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第6章
06-158 巨星落つ
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半田千早はノイリンに戻り、3年間の高等教育を受けていた。キュッラは3年間の中等教育。
2人は卒業まで、丸1年を残していた。卒業後、千早は湖水地域に戻る意思を固めていたが、キュッラの気持ちは揺れていた。
千早の末弟である城島翔太は、実母である城島由加の元に。長男健太は養父と一緒だ。彼女は、半田隼人、城島健太、キュッラと一緒に生活している。
半田隼人は、ノイリン中央行政府との打ち合わせが深夜に及び、行政府庁舎を出たのは日付が変わってからだった。
西ユーラシアからセロ(手長族)を駆逐できず、北アフリカではオーク(白魔族)との戦いが膠着していた。
西アフリカではセロの戦力が強化され続けており、クマンへの侵攻は時間の問題となっている。
もし、アルプス北麓と南麓に集結しているギガス(黒魔族)が攻勢に出たならば、ヒト、精霊族、鬼神族は危機的状況に陥ってしまう。
半田は、トーカ(半龍族)の仲介によって、どうにかギガスとの講和を実現しかけている。
ギガスとの講和をヒトの全社会が受け入れ、精霊族と鬼神族にも納得してもらう必要がある。
数百年の確執を乗り越えられるか、その境目にあった。
半田は行政府庁舎の駐車場で、彼が乗ってきたパジェロ(自衛隊の1/2トントラック)を探していた。どこに止めたのか、忘れてしまったのだ。
少し戸惑ったが、オープントップのパジェロを見つける。が、車体が少し傾いている。
身をかがめてタイヤを見る。運転席側、右前輪がパンクしている。
「ありゃぁ」と久々に日本語が出る。
一瞬、ランフラットに頼るか、スペアタイヤに交換するか考える。
「交換はないな」と呟く。
次の瞬間、右脇腹に異物感を感じる。痛みはなかった。異物は右脇腹の背後から差し込まれ、身体を貫通する。
それが、ゆっくりと引き抜かれた。
半田は、パンクしたタイヤに背を預け、足を投げ出して座り込む。
半田千早は、自宅で養父の帰りを待っていた。キュッラも起きているし、城島健太は起き出してきた。
「父さん、まだ帰ってないの?」
健太の問いに千早は、口ごもる。
「うん」
「姉ちゃん、探しに行こうか?」
「半田隼人は、大人だよ」
「そうだね、姉ちゃん。父さんに危害を加えるヤツなんていないよな。ヤバすぎるよ」
その通りだ。
彼女たちの父親は、ノイリンにおける最重要人物だ。行政府代表や議会議長よりも、無役だが“要人”だと言われている。
そんな人物を襲う輩〈やから〉がいるはずはない。
千早は父親の亡骸を行政府の駐車場で見ていた。酔って寝ているようだった。
「チハヤ、今朝、出勤してた職員が見つけたんだ。背後から両刃の剣で刺された。腎臓を貫かれての失血で生命を落とした。
いま、犯人を調べている」
議長が走ってきた。
「チハヤ、お悔やみを。
このこと、しばらくは他言無用に」
議長が言う通りだ。半田隼人の死は、秘匿しなければならない。この微妙な情勢下では、何が起こるかわからない。フルギアの離反、フルギア系の攻勢だってあり得る。ヴルマンやクマンだってどう動くかわからない。
湖水地帯や救世主も、どうなるか。
バルカネルビの古びた元商館に軟禁されているブリッドモア辺境伯は、日付が変わった少し後、流れ星を見た。その星は、明確に尾を引いて流れていった。
「巨星が落ちたか。
どの星か?」
傍らに若い女性が立つ。
「義父上〈ちちうえ〉夜露は、お身体によくありません」
「アルベルティーナよ。
ひときわ大きい星が落ちた。
どの星か?
もしや、あの男ではあるまいな」
「あの男とは?」
「ハンダだ。
ハンダが死ねば、我らの生命もどうなるか」
半田は、救世主を制圧するためにブリッドモア辺境伯次男カリーとヴィルヘルム選帝侯次女アルベルティーナを娶せた。
カリーはアルベルティーナと数度会ったことがあるだけ。
彼はチャド湖南岸の自領に戻り、アルベルティーナはバルカネルビに拘束されている。
この婚儀は完全な政略だ。だが、実態もある。アルベルティーナは、同じ館にいるブリッドモア辺境伯の愛人となっていた。
カリーは、当主を失ったヴィルヘルム選帝侯領に攻め入り、この地を奪った上でアルベルティーナに捧げる。アルベルティーナは、カリーに統治を委任する。
これにより、カリーはブリッドモア辺境伯領とヴィルヘルム選帝侯領の実質的な領主となった。
救世主の勢力バランスが崩れた。
さらに、カリーには“野生のヒト”の支援がある。
救世主の世界は、1強3弱体勢となる。
この調略を成し遂げた半田隼人が死ねば、再度の動乱となる。
ブリッドモア辺境伯とアルベルティーナは、自身の生命を案じていた。
半田千早は、養母に養父の死を知らせるべきと考えた。だが、傍受されている無線は使えない。手紙は時間がかかるし、途中で読まれる危険もある。
彼女は意を決し、無線のマイクを握った。日本語ならば、その内容は誰にもわからない。 養母はいつも通りだった。
「どうしたのちーちゃん」
「ママ、ニホンゴデハナスネ」
「え?
いいけど、どうして?」
「オトウサン、シンジャッタ」
「え!
何言ってんの?
この間無線で話したけど、元気だったよ」
「チュウシャジョウデ、ササレタノ」
城島由加は絶句する。半田隼人の死が知られれば、ヒトの社会は蠢動し始める。彼女の夫の死は、個人的な悲しみを越えたところにある。
「飛行機で、ノイリンに向かう。
私が着くまで、誰にも言っちゃダメ」
ガラパゴス諸島に投錨しているベルーガは、短波無線の傍受に専念している。
モールス符号の通信はほとんどなく、音声通信が多い。だが、言葉がわからない。文法は英語のようだが、単語が異なる。
だが、ある時点から急に日本語の通信が増え出す。
言葉がわかることと、通信の内容が理解できることとは意味が違う。
何人もがヘッドフォンを着けて、微弱な無線を聞いている。
香野木恵一郎がポツリと。
「誰かが死んだようだな」
花山真弓は、重要人物らしい姓を言葉にする。
「半田、というヒトみたい。
ちーちゃん、は娘さんかな?
由加さん、は奥さん?」
問題は、無線の発信源だ。
井澤貞之は信じられない様子だ。
「フランスのあたり、ガンビアの海岸付近、マリの南側……。
そんなに、あちこちヒトがいるの?
あり得ないと思うんだけど……」
香野木も同じことを考えていた。
「ヒトが移住して最大でも12年か13年で、ユーラシアからアフリカまで生活圏を広げられるのか?
移住者は想定2万人しかいないんだ。全員が生き残ったとしても、あり得ない」
奥宮要介陸士長が可能性を提示する。
「あり得なくても、現実に電波が出ているわけで……。
探検隊を送っているとか、小さなコロニーに分散しているとか……」
長宗元親が「行ってみるしかない」と。
里崎杏船長が「それしかないね」と同意すると、船橋にいた全員が頷いた。
その日の夕方、船橋に全員が集まってのミーティングが開かれる。
香野木が切り出す。
「みんな、知っていると思うけど、この世界に日本語を話すヒトがいる。
そのうちの1人が死んだらしい。
半田という人物だ。
そのことについて、無線通信が頻繁に行われている。
日本語を使う理由だけど、傍受を防ぐためだと思う。第二次世界大戦のとき、アメリカの海兵隊は日本軍に通信を傍受されても意味を解せないように、ネイティブアメリカンのナバホ族の言葉を使った。彼らは、コードトーカーと呼ばれた。
同じことをしているのだと思う。
日本人にだけ意味がわかるように、この世界の言葉ではなく日本語を使っているんだ」
井澤貞之が説明を補強する。
「奇妙なことがたくさんある……。
共通言語があるようだけど、それは200万年前の言葉ではないのかもしれない。
あるいは、どこかの国の言葉だけど、強い方言とか……。
文法は英語に近いけど、単語の多くが英語とは異なる。だけど、英語そのものもある。
Musicとか、Fashionとか。
共通言語があるとしても、たかだか10年程度でそんなことが起こり得るとは思えない。
いろいろと不思議なことが多いのだけれど、西アフリカに日本語を話すヒトが確実にいる。
そのヒトは、金沢さん、らしい。アフリカの中央、サハラ砂漠の南端には須崎さんと水口さんがいる。
通信には、斉木さんや相馬さんの名もある。
複数の日本人がいることは、間違いないようだ。
西アフリカに行ってみようと思うが、意見はあるか?」
沈黙が続く。
里崎船長は、これを同意と受け取った。
「西アフリカに行くには、航路は3つ。南下して南アメリカ南端のホーン岬を回る。
西進してアフリカ南端の喜望峰を回る。
北上してベーリング海峡を抜け、北極圏からアフリカに向けて南下する。
どれがいいと思う?」
香野木がこの3案すべてに異を唱える。
「イースター島が一回り大きかった。ガラパゴス諸島もそう。
どちらも火山島だから隆起したのかもしれないけれど、通常は波によって浸食され、島は削られていく。
だけど、そうなっていない。
隆起だとすれば地殻変動が頻繁に起きているし、海退だとすればもっと厄介だ。
西進すればスンダランドやサフルランドに行き着いてしまう。
オーストラリアからフィリピンあたりまでが陸地になっている。
西に抜ける航路はあるだろうけど、海峡を見つけるだけで、何カ月もかかる。
北に向かっても同じ。
海退しているならば、ベーリング海峡はなく、ベーリンジアという陸地になっている。
北極海には入れない。
いったん南下し、オーストラリアの南側を抜けて、アフリカを目指すと、長い航海になる。
現実的には、ホーン岬回りが確実だ。
これが最善策だと思う。
だけど、その前に試したいことがある。
地殻変動が頻繁に起きている、あるいは起きていたならば、パナマ地峡がないかもしれない。南北アメリカは、陸続きでない可能性がある。
南北アメリカが陸続きになったのは300万年前、いやこの世界から数えると500万年前だ。
ガラパゴス諸島からパナマまでは1600キロ。ホーン岬までは6800キロ。
もし、パナマに海峡があれば、西アフリカまで8600キロの航海だ。
行ってみる価値はあると思うのだけど……」
来栖早希が賛成する。
「燃料のことを考えると、香野木さんの考えに賭けてみてもいいと思うよ。
南極に近付けば、太陽光発電はちょっと無理なんじゃないかな。
赤道付近を航行して、一気に向かえれば、それだけ余裕ができる。
だめでも、少しだけ遠回りでしょ。
それと、赤道直下なのに涼しくない?」
気温が低い理由は南赤道海流が原因で、ガラパゴス諸島は赤道直下でありながら亜熱帯の気候だった。
賛成も、反対も、どちらもない。判断材料がないからだ。
里崎船長が結論する。
「それでは運を天に任せて、パナマに向かいましょう」
パナマとコスタリカの国境付近までの1300キロを3日で進む。ここからパナマ運河まで、600キロ。低速で航行する。
この付近は、大西洋側のカリブ・プレートの下に太平洋側のココス・プレートが沈み込み、プレート間の歪による海底火山の活動と地殻の隆起によって、南北両アメリカが陸続きになった。
隆起があれば陥没もあり得る。
香野木はこの可能性に賭けたのだが、500キロ南下して、大当たりだった。
パナマ地峡はなく、同じ場所に海峡があった。
だが、ベルーガは昼間なのに太陽光パネルを折りたたみ、ディーゼルエンジンを全力稼働させて、最大船速で南西に向かっている。
陸から離れていく。
ベルーガの乗員たちは、1時間前に低空を浮航する飛行船を発見する。
全長100メートル級の中型船で、陸側から飛んで来た。ベルーガを視認しているらしく、真っ直ぐに向かってくる。
花山や里崎船長は警戒したが、多くはヒトとの接触がかなったと喜んだ。
子供たちは車輌デッキの後端で、飛行船を見て大喜びだった。手を振る子もいた。
静かに警戒していたのは、金平彩華と葉村正哉だった。2人は射撃管制装置の電源を入れ、望遠カメラを解して肉眼で飛行船を追っていた。
彩華が正哉に「浮体の下に付いているもの、何だろう?」と尋ね、正哉は「ゴンドラでしょ」と答えた。
彩華がズームアップし「これだよ」と指し示すと、正哉の顔が青ざめる。
「里崎さん!
飛行船は爆弾を搭載しています!」
何人もが射撃管制装置のカメラ映像を覗く。
花山が「旧式だけど、爆弾に間違いない」と判断し、里崎船長は自ら操船し、全力回避を始める。
飛行船の速度は時速90キロ前後で、ベルーガよりも時速20キロ速い。
視界と視程のいい洋上で発見したことから、飛行船とは40キロ近い距離があった。
ただ、この時点でのベルーガの速度は18ノットで速度差は60キロほどある。
ベルーガは東進しており、飛行船は南下していた。飛行船を発見した時点で、進路を変更しなかった。
結果、距離は30キロまで縮まっていた。爆弾を確認してから、南西に進路を変え、ディーゼルエンジンを稼働させている間に、さらに10キロ詰められていた。
里崎船長が「FCS作動」と命じると、花山が「対空戦闘用意」と指示する。
船の揺れは少なく、車輌甲板では子供たちが客室に駆け上がる。
畠野史子3等陸曹と奥宮要介陸士長は、自走75ミリ高射砲を後部車輌甲板に引き出した。車輌甲板の最後部は露天で、C-1輸送機の尾翼が影を落としている。
ベルーガは1時間、南西に航行しパナマ湾から離脱して、コロンビア沿岸に向かっていた。70キロ移動したが、距離は10キロまで詰められた。ベルーガは最大船速だが、飛行船とは時速20キロ劣速で、このままでは30分で追い付かれる。
20分経過したところで、飛行船は2キロまで迫っていた。飛行船は左に転舵し、陸側に圧迫してくる。
里崎船長は、強気だった。強気なだけでなく、海上での警察行動に長けていた。外洋に向かって、右に転舵する。
この運動の間に500メートルまで、距離を縮められてしまった。
畠野と奥宮は、飛行船から6発の“飛翔体”が発射される様子を見た。
「左舷にミサイル!」
畠野は言葉を選ばずにそう叫んでいた。
スピーカーからの畠野の声に里崎は無意識に反応し、右に転舵する。
ジェットフォイルの優れた点は、進路変更にあたって、速度が落ちないことだ。
海上保安官であった畠野は、それをよく知っていた。
右舷側で、6つの爆発が起こる。飛翔体が海面に着弾した。花山は、火薬の爆発とは違う、と判断する。同時に、無誘導のロケット弾だと確信した。
「里崎さん、アンノーンの武器は誘導兵器じゃない」
里崎船長が振り向き頷く。
奥宮陸士長は、火器管制レーダーを切り、光学照準で飛行船を狙う。
ベルーガは船としては俊足だが、飛行船との“海戦”は大航海時代のそれと大差ない。帆船の最大8ノットから、50ノットに増速したことと、海上と低空の追撃戦である点が違うだけ。
同じなのは、互いに接近しないと武器が使えないこと。
船橋左右に装備している目標追尾型遠隔操作の3銃身20ミリ機関砲の射程内に、飛行船は入っていたが、撃てなかった。
銃口の先にC-1輸送機がある。この大きな積み荷が邪魔で、射界を遮っていた。
奥宮陸士長は、連続して22発を発射できる自走75ミリ高射砲から3発を発射する。
浮体は狙いやすいが、命中しても貫通するだけ。構造への影響は軽微。微妙な照準で、ゴンドラなどの脆弱な構造物を狙う必要がある。
2発がゴンドラに、1発が懸吊架に命中する。ゴンドラは目視での変化はなかった。火災も発生しない。
だが、ゴンドラを狙って外れ、右懸吊架に命中した1弾は大爆発を起こす。爆弾3発が次々と誘爆する。
それでも飛行船は肉薄してくる。ベルーガの真上を通過し、その際に左懸吊架の爆弾3発を落とす。
左舷側50メートルで、巨大な水柱が3本できる。
飛行船がベルーガを追い越すと、彩華と正哉は、3銃身20ミリ機関砲を発射する。
推進器を破壊し、燃料が爆発。飛行船は燃えながら、太平洋上に墜落していく。
ベルーガは行き足を止めていた。
飛行船は燃えつき、すぐに沈んだが、洋上には浮遊物が浮いている。特に木製品が多い。ワイン樽ような木樽もある。焦げた布製品も浮いている。
奥宮陸士長が「死体だ!」と叫ぶ。
俯せで浮いているが、四肢があり、頭部もある。死体と断じてはいけない。
香野木はこの場を早く立ち去りたかったが、里崎船長は“救助”を主張する。
200万年後の世界において、香野木はこの事件をなかったことにしたいと考えていた。里崎船長は、人道的に振る舞うべき、と考えた。
そして、長宗が上陸用舟艇を出し、洋上に浮かぶ“ヒト”を救助した。
花山が「どういうことなの?」と、香野木を見る。
香野木に答えはない。自分に向けられた質問を、来栖早希に顔を向けて丸投げする。
来栖医官は不機嫌だ。緑色のジャケットや白いズボンの素材は、ウールのようだ。デザインは、19世紀初頭のヨーロッパの軍服に似ている。
その“軍服”を着ている“動物”は、ヒトによく似ている。顔の造作もヒトに近いし、体形もヒトに似ている。
だが、ヒトではない。
分子生物学者である来栖にも、正体がわからない。
彼女がしたことは、大きく裂けた胸の傷跡から、遺伝子サンプルを採取しただけ。
その動物の死体は、車輌甲板の最後部にクレーンで引き上げた。洋上に漂っているときは、ヒトに思えた。
しかし、車輌甲板最後部に引き下げたランプドアに横たわる、明らかに直立二足歩行するであろう動物は、ヒトではない。
胴が長く、足が短い。その特徴は、ヒトの個体差の範囲にある。腕が長い。明らかにヒトよりもかなり長い。指の先端が膝のあたりまである。個体差の範疇を超えた長さ。特異な個体なのか、この種の特徴なのか、1体だけの観察では判断できない。
香野木はメジャーで身長を測る。
推定165センチ。性別はオス。顔の外見は、顎におとがいがない。顎の形状は、チンパンジーに似ている。
鼻は高く、幅広く、鼻孔は下を向いている。この鼻の形状が、ヒトとの差を強調している。眼窩上隆起は、ホモ・サピエンスよりも発達している。
ナイフで口をこじ開け、歯の数を数える。歯の数は32。霊長類の標準だ。ヒトは減少傾向にあり、28から32。
ヒトに近縁か否は別にして、霊長類であることは間違いない。上顎・下顎とも犬歯が発達しており、体格との比較だがエイプ(類人猿)並みに長い。
香野木はラダ・ムーに尋ねる。
「この動物、見たことは?」
ラダ・ムーが青ざめている。
「ない」
香野木は200万年という時間の重さを感じていた。
この動物をどうすべきか考えたが、シーツにくるんで紐で縛り、海に投棄した。
水葬のようだが、そうではない。
投棄だ。
香野木が船橋に上がると、里崎船長と来栖医官が話し込んでいる。
背に香野木の視線を感じたのか、2人が振り返る。
来栖医官が涙目で尋ねる。
「あの動物、ヒト属じゃないよね」
香野木は来栖医官の鋭さに驚いた。
「それを調べて欲しいんですが。
来栖さんに。
ですが……。歯の形状はマカクに似ていました。
ヒト属どころか、ヒト科じゃないかもしれません。
霊長目には含まれると思いますけど……」
里崎船長の声が震えている。
「マカク、って何?」
香野木は落ち着いていた。
彼は、来栖医官の分析を待たなくても、正体を特定したと考えている。
「ニホンザルの仲間です。
マカク属か、ヒヒ属か、その類縁でしょう。
オナガザル科から進化した動物だと思います。
オナガザル上科とヒト上科の分岐は、2800万年から2400万年前頃とされていますから、それに200万年をプラスしてください、ヒトに近い動物じゃないですよ。
オークやギガスよりも、ヒトからは遠い動物です」
来栖医官が詰め寄る。
「服、着てたじゃない!」
香野木に焦りはなかった。
「寒冷に適応するため、服を発明したんじゃないですか?
ヒトもそうだったし……。
7万年前に服を発明したでしょ。
このとき、ケジラミからコロモジラミが分岐したわけで……。別にヒト以外が服を着ないという原理原則はないわけで……」
香野木が里崎船長を見る。
「里崎さん、どこかに隠れませんか?
しばらくの間。
入り江とか?
できますか?」
里崎船長が頷く。
「隠れましょ」
ベルーガはパナマから400キロ南南西に移動し、コロンビア沿岸の縦深の浅い入り江に停泊した。
陸は密林が海岸まで迫っていて、海岸からは200メートルほど離れているが、海上からは見えにくい。だが、上空からは隠れようがない。海岸には小さな砂浜がある。
停泊しているだけならば、太陽光パネルの発電と電池だけで、主機を稼働させなくても24時間電気が使える。
会議は夕食後に始まった。
大人たちは例の動物に怯え、子供たちは未知の動物と遭遇して大騒ぎしている。
来栖医官は自身が分子生物学者であり、現状では遺伝子解析ができないことを理由に、すべての説明を香野木に丸投げした。
香野木は、どう説明すべきか悩んでいた。
「まず……、救助した動物はヒトではなかった……」
全員が沈黙する。
「外見的形態はヒトに似ているけれど、特に頭部の観察からヒトではないと思う。
ヒヒ族に属しニホンザルなどのマカクに近いのではないかと……。
ヒト科ではなく、オナガザル科かその近縁種から進化した動物だと推測している。
この点は、来栖先生が遺伝子解析ではっきりさせてくれるはず。
いまは、推測の段階。
オークやギガスとの関係だけど……。
ないと思う」
花山が不思議な質問をする。
「200万年後の世界には、ニホンザルから進化したヒトがいるの?」
彼女は理解できないのだ。
「まず……、基本から。
ヒトは魚から進化したのか、と問われれば、その通りなんだ。
ヒトも、ヘビも、カエルも、魚から進化した。
有胎盤類であるヒトと有袋類であるカンガルーの祖先は同じなのか、と問われれば、その通り。古生代ペルム紀まで遡れば、完璧な共通の祖先がいるだろう。
余計なことだが、1億6000万年以上前に、有胎盤類と有袋類は分岐していたらしい。
で、あの動物がニホンザルから進化したのか、だが、違うと思う。
ヒヒやマカクから、あの動物が生まれるには、200万年は短すぎるんだ。あるいは、何らかの外的要因で急速に進化したのか?
200万年の間に爆発的な進化を促す、地質学的変化が起きたのか?
どちらにしても、大型のオナガザル科のある種から分岐し、急速に進化したのだろう。
進化には目的や目標はない。
高い木の枝の歯を食べようとして、首を伸ばしていたら、キリンが生まれた、なんてことはない。
すべての霊長類がヒトになろうと進化しているわけでもない。
ヒトは偶然、生まれただけ。
あの動物も偶然、生まれただけ。
それだけだ。
不思議ではない」
花山は食い下がった。
「オークやギガスは……」
来栖医官は平常心を取り戻していた。
「オークとギガスは、何度か説明しているけど、ヒト属じゃないの。
オークは初期のアウストラロピテクス属か後期のアルディピテクス属から。
ギガスはもっと古くて、サヘラントロプス属以前のヒト亜族から分岐した動物よ。ギガスのほうが、分岐が早い。ヒト亜族とチンパンジー亜族が分岐した直後かもしれない。
こうなると、ヒヒやマカクからヒトに似た動物が生まれても不思議じゃないわけ。
服を着ていたのは偶然よ。
偶然。
ワンコだってシャツを着てるでしょ」
確かにそうだ。
花山健昭の隣に座るワンコは、シャツを着ている!
来栖医官は、彼女の“普通”に戻っていた。
「他にもいるね。
きっと。
オナガザルから進化したヒトモドキがいるなら、テナガザルから進化したヒューマノイドもいるかも~!」
加賀屋一希が手を上げる。
「先生、オナガザルとテナガザルはどこが違うの」
来栖医官は科学者らしい説明はしない。
「尾が長いか、手が長いか、その違いよ。
大した差はないのよ~」
そんなことはない。
香野木が修正する。
「オナガザルは、哺乳綱霊長目直鼻亜目真猿型下目狭鼻小目オナガザル上科オナガザル科。
テナガザルは、哺乳綱霊長目直鼻亜目真猿型下目狭鼻小目ヒト上科テナガザル科だ。
平たく言えば、オナガザルはサルで、テナガザルは類人猿なんだ」
花山真弓は香野木恵一郎に腹が立っていた。
2人の説明は、どうでもいいことだ。手の長いヒトに似た動物が、飛行船を操り、爆弾を投下することが重要なのだ。
それを理解しない、香野木と来栖に対して無性に腹が立っていた。
2人は卒業まで、丸1年を残していた。卒業後、千早は湖水地域に戻る意思を固めていたが、キュッラの気持ちは揺れていた。
千早の末弟である城島翔太は、実母である城島由加の元に。長男健太は養父と一緒だ。彼女は、半田隼人、城島健太、キュッラと一緒に生活している。
半田隼人は、ノイリン中央行政府との打ち合わせが深夜に及び、行政府庁舎を出たのは日付が変わってからだった。
西ユーラシアからセロ(手長族)を駆逐できず、北アフリカではオーク(白魔族)との戦いが膠着していた。
西アフリカではセロの戦力が強化され続けており、クマンへの侵攻は時間の問題となっている。
もし、アルプス北麓と南麓に集結しているギガス(黒魔族)が攻勢に出たならば、ヒト、精霊族、鬼神族は危機的状況に陥ってしまう。
半田は、トーカ(半龍族)の仲介によって、どうにかギガスとの講和を実現しかけている。
ギガスとの講和をヒトの全社会が受け入れ、精霊族と鬼神族にも納得してもらう必要がある。
数百年の確執を乗り越えられるか、その境目にあった。
半田は行政府庁舎の駐車場で、彼が乗ってきたパジェロ(自衛隊の1/2トントラック)を探していた。どこに止めたのか、忘れてしまったのだ。
少し戸惑ったが、オープントップのパジェロを見つける。が、車体が少し傾いている。
身をかがめてタイヤを見る。運転席側、右前輪がパンクしている。
「ありゃぁ」と久々に日本語が出る。
一瞬、ランフラットに頼るか、スペアタイヤに交換するか考える。
「交換はないな」と呟く。
次の瞬間、右脇腹に異物感を感じる。痛みはなかった。異物は右脇腹の背後から差し込まれ、身体を貫通する。
それが、ゆっくりと引き抜かれた。
半田は、パンクしたタイヤに背を預け、足を投げ出して座り込む。
半田千早は、自宅で養父の帰りを待っていた。キュッラも起きているし、城島健太は起き出してきた。
「父さん、まだ帰ってないの?」
健太の問いに千早は、口ごもる。
「うん」
「姉ちゃん、探しに行こうか?」
「半田隼人は、大人だよ」
「そうだね、姉ちゃん。父さんに危害を加えるヤツなんていないよな。ヤバすぎるよ」
その通りだ。
彼女たちの父親は、ノイリンにおける最重要人物だ。行政府代表や議会議長よりも、無役だが“要人”だと言われている。
そんな人物を襲う輩〈やから〉がいるはずはない。
千早は父親の亡骸を行政府の駐車場で見ていた。酔って寝ているようだった。
「チハヤ、今朝、出勤してた職員が見つけたんだ。背後から両刃の剣で刺された。腎臓を貫かれての失血で生命を落とした。
いま、犯人を調べている」
議長が走ってきた。
「チハヤ、お悔やみを。
このこと、しばらくは他言無用に」
議長が言う通りだ。半田隼人の死は、秘匿しなければならない。この微妙な情勢下では、何が起こるかわからない。フルギアの離反、フルギア系の攻勢だってあり得る。ヴルマンやクマンだってどう動くかわからない。
湖水地帯や救世主も、どうなるか。
バルカネルビの古びた元商館に軟禁されているブリッドモア辺境伯は、日付が変わった少し後、流れ星を見た。その星は、明確に尾を引いて流れていった。
「巨星が落ちたか。
どの星か?」
傍らに若い女性が立つ。
「義父上〈ちちうえ〉夜露は、お身体によくありません」
「アルベルティーナよ。
ひときわ大きい星が落ちた。
どの星か?
もしや、あの男ではあるまいな」
「あの男とは?」
「ハンダだ。
ハンダが死ねば、我らの生命もどうなるか」
半田は、救世主を制圧するためにブリッドモア辺境伯次男カリーとヴィルヘルム選帝侯次女アルベルティーナを娶せた。
カリーはアルベルティーナと数度会ったことがあるだけ。
彼はチャド湖南岸の自領に戻り、アルベルティーナはバルカネルビに拘束されている。
この婚儀は完全な政略だ。だが、実態もある。アルベルティーナは、同じ館にいるブリッドモア辺境伯の愛人となっていた。
カリーは、当主を失ったヴィルヘルム選帝侯領に攻め入り、この地を奪った上でアルベルティーナに捧げる。アルベルティーナは、カリーに統治を委任する。
これにより、カリーはブリッドモア辺境伯領とヴィルヘルム選帝侯領の実質的な領主となった。
救世主の勢力バランスが崩れた。
さらに、カリーには“野生のヒト”の支援がある。
救世主の世界は、1強3弱体勢となる。
この調略を成し遂げた半田隼人が死ねば、再度の動乱となる。
ブリッドモア辺境伯とアルベルティーナは、自身の生命を案じていた。
半田千早は、養母に養父の死を知らせるべきと考えた。だが、傍受されている無線は使えない。手紙は時間がかかるし、途中で読まれる危険もある。
彼女は意を決し、無線のマイクを握った。日本語ならば、その内容は誰にもわからない。 養母はいつも通りだった。
「どうしたのちーちゃん」
「ママ、ニホンゴデハナスネ」
「え?
いいけど、どうして?」
「オトウサン、シンジャッタ」
「え!
何言ってんの?
この間無線で話したけど、元気だったよ」
「チュウシャジョウデ、ササレタノ」
城島由加は絶句する。半田隼人の死が知られれば、ヒトの社会は蠢動し始める。彼女の夫の死は、個人的な悲しみを越えたところにある。
「飛行機で、ノイリンに向かう。
私が着くまで、誰にも言っちゃダメ」
ガラパゴス諸島に投錨しているベルーガは、短波無線の傍受に専念している。
モールス符号の通信はほとんどなく、音声通信が多い。だが、言葉がわからない。文法は英語のようだが、単語が異なる。
だが、ある時点から急に日本語の通信が増え出す。
言葉がわかることと、通信の内容が理解できることとは意味が違う。
何人もがヘッドフォンを着けて、微弱な無線を聞いている。
香野木恵一郎がポツリと。
「誰かが死んだようだな」
花山真弓は、重要人物らしい姓を言葉にする。
「半田、というヒトみたい。
ちーちゃん、は娘さんかな?
由加さん、は奥さん?」
問題は、無線の発信源だ。
井澤貞之は信じられない様子だ。
「フランスのあたり、ガンビアの海岸付近、マリの南側……。
そんなに、あちこちヒトがいるの?
あり得ないと思うんだけど……」
香野木も同じことを考えていた。
「ヒトが移住して最大でも12年か13年で、ユーラシアからアフリカまで生活圏を広げられるのか?
移住者は想定2万人しかいないんだ。全員が生き残ったとしても、あり得ない」
奥宮要介陸士長が可能性を提示する。
「あり得なくても、現実に電波が出ているわけで……。
探検隊を送っているとか、小さなコロニーに分散しているとか……」
長宗元親が「行ってみるしかない」と。
里崎杏船長が「それしかないね」と同意すると、船橋にいた全員が頷いた。
その日の夕方、船橋に全員が集まってのミーティングが開かれる。
香野木が切り出す。
「みんな、知っていると思うけど、この世界に日本語を話すヒトがいる。
そのうちの1人が死んだらしい。
半田という人物だ。
そのことについて、無線通信が頻繁に行われている。
日本語を使う理由だけど、傍受を防ぐためだと思う。第二次世界大戦のとき、アメリカの海兵隊は日本軍に通信を傍受されても意味を解せないように、ネイティブアメリカンのナバホ族の言葉を使った。彼らは、コードトーカーと呼ばれた。
同じことをしているのだと思う。
日本人にだけ意味がわかるように、この世界の言葉ではなく日本語を使っているんだ」
井澤貞之が説明を補強する。
「奇妙なことがたくさんある……。
共通言語があるようだけど、それは200万年前の言葉ではないのかもしれない。
あるいは、どこかの国の言葉だけど、強い方言とか……。
文法は英語に近いけど、単語の多くが英語とは異なる。だけど、英語そのものもある。
Musicとか、Fashionとか。
共通言語があるとしても、たかだか10年程度でそんなことが起こり得るとは思えない。
いろいろと不思議なことが多いのだけれど、西アフリカに日本語を話すヒトが確実にいる。
そのヒトは、金沢さん、らしい。アフリカの中央、サハラ砂漠の南端には須崎さんと水口さんがいる。
通信には、斉木さんや相馬さんの名もある。
複数の日本人がいることは、間違いないようだ。
西アフリカに行ってみようと思うが、意見はあるか?」
沈黙が続く。
里崎船長は、これを同意と受け取った。
「西アフリカに行くには、航路は3つ。南下して南アメリカ南端のホーン岬を回る。
西進してアフリカ南端の喜望峰を回る。
北上してベーリング海峡を抜け、北極圏からアフリカに向けて南下する。
どれがいいと思う?」
香野木がこの3案すべてに異を唱える。
「イースター島が一回り大きかった。ガラパゴス諸島もそう。
どちらも火山島だから隆起したのかもしれないけれど、通常は波によって浸食され、島は削られていく。
だけど、そうなっていない。
隆起だとすれば地殻変動が頻繁に起きているし、海退だとすればもっと厄介だ。
西進すればスンダランドやサフルランドに行き着いてしまう。
オーストラリアからフィリピンあたりまでが陸地になっている。
西に抜ける航路はあるだろうけど、海峡を見つけるだけで、何カ月もかかる。
北に向かっても同じ。
海退しているならば、ベーリング海峡はなく、ベーリンジアという陸地になっている。
北極海には入れない。
いったん南下し、オーストラリアの南側を抜けて、アフリカを目指すと、長い航海になる。
現実的には、ホーン岬回りが確実だ。
これが最善策だと思う。
だけど、その前に試したいことがある。
地殻変動が頻繁に起きている、あるいは起きていたならば、パナマ地峡がないかもしれない。南北アメリカは、陸続きでない可能性がある。
南北アメリカが陸続きになったのは300万年前、いやこの世界から数えると500万年前だ。
ガラパゴス諸島からパナマまでは1600キロ。ホーン岬までは6800キロ。
もし、パナマに海峡があれば、西アフリカまで8600キロの航海だ。
行ってみる価値はあると思うのだけど……」
来栖早希が賛成する。
「燃料のことを考えると、香野木さんの考えに賭けてみてもいいと思うよ。
南極に近付けば、太陽光発電はちょっと無理なんじゃないかな。
赤道付近を航行して、一気に向かえれば、それだけ余裕ができる。
だめでも、少しだけ遠回りでしょ。
それと、赤道直下なのに涼しくない?」
気温が低い理由は南赤道海流が原因で、ガラパゴス諸島は赤道直下でありながら亜熱帯の気候だった。
賛成も、反対も、どちらもない。判断材料がないからだ。
里崎船長が結論する。
「それでは運を天に任せて、パナマに向かいましょう」
パナマとコスタリカの国境付近までの1300キロを3日で進む。ここからパナマ運河まで、600キロ。低速で航行する。
この付近は、大西洋側のカリブ・プレートの下に太平洋側のココス・プレートが沈み込み、プレート間の歪による海底火山の活動と地殻の隆起によって、南北両アメリカが陸続きになった。
隆起があれば陥没もあり得る。
香野木はこの可能性に賭けたのだが、500キロ南下して、大当たりだった。
パナマ地峡はなく、同じ場所に海峡があった。
だが、ベルーガは昼間なのに太陽光パネルを折りたたみ、ディーゼルエンジンを全力稼働させて、最大船速で南西に向かっている。
陸から離れていく。
ベルーガの乗員たちは、1時間前に低空を浮航する飛行船を発見する。
全長100メートル級の中型船で、陸側から飛んで来た。ベルーガを視認しているらしく、真っ直ぐに向かってくる。
花山や里崎船長は警戒したが、多くはヒトとの接触がかなったと喜んだ。
子供たちは車輌デッキの後端で、飛行船を見て大喜びだった。手を振る子もいた。
静かに警戒していたのは、金平彩華と葉村正哉だった。2人は射撃管制装置の電源を入れ、望遠カメラを解して肉眼で飛行船を追っていた。
彩華が正哉に「浮体の下に付いているもの、何だろう?」と尋ね、正哉は「ゴンドラでしょ」と答えた。
彩華がズームアップし「これだよ」と指し示すと、正哉の顔が青ざめる。
「里崎さん!
飛行船は爆弾を搭載しています!」
何人もが射撃管制装置のカメラ映像を覗く。
花山が「旧式だけど、爆弾に間違いない」と判断し、里崎船長は自ら操船し、全力回避を始める。
飛行船の速度は時速90キロ前後で、ベルーガよりも時速20キロ速い。
視界と視程のいい洋上で発見したことから、飛行船とは40キロ近い距離があった。
ただ、この時点でのベルーガの速度は18ノットで速度差は60キロほどある。
ベルーガは東進しており、飛行船は南下していた。飛行船を発見した時点で、進路を変更しなかった。
結果、距離は30キロまで縮まっていた。爆弾を確認してから、南西に進路を変え、ディーゼルエンジンを稼働させている間に、さらに10キロ詰められていた。
里崎船長が「FCS作動」と命じると、花山が「対空戦闘用意」と指示する。
船の揺れは少なく、車輌甲板では子供たちが客室に駆け上がる。
畠野史子3等陸曹と奥宮要介陸士長は、自走75ミリ高射砲を後部車輌甲板に引き出した。車輌甲板の最後部は露天で、C-1輸送機の尾翼が影を落としている。
ベルーガは1時間、南西に航行しパナマ湾から離脱して、コロンビア沿岸に向かっていた。70キロ移動したが、距離は10キロまで詰められた。ベルーガは最大船速だが、飛行船とは時速20キロ劣速で、このままでは30分で追い付かれる。
20分経過したところで、飛行船は2キロまで迫っていた。飛行船は左に転舵し、陸側に圧迫してくる。
里崎船長は、強気だった。強気なだけでなく、海上での警察行動に長けていた。外洋に向かって、右に転舵する。
この運動の間に500メートルまで、距離を縮められてしまった。
畠野と奥宮は、飛行船から6発の“飛翔体”が発射される様子を見た。
「左舷にミサイル!」
畠野は言葉を選ばずにそう叫んでいた。
スピーカーからの畠野の声に里崎は無意識に反応し、右に転舵する。
ジェットフォイルの優れた点は、進路変更にあたって、速度が落ちないことだ。
海上保安官であった畠野は、それをよく知っていた。
右舷側で、6つの爆発が起こる。飛翔体が海面に着弾した。花山は、火薬の爆発とは違う、と判断する。同時に、無誘導のロケット弾だと確信した。
「里崎さん、アンノーンの武器は誘導兵器じゃない」
里崎船長が振り向き頷く。
奥宮陸士長は、火器管制レーダーを切り、光学照準で飛行船を狙う。
ベルーガは船としては俊足だが、飛行船との“海戦”は大航海時代のそれと大差ない。帆船の最大8ノットから、50ノットに増速したことと、海上と低空の追撃戦である点が違うだけ。
同じなのは、互いに接近しないと武器が使えないこと。
船橋左右に装備している目標追尾型遠隔操作の3銃身20ミリ機関砲の射程内に、飛行船は入っていたが、撃てなかった。
銃口の先にC-1輸送機がある。この大きな積み荷が邪魔で、射界を遮っていた。
奥宮陸士長は、連続して22発を発射できる自走75ミリ高射砲から3発を発射する。
浮体は狙いやすいが、命中しても貫通するだけ。構造への影響は軽微。微妙な照準で、ゴンドラなどの脆弱な構造物を狙う必要がある。
2発がゴンドラに、1発が懸吊架に命中する。ゴンドラは目視での変化はなかった。火災も発生しない。
だが、ゴンドラを狙って外れ、右懸吊架に命中した1弾は大爆発を起こす。爆弾3発が次々と誘爆する。
それでも飛行船は肉薄してくる。ベルーガの真上を通過し、その際に左懸吊架の爆弾3発を落とす。
左舷側50メートルで、巨大な水柱が3本できる。
飛行船がベルーガを追い越すと、彩華と正哉は、3銃身20ミリ機関砲を発射する。
推進器を破壊し、燃料が爆発。飛行船は燃えながら、太平洋上に墜落していく。
ベルーガは行き足を止めていた。
飛行船は燃えつき、すぐに沈んだが、洋上には浮遊物が浮いている。特に木製品が多い。ワイン樽ような木樽もある。焦げた布製品も浮いている。
奥宮陸士長が「死体だ!」と叫ぶ。
俯せで浮いているが、四肢があり、頭部もある。死体と断じてはいけない。
香野木はこの場を早く立ち去りたかったが、里崎船長は“救助”を主張する。
200万年後の世界において、香野木はこの事件をなかったことにしたいと考えていた。里崎船長は、人道的に振る舞うべき、と考えた。
そして、長宗が上陸用舟艇を出し、洋上に浮かぶ“ヒト”を救助した。
花山が「どういうことなの?」と、香野木を見る。
香野木に答えはない。自分に向けられた質問を、来栖早希に顔を向けて丸投げする。
来栖医官は不機嫌だ。緑色のジャケットや白いズボンの素材は、ウールのようだ。デザインは、19世紀初頭のヨーロッパの軍服に似ている。
その“軍服”を着ている“動物”は、ヒトによく似ている。顔の造作もヒトに近いし、体形もヒトに似ている。
だが、ヒトではない。
分子生物学者である来栖にも、正体がわからない。
彼女がしたことは、大きく裂けた胸の傷跡から、遺伝子サンプルを採取しただけ。
その動物の死体は、車輌甲板の最後部にクレーンで引き上げた。洋上に漂っているときは、ヒトに思えた。
しかし、車輌甲板最後部に引き下げたランプドアに横たわる、明らかに直立二足歩行するであろう動物は、ヒトではない。
胴が長く、足が短い。その特徴は、ヒトの個体差の範囲にある。腕が長い。明らかにヒトよりもかなり長い。指の先端が膝のあたりまである。個体差の範疇を超えた長さ。特異な個体なのか、この種の特徴なのか、1体だけの観察では判断できない。
香野木はメジャーで身長を測る。
推定165センチ。性別はオス。顔の外見は、顎におとがいがない。顎の形状は、チンパンジーに似ている。
鼻は高く、幅広く、鼻孔は下を向いている。この鼻の形状が、ヒトとの差を強調している。眼窩上隆起は、ホモ・サピエンスよりも発達している。
ナイフで口をこじ開け、歯の数を数える。歯の数は32。霊長類の標準だ。ヒトは減少傾向にあり、28から32。
ヒトに近縁か否は別にして、霊長類であることは間違いない。上顎・下顎とも犬歯が発達しており、体格との比較だがエイプ(類人猿)並みに長い。
香野木はラダ・ムーに尋ねる。
「この動物、見たことは?」
ラダ・ムーが青ざめている。
「ない」
香野木は200万年という時間の重さを感じていた。
この動物をどうすべきか考えたが、シーツにくるんで紐で縛り、海に投棄した。
水葬のようだが、そうではない。
投棄だ。
香野木が船橋に上がると、里崎船長と来栖医官が話し込んでいる。
背に香野木の視線を感じたのか、2人が振り返る。
来栖医官が涙目で尋ねる。
「あの動物、ヒト属じゃないよね」
香野木は来栖医官の鋭さに驚いた。
「それを調べて欲しいんですが。
来栖さんに。
ですが……。歯の形状はマカクに似ていました。
ヒト属どころか、ヒト科じゃないかもしれません。
霊長目には含まれると思いますけど……」
里崎船長の声が震えている。
「マカク、って何?」
香野木は落ち着いていた。
彼は、来栖医官の分析を待たなくても、正体を特定したと考えている。
「ニホンザルの仲間です。
マカク属か、ヒヒ属か、その類縁でしょう。
オナガザル科から進化した動物だと思います。
オナガザル上科とヒト上科の分岐は、2800万年から2400万年前頃とされていますから、それに200万年をプラスしてください、ヒトに近い動物じゃないですよ。
オークやギガスよりも、ヒトからは遠い動物です」
来栖医官が詰め寄る。
「服、着てたじゃない!」
香野木に焦りはなかった。
「寒冷に適応するため、服を発明したんじゃないですか?
ヒトもそうだったし……。
7万年前に服を発明したでしょ。
このとき、ケジラミからコロモジラミが分岐したわけで……。別にヒト以外が服を着ないという原理原則はないわけで……」
香野木が里崎船長を見る。
「里崎さん、どこかに隠れませんか?
しばらくの間。
入り江とか?
できますか?」
里崎船長が頷く。
「隠れましょ」
ベルーガはパナマから400キロ南南西に移動し、コロンビア沿岸の縦深の浅い入り江に停泊した。
陸は密林が海岸まで迫っていて、海岸からは200メートルほど離れているが、海上からは見えにくい。だが、上空からは隠れようがない。海岸には小さな砂浜がある。
停泊しているだけならば、太陽光パネルの発電と電池だけで、主機を稼働させなくても24時間電気が使える。
会議は夕食後に始まった。
大人たちは例の動物に怯え、子供たちは未知の動物と遭遇して大騒ぎしている。
来栖医官は自身が分子生物学者であり、現状では遺伝子解析ができないことを理由に、すべての説明を香野木に丸投げした。
香野木は、どう説明すべきか悩んでいた。
「まず……、救助した動物はヒトではなかった……」
全員が沈黙する。
「外見的形態はヒトに似ているけれど、特に頭部の観察からヒトではないと思う。
ヒヒ族に属しニホンザルなどのマカクに近いのではないかと……。
ヒト科ではなく、オナガザル科かその近縁種から進化した動物だと推測している。
この点は、来栖先生が遺伝子解析ではっきりさせてくれるはず。
いまは、推測の段階。
オークやギガスとの関係だけど……。
ないと思う」
花山が不思議な質問をする。
「200万年後の世界には、ニホンザルから進化したヒトがいるの?」
彼女は理解できないのだ。
「まず……、基本から。
ヒトは魚から進化したのか、と問われれば、その通りなんだ。
ヒトも、ヘビも、カエルも、魚から進化した。
有胎盤類であるヒトと有袋類であるカンガルーの祖先は同じなのか、と問われれば、その通り。古生代ペルム紀まで遡れば、完璧な共通の祖先がいるだろう。
余計なことだが、1億6000万年以上前に、有胎盤類と有袋類は分岐していたらしい。
で、あの動物がニホンザルから進化したのか、だが、違うと思う。
ヒヒやマカクから、あの動物が生まれるには、200万年は短すぎるんだ。あるいは、何らかの外的要因で急速に進化したのか?
200万年の間に爆発的な進化を促す、地質学的変化が起きたのか?
どちらにしても、大型のオナガザル科のある種から分岐し、急速に進化したのだろう。
進化には目的や目標はない。
高い木の枝の歯を食べようとして、首を伸ばしていたら、キリンが生まれた、なんてことはない。
すべての霊長類がヒトになろうと進化しているわけでもない。
ヒトは偶然、生まれただけ。
あの動物も偶然、生まれただけ。
それだけだ。
不思議ではない」
花山は食い下がった。
「オークやギガスは……」
来栖医官は平常心を取り戻していた。
「オークとギガスは、何度か説明しているけど、ヒト属じゃないの。
オークは初期のアウストラロピテクス属か後期のアルディピテクス属から。
ギガスはもっと古くて、サヘラントロプス属以前のヒト亜族から分岐した動物よ。ギガスのほうが、分岐が早い。ヒト亜族とチンパンジー亜族が分岐した直後かもしれない。
こうなると、ヒヒやマカクからヒトに似た動物が生まれても不思議じゃないわけ。
服を着ていたのは偶然よ。
偶然。
ワンコだってシャツを着てるでしょ」
確かにそうだ。
花山健昭の隣に座るワンコは、シャツを着ている!
来栖医官は、彼女の“普通”に戻っていた。
「他にもいるね。
きっと。
オナガザルから進化したヒトモドキがいるなら、テナガザルから進化したヒューマノイドもいるかも~!」
加賀屋一希が手を上げる。
「先生、オナガザルとテナガザルはどこが違うの」
来栖医官は科学者らしい説明はしない。
「尾が長いか、手が長いか、その違いよ。
大した差はないのよ~」
そんなことはない。
香野木が修正する。
「オナガザルは、哺乳綱霊長目直鼻亜目真猿型下目狭鼻小目オナガザル上科オナガザル科。
テナガザルは、哺乳綱霊長目直鼻亜目真猿型下目狭鼻小目ヒト上科テナガザル科だ。
平たく言えば、オナガザルはサルで、テナガザルは類人猿なんだ」
花山真弓は香野木恵一郎に腹が立っていた。
2人の説明は、どうでもいいことだ。手の長いヒトに似た動物が、飛行船を操り、爆弾を投下することが重要なのだ。
それを理解しない、香野木と来栖に対して無性に腹が立っていた。
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