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第1章
第二二話 ルミリー湖
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ヴァリオとイルマリが、半装軌式トラック二台に分乗した一個分隊の護衛とともに、山荘にやって来た。
前回とは異なり、避難民を助けてあげようという上から目線ではない。
埃をぬぐった程度のテーブルを挟んで、食堂で、俺と斉木、そしてデュランダルが、二人と対峙した。
能美がとっておきのコーヒーを入れてくれた。これも、虚仮威しのアイテムの一つだ。
屋外では、ベルタの指揮の下、六人が完全装備で警戒にあたる。その装備は、ヴェンツェル軍を凌いでいる。
これも虚仮威しだ。
時候の挨拶から始まり、周辺情勢の話題を経て、ヴァリオは核心に迫る話を始めた。
「皆様は、ここにいつまで逗留されるおつもりですか?」
態度、口調に横柄の影さえない。
主に斉木が応じる。
「私たちは、安全な土地を求めています。安全で平和があれば、できれば永住したいと考えています。
この地がそうであるのか、それとも否かは、現段階では判断いたしかねます」
「もし、この地にお住まいになっていただけるのならば、便宜を図らせていただきます」
「例えば……」
「格安で農地をお貸しします。それと、新開地の税は半分に……」
「割合は?」
「農地の貸借料は、収穫の一〇パーセント、税は二〇パーセント」
「年貢方式ですか?」
「黄金でも結構ですが……」
「作物に指定はありますか?」
「一般的にはムギかと……」
「お借りできる土地の広さは?」
「北の断崖からルミリー湖北岸まで」
「かなり広いですね。面積で六から八平方キロはありそうですが……」
「一平方キロのムギの収穫量は決まっていますから、それを八倍して、その一〇パーセントが地代でいかがでしょう」
「耕作に適さない湿地もありますが?」
「……」
イルマリは砂糖とミルクを入れて、コーヒーを飲み干していた。
斉木がたたみかける。
「私たちは四〇人しかいません。耕作地はほんの少しでいいのです。
一平方キロもあれば十分です」
「……」
「どうでしょう。
この一帯が行政府の所有地ならば、一平方キロほど売っていただけませんか?」
「それは……!」
「ダメですか?
ならば、地代と税の合計で大麦の収穫換算の二〇パーセントではどうです?
地代と税は通貨で支払いましょう」
「金で?」
「はい、黄金で。
初年は前金でもかまいませんよ。
ただし、前金ならば一五パーセントで」
ヴァリオは「持ち帰って検討します」とのみ言い残し、この日は去った。
斉木は最初、慇懃な口調であったが、最後のほうは斉木が押していた。
それが、吉と出るか凶と出るか。
春の陽射しは柔らかく、子供たちはここを気に入っている。だが、同時にいつ何時、ここを離れなければならなくなるかもしれないことも知っている。
斉木は放棄された耕地を調べている。
由加とベルタは武器と弾薬の整理と手入れに忙しい。
金沢は車輌の整備点検。
金吾とディーノは無線の調整だ。
俺と相馬は、周辺を調べていた。〝カルロス〟から鹵獲したアルゴの八輪ATVは小型で、同時に水陸両用だ。まさに全地形対応車だ。
このATVを使って、各地を調査しているのだが、俺たちは見張られている。八平方キロという面積は、東京都中央区よりやや狭い。
見晴らしのいい低地ではあるが、簡単に地の利を得られるわけではない。入念な調査が必要だ。
この調査には、しばしば斉木も同行し、斉木の見立てでは、総面積の三分の一程度が耕作の適地、三分の一が耕作不適地、残り三分の一が未開墾地だ。不適地は湿地か石が多い。
ヴァリオとイルマリは、三日後にやって来た。
「税と地代の合計は、小麦の収穫換算の二〇パーセント」とヴァリオがいった。また、「耕作は、断崖の一キロ以南ならばどこでもご勝手に」と。
斉木は承諾し、俺たちはこの地に住めることになった。
だが、ここからヴェンツェル側の攻勢となった。
「ただし、居住地と耕作地の防衛は、貴殿たちの責任で……」とイルマリ。
これは、斉木の専門外だ。俺は、由加を呼んだ。由加は完全装備で現れた。
イルマリは鉄帽を脱ぐ由加を見て、「女の兵士……」と少し驚く。
俺は由加に、「イルマリ殿は、我々が居住地と耕作地の防衛の全責任を取るよう要求されている」と告げる。
由加は一言、「承知した」と。
イルマリが少し動揺する。その一瞬の隙を突くように、由加は「ただし、防衛計画は我々が策定する」と突き放す。
イルマリは、「そのこと、こちらも承知した」と返した。
この日から、山荘の修繕と掃除、耕作地の選定が始まる。
斉木は湖北岸西側の耕作放棄地の草刈りを始めた。
由加とベルタは、エスコー川西岸から巨岩を運び出し、それをルミリー湖とエスコー川の湿地に隙間を空けて、二〇メートルの幅で置き始めた。
この作業は、老若非力怪力関係なくすべての男が手伝った。
対戦車障害帯を建設するためだ。巨岩帯の北には対戦車壕を掘る。深さ五メートル、幅二メートルの空濠だ。
これで、戦車は簡単に侵入できない。
五月になると少し余裕ができ、学校が再開する。
そして、ヴェンツェルの街から物売りが訪れるようになる。
この頃、アンティは昨年収穫したサツマイモを原料に蒸留酒を造り始めていた。
製法は斉木が、道具はアンティが用意し、焼酎なのかウイスキーなのかよくわからない味の液体だ。だが、不味くはない。
アンティは、この薄い琥珀色の液体を透明のワイン瓶に詰めて、訪れる物売りに売りつけた。しばらくすると、物売りの目当ては、完全にアンティの酒になった。
アルコール度数の低いワインは各地で醸造されているが、アンティの酒は単式蒸留器を使った酒でアルコール度数が高く、簡単に酔える。
斉木が作るサツマイモは、そもそもがバイオ燃料用で、かなり小ぶりなのだが、安酒を造るにはよい原料だ。
同じ頃、物置を改装して、能美、納田、ライマが診療所を開設。
訪れる患者は当初、キャンディが目当てのキャンプの子供たちだけだったが、物売りの家族など、ポツリポツリとやって来るようになる。
俺たちは断崖以南には誰も住んでいないと聞いていた。しかし、事実は異なり、断崖以北に入れない少数の人々が、極限の生活を送っている。
ルミリー湖以南にも住人がいた。彼らを守る軍はおらず、常に北の伯爵による略奪に怯えていた。
五〇から一〇〇人の集落が四つあり、人力と役畜による農耕を営んでいる。この世界で代を重ねた人々で、自分たちのルーツを知ってはいたが、その記憶は伝説以上のものではない。
本来は飢えるほどの貧しさではないのだろうが、北の伯爵による略奪は彼らを飢餓の直前まで追い込んでいた。春蒔き小麦の収穫が終われば、北の伯爵がやって来る。
それゆえ、農民の生産意欲が低く、それも収穫量の不足に拍車をかけていた。
農民に対する斉木の努力は献身的で、その姿を見ている由加やベルタは収穫増を阻害する最大の要因である北の伯爵に対する防衛策を練り始めていた。それに片倉が協力する。
ルミリー湖以南に、エスコー川とマルヌ川が幅〇・五キロまで接近する地峡がある。ここは小高い丘陵地になっていて、ここより南は、耕作地はあるが集落はない。
この幅〇・五キロの地峡に対戦車障害とその南側に対戦車壕を設置した。対戦車障害には、馬車が通る迷路のような通路があり、農民の往来は可能。対戦車壕には重量四トンまでの車輌が通れる橋を架ける。
つまり、馬車は通れるが、戦車は通過できない。同じ構造の橋をルミリー湖からマルヌ川に注ぐ川にも造る。
北の伯爵が攻め込んできたら、ルミリー湖以南の住民はこの橋を渡って北へ避難する手はずだが、実際に機能するかは湖南の住民次第だ。
相馬は九発しかないM119七五ミリ榴弾砲の砲弾製造に取りかかっている。
北の伯爵の部隊は、春蒔き小麦の収穫期である七月末か八月上旬にはやって来る。
それまでに榴弾一〇〇発の製造を目論んでいた。これができれば近い将来、L23A1戦車砲の砲弾補給も可能になる。
イアンは相馬に協力して、少量ながらシングルベース無煙火薬の製造に成功していたし、実験的にバイオディーゼルの製造も手がけていた。
ルミリー湖以北の人々は、家庭菜園程度の耕作しか行っていない。彼らの多くは都市からの避難民で、農耕に対する知識が乏しい。
だが、相馬、イアン、金沢、ウィルなどが、小規模ながら工場を造ると、彼らから「働きたい」とやって来た。
一〇代後半の若者たちは、もっと手っ取り早い商売を思いついた。
OT‐64装甲兵員輸送車による、ルミリー湖ツアーだ。
どんな世界にも金持ちはいる。その金持ちには、たいてい親のスネかじりが付属している。
全長七・五メートルに達する巨大な八輪車は水陸両用なので、街まで出向き兵員室に二〇人ほどを乗せて、断崖以南をサファリツアーぽく走り回り、最後はルミリー湖に水しぶきを上げて飛び込む。そして、ルミリー湖を周回して、湖畔に戻り、酒とバーベキューで腹を満たさせて、街まで送る。
週に一度の休日で、結構な稼ぎを出していた。
夏が近付くとOT‐64だけでは足りず、ハームリンまで動員するようになる。さらに、アルゴの八輪ATVまで使って、観光業は盛況していく。
斉木は、春から夏にかけてヒマワリを、秋から翌年春にかけてアブラナ(菜の花)を栽培して、採油する計画を立てていた。
食用油と燃料油に利用するためだ。
ヴェンツェルの行政府は、当然のごとく小麦を生産すると考えていたが、斉木は採油に適した作物の生産に主眼を置いている。
彼いわく、「小麦はなくなったら買えばいい」
秋には小規模ながら、バイオディーゼルの燃料製造プラントが稼働する。
ヴェンツェルの行政府は、貪欲な我々に対して、初夏の頃には強い警戒心を抱くようになっていた。
そうなることは察してはいたし、場合によっては衝突もあり得ると考えていた。
そして、衝突を回避するために、俺は北の伯爵の力を借りられないか思案していた。
北の伯爵軍が攻めてきたら、完膚なきまで叩き潰す。その様をヴェンツェルの支配者たちに見せつける。
そして、北の伯爵の部隊がやって来た。
ルミリー湖以南の四集落が共同で運営する監視塔から狼煙が上がり、ラッパが鳴る。この監視塔は、我々がやって来る以前からあった。
対戦車壕と対戦車障害に阻まれて進軍がもたつく間に、湖南の住民が着の身着のままで湖北に避難する。
集落の男たちは、ルミリー湖南岸の森に集結する。
我々は、スコーピオン軽戦車、チャーフィー軽戦車、サラディン装甲車を基幹とし、ハンバー・ピッグ重装甲車、ハームリン装甲車を兵員輸送車に見立てて進撃を開始。
我々の進撃を見て、森に集結していた集落の男たちもウマや馬車で南進を始める。
彼らの半分は銃を持っているが、半分は農具を武器にしている。戦力としては脆弱だが、士気は高い。
我々が対戦車障害に達すると、徒歩の歩兵だけが北進していた。
兵力は約五〇。個人携帯火器のみで、砲や戦車の支援はない。銃は八ミリ口径の元込単発だ。これは、事前に知っていた。
戦いは一方的だった。戦車の主砲弾、機関銃弾、自動小銃弾の雨が二五〇人の敵兵に降り注ぎ、それは殺戮に近かった。
特に、家族を殺され、子供を連れ去られ、妻や娘を陵辱されてきた、集落の男たちの怒りは凄まじかった。
対戦車壕の橋は、戦車の重量に耐えられず、一台の戦車とともに落ちており、歩兵の退路はない。
敵戦車は四輌だ。
敵歩兵は対戦車障害帯のなかを、東西に走り回るだけで、出口のない迷路で殺される運命にあった。
敵戦車三台が支援射撃を続けたが、この三台はRPG‐7で始末した。
対戦車壕以南に留まっていた敵部隊と、壕を挟んで激しい銃撃戦が行われたが、それも太陽が頭上に来る前に終わった。
対戦車障害を越えた敵兵は無残だった。退路はなく、一時は逃れても、狩りの獲物のように追われて、銃で撃たれて死ねる敵兵は幸運だった。
指揮官らしき将校が捕虜になった。捕虜は一〇人ほどで、彼らの運命は彼らの行いと等価であった。
指揮官はベルタが尋問し、必要な情報を聞き出した後、集落の男たちに引き渡した。
指揮官の尋問は簡単で、彼らは捕虜になる訓練は受けておらず、何でも話した。
だが、命乞いはしなかった。
捕虜のうち数人が助命された。彼らは無理矢理集められた農民や猟師だという。
他は処刑されたが、指揮官は鞭打ちの後、裸にされて対戦車壕付近に鎖でつながれ、衰弱死させられた。
凄惨な刑罰だ。
これで、北の伯爵との交渉の余地は完全に消えた。
まぁ、想定の範囲内だ。
集落の男たちは「勝った、勝った」と戦勝気分だったが、我々は違う。
戦いは終わったのではなく、始まったばかりなのだ。
北の伯爵が次に送り込む部隊は、間違いなく大軍だ。
この戦いでもっとも衝撃を受けたのは、ヴェンツェルの行政府と軍だ。彼らは我々に対して、迂闊な行動はとれないと悟ってくれたようだ。
鹵獲した戦車は、金沢によって徹底的に調査された。
この戦車に機関銃はなく、砲身長二〇口径の三七ミリ砲以外に兵装はない。装甲は最大五〇ミリ。エンジンは水冷六気筒ガソリンで、一二〇馬力。サスペンションはリーフスプリング。
この戦車をどうするか迷ったが、ヴェンツェルの軍から購入の打診があったので、適正金額かは不明だが、我々の納税額に相当する金額で売った。
代金の半額を湖南の人々に渡す。彼らは共同で、農業用中型トラクターを買うそうだ。
その女性は、小さな赤十字の旗を翻す木造小屋のドアを開け、唐突に言い放った。
「プレドニンかリンデロンは?」
代を重ねた人々と同じ服を着ていて、決して裕福ではない農民の風体だ。年齢は四五くらい、化粧はしていない。
しかし、声音は凜としていた。
小屋内部の広さは、幅五メートル、奥行き八メートルの一間だ。窓は四方にあり、木製のサッシにガラスがはめ込まれている。ガラスは安物で、平滑な板ガラスではなく歪みがある。それが、よい趣を醸し出している。
テーブルと椅子、木箱を利用した診察用ベッドがある。
女性と対面したライマは、ひどく動揺した。
能美は、女性の発した単語を解するのに少しの時間を要した。
しかし、正しい対応かは別として、納田は即応した。
「強い抗生剤をどうするの!」
「やはり、ね。元の世界の人たち!」
三人は沈黙した。
「ミランダよ」と女性がライマに手を差し出す。
「ライマです」
残る二人とも握手を交わす。
ミランダは状況を説明した。
「抗生剤が重要なことは承知しています。ですが、子供が怪我をして炎症がひどくて……」
能美が「ミランダさんはお医者さん?」と問うと、「いいえ、薬学のドクターで、創薬に携わっていました。薬には詳しいですが、治療は実地訓練で何とか……」と答える。
能美が「私は医師です。往診します」と伝えると、ミランダは「他の患者さんは?」と尋ねる。
納田が微笑んで「患者さんは、今日は貴女が最初です。そして、最後だと思います」
ミランダが現れたとき、山荘には護衛ができるメンバーが誰もいなかった。
農場から偶然戻っていたトゥーレと子守担当兼護衛だったアマリネが能美とライマに同行することになる。
使用する車輌は、ムンゴ装甲ワゴン。
能美は、ミランダ、オクタビア、エドガルドの三人を連れ帰った。
三人ともスペイン語圏の出身で、三人に血縁関係はない。一五年前、二〇〇万年後に四〇人でやって来て、この三人が生き残った。オクタビアは二八歳女性、エドガルドは怪我をしており重体だ。彼は一二歳で、この世界で生まれた。
森のなかの小屋で、息を潜めるように暮らしていたという。
ミランダによれば、この地方に至るまでに三〇人が死に、七人がこの地で亡くなったという。七人のうち病に倒れたのは一人だけで、六人は略奪襲撃で命を落としていた。
オクタビアは、我々を完全に敵視していた。
いいこともある。
アグスティナとミランダは、スペイン語で会話できた。意思の疎通が可能になったアグスティナとフローリカは、急速に落ち着いていく。
ルミリー湖観光ツアーのリーダーは、ネミッサだ。珠月、ルサリィ、アマリネ、アビーが主要メンバーで、手が足りなくなると、イサイアスやアンティ、トゥーレ、ユリアナが動員される。
湿地に住んでいた人々が、しばしばヴェンツェル市街の裕福な若者とその取り巻きたちから暴力を伴う迫害を受けてきたことは知っていた。
どら息子どもにとっては楽しみの一つだったのだろうが、被害を受けるほうは死の苦しみに等しい。性的被害を受けた女性も少なくないらしい。
我々がこの地に移り住み、湿地の人々が職を求めてルミリー湖周辺に集まり始め、ネミッサたちが観光業を大々的に展開すると、湿地の人々をいたぶる〝楽しみ〟ができなくなった。
そして、事件が起きた。
ネミッサは聡明な女性で、かつ商才に長けている。そのうえ、銃の腕も立つ。
彼女は、観光業を手伝ってくれる湿地からやって来た人々に労賃を銀で日払いしていた。観光業は週に一日だけで、観光業がなければ湿地の人々は我々の農園や工場で働いている。
彼らとは別に、ルミリー湖で漁労を営む人もいる。
日払いの賃金は、貧しい若者にはとても嬉しいものであった。
ルミリー湖畔で、いつもと同じ休日が始まり、いつもと同じように終わろうとしていた。
だが、若者の一団が少女を連れ去ろうとした。少女の悲鳴が湖面に反響する。
少女たちがこの一団に怯えていることを、ネミッサは気付いていて、用心棒としてイサイアス、金吾、金沢の三人を呼んでいた。
腕力ならイサイアス、剣なら金沢、因縁をつけてきたら金吾という布陣らしい。相手が銃を抜けば、ネミッサの思う壺だ。
イサイアスが止めに入る。
身なりのいい、顔立ちの整った若者が、イサイアスの前に立つ。
冷酷な笑みをイサイアスに投げ、そして無言で殴りかかる。喧嘩慣れした動きだが、イサイアスと比べると数段レベルが低い。彼のように、命のやりとりで生きてきた人間とは異なり、チンピラの喧嘩自慢に過ぎない。
イサイアスは殴りかかられてから、一撃も受けず、数秒後には相手を背中から地面に叩きつけ、馬乗りになって、一方的に殴っていた。
二〇秒ほどの出来事だった。
前歯がすべて折れ、顎が砕かれ、右目があるべき場所にない男が横たわっている。
男の友人たちと取り巻きは、身動きできない。なぜなら、ネミッサやルサリィが銃を突きつけているからだ。
ネミッサが取り巻きにいった。
「こいつを連れて帰れ」
「どうやって?」
「知るか!」
一〇人ほどの一団は、伸びた男を抱えて北に向かって歩いて行った。
我々はマルヌ川に浮橋を架けた。これで、ヴェンツェル市街を抜けずに、他地域の集落と交流できる。
ヴェンツェル行政府から咎めがあると予想していたが、何もない。
イサイアスに喧嘩を売った若者は、ヴェンツェルの裏の社会ともつながる有力者の子弟で、素行が悪いことでは有名だったらしい。悪行を重ねても、父親がもみ消して、処罰を免れてきたとか。
父親が我々に対して立腹し、我々を征伐すると喚いたらしいが、北の伯爵軍を退けた我々を恐れて手出しできなかった。
我々は表面上、ヴェンツェルの行政府、軍、反社会組織からの一切の干渉を排除することに成功した。
だが、いずれの勢力も我々が油断を見せれば、即座に介入してくる。
マルヌ川に架かる橋を渡って、ディジョンから商人がやって来た。
武器商だという。
俺とベルタが応対した。
武器商は銃弾のサンプルを見せて「これは、ご領主様がお使いの武器の弾薬では、と思い持参いたしました」と、真鍮製薬莢の七・六二×三九ミリ弾を一発見せた。
「これを、どのくらいお持ちですか?」と俺が問う。
「中型の荷車一台分ございます」
ざっと、二・五トンか!
「これ以外の商品は?」と俺が問うと、武器商は精密な絵を一枚見せた。
ベルタが「ロシアの装輪装甲車に似ている」と呟くと、武器商は「やはり、価値がおわかりなのですね」と満足そうに笑った。
ベルタが「弾薬については試し撃ちをしないと、何とも判断できない」というと、武器商の従者は紙箱入り五〇発二箱をテーブルに置いた。紙箱は、武器商が用意したものらしい。
ベルタは弾を持ち湖畔に向かう。湖畔には射撃訓練場があった。
銃声が轟く。
ベルタが戻ってきた。そして、頷く。
俺が「値段は?」と武器商に尋ねると、彼は「金貨一〇〇〇枚」といった。
俺は「即答はできない」といい、武器商も了承した。
俺は「その車輌は?」と尋ねた。武器商は「動くか動かぬかもわかりません。こちらは、金貨一〇〇枚で」と答える。
久々に全体会議が開かれた。
議題はもちろん、弾薬と装輪装甲車だ。
相馬が「薬莢込みの重量を一六グラムから一八グラムとすれば、二・五トンなら一五万発はある。これから手に入るかどうかわからないのだから、買えるならそうしたほうがいい」と発言、それを受けてベルタが「一発二ドル五〇セントは高い。一発一〇セント。高くても二〇セントだ」と価格交渉を要求した。
だが、金沢が「でも、BTRが金貨一〇〇枚は破格ですよ」と応じる。
この地方の標準金貨は金の含有率九〇パーセントで一〇グラム、純金で九グラムだ。金貨一〇〇〇枚ならば、金九キロに相当する。
我々の会計はウルリカが担当していて、金は二〇キロほど持っていた。これは、北方低層平原で回収したものだ。
ネミッサが「私なら半値まで値切れる」と朗らかにいうと、ルサリィが「金貨三〇〇枚で交渉を始めたら」と提案。
武器商との直接交渉は、ウルリカ、ネミッサ、ルサリィが行うこととなった。
武器商は汗をかいていた。気温の高さもあるが、ネミッサの交渉は苛烈で、そして道理にかなっている。
ネミッサは、弾薬と装甲車の合計額を金貨三〇〇枚と主張し、そこから一歩も譲らなかった。
そんな強引な交渉をルサリィが咎めるが、それも交渉の駆け引きのうちらしい。
結局、武器商は自分から「金貨七五〇で」といい、すかさずネミッサが「金貨五〇〇」と返答する。
武器商は「お引き取りにお出向きいただけるなら金貨五〇〇」といい、ネミッサは「届けてくれるなら金貨五〇〇に運び賃五〇を足す」と主張。
武器商は金貨五五〇で手を打った。
ウルリカが「純金の延べ棒五キロで支払う」と告げると、武器商はたいへん驚き「過剰な代金分は、四四口径弾でどうか」と提案した。ウルリカはそれを良とした。
俺は弾薬の出所が気になっていた。誰かがこの世界に持ち込んだものなのか、それともどこかで作っているのか。
ある武器商が〝神を恐れぬ人々〟から奪ったらしい。その〝神を恐れぬ人々〟がこの七・六二ミリ弾を製造しているらしい。「遙か西方で同業者が手に入れた」とも。
歪な世界の歪な部分が、徐々に姿を現してくる。
前回とは異なり、避難民を助けてあげようという上から目線ではない。
埃をぬぐった程度のテーブルを挟んで、食堂で、俺と斉木、そしてデュランダルが、二人と対峙した。
能美がとっておきのコーヒーを入れてくれた。これも、虚仮威しのアイテムの一つだ。
屋外では、ベルタの指揮の下、六人が完全装備で警戒にあたる。その装備は、ヴェンツェル軍を凌いでいる。
これも虚仮威しだ。
時候の挨拶から始まり、周辺情勢の話題を経て、ヴァリオは核心に迫る話を始めた。
「皆様は、ここにいつまで逗留されるおつもりですか?」
態度、口調に横柄の影さえない。
主に斉木が応じる。
「私たちは、安全な土地を求めています。安全で平和があれば、できれば永住したいと考えています。
この地がそうであるのか、それとも否かは、現段階では判断いたしかねます」
「もし、この地にお住まいになっていただけるのならば、便宜を図らせていただきます」
「例えば……」
「格安で農地をお貸しします。それと、新開地の税は半分に……」
「割合は?」
「農地の貸借料は、収穫の一〇パーセント、税は二〇パーセント」
「年貢方式ですか?」
「黄金でも結構ですが……」
「作物に指定はありますか?」
「一般的にはムギかと……」
「お借りできる土地の広さは?」
「北の断崖からルミリー湖北岸まで」
「かなり広いですね。面積で六から八平方キロはありそうですが……」
「一平方キロのムギの収穫量は決まっていますから、それを八倍して、その一〇パーセントが地代でいかがでしょう」
「耕作に適さない湿地もありますが?」
「……」
イルマリは砂糖とミルクを入れて、コーヒーを飲み干していた。
斉木がたたみかける。
「私たちは四〇人しかいません。耕作地はほんの少しでいいのです。
一平方キロもあれば十分です」
「……」
「どうでしょう。
この一帯が行政府の所有地ならば、一平方キロほど売っていただけませんか?」
「それは……!」
「ダメですか?
ならば、地代と税の合計で大麦の収穫換算の二〇パーセントではどうです?
地代と税は通貨で支払いましょう」
「金で?」
「はい、黄金で。
初年は前金でもかまいませんよ。
ただし、前金ならば一五パーセントで」
ヴァリオは「持ち帰って検討します」とのみ言い残し、この日は去った。
斉木は最初、慇懃な口調であったが、最後のほうは斉木が押していた。
それが、吉と出るか凶と出るか。
春の陽射しは柔らかく、子供たちはここを気に入っている。だが、同時にいつ何時、ここを離れなければならなくなるかもしれないことも知っている。
斉木は放棄された耕地を調べている。
由加とベルタは武器と弾薬の整理と手入れに忙しい。
金沢は車輌の整備点検。
金吾とディーノは無線の調整だ。
俺と相馬は、周辺を調べていた。〝カルロス〟から鹵獲したアルゴの八輪ATVは小型で、同時に水陸両用だ。まさに全地形対応車だ。
このATVを使って、各地を調査しているのだが、俺たちは見張られている。八平方キロという面積は、東京都中央区よりやや狭い。
見晴らしのいい低地ではあるが、簡単に地の利を得られるわけではない。入念な調査が必要だ。
この調査には、しばしば斉木も同行し、斉木の見立てでは、総面積の三分の一程度が耕作の適地、三分の一が耕作不適地、残り三分の一が未開墾地だ。不適地は湿地か石が多い。
ヴァリオとイルマリは、三日後にやって来た。
「税と地代の合計は、小麦の収穫換算の二〇パーセント」とヴァリオがいった。また、「耕作は、断崖の一キロ以南ならばどこでもご勝手に」と。
斉木は承諾し、俺たちはこの地に住めることになった。
だが、ここからヴェンツェル側の攻勢となった。
「ただし、居住地と耕作地の防衛は、貴殿たちの責任で……」とイルマリ。
これは、斉木の専門外だ。俺は、由加を呼んだ。由加は完全装備で現れた。
イルマリは鉄帽を脱ぐ由加を見て、「女の兵士……」と少し驚く。
俺は由加に、「イルマリ殿は、我々が居住地と耕作地の防衛の全責任を取るよう要求されている」と告げる。
由加は一言、「承知した」と。
イルマリが少し動揺する。その一瞬の隙を突くように、由加は「ただし、防衛計画は我々が策定する」と突き放す。
イルマリは、「そのこと、こちらも承知した」と返した。
この日から、山荘の修繕と掃除、耕作地の選定が始まる。
斉木は湖北岸西側の耕作放棄地の草刈りを始めた。
由加とベルタは、エスコー川西岸から巨岩を運び出し、それをルミリー湖とエスコー川の湿地に隙間を空けて、二〇メートルの幅で置き始めた。
この作業は、老若非力怪力関係なくすべての男が手伝った。
対戦車障害帯を建設するためだ。巨岩帯の北には対戦車壕を掘る。深さ五メートル、幅二メートルの空濠だ。
これで、戦車は簡単に侵入できない。
五月になると少し余裕ができ、学校が再開する。
そして、ヴェンツェルの街から物売りが訪れるようになる。
この頃、アンティは昨年収穫したサツマイモを原料に蒸留酒を造り始めていた。
製法は斉木が、道具はアンティが用意し、焼酎なのかウイスキーなのかよくわからない味の液体だ。だが、不味くはない。
アンティは、この薄い琥珀色の液体を透明のワイン瓶に詰めて、訪れる物売りに売りつけた。しばらくすると、物売りの目当ては、完全にアンティの酒になった。
アルコール度数の低いワインは各地で醸造されているが、アンティの酒は単式蒸留器を使った酒でアルコール度数が高く、簡単に酔える。
斉木が作るサツマイモは、そもそもがバイオ燃料用で、かなり小ぶりなのだが、安酒を造るにはよい原料だ。
同じ頃、物置を改装して、能美、納田、ライマが診療所を開設。
訪れる患者は当初、キャンディが目当てのキャンプの子供たちだけだったが、物売りの家族など、ポツリポツリとやって来るようになる。
俺たちは断崖以南には誰も住んでいないと聞いていた。しかし、事実は異なり、断崖以北に入れない少数の人々が、極限の生活を送っている。
ルミリー湖以南にも住人がいた。彼らを守る軍はおらず、常に北の伯爵による略奪に怯えていた。
五〇から一〇〇人の集落が四つあり、人力と役畜による農耕を営んでいる。この世界で代を重ねた人々で、自分たちのルーツを知ってはいたが、その記憶は伝説以上のものではない。
本来は飢えるほどの貧しさではないのだろうが、北の伯爵による略奪は彼らを飢餓の直前まで追い込んでいた。春蒔き小麦の収穫が終われば、北の伯爵がやって来る。
それゆえ、農民の生産意欲が低く、それも収穫量の不足に拍車をかけていた。
農民に対する斉木の努力は献身的で、その姿を見ている由加やベルタは収穫増を阻害する最大の要因である北の伯爵に対する防衛策を練り始めていた。それに片倉が協力する。
ルミリー湖以南に、エスコー川とマルヌ川が幅〇・五キロまで接近する地峡がある。ここは小高い丘陵地になっていて、ここより南は、耕作地はあるが集落はない。
この幅〇・五キロの地峡に対戦車障害とその南側に対戦車壕を設置した。対戦車障害には、馬車が通る迷路のような通路があり、農民の往来は可能。対戦車壕には重量四トンまでの車輌が通れる橋を架ける。
つまり、馬車は通れるが、戦車は通過できない。同じ構造の橋をルミリー湖からマルヌ川に注ぐ川にも造る。
北の伯爵が攻め込んできたら、ルミリー湖以南の住民はこの橋を渡って北へ避難する手はずだが、実際に機能するかは湖南の住民次第だ。
相馬は九発しかないM119七五ミリ榴弾砲の砲弾製造に取りかかっている。
北の伯爵の部隊は、春蒔き小麦の収穫期である七月末か八月上旬にはやって来る。
それまでに榴弾一〇〇発の製造を目論んでいた。これができれば近い将来、L23A1戦車砲の砲弾補給も可能になる。
イアンは相馬に協力して、少量ながらシングルベース無煙火薬の製造に成功していたし、実験的にバイオディーゼルの製造も手がけていた。
ルミリー湖以北の人々は、家庭菜園程度の耕作しか行っていない。彼らの多くは都市からの避難民で、農耕に対する知識が乏しい。
だが、相馬、イアン、金沢、ウィルなどが、小規模ながら工場を造ると、彼らから「働きたい」とやって来た。
一〇代後半の若者たちは、もっと手っ取り早い商売を思いついた。
OT‐64装甲兵員輸送車による、ルミリー湖ツアーだ。
どんな世界にも金持ちはいる。その金持ちには、たいてい親のスネかじりが付属している。
全長七・五メートルに達する巨大な八輪車は水陸両用なので、街まで出向き兵員室に二〇人ほどを乗せて、断崖以南をサファリツアーぽく走り回り、最後はルミリー湖に水しぶきを上げて飛び込む。そして、ルミリー湖を周回して、湖畔に戻り、酒とバーベキューで腹を満たさせて、街まで送る。
週に一度の休日で、結構な稼ぎを出していた。
夏が近付くとOT‐64だけでは足りず、ハームリンまで動員するようになる。さらに、アルゴの八輪ATVまで使って、観光業は盛況していく。
斉木は、春から夏にかけてヒマワリを、秋から翌年春にかけてアブラナ(菜の花)を栽培して、採油する計画を立てていた。
食用油と燃料油に利用するためだ。
ヴェンツェルの行政府は、当然のごとく小麦を生産すると考えていたが、斉木は採油に適した作物の生産に主眼を置いている。
彼いわく、「小麦はなくなったら買えばいい」
秋には小規模ながら、バイオディーゼルの燃料製造プラントが稼働する。
ヴェンツェルの行政府は、貪欲な我々に対して、初夏の頃には強い警戒心を抱くようになっていた。
そうなることは察してはいたし、場合によっては衝突もあり得ると考えていた。
そして、衝突を回避するために、俺は北の伯爵の力を借りられないか思案していた。
北の伯爵軍が攻めてきたら、完膚なきまで叩き潰す。その様をヴェンツェルの支配者たちに見せつける。
そして、北の伯爵の部隊がやって来た。
ルミリー湖以南の四集落が共同で運営する監視塔から狼煙が上がり、ラッパが鳴る。この監視塔は、我々がやって来る以前からあった。
対戦車壕と対戦車障害に阻まれて進軍がもたつく間に、湖南の住民が着の身着のままで湖北に避難する。
集落の男たちは、ルミリー湖南岸の森に集結する。
我々は、スコーピオン軽戦車、チャーフィー軽戦車、サラディン装甲車を基幹とし、ハンバー・ピッグ重装甲車、ハームリン装甲車を兵員輸送車に見立てて進撃を開始。
我々の進撃を見て、森に集結していた集落の男たちもウマや馬車で南進を始める。
彼らの半分は銃を持っているが、半分は農具を武器にしている。戦力としては脆弱だが、士気は高い。
我々が対戦車障害に達すると、徒歩の歩兵だけが北進していた。
兵力は約五〇。個人携帯火器のみで、砲や戦車の支援はない。銃は八ミリ口径の元込単発だ。これは、事前に知っていた。
戦いは一方的だった。戦車の主砲弾、機関銃弾、自動小銃弾の雨が二五〇人の敵兵に降り注ぎ、それは殺戮に近かった。
特に、家族を殺され、子供を連れ去られ、妻や娘を陵辱されてきた、集落の男たちの怒りは凄まじかった。
対戦車壕の橋は、戦車の重量に耐えられず、一台の戦車とともに落ちており、歩兵の退路はない。
敵戦車は四輌だ。
敵歩兵は対戦車障害帯のなかを、東西に走り回るだけで、出口のない迷路で殺される運命にあった。
敵戦車三台が支援射撃を続けたが、この三台はRPG‐7で始末した。
対戦車壕以南に留まっていた敵部隊と、壕を挟んで激しい銃撃戦が行われたが、それも太陽が頭上に来る前に終わった。
対戦車障害を越えた敵兵は無残だった。退路はなく、一時は逃れても、狩りの獲物のように追われて、銃で撃たれて死ねる敵兵は幸運だった。
指揮官らしき将校が捕虜になった。捕虜は一〇人ほどで、彼らの運命は彼らの行いと等価であった。
指揮官はベルタが尋問し、必要な情報を聞き出した後、集落の男たちに引き渡した。
指揮官の尋問は簡単で、彼らは捕虜になる訓練は受けておらず、何でも話した。
だが、命乞いはしなかった。
捕虜のうち数人が助命された。彼らは無理矢理集められた農民や猟師だという。
他は処刑されたが、指揮官は鞭打ちの後、裸にされて対戦車壕付近に鎖でつながれ、衰弱死させられた。
凄惨な刑罰だ。
これで、北の伯爵との交渉の余地は完全に消えた。
まぁ、想定の範囲内だ。
集落の男たちは「勝った、勝った」と戦勝気分だったが、我々は違う。
戦いは終わったのではなく、始まったばかりなのだ。
北の伯爵が次に送り込む部隊は、間違いなく大軍だ。
この戦いでもっとも衝撃を受けたのは、ヴェンツェルの行政府と軍だ。彼らは我々に対して、迂闊な行動はとれないと悟ってくれたようだ。
鹵獲した戦車は、金沢によって徹底的に調査された。
この戦車に機関銃はなく、砲身長二〇口径の三七ミリ砲以外に兵装はない。装甲は最大五〇ミリ。エンジンは水冷六気筒ガソリンで、一二〇馬力。サスペンションはリーフスプリング。
この戦車をどうするか迷ったが、ヴェンツェルの軍から購入の打診があったので、適正金額かは不明だが、我々の納税額に相当する金額で売った。
代金の半額を湖南の人々に渡す。彼らは共同で、農業用中型トラクターを買うそうだ。
その女性は、小さな赤十字の旗を翻す木造小屋のドアを開け、唐突に言い放った。
「プレドニンかリンデロンは?」
代を重ねた人々と同じ服を着ていて、決して裕福ではない農民の風体だ。年齢は四五くらい、化粧はしていない。
しかし、声音は凜としていた。
小屋内部の広さは、幅五メートル、奥行き八メートルの一間だ。窓は四方にあり、木製のサッシにガラスがはめ込まれている。ガラスは安物で、平滑な板ガラスではなく歪みがある。それが、よい趣を醸し出している。
テーブルと椅子、木箱を利用した診察用ベッドがある。
女性と対面したライマは、ひどく動揺した。
能美は、女性の発した単語を解するのに少しの時間を要した。
しかし、正しい対応かは別として、納田は即応した。
「強い抗生剤をどうするの!」
「やはり、ね。元の世界の人たち!」
三人は沈黙した。
「ミランダよ」と女性がライマに手を差し出す。
「ライマです」
残る二人とも握手を交わす。
ミランダは状況を説明した。
「抗生剤が重要なことは承知しています。ですが、子供が怪我をして炎症がひどくて……」
能美が「ミランダさんはお医者さん?」と問うと、「いいえ、薬学のドクターで、創薬に携わっていました。薬には詳しいですが、治療は実地訓練で何とか……」と答える。
能美が「私は医師です。往診します」と伝えると、ミランダは「他の患者さんは?」と尋ねる。
納田が微笑んで「患者さんは、今日は貴女が最初です。そして、最後だと思います」
ミランダが現れたとき、山荘には護衛ができるメンバーが誰もいなかった。
農場から偶然戻っていたトゥーレと子守担当兼護衛だったアマリネが能美とライマに同行することになる。
使用する車輌は、ムンゴ装甲ワゴン。
能美は、ミランダ、オクタビア、エドガルドの三人を連れ帰った。
三人ともスペイン語圏の出身で、三人に血縁関係はない。一五年前、二〇〇万年後に四〇人でやって来て、この三人が生き残った。オクタビアは二八歳女性、エドガルドは怪我をしており重体だ。彼は一二歳で、この世界で生まれた。
森のなかの小屋で、息を潜めるように暮らしていたという。
ミランダによれば、この地方に至るまでに三〇人が死に、七人がこの地で亡くなったという。七人のうち病に倒れたのは一人だけで、六人は略奪襲撃で命を落としていた。
オクタビアは、我々を完全に敵視していた。
いいこともある。
アグスティナとミランダは、スペイン語で会話できた。意思の疎通が可能になったアグスティナとフローリカは、急速に落ち着いていく。
ルミリー湖観光ツアーのリーダーは、ネミッサだ。珠月、ルサリィ、アマリネ、アビーが主要メンバーで、手が足りなくなると、イサイアスやアンティ、トゥーレ、ユリアナが動員される。
湿地に住んでいた人々が、しばしばヴェンツェル市街の裕福な若者とその取り巻きたちから暴力を伴う迫害を受けてきたことは知っていた。
どら息子どもにとっては楽しみの一つだったのだろうが、被害を受けるほうは死の苦しみに等しい。性的被害を受けた女性も少なくないらしい。
我々がこの地に移り住み、湿地の人々が職を求めてルミリー湖周辺に集まり始め、ネミッサたちが観光業を大々的に展開すると、湿地の人々をいたぶる〝楽しみ〟ができなくなった。
そして、事件が起きた。
ネミッサは聡明な女性で、かつ商才に長けている。そのうえ、銃の腕も立つ。
彼女は、観光業を手伝ってくれる湿地からやって来た人々に労賃を銀で日払いしていた。観光業は週に一日だけで、観光業がなければ湿地の人々は我々の農園や工場で働いている。
彼らとは別に、ルミリー湖で漁労を営む人もいる。
日払いの賃金は、貧しい若者にはとても嬉しいものであった。
ルミリー湖畔で、いつもと同じ休日が始まり、いつもと同じように終わろうとしていた。
だが、若者の一団が少女を連れ去ろうとした。少女の悲鳴が湖面に反響する。
少女たちがこの一団に怯えていることを、ネミッサは気付いていて、用心棒としてイサイアス、金吾、金沢の三人を呼んでいた。
腕力ならイサイアス、剣なら金沢、因縁をつけてきたら金吾という布陣らしい。相手が銃を抜けば、ネミッサの思う壺だ。
イサイアスが止めに入る。
身なりのいい、顔立ちの整った若者が、イサイアスの前に立つ。
冷酷な笑みをイサイアスに投げ、そして無言で殴りかかる。喧嘩慣れした動きだが、イサイアスと比べると数段レベルが低い。彼のように、命のやりとりで生きてきた人間とは異なり、チンピラの喧嘩自慢に過ぎない。
イサイアスは殴りかかられてから、一撃も受けず、数秒後には相手を背中から地面に叩きつけ、馬乗りになって、一方的に殴っていた。
二〇秒ほどの出来事だった。
前歯がすべて折れ、顎が砕かれ、右目があるべき場所にない男が横たわっている。
男の友人たちと取り巻きは、身動きできない。なぜなら、ネミッサやルサリィが銃を突きつけているからだ。
ネミッサが取り巻きにいった。
「こいつを連れて帰れ」
「どうやって?」
「知るか!」
一〇人ほどの一団は、伸びた男を抱えて北に向かって歩いて行った。
我々はマルヌ川に浮橋を架けた。これで、ヴェンツェル市街を抜けずに、他地域の集落と交流できる。
ヴェンツェル行政府から咎めがあると予想していたが、何もない。
イサイアスに喧嘩を売った若者は、ヴェンツェルの裏の社会ともつながる有力者の子弟で、素行が悪いことでは有名だったらしい。悪行を重ねても、父親がもみ消して、処罰を免れてきたとか。
父親が我々に対して立腹し、我々を征伐すると喚いたらしいが、北の伯爵軍を退けた我々を恐れて手出しできなかった。
我々は表面上、ヴェンツェルの行政府、軍、反社会組織からの一切の干渉を排除することに成功した。
だが、いずれの勢力も我々が油断を見せれば、即座に介入してくる。
マルヌ川に架かる橋を渡って、ディジョンから商人がやって来た。
武器商だという。
俺とベルタが応対した。
武器商は銃弾のサンプルを見せて「これは、ご領主様がお使いの武器の弾薬では、と思い持参いたしました」と、真鍮製薬莢の七・六二×三九ミリ弾を一発見せた。
「これを、どのくらいお持ちですか?」と俺が問う。
「中型の荷車一台分ございます」
ざっと、二・五トンか!
「これ以外の商品は?」と俺が問うと、武器商は精密な絵を一枚見せた。
ベルタが「ロシアの装輪装甲車に似ている」と呟くと、武器商は「やはり、価値がおわかりなのですね」と満足そうに笑った。
ベルタが「弾薬については試し撃ちをしないと、何とも判断できない」というと、武器商の従者は紙箱入り五〇発二箱をテーブルに置いた。紙箱は、武器商が用意したものらしい。
ベルタは弾を持ち湖畔に向かう。湖畔には射撃訓練場があった。
銃声が轟く。
ベルタが戻ってきた。そして、頷く。
俺が「値段は?」と武器商に尋ねると、彼は「金貨一〇〇〇枚」といった。
俺は「即答はできない」といい、武器商も了承した。
俺は「その車輌は?」と尋ねた。武器商は「動くか動かぬかもわかりません。こちらは、金貨一〇〇枚で」と答える。
久々に全体会議が開かれた。
議題はもちろん、弾薬と装輪装甲車だ。
相馬が「薬莢込みの重量を一六グラムから一八グラムとすれば、二・五トンなら一五万発はある。これから手に入るかどうかわからないのだから、買えるならそうしたほうがいい」と発言、それを受けてベルタが「一発二ドル五〇セントは高い。一発一〇セント。高くても二〇セントだ」と価格交渉を要求した。
だが、金沢が「でも、BTRが金貨一〇〇枚は破格ですよ」と応じる。
この地方の標準金貨は金の含有率九〇パーセントで一〇グラム、純金で九グラムだ。金貨一〇〇〇枚ならば、金九キロに相当する。
我々の会計はウルリカが担当していて、金は二〇キロほど持っていた。これは、北方低層平原で回収したものだ。
ネミッサが「私なら半値まで値切れる」と朗らかにいうと、ルサリィが「金貨三〇〇枚で交渉を始めたら」と提案。
武器商との直接交渉は、ウルリカ、ネミッサ、ルサリィが行うこととなった。
武器商は汗をかいていた。気温の高さもあるが、ネミッサの交渉は苛烈で、そして道理にかなっている。
ネミッサは、弾薬と装甲車の合計額を金貨三〇〇枚と主張し、そこから一歩も譲らなかった。
そんな強引な交渉をルサリィが咎めるが、それも交渉の駆け引きのうちらしい。
結局、武器商は自分から「金貨七五〇で」といい、すかさずネミッサが「金貨五〇〇」と返答する。
武器商は「お引き取りにお出向きいただけるなら金貨五〇〇」といい、ネミッサは「届けてくれるなら金貨五〇〇に運び賃五〇を足す」と主張。
武器商は金貨五五〇で手を打った。
ウルリカが「純金の延べ棒五キロで支払う」と告げると、武器商はたいへん驚き「過剰な代金分は、四四口径弾でどうか」と提案した。ウルリカはそれを良とした。
俺は弾薬の出所が気になっていた。誰かがこの世界に持ち込んだものなのか、それともどこかで作っているのか。
ある武器商が〝神を恐れぬ人々〟から奪ったらしい。その〝神を恐れぬ人々〟がこの七・六二ミリ弾を製造しているらしい。「遙か西方で同業者が手に入れた」とも。
歪な世界の歪な部分が、徐々に姿を現してくる。
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