり、こちらは増加燃料タンク用。
 爆弾の搭載量は計1500キロ。
 航続距離とのトレードオフだが、この程度の搭載量は可能なはず。
 キ102の胴体下面と内翼下面にもハードポイントがあり、250キロ爆弾計3発を積める。
 キ109とキ102は、特殊な作戦に従事していた部隊の保有機だったことは間違いない。

 キ109が放った1発の魚雷は、赤い海沿岸諸国を震撼させた。
 アークティカが巨艦を一撃で撃沈できる兵器を持っているという事実は、アークティカの商船を気軽に臨検できない、ということにつながる。
 帝国に対する忖度か、アークティカに対する嫌がらせか、そのどちらにしても、アークティカの商船はたびたび臨検や拿捕を受けてきた。
 寄港の拒否も頻発していた。
 他国海軍による臨検では、暴力行為もある。
 アークティカは都度抗議しているが、返答どころか反応さえなかった。

 しかし、1発の魚雷が変えた。
 アークティカ商船に下手な手出しをすれば、報復として1隻か2隻沈められるかもしれない。
 臨検と拿捕は、一切なくなった。抑留されていた船員と船は、直ちに釈放、返還される。
 魚雷1発で、アークティカ商船の赤い海における航行の自由が保障された。

 スコルは、鋼管と木材と真鍮板で、魚雷の模型を20本ほど作った。
 これを高速警備艇の甲板左右に載せて、魚雷艇の“実物大模型”に仕立て上げる。
 従来は、歯牙にもかけられなかったアークティカの海上部隊は、各国海軍の恐怖の対象となる。
 アークティカ沿岸においてさえ、他国海軍艦艇によるアークティカ警備艇の進路妨害や異常接近、砲口を向けるなど威嚇行為があったが、巨艦撃沈以来、近寄りさえしなくなった。
 例の巨艦の推定値だが、全長80メートル、全幅17メートル、排水量5500トン以上。
 91門搭載型蒸気戦列艦ヴァーサは、竣工から2カ月後に撃沈された。この世界では空前絶後の最大最強の戦艦が、1機の飛行機が放った1発の魚雷で5分以内に沈んだ。
 現在でも、その骸〈むくろ〉をバタ港沖にさらしている。
 赤い海沿岸諸国の海軍も、白い海から来訪する商船も、バタ岬を通過する際に否応なく目撃することになる。
 帝国海軍戦列艦ヴァーサの存在は、アークティカの軍事力誇示となった。これ以後、海上においてアークティカを挑発する何者もいなくなった。

 まったく違う理由で、帝国海軍はアークティカの艦艇や商船に“干渉”しなくなった。
 ヴァーサが横転沈没した際、後続していた戦列艦2隻は、トルボルグ号追跡を行わず、ヴァーサ乗員の救助を始める。
 ヴァーサの乗員は900にも達し、後続していた2艦の乗員合計よりも多い。海上には多くの浮遊物と、動かない人、そして救助を求める人が浮いていた。
 さらに、音に反応して、事故直後から海棲トカゲが集まり始めている。
 後続艦による救助活動は当然で、ヴァーサの乗員の半分ほどが救助された。
 残り半分は、艦とともに沈んだ。

 皇帝タンムースは、これを良とはしなかった。後続艦がトルボルグ号を追跡し、撃沈しなかったことを咎め、後続艦2の乗員全員と救助されたヴァーサの乗員全員の自由を剥奪。家族ともども奴隷として、他国に売り払った。

 この処置に対する帝国海軍将兵の怒りは強く、意思表示のない皇帝からの離反を始めた。サボタージュを始めたのだ。

 後続艦の乗員と救助されたヴァーサの乗員と家族を買ったのは、ダールだった。
 ダールは、1万人近い奴隷を買い、売買成立と同時に彼らを自由にした。帝国の属国であるはずのダールが、公然と帝国に牙をむいた瞬間だった。

 帝国海軍戦列艦ヴァーサの撃沈は、神聖マムルーク帝国衰退の端緒となり、代わって白い海東岸のダールが勢力を伸ばしていく発端となった。

 私には、虚仮威しが通じている間に、外交的にやるべきことがあった。

 エリスは、白い海と赤い海に挟まれた穀倉地帯の北部にある有力な街だ。エリスが発行するエリス金貨は、国際基準通貨でもある。
 エリスは、アークティカとの通商を拒否しない。
 アレナス地方行政府は、アレナス⇔ルカナ間に路面電車に類似の専用軌道を走る鉄道を施設したが、軌道の技術はエリスから導入した。
 民間の取引として、鉄道施設の契約をしたのだが、これだけの規模と金額ならば、通常は行政府が介在する。
 国際的な信頼醸成に資するからだ。
 しかし、エリスは一切の干渉はもちろん、一片の意見もなかった。
 つまり、無視したのだ。
 アークティカは、歯牙にもかけてもらえなかった。エリスに悪気はなかった。アークティカに有償で鉄道技術を提供し、しっかりと利益を得たが、アークティカとはそれ以上の関係は価値がない、ということだ。

 アレナス行政府は何度もエリス行政府との接触を試みてきたが、一切の反応がなかった。水面下の交渉、秘密交渉、どういう交渉であれ、一切の接触がない。

 エリスとの接触は、私の担当となった。
 数年ぶりのエリスは、以前と風景は変わらない。しかし、街の空気は重い。
 西から帝国の圧迫、南はダールが遮断した。内陸都市のエリスには、東と北は開いているが、孤立が始まっていることは明白だった。この街と縁の薄い住人は、脱出の機会をうかがっている。
 そのような状況のエリスが、帝国の侵攻を誘発するような行動をとりたくない事情は理解できる。
 しかし、アークティカと接触しても、しなくても、帝国はエリスに侵攻する。エリス行政府も承知している。
 経済力で地域を治めたエリスに、軍事力で迫る帝国。
 つまり、エリスの金の力と帝国の暴な力との戦いだ。エリスにも軍はあるが、帝国の兵員数は圧倒的。
 軍事に関しては、エリスの質と帝国の数の戦い。まったく異質な2つの国が、激突しようとしている。
 エリスに勝ち目はないだろう。野戦に出れば数で圧倒され、城壁を頼って籠城しても1年か2年は持ちこたえても、それ以上は無理。
 進化を続ける帝国の陸上戦艦ならば、攻城砲と連携して、エリスの分厚い城壁でも突破できるだろう。
 私は、1カ月と持たない、と判断していた。

 帝国の陸上戦艦は、急速に小型化している。蒸気レシプロ機関が動力で、巨大な鉄製8輪で車体を支え時速6キロほどで移動する。
 低速だが鈍重ではなく、人が歩行できる場所なら同一速度で追従できる。
 全長10メートル、全幅4メートル、重量40トン。小型化さてたとしても、M1エイブラムスよりもでかい。
 巨体のわりに軽い。つまり、装甲は薄い。最厚部で30ミリ程度と推測している。

 エリスを訪れ、赤い海西岸に戻り、南下しながら沿岸諸都市を訪問し、バタの北で西に転進して、カフカに向かう旅程を考えた。
 これならば、アークティカからの物資補給も可能だ。
 アークティカの旗を掲げた車輌を使う。我々の存在を認識してもらうためだ。

 私は、この計画を自宅を訪れていたヴェルンドに話す。
 それをミーナが聞いていた。
「いつ行くの?」
「数日したらかな?」
 私の答えにヴェルンドが反応する。
「私も行きますよ。
 建物の中に籠もりっきりは疲れるので……。
 それに、ある程度の武装が必要です。
 しっかりと準備しないと……」
 ミーナの目が輝く。
「行きたい!
 一緒に行く!」
 ヴェルンドが安請け合いをする。
「よし、行こう!」
 ミーナが喜ぶ。
「うん!」
 私はその場が平和なら、ことを荒立てない性格だ。これは欠点なのだが、自分では矯正できない。
 ミーナの同行は無理なのに……。

 ミーナはこの商旅行をリリィに話し、2人はメグの養い子でコルスク出身のルキナとウルリカの子でマルマ出身のレイアに話す。
 ミーナが行くなら、リリィも、2人が行くなら、ルキナとレイアも、と子供の間でこの旅行の話題で盛り上がったらしい。

 この時期、イファには揉め事があった。トルボルグ号に積まれていた2トンのパネルトラックだが、荷台前方上部に熱交換器が付いていた。保冷車なのか、冷凍冷蔵車なのかを私は確かめてはいなかった。
 単なるトラックとして、トルボルグ号は使っていた。冷凍冷蔵機能を使うことはあっただろう。
 しかし、イファの住民のほとんどは知らなかった。
 気付いたのは子供たち。
「夏でも冷たいんだよ」
「トラック全部が冷蔵庫なんだ」
 子供たちの会話で、2組のグループが反応した。
 子供たちが羊村と呼ぶ牧羊グループと、菓子の製造を行っている製菓グループ。
 牧羊グループは、羊乳から作ったチーズの輸出に力を入れている。
 しかし、エリスに地理的に近い北部産の牛乳から作られるチーズに押されている。
 特にフレッシュチーズは、輸出できない。北部諸国は、真冬に氷室を作り、氷を保存し、真夏でもフレッシュチーズの輸送を可能にしていた。
 これに対抗する手段は、冷凍冷蔵機能のある2トントラックしかない。
 一方、製菓グループは焼き菓子で成功していたが、タルトやスポンジケーキなど生菓子にも触手を伸ばしていた。
 他国への輸出までは考えていないが、少なくとも知ってもらうためには、西岸諸都市での試験販売は不可欠と考えていた。

 牧羊グループの幹部はリシュリンと同列の剣の達人とされるクラリス。製菓グループの代表はマーリンの姉フェリシア。
 この2人の間で、2トントラックの使用権獲得競争が勃発していた。
 居酒屋では羊村焼き討ち、フェリシア暗殺といった物騒な与太話が出るほどの対立になっている。

 そして、アレナス地方行政府からは、冷凍冷蔵トラックが奪われることを恐れて「国外への持ち出し禁止」が通達される。

 私のエリス訪問計画を子供たちから知ったクラリスとフェリシアから、別々に同行したいとの連絡があった。
 アークティカの非公式外交団に同行するなら、アレナス地方行政府が発した冷凍冷蔵車の国外持ち出し禁止が解かれると考えたのだ。

 私は、クラリスとフェリシアの勢いに負け、同行を承諾した。
 こうなると、砂糖、葡萄や桃の瓶詰など他の食品の製造関係者も同行を希望するようになる。

 こうして通商目的が濃い、わけのわからない外交団ができ上がってしまった。

 アークティカは、赤い海沿岸諸国において異端的存在であった。国民の9割が拉致されるか殺害され、国家としては一度消滅している。
 国内に残っていたわずかな人々が蜂起し、占領軍を排除しながら徐々に支配地域を拡大していくのだが、この新生アークティカが従来のアークティカと同一または継続性のある国家であるとすべきか否か、各国には議論がある。
 現状、アークティカを承認する国や街は、一切ない。
 ただし、ルカーンやパノリアなど数カ国とは、通商関係の秘密協定を結んでいる。

 アークティカの蒸気車工場では、輸出用の蒸気牽引車と蒸気乗用車を量産している。
 これとは別に、エミール医師がもたらしたフォードV3000Sマウルティア半装軌トラックをベースに、ガソリンエンジンを搭載する各種車輌を製造している。
 ガソリンエンジンの製造数に限界があり、大量生産は難しい。試作や増加試作の域を出ないとも言える。使用はアークティカ領内に限定されている。
 マウルティアの後輪は履帯になっているが、これを通常の車輪に戻す。一部は、私がこの世界に乗ってきたホワイトM3ハーフトラックの前軸駆動用トランスファーを移植して、アークティカ製フォードV3000Sトラックは4輪駆動に改良されている。
 エンジンは3.3リットルの4気筒OHVで、80馬力と非力たが、積載量は3トンある。
 V3000Sにはいろいろなボディが架装されていて、タンクローリーやバスもある。M3ハーフトラック類似の装甲ボディを架装した装甲車もあり、装輪装甲車として運用している。6輪化した車輌もある。
 エンジンは、直列6気筒3.7リットルのホワイト160AXをベースにバルブ配置をSV(サイドバルブ)からOHV(オーバーヘッドバルブ)に変更して、自然吸気で150馬力を発生した。
 新たに入手したセミキャブオーバーの日産80型トラックは設計がアメリカのグラハム・ペイジで、すでに全車が稼働状態にあった。ショートホイールベースが1輌あり、これにライトバン風のキャビンを架装して、人員輸送用にすることを検討している。

 ヴェルンドは、ガソリン車10輌を用意した。護衛の装輪装甲車3、イヴェコの冷凍冷蔵車、日産80型バン、輸送車5の構成で、護衛用装甲車のうち1輌は6輪仕様の自走砲で、荷台部にはミストラルから取り外した75ミリ高射砲を搭載している。陸戦用の防盾は、アークティカで製造した。
 護衛隊員は16、自走砲には操砲要員など6が乗る。
 護衛隊員以外も大人は全員武装する。トラック1輌は、移動パン焼き釜を牽引していく。
 ガソリン車を選んだ理由はアークティカの隊商であることから、燃料や水の補給を拒否される可能性があるからだ。

 結局、我が家の一角に住む、ミーナとほぼ同じ年齢の子供たちは、全員が今回の商旅行に同行することとなった。
 実際、誰もが危険はないと判断している。私もだ。それに、子供が同行しているほうが、街々から警戒されないことは確かだ。大人にとっても都合がよかった。
 子供たちは、特装の日産80型バンで移動する。郷土防衛隊が、我々のために衛生兵を2人派遣してくれた。子供のことを意識した処置だ。
 マルマ地方行政府通商部から2人の同行依頼があり、バランスをとるためかアレナス地方行政府通商部からも急遽2人が参加することになった。
 各車には、アークティカの旗が掲げられる。官民一体となったアークティカの産品営業の旅になってしまった。

 この旅には、アークティカの存在を鮮明にするという、商談以上の目的がある。

 異界人は私だけ。最年少のサーニャには、養い親のイリアが同行している。ヴェルンドは妻のフェリシアと初めての旅。クラリスは、船旅は今回が初めて。

 トルボルグ号が赤い海北西の自由港に接舷し、アークティカの国旗を掲げた隊商がエリスに向かった、という情報は、周辺の街や国に24時間で広まる。

 地域において比類のない経済大国であるエリスは、強く警戒する。我々が武装していることと、帝国の機嫌を損ねたくないからだ。また、帝国に侵攻の理由を与えたくないこともある。

 この3年で、トルボルグ号の船内はかなり変わった。病院船から貨物船になったのだから、変わるのは当然なのだが……。
 赤い海は穏やかで、白波はなく、船は揺れなかった。
 子供たちは快適な船旅を楽しみ、大人たちはつかの間の平安を喜んだ。
 陸路も平穏だった。隊商の前後に護衛が付き、6輪の自走砲は車列の中間ほどに位置した。
 初めての誰何は、エリス東門外だった。もともと、城内に入れるとは考えておらず、城外の市場で商品の試販売をさせてもらえればそれでよかった。
 車体に取り付けているアークティカ旗を降ろせ、降ろさない、との言い合いとなり、現地官憲との間に不穏な空気が流れる。
 エリスの現場官憲は、アークティカ旗を掲げなければ商いをさせると言い、掲げるならば退去せよ、と。
 官憲は汗をかいている。涼しいのに玉のような汗を、額に浮かばせている。50人を超える武装したアークティカ人を相手に戦うとなれば、真っ先に自分が死ぬからだ。
 たかだか50人のアークティカ人にエリスが負けるなどとは一片も思ってはいないが、我々が生命知らずだということは噂で知っている。
 実際は、かなり生命を惜しむ臆病者たちなのだが……。

 東門外市場に険悪な空気が流れる。エリスの官憲は4。街や国に籍を置く隊商は、何らかの標識を掲げることが、この地域の取り決めになっている。通常は、国旗などの国籍標識と隊商旗を掲げる。
 我々は、この慣習に従っている。少々アークティカ旗がでかいが……。
 国籍標識がなければ、盗賊とされても文句は言えない。
 にもかかわらず、エリス官憲はアークティカ旗を降ろせと無体なことを言う。
 降ろせ、降ろさないの押し問答が続き、官憲4がその場を離れる。部隊を率いてくるものと身構えていたが、戻らなかった。
 東門外市場の差配に出店代を支払い、翌日からの営業準備を始める。

 市場は8時に開場。開場と同時に多くの客が訪れる。
 が、……。
 昨夜はフェリシアなど一部を除いて、お通夜のようだった。クラリスは、カチカチに緊張している。
 客相手の商売などしたことがないからだ。
 前日、周囲の商人たちの巧みな客あしらいに触れて、完全に自信喪失。数人の成人女性が、泣き出す始末。寒くもないのに歯の根が合わない剣の達人。手の震えが止まらない弓の名手。緊張のあまり腹痛を訴えるすご腕スナイパーなど、実に滑稽な風景を見た。
 子供たちは間逆で、どうやったら買ってもらえるか、名案珍案が次々と湧き出てくる。
 警護の男たちは最初は笑って見ていたし、酒を勧めたり、からかったりで場を和ませようとしたが、子供たちが寝てしまうと、真剣に心配し始める。
 ヴェルンドが「これじゃぁ、どうにもならないぞ」と呟いた。
 異論を挟む余地はない。

 それでも朝が来る。

 クラリスは緊張のあまり、鬼の形相だ。これでは客が来るわけない。
 クラリスたちが作る羊乳チーズには、いくつかの種類がある。今回は、フレッシュ、セミハード、ハードの3種類を販売する。
 フレッシュチーズは塩味が薄く、とても食べやすい。
 ミーナは昨夜、貴重なフレッシュチーズを試食に使うと、クラリスに告げていた。
 クラリスは、試食がどういうものか知らなかった。

 ミーナは、ごく少量のフレッシュチーズを小さな焼いたパンの上に載せた。
 だが、客が集まる様子がない。
 呼び込みの上手い店には客が集まり始める。フェリシアはさすがで、すでに客が大勢集まっている。
 クラリスたちは一声さえ発していない。
 ミーナは落ち着いている。
 リリィとルキナがリードを付けたロロとリッツを連れてくる。
 巨大な猫と成獣になりかけている狼は、とにかく目立つ。
 たいへんな人数が遠巻きにする。
 チーズ売り場の前にロロ、リッツ、最年少のサーニャの順に並ぶ。
 ミーナがニコニコ顔で、恐る恐る遠巻きにしている客たちに向かって芝居を始める。
「みなさん!
 ロロです。リッツです。サーニャです。
 これから、チーズの試食をします。
 羊のお乳で作ったフレッシュチーズです。
 氷で冷やして、アークティカから運んできました。
 とても新鮮です。
 まず、ロロが食べます」
 冷蔵庫を知らない人々に余計な説明はしない。
 ロロは、いつものすまし顔で食べる。喉が動き、一瞬で飲み込んだ。
「次はリッツです」
 リッツは大喜びで、尾を激しく動かし、早くくれとせがむ。
 ロロを遙かに凌ぐ勢いで、リッツが食べる。ミーナの指にリッツの歯が当たる。
「次はサーニャです」
 ミーナがサーニャに食べさせようとし、サーニャが口を大きく開けると、それをリッツが激しく妨害。
 どうにかサーニャの口の中へ。
「おいちぃ!」
 サーニャの芝居丸出しの台詞。
 だが、ロロとリッツは芝居なんてできない。
 レイラがチーズ載せたパンを両手に持ち、かなり離れて止まっている車輌に向かって歩き出すと、ロロとリッツは簡単に誘導されていく。
 老人が「いいかね」と試食用の大皿からチーズを載せたパンを取り食べる。
「おぉ、これは美味い」
 彼が最初の客だった。
 品が売れていくと、クラリスたちの緊張は弱まり、つられるように瓶詰め類も売れ出す。ケーキ、焼き菓子類もすごい人だかりだ。

 販売は夕方まで続き、日が暮れると市場は閉じた。
 市場の差配に「明日朝、北門の城外に移動する」と告げると、「待ってくれ。明日もここで売ってくれ」と言われる。
 商品は、残り少なかった。4日で売るつもりが、2日でなくなる。フレッシュチーズは、もうない。1日どころか、太陽が西に傾いてすぐに売り切れた。
 セミハードとハードチーズは、まだ残っている。
 瓶詰め類と焼き菓子は、明日1日は何とかなりそうだ。
 予定は大きく狂っているが、それはいいほうに、だ。
 アークティカには負のイメージがある。国民の9割が殺されるか連れ去られたのだ。いいイメージがあるはずはない。アークティカ旗を見て、いい印象を持つ人はいない。心情として、近寄りたくはない。
 それをミーナたちがとびっきりの笑顔で吹き飛ばした。
 小さな商行為だが、エリスにもアークティカを認識させたはずだ。
 成功だった。
 明後日、赤い海に向かい、販売チームはトルボルグ号の寄港を待って、アレナスに戻る。
 全員で話し合った予定変更だ。
 反対したのは子供たち……。もっと、売りたいと……。

 エリスは、アークティカ人の入城を拒んだ。「子供たちだけでも……」と願ったが、エリス行政府は首を縦に振らなかった。
 物事をよく理解しているはずの私でさえ、悔しいと感じてしまった。
 私は日本人ではなく、すでにアークティカ人になっていた。

 事件は、20時を過ぎてから起きた。
 西方教会系説教師が信徒とともに、松明を持って、我々のキャンプにやって来た。
 彼は、ガストン・ジョンと名乗った。西方教会は唯一神で、土着宗教や自然信仰を含めた他神を認めない。
 だが、実際は、その土地の自然信仰を取り入れて、融和を図っている。そうしないと、信徒が増えないからだ。
 だが、ガストン・ジョンは、教義に対する原理主義者で一切の異端を認めない立場だった。
 商業や工業が発達していたアークティカは、宗教性の薄い土地柄だったらしい。商売の神様、大地の精霊、道具の神様などの民間信仰はあるが、教義などはない。
 信心深くない国民性なのだ。

 武装した信徒を引き連れたガストン・ジョンは、我々のキャンプを取り囲み、説教を始める。
「邪神を信じるアークティカの民よ、悔い改め真の神を受け入れよ」
 ガストン・ジョンは、エリスの槍兵だった。説教師ではあるが、僧衣ではなく、鎖帷子を着けた兵士の格好だ。
 剣を帯びている。中世の騎士のようでもある。
 アークティカの髭が白くなった男が笑う。
「邪神って、何だ!」
 ガストン・ジョンは即答した。
「予言の娘だ!」
 全員が大笑いする。白髭親父が嘲笑する。
「マーリンを誰が神だって言うんだ。
 マーリンを拝むアークティカ人なんていないぞ!」
 アレナスとマルマの役人は、マルマの悪意を感じ取っていた。この時間、城外には出られない。
 エリスの行政府が、ガストン・ジョンと彼の信徒を城外に出したのだ。
「悔い改めよ。
 汚れた異端者よ!」
 アークティカ人は、誰も何も反応しない。
 その後もガストン・ジョンは神の代弁を続けるが、アークティカ人は一切反応しなかった。
「悔い改めぬ異端者に死を!」
 ガストン・ジョンが剣を抜き、信者たちは前装銃を構える。
 白髭親父が冷たい目でガストン・ジョンを見る。
「やめたほうがいい。
 そんな武器じゃ、我々には勝てない」
 ガストン・ジョンが切っ先を白髭親父に向ける。
「我らには神がついている。
 神の加護がある。
 おまえたち異端者には、神の怒りがある。
 我らが負けるわけはない」
 クラリスが立ち上がる。
「ならば、私が相手をしよう。
 女の細腕で、どこまで戦えるか……。
 そなたが勝つは当然。
 もし、私が勝てば、そなたに神など味方していないことになる。
 どうか?」
「愚かな。
 だが、勇気は認めよう。
 異端の女よ!」

 ガストン・ジョンが剣を構え、周囲を圧倒する殺気を放つ。
 他のキャラバンの女性が叫ぶ。
「やめさせて、チーズ屋さんが殺されてしまう。その人は、エリスでも有名な剣士よ!」
 黒いズボンと草色のロングジャケットというアークティカの服を着た、20を少し過ぎた若い女性が勝てる相手ではない。
 常識的には……。
 だが、アークティカ人はクラリスを止めたりしない。クラリスが負けるわけはない。

 ガストン・ジョンの構えは、戦場で磨いた戦士そのものだ。
 対するクラリスは、ダラリと剣を下げたまま。顔に生気はなく、姿はあるが気配はない。クラリスをよく知るリシュリンやメグならば、対抗手段はある。しかし、初手合わせの際、ジャベリンは一瞬で喉元に剣先を突きつけられてしまった。
 ガストン・ジョンはクラリスに対して、まったく手加減しなかった。
 彼の論理では、異端者は死ぬべき対象だ。

 ガストン・ジョンが振り下ろした剣は、クラリスをかすめさえしなかった。
  ガストン・ジョンの喉には、クラリスの剣先があった。
「おまえの神はいない。真の神は私とともにある」
 ガストン・ジョンがクラリスをにらみつける。
「見たか!
 こいつは魔術を使った。
 魔術を使って私を負かした!
 こいつは魔女だ!」
 白髭親父が叫ぶ。
「おまえの神は、魔術にはお手上げか!
 おまえの神は、魔女以下なのか!
 そんな神に頼って何になる!」
 ガストン・ジョンは、怯んでいた。アークティカ人は、神の存在を否定しないし、神への信仰がないわけではない。
 だが、神に何かができるとは、まったく思っていない。いいことも、悪いことも、神には何もできない。
 だから、神を恐れない。
 ガストン・ジョンは、神を恐れないアークティカ人に恐れを感じた。
 アークティカ人を信徒300が包囲しているが、子供が怯えていない。楽しそうに歌っている。
 私は、M1928トンプソン短機関銃を手に、立ち上がる。
 空に向けで、1弾倉分発射する。
「おとなしく、城内に戻れ。
 きみの戯言など、聞きたくない。
 暴力は使うな。
 きみたちを皆殺しにしたくない」

 その夜は、襲撃を警戒して、歩哨の増員はもちろん、大人たちは3交代制で寝た。
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