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1巻
1-2
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不思議に思いながら、こぢんまりとした馬車から恰幅のいい男性が出てきて、馬車へ手を伸ばすのを見ていた。
そして、馬車の中からほっそりとした手が伸ばされ、はにかみながら降りてきた女性を見た瞬間、彼女に心の全てを持って行かれてしまったのだ。視線が外せない。
慣れない足取りで馬車を降り、馬車を誘導していた衛兵に笑顔で会釈をする。
この距離では声が聞こえないことがもどかしい。
柔らかそうな金茶の髪と同じ色の瞳を持つ令嬢は、緊張したように城を見上げ、微笑んだ。その時、ジェミールはまるで自分に微笑みかけられたかのように錯覚し、衝撃を受けた。
通常の人間がこの距離でジェミールを認識できるはずがないので、気のせいなのだが、だからこそ、彼女がジェミールに微笑みかける姿を妄想して胸が高鳴る。
幾人かの舞踏会参加者が歩く中、彼女は一際美しく輝いている。彼女が馬車から降りた瞬間から、ジェミールの意識は彼女から離れられなくなった。
「あの、濃緑のドレスの女性だ。……なんて美しい」
城への石畳を、父親であろう男性と共にジェミールに向かって歩いてくる。
体に沿うドレスを身に纏い、胸元には白いレースをあしらっている。まるで、脱がしてほしいと言わんばかりに色香を漂わせ、ジェミールの耳の奥で鼓動が鳴り響く。
彼女は、城に来るのが初めてなのだろう。
石畳が光る様子を珍しそうに見つめ、暗い中で松明の明かりに照らされる花や木を楽しげに見て回っていた。
あんな華奢な足で……彼女の足を見たことはないのだが……暗い道を歩くなんて、躓いたりしたらどうするのだ。
ジェミールが隣にいれば、抱き上げて、彼女が指し示すままに彼女の手足となってみせるのに。
この大勢の人の中で、一人、光を纏い女神のように光り輝く彼女。
ジェミールがうっとりとしていると、クインが首を傾げながら彼の視線を追う。
「え? どの子です……っか!?」
ジェミールはクインの頭をわしづかみにして、彼女の方へ顔を向けさせる。
あんなに美しい女性を視界に入れておきながら気が付かないとはあり得ない。
薄闇の中でさえ、あれほど輝きを放つ存在だ。この会場に入ってきた途端、全ての人間の意識を持って行ってしまうだろう。
「彼女の美しさを理解しないとは嘆かわしい」
「いやいや、見つけられなかっただけですよ? ……ああ、あの子です……っいったあ!」
クインが言った途端に、ジェミールは頭を掴んでいた手をそのままゲンコツに変えた。
「見るな」
気が付かれたら気が付かれたで、不快なことが分かった。
彼女の美しさを理解するのは自分だけでいいような気もする。
「なんて理不尽!」
クインが文句を言っているが、知ったことではない。
今、ジェミールは、至上の愛を知った。
「求婚してくる」
毛先と服装に視線を落とし、ほぼ直立だったから全く乱れてはいないが、もう一度整える。
彼女に初めて会う時は、完璧でいなければならない。
「ま、待ってください。これから、デビューの方々の挨拶を受ける大役がございます!」
だというのに、またクインに裾を引かれる。
整えた服を乱されたことに苛立ちを覚えて、彼を睨み付けながら尻尾を一振りする。
「求婚してからな」
「あの子だってデビューでしょう! 初日から公爵の隣に立たせるって、どんな鬼畜ですか!」
鬼畜と言われて、ためらいが生まれる。彼女に少しでも辛いと思わせるのは本意ではない。
「あの子だって、挨拶に来ますから……」
「ふざけるな」
しかし、クインの言葉に反射で返した。
挨拶に来る? 若い女と見れば結婚相手だと勘違いするような、有象無象のケダモノが闊歩する中、一人で? あり得ない。
「俺が隣にいないのに、こんな会場に入れられるわけがないだろう!」
叱り飛ばすと、クインは理解できないと言いたげに目を瞬かせる。
「父親が隣にいますよ?」
「所詮父親だ。男共が群がる。……許さん」
父親だけで、あのケダモノたちから彼女を守りきるのは難しいだろう。それどころか、父親から攻めていこうとする輩までいるかもしれない。
「――潰す」
低く呟いた声は、クインにだけ聞こえたようだ。
「殺気を放たないでくださいよ! 一人の令嬢だけ特別扱いしてしまうと、他の高位貴族の方が騒ぎます」
特別扱いがダメとはどういうわけだ。
特別に決まっている。唯一無二の番。彼女だけが、ジェミールの中で意味を持つ存在なのだ。
「あの方々は、申しわけありませんが、私にはどなたか分かりません。ということは、それほど位は高くない。このような場所で目立たせてしまえば、最悪、彼らの家が潰されてしまうかもしれません」
クインの言う意味を理解して、ジェミールはぎりっと奥歯を噛みしめた。
位の低い者を、王主催の舞踏会で特別扱いをする。当然反発が起きるだろう。
ジェミールが彼女こそ番だという話をすれば、表向きは納得するだろうが、その後、能無し共が何をするか見当もつかない。
公爵家の力を使って守るにも限度がある。彼女の家族がどういう立場か分からない状態で、押し進めるには無理がある。
彼女の家が弱小貴族だった場合、下手をすれば爵位を取り上げるまでに嫌がらせが発展するかもしれない。そういった唾棄すべき仕打ちを平気でする高位貴族が、残念ながらこの国にもいるのだ。
「別室で待っていただきます。挨拶が終わってから、迎えにいらしてください」
あくまで、高位の者を優先したという形だ。
挨拶が終わった後、変に目立たぬよう注意しながらエスコートをし、王のもとに向かおう。
「……いつ終わる?」
「なるべく早く終わらせますから!」
まだ始まってもない! と言いながら、クインが警備の者にその旨を伝えに走る。
彼女は嬉しそうに笑いながら、隣に立つ父親に何か話しかけている。
まだまだ、彼女からジェミールは見えていないだろう。
ジェミールの視力は、人間の数十倍にもなる。多分、クインも彼女の顔が見えたわけではなく、ドレスの色で判断したのだろう。
彼女の瞳に、自分の姿が映ることを想像すると、なんとも言えない幸福感が広がる。
そんな彼女に、衛兵が声をかけて別室へ連れて行くところが見えた。彼女は、今から別室でジェミールを待つのだ。
彼女が自分を待っていてくれる。そう考えるだけで抑えきれない喜びが体中を巡って、尻尾が揺れてしまう。
ジェミールがうっとりとしている間に、舞踏会は開始された。
デビューの令嬢たちは、まず王に挨拶に来る。
それを王と宰相、将軍たるジェミールが出迎え、令嬢たちに祝いの言葉を述べ、今日を楽しむように伝えるのだ。
毎年のことだが、どこから湧き出てくるのかというほど令嬢が列をなす。
「多いな」
「静かに。耳は立ててください」
基本的に王が話すため、ジェミールは立っているだけだ。だったら、別の人間に勲章やらをくっつけて立たせておけばいいのに、それはできないという。
毎年のことながら、今年ほど列の長さにイラつくことはない。
時折向けられる期待するような視線にも耐えながら、数十分。目の前の長い列がなくなった。
今、挨拶をしている令嬢で最後だ。
自分が最後だと思ったからか、彼らは随分と長いこと話していた。もう少しで終わると思っていたから、あまりの苛立ちに、目の前の貴族を睨み付けてしまった。
慌てて頭を下げて下がっていく貴族を尻目に、隣にいるクインに尋ねる。
「もう終わったな」
「はいはい。終わりましたよ。どうぞ、後はお任せください」
クインから、彼女が待っている部屋を教えられる。会場を横切ると、次から次へと話しかけられてしまうので、背後の扉から出ていかなければならない。
「私にも紹介してくれよ」
「……落ち着きましたら」
いそいそと席を立つジェミールに、王が声をかける。
彼女をエスコートすると決めた時には、デビューの彼女に付き添って、王に挨拶に向かう気でいた。しかし……改めて考えると、とても嫌だ。
「婚姻前には紹介してくれ」
「……」
ジェミールは、王やクインにだけ分かる程度に眉間にしわを刻んだ。
獣人の独占欲は強い。番を手に入れれば、片時もそばを離れないほどに執着し、独占し、他人に見せるのを嫌がる。それが分かっていて、王は敢えて言ったのだ。
公爵の妻となる人間を公の場に出さないなんてことをするなと、釘を刺されたわけだ。
「陛下の見目をもっと悪くしてからであれば」
王は、はっきり言って美しい。歴代、美しい女性を妻に迎えるのだから、そうなるのも頷けるのだが、それにしても目の前の男は美しい。
髪を刈り上げるか、顔を殴ってぼこぼこにするかしてもらわないと。
「無茶言うな。――おい、無理矢理やろうとするなよ? ちゃんと王妃も隣にいてもらうから」
ジェミールがやろうとしていたことが分かったのか、王は顔を引きつらせて、体を少し護衛の方へずらす。本気でジェミールがやろうと思えば、周りにいる護衛など役には立たないだろうが。
王妃は子を産んだばかりで、今日はここにはいない。王妃が隣にいても、他の男に見惚れる番を見てしまうかもしれないと思うだけで、ジェミールの心臓はぎりぎりと絞られるようだ。
ジェミールはゆっくりと考えて……「努力します」と、小さな声で答えた。
「ああ。頑張れ」
にやりと笑う顔に、苛立たしげな視線を向けて、ジェミールは足早に会場から外に出た。
控室として準備していた一室に彼女がいるはずだ。
――彼女が待っている!
勝手に揺れる尻尾を放置……しようとして、あまりに毛並みが乱れているのは格好悪いので、どうにか抑えながら、彼女を待たせているはずの控え室に向かう。しかし……
「……帰った、だと?」
部屋には、誰もいなかった。
小太りの中年衛兵と、年若い衛兵が、二人ドアの前でたたずんでいただけだ。往生際悪く、部屋の中をぐるりと回ってみても、誰もいない。
かすかに、彼女の残り香かと思われるような香りがしたが、それも定かではない。
自分でもどこから出たのか分からないほど、地を這うような低い声が、怒りのぶつけ先を探して放たれる。不幸にもその先にいたのは、中年の衛兵だ。
「は、はいっ……!」
後ろに控える中年の衛兵に目を向けると、直立不動で真っ青な顔をしていた。
自分から殺気が放たれているだろうことは分かっている。
しかし、今、それを抑えるすべがない。
何故。ようやく迎えに来た番がいないのだ。どこへやった。
「何故だ? 俺が迎えに来ることは伝えたのだろうな?」
中年の衛兵の前に立ちそう問うと、男は震え出し、今にも失禁でもしそうなほど体をこわばらせている。しかし、今は、気を遣ってやれる余裕がない。
「は、はひっ……! も、もちろんでございます! 私がきちんとお伝えしました! しかし、彼女は嫌がられて、帰ってしまわれました!」
彼の言葉が、一瞬理解できなかった。
次は、『そんな馬鹿な』という傲慢な思いが湧き上がる。
公爵たる自分が声をかけたのなら、喜んで待っていてくれるだろうという驕りがあった。待っていてくれるのが当たり前だと、疑いもしなかった。
何より、彼女は番なのだ。番から拒否されるなんて、思いもよらなかった。
――怒りと悲しみに泣き叫び出しそうだ。
「嫌がって……」
ぽつりと呟いた自分の言葉に、さらに打ちのめされる。
彼女は、嫌がったのか。
公爵という立場に気が引けたのか。
獣人に囚われることを厭うたのか。
それとも、まさか他に決まった相手がいるのか。
「彼女の名は?」
聞いてどうする。拒否されたというのに。
そう思うが、どうにかして彼女について知りたいと思ってしまう。
「あ……おっ、お前! 名を聞いておくようにと言っておいただろう! 令嬢の名をお伝えしろ!」
中年の衛兵は慌てふためいて、背後の男を振り返る。
もう一人の若い衛兵は、真っ青な顔で呆然と突っ立っていた。信じられないと言わんばかりに目を見開き、ジェミールを凝視してくる。
将軍がいきなり目の前に現れたせいで恐縮しているのなら分かるが、この二人は何かにおびえているように見える。その様子に内心首を傾げながら、ジェミールは若い衛兵を見返す。
ジェミールが疑問をぶつける前に、焦れた様子で中年の衛兵が返事を急かす。
「早くしろ!」
若い衛兵は、放心状態でぶるぶると震えていた。そして、深く深く腰を折り曲げ頭を下げる。
「お名前は……お聞きしておりません。……申しわけございません」
ジェミールを怖がるというより、何かを後悔しているような彼の表情が引っ掛かる。
「なんだと! この、使えないやつめ! 申しわけございません、閣下。私の方できっちりと処罰を与えておきますので」
話しかけようとするのを、彼の上司である男が遮る。
こいつのこの態度こそ不快なものだが、衛兵の規律もあるだろう。そこにジェミールが口出しをすべきではない。
「ああ、そこは規律にのっとってくれ。任せる」
もうここには用はない。
彼女は、ほとんどこの部屋にはいなかったのだろう。さっき感じたように思った香りも、もうしなくなっていた。
ジェミールは呆然とその場から歩き去り、舞踏会場に戻る気にはなれずに自室に引きこもった。
◇
舞踏会は終わった。
フィディアが今後、社交の場に参加することはないだろう。
王都にはもう用はないので、このまま領地で必要なものだけ購入したら、さっさと帰るものかと思っていた。
「領地に戻るというご挨拶には伺わないといけない」
しかし、当主が王都に滞在しているというのに、一度も陛下に謁見を求めず、しかも社交シーズンの終わらぬうちに領地に帰ってしまうのはよろしくない。
陛下を無視しているとか、執政に不満があるのだとか、叛意があるのだとか、いろいろ疑われることになるのだ。
本来ならば、昨日がその場であるはずだったが、会場入りすら許されなかったので挨拶ができていない。
向こうがこちらを拒否したのだと言いたいところだが、末端貴族の衣装などに王が関与しているとも思えない。きっと、どこかの貴族か、仕事熱心な警備の仕業だろう。
仮にも貴族であるにもかかわらず、年頃なのにデビューの場である王室主催の舞踏会に参加しなかったことも、報告に上がらなくてはならない。
理由は、今代限りでカランストン男爵位を返上するつもりだからと言えば、不思議はないだろう。
無理にドレスを仕立てて舞踏会に参加しようとせずに、最初からそうすればよかった。
しかし、父である男爵は、フィディアを一度でいいから華やかな場所に立たせようと思ったのだ。
フィディアは、ドレスを準備する父と母が、『贅沢どころか労働込みの質素倹約な日々を送っているにもかかわらず、貴族としての勉学を押し付けられている娘に、一度くらい、夢を』、そう話しているのを聞いてしまった。
だから、本当は贅沢だと思っていたドレスも、素直に喜んで、舞踏会も楽しみにしていたのだ。
きっと父は、本当にフィディアが望むのなら、貴族との婚姻も考えていたはずだ。
それなのに――最大限の力を使おうと思って臨んだ末の、最低な結果。
あの舞踏会の日の翌日に、王に謁見申請をし、それから一週間。ようやく謁見の許可が下りた。
タウンハウスを借りるのも無料ではない。
挨拶が終わり次第、帰路につこうと準備を始めたフィディアに、父が声をかけた。
「フィディア、城へ一緒に行かないか?」
父の言葉に、フィディアは目を見開いた。そんなことを言われるとは思わなかったのだ。
「……ドレスがないわ」
またみすぼらしいと馬鹿にされたら、余計に悲しくなってしまう。それでもフィディアは、嫌だと拒否はできなかった。
華やかな空間。そこに暮らす人々。何より……
「この間の濃緑のドレスでいい。今度は舞踏会ではない。挨拶くらいならあれで充分だ。それに今日は、軍の演習があるらしい。なかなか見られるものではない。……領地に戻る前に、見ておくのもいいだろう」
「お父様……!」
父はフィディアの迷いを小さな頷きだけで払拭し、いたずらっぽく笑った。
どうやら、フィディアのジェミールに対する密かな憧れなど、お見通しだったようだ。
直接お目にかかることは無理でも、近くで拝見したい。
フィディアは迷いながら、母に視線を移すと、彼女も頷いてくれる。
――全員が、私の想いを知っているのね。
少々気恥ずかしく思いながら、フィディアは頷いた。
「ええ。行きます……行きたいわ。連れて行ってくださる?」
「もちろんだ」
父は、嬉しそうに微笑んだ。
舞踏会に向かう時は、馬車を少しでも豪華にしようと飾り立てていたけれど、今回は必要ない。
それどころか、馬車も必要ないのだが、馬車がないと衛兵に城に入れてもらえないこともあるらしい。平民と間違われるからだろう。だから、今回も馬車を借り、城へ向かった。
城の敷地内に入って、衛兵に謁見の間まで案内してもらう。
「今日は軍の演習もしているとお聞きしています。一度見てみたいと思いまして」
案内してくれる衛兵に父が話しかけると、彼はにっこりと笑った。
「そうですか。謁見までには、まだ多少お時間がございます。そちらを先にご案内しましょうか?」
衛兵はとても親切な方で、嫌な顔一つせずに演習場へと案内してくれた。
この後、謁見の時間が近くなったら、また迎えに来てくれるそうだ。
「そこまでしていただくわけには」
遠慮する父とフィディアに、衛兵は目を丸くした後、肩を揺らして笑う。
笑ってしまったことへの謝罪をしてから、彼はにこにことフィディアたちを見つめる。
「城への来客を案内することが、私の仕事なのです。お客様が行きたい場所に案内し、ご用事を済ませていただく。そのためにここにいるのですから、そのようにおっしゃらないでください」
普通、貴族はそれを当たり前だと言い、お茶の準備までさせることもあるのだそうだ。
よその家に来て、そんなことができる人がいるのか。
仕事でさえ領民と力を合わせてするカランストン男爵家には馴染みがない文化だ。
衛兵がその場を立ち去った後、二人は演習場がよく見えるように前の列の方へ進む。
演習場は、すり鉢型に観覧席が並ぶ大きな広場だ。広い観客席は半分以上が埋まっている。
ここでも色とりどりのドレスが溢れているが、中にはごく普通のワンピースを着ている娘などもいる。
演習は、平民であっても持ちもの検査など一定の検査を受ければ見学することができるらしい。
だったら、平民になった後も、頑張ってお金を貯めて王都に来れば、見ることができるかもしれない。
今日、これが最後というわけではないかもしれないという可能性が、フィディアには嬉しかった。
演習場には、数百人の騎士が一定の間隔をとって美しく整列している。その数百人が立ち並ぶ中心に、銀色の光を放ちながら、その人は立っていた。
周りの兵士よりも一回り大きく見えるその姿は、堂々としたその立ち姿からも、非常に目立つ。
ピンと立った耳に、ふさふさの尻尾。元は白かっただろう肌は小麦色に日焼けをしている。距離があるため、表情を見ることまではできないが、それで充分だった。
その姿を見てしまったら、もう目をそらすことなどできない。
彼が指示を飛ばしながら、腕を振る。兵士が一斉に剣を抜き、一糸乱れぬ動きを披露する。その見事さに、観客席から歓声が飛ぶ。
「素敵……」
感動で胸が熱くなって、フィディアの口から思わず言葉がこぼれた。
その瞬間、将軍閣下の耳がぴんっと立ち上がり、彼の顔がぐるんとこちらに向いた。
そして――そんなはずもないのだが――フィディアは自分を見つめたのかと思った。
タイミング的に、フィディアの声が彼に聞こえたようにも思える態度だ。
でも、こんなに遠いのに、あり得ない。
フィディアの周りには、将軍閣下をうっとりと眺める令嬢で溢れている。
『素敵』『格好いい』は言われなれた言葉だろう。もっと心を尽くした美辞麗句を聞きすぎて、そんな単純な言葉がむしろ新鮮に響いたと言われれば納得できるが、なんのひねりもない言葉に反応するわけがない。
むしろ、フィディアの声は小さくて、周りの喧騒に消されてしまったはずだ。
なのに――
強い視線で射抜かれ、フィディアは息が止まりそうだった。
この距離だ。フィディアを見ているわけではない。
そう理性は叫ぶのに、彼から見つめられていると考えるだけで、体が歓喜に震える。
表情も分からない距離で、色彩でしか彼を認識できないというのに。
この一瞬。目が合った気がするという遠い憧れのような勘違いだけで、フィディアは将軍閣下に恋をした。
何故かは分からない。彼が見つめるのは、ずっと自分だけがいいだなんて分不相応にも思ってしまった。
明日には田舎に引っ込んでしまう身なのに、なんて身の程知らずな恋。
フィディアは瞬きさえできない時間を過ごした。
それを終わらせたのは、将軍閣下だった。
さっきまで、あれほど強い視線でフィディアを見つめてきたと思ったのに。すぐに興味を失ったように兵士たちを振り返る。
瞬間、フィディアの心臓の真ん中を、冷たい風が通り抜けていく。ふわふわと夢見心地だった頭がすっと冷えた。
将軍閣下はフィディアには興味はない。そんなものは当然だ。
片や、公爵位を継ぎ、将軍にまで上り詰めた彼。片や、小さな領地で農民と一緒に作物を育てるフィディア。
釣り合うはずがない。考えることすら不敬だと思える。
今、目が合ったと思ったのだって気のせいだ。
そんなことを考えて、一人勝手に舞い上がっていた自分が情けない。
そう思っているのに、彼の背中から目が離せない。
こんなに惹かれるなんて、どうしてしまったのだろう。
喉の奥から固いものが込み上げて、フィディアの目に涙が盛り上がってくる。このまま泣いてしまいそうだと考えていた時、後ろから声がかかった。
「カランストン男爵様。お待たせいたしました。謁見の場がご準備できました」
振り返ると、先ほど案内してくれた衛兵が迎えに来てくれていた。
「ああ、そうですか。ありがとうございます。フィディア、行くよ」
「はい」
父に促されて、フィディアも演習場に背を向ける。
先を行く男性二人に、気が付かれないように、涙をのみ込もうと大きく息を吸った。
どうして、こんなに焦がれているのだろうか。……話したこともない、遠くで見ただけの人に。
フィディアにとって初めての謁見は、滞りなく終わった。父が辞去の挨拶をして、フィディアは後ろで頭を下げているだけだった。
ぼんやりしていたため、申しわけないが、国王の顔さえもよく見ていない。
フィディアの頭の中はジェミールのことでいっぱいで、王からの言葉も全て聞き流してしまった。
謁見が終わって、外に出ると、門へ向かう人の流れができていた。
演習が終わって、帰る人が溢れだしてきているのだ。
もしもまだやっているならば、父にお願いしてもう少し見ることもできるだろうかと思っていた。本音を言えば、最後に一目だけでも、彼を見たかった。
だけど、それは叶わなかった。
結局、こんなものだ。公爵閣下と田舎の男爵令嬢の関係なんて。すれ違うことさえない。
公開演習は明日も行われるらしいが、明日には王都を発つ。
いつまでも未練がましく演習場を見ているわけにもいかない。
そして、馬車の中からほっそりとした手が伸ばされ、はにかみながら降りてきた女性を見た瞬間、彼女に心の全てを持って行かれてしまったのだ。視線が外せない。
慣れない足取りで馬車を降り、馬車を誘導していた衛兵に笑顔で会釈をする。
この距離では声が聞こえないことがもどかしい。
柔らかそうな金茶の髪と同じ色の瞳を持つ令嬢は、緊張したように城を見上げ、微笑んだ。その時、ジェミールはまるで自分に微笑みかけられたかのように錯覚し、衝撃を受けた。
通常の人間がこの距離でジェミールを認識できるはずがないので、気のせいなのだが、だからこそ、彼女がジェミールに微笑みかける姿を妄想して胸が高鳴る。
幾人かの舞踏会参加者が歩く中、彼女は一際美しく輝いている。彼女が馬車から降りた瞬間から、ジェミールの意識は彼女から離れられなくなった。
「あの、濃緑のドレスの女性だ。……なんて美しい」
城への石畳を、父親であろう男性と共にジェミールに向かって歩いてくる。
体に沿うドレスを身に纏い、胸元には白いレースをあしらっている。まるで、脱がしてほしいと言わんばかりに色香を漂わせ、ジェミールの耳の奥で鼓動が鳴り響く。
彼女は、城に来るのが初めてなのだろう。
石畳が光る様子を珍しそうに見つめ、暗い中で松明の明かりに照らされる花や木を楽しげに見て回っていた。
あんな華奢な足で……彼女の足を見たことはないのだが……暗い道を歩くなんて、躓いたりしたらどうするのだ。
ジェミールが隣にいれば、抱き上げて、彼女が指し示すままに彼女の手足となってみせるのに。
この大勢の人の中で、一人、光を纏い女神のように光り輝く彼女。
ジェミールがうっとりとしていると、クインが首を傾げながら彼の視線を追う。
「え? どの子です……っか!?」
ジェミールはクインの頭をわしづかみにして、彼女の方へ顔を向けさせる。
あんなに美しい女性を視界に入れておきながら気が付かないとはあり得ない。
薄闇の中でさえ、あれほど輝きを放つ存在だ。この会場に入ってきた途端、全ての人間の意識を持って行ってしまうだろう。
「彼女の美しさを理解しないとは嘆かわしい」
「いやいや、見つけられなかっただけですよ? ……ああ、あの子です……っいったあ!」
クインが言った途端に、ジェミールは頭を掴んでいた手をそのままゲンコツに変えた。
「見るな」
気が付かれたら気が付かれたで、不快なことが分かった。
彼女の美しさを理解するのは自分だけでいいような気もする。
「なんて理不尽!」
クインが文句を言っているが、知ったことではない。
今、ジェミールは、至上の愛を知った。
「求婚してくる」
毛先と服装に視線を落とし、ほぼ直立だったから全く乱れてはいないが、もう一度整える。
彼女に初めて会う時は、完璧でいなければならない。
「ま、待ってください。これから、デビューの方々の挨拶を受ける大役がございます!」
だというのに、またクインに裾を引かれる。
整えた服を乱されたことに苛立ちを覚えて、彼を睨み付けながら尻尾を一振りする。
「求婚してからな」
「あの子だってデビューでしょう! 初日から公爵の隣に立たせるって、どんな鬼畜ですか!」
鬼畜と言われて、ためらいが生まれる。彼女に少しでも辛いと思わせるのは本意ではない。
「あの子だって、挨拶に来ますから……」
「ふざけるな」
しかし、クインの言葉に反射で返した。
挨拶に来る? 若い女と見れば結婚相手だと勘違いするような、有象無象のケダモノが闊歩する中、一人で? あり得ない。
「俺が隣にいないのに、こんな会場に入れられるわけがないだろう!」
叱り飛ばすと、クインは理解できないと言いたげに目を瞬かせる。
「父親が隣にいますよ?」
「所詮父親だ。男共が群がる。……許さん」
父親だけで、あのケダモノたちから彼女を守りきるのは難しいだろう。それどころか、父親から攻めていこうとする輩までいるかもしれない。
「――潰す」
低く呟いた声は、クインにだけ聞こえたようだ。
「殺気を放たないでくださいよ! 一人の令嬢だけ特別扱いしてしまうと、他の高位貴族の方が騒ぎます」
特別扱いがダメとはどういうわけだ。
特別に決まっている。唯一無二の番。彼女だけが、ジェミールの中で意味を持つ存在なのだ。
「あの方々は、申しわけありませんが、私にはどなたか分かりません。ということは、それほど位は高くない。このような場所で目立たせてしまえば、最悪、彼らの家が潰されてしまうかもしれません」
クインの言う意味を理解して、ジェミールはぎりっと奥歯を噛みしめた。
位の低い者を、王主催の舞踏会で特別扱いをする。当然反発が起きるだろう。
ジェミールが彼女こそ番だという話をすれば、表向きは納得するだろうが、その後、能無し共が何をするか見当もつかない。
公爵家の力を使って守るにも限度がある。彼女の家族がどういう立場か分からない状態で、押し進めるには無理がある。
彼女の家が弱小貴族だった場合、下手をすれば爵位を取り上げるまでに嫌がらせが発展するかもしれない。そういった唾棄すべき仕打ちを平気でする高位貴族が、残念ながらこの国にもいるのだ。
「別室で待っていただきます。挨拶が終わってから、迎えにいらしてください」
あくまで、高位の者を優先したという形だ。
挨拶が終わった後、変に目立たぬよう注意しながらエスコートをし、王のもとに向かおう。
「……いつ終わる?」
「なるべく早く終わらせますから!」
まだ始まってもない! と言いながら、クインが警備の者にその旨を伝えに走る。
彼女は嬉しそうに笑いながら、隣に立つ父親に何か話しかけている。
まだまだ、彼女からジェミールは見えていないだろう。
ジェミールの視力は、人間の数十倍にもなる。多分、クインも彼女の顔が見えたわけではなく、ドレスの色で判断したのだろう。
彼女の瞳に、自分の姿が映ることを想像すると、なんとも言えない幸福感が広がる。
そんな彼女に、衛兵が声をかけて別室へ連れて行くところが見えた。彼女は、今から別室でジェミールを待つのだ。
彼女が自分を待っていてくれる。そう考えるだけで抑えきれない喜びが体中を巡って、尻尾が揺れてしまう。
ジェミールがうっとりとしている間に、舞踏会は開始された。
デビューの令嬢たちは、まず王に挨拶に来る。
それを王と宰相、将軍たるジェミールが出迎え、令嬢たちに祝いの言葉を述べ、今日を楽しむように伝えるのだ。
毎年のことだが、どこから湧き出てくるのかというほど令嬢が列をなす。
「多いな」
「静かに。耳は立ててください」
基本的に王が話すため、ジェミールは立っているだけだ。だったら、別の人間に勲章やらをくっつけて立たせておけばいいのに、それはできないという。
毎年のことながら、今年ほど列の長さにイラつくことはない。
時折向けられる期待するような視線にも耐えながら、数十分。目の前の長い列がなくなった。
今、挨拶をしている令嬢で最後だ。
自分が最後だと思ったからか、彼らは随分と長いこと話していた。もう少しで終わると思っていたから、あまりの苛立ちに、目の前の貴族を睨み付けてしまった。
慌てて頭を下げて下がっていく貴族を尻目に、隣にいるクインに尋ねる。
「もう終わったな」
「はいはい。終わりましたよ。どうぞ、後はお任せください」
クインから、彼女が待っている部屋を教えられる。会場を横切ると、次から次へと話しかけられてしまうので、背後の扉から出ていかなければならない。
「私にも紹介してくれよ」
「……落ち着きましたら」
いそいそと席を立つジェミールに、王が声をかける。
彼女をエスコートすると決めた時には、デビューの彼女に付き添って、王に挨拶に向かう気でいた。しかし……改めて考えると、とても嫌だ。
「婚姻前には紹介してくれ」
「……」
ジェミールは、王やクインにだけ分かる程度に眉間にしわを刻んだ。
獣人の独占欲は強い。番を手に入れれば、片時もそばを離れないほどに執着し、独占し、他人に見せるのを嫌がる。それが分かっていて、王は敢えて言ったのだ。
公爵の妻となる人間を公の場に出さないなんてことをするなと、釘を刺されたわけだ。
「陛下の見目をもっと悪くしてからであれば」
王は、はっきり言って美しい。歴代、美しい女性を妻に迎えるのだから、そうなるのも頷けるのだが、それにしても目の前の男は美しい。
髪を刈り上げるか、顔を殴ってぼこぼこにするかしてもらわないと。
「無茶言うな。――おい、無理矢理やろうとするなよ? ちゃんと王妃も隣にいてもらうから」
ジェミールがやろうとしていたことが分かったのか、王は顔を引きつらせて、体を少し護衛の方へずらす。本気でジェミールがやろうと思えば、周りにいる護衛など役には立たないだろうが。
王妃は子を産んだばかりで、今日はここにはいない。王妃が隣にいても、他の男に見惚れる番を見てしまうかもしれないと思うだけで、ジェミールの心臓はぎりぎりと絞られるようだ。
ジェミールはゆっくりと考えて……「努力します」と、小さな声で答えた。
「ああ。頑張れ」
にやりと笑う顔に、苛立たしげな視線を向けて、ジェミールは足早に会場から外に出た。
控室として準備していた一室に彼女がいるはずだ。
――彼女が待っている!
勝手に揺れる尻尾を放置……しようとして、あまりに毛並みが乱れているのは格好悪いので、どうにか抑えながら、彼女を待たせているはずの控え室に向かう。しかし……
「……帰った、だと?」
部屋には、誰もいなかった。
小太りの中年衛兵と、年若い衛兵が、二人ドアの前でたたずんでいただけだ。往生際悪く、部屋の中をぐるりと回ってみても、誰もいない。
かすかに、彼女の残り香かと思われるような香りがしたが、それも定かではない。
自分でもどこから出たのか分からないほど、地を這うような低い声が、怒りのぶつけ先を探して放たれる。不幸にもその先にいたのは、中年の衛兵だ。
「は、はいっ……!」
後ろに控える中年の衛兵に目を向けると、直立不動で真っ青な顔をしていた。
自分から殺気が放たれているだろうことは分かっている。
しかし、今、それを抑えるすべがない。
何故。ようやく迎えに来た番がいないのだ。どこへやった。
「何故だ? 俺が迎えに来ることは伝えたのだろうな?」
中年の衛兵の前に立ちそう問うと、男は震え出し、今にも失禁でもしそうなほど体をこわばらせている。しかし、今は、気を遣ってやれる余裕がない。
「は、はひっ……! も、もちろんでございます! 私がきちんとお伝えしました! しかし、彼女は嫌がられて、帰ってしまわれました!」
彼の言葉が、一瞬理解できなかった。
次は、『そんな馬鹿な』という傲慢な思いが湧き上がる。
公爵たる自分が声をかけたのなら、喜んで待っていてくれるだろうという驕りがあった。待っていてくれるのが当たり前だと、疑いもしなかった。
何より、彼女は番なのだ。番から拒否されるなんて、思いもよらなかった。
――怒りと悲しみに泣き叫び出しそうだ。
「嫌がって……」
ぽつりと呟いた自分の言葉に、さらに打ちのめされる。
彼女は、嫌がったのか。
公爵という立場に気が引けたのか。
獣人に囚われることを厭うたのか。
それとも、まさか他に決まった相手がいるのか。
「彼女の名は?」
聞いてどうする。拒否されたというのに。
そう思うが、どうにかして彼女について知りたいと思ってしまう。
「あ……おっ、お前! 名を聞いておくようにと言っておいただろう! 令嬢の名をお伝えしろ!」
中年の衛兵は慌てふためいて、背後の男を振り返る。
もう一人の若い衛兵は、真っ青な顔で呆然と突っ立っていた。信じられないと言わんばかりに目を見開き、ジェミールを凝視してくる。
将軍がいきなり目の前に現れたせいで恐縮しているのなら分かるが、この二人は何かにおびえているように見える。その様子に内心首を傾げながら、ジェミールは若い衛兵を見返す。
ジェミールが疑問をぶつける前に、焦れた様子で中年の衛兵が返事を急かす。
「早くしろ!」
若い衛兵は、放心状態でぶるぶると震えていた。そして、深く深く腰を折り曲げ頭を下げる。
「お名前は……お聞きしておりません。……申しわけございません」
ジェミールを怖がるというより、何かを後悔しているような彼の表情が引っ掛かる。
「なんだと! この、使えないやつめ! 申しわけございません、閣下。私の方できっちりと処罰を与えておきますので」
話しかけようとするのを、彼の上司である男が遮る。
こいつのこの態度こそ不快なものだが、衛兵の規律もあるだろう。そこにジェミールが口出しをすべきではない。
「ああ、そこは規律にのっとってくれ。任せる」
もうここには用はない。
彼女は、ほとんどこの部屋にはいなかったのだろう。さっき感じたように思った香りも、もうしなくなっていた。
ジェミールは呆然とその場から歩き去り、舞踏会場に戻る気にはなれずに自室に引きこもった。
◇
舞踏会は終わった。
フィディアが今後、社交の場に参加することはないだろう。
王都にはもう用はないので、このまま領地で必要なものだけ購入したら、さっさと帰るものかと思っていた。
「領地に戻るというご挨拶には伺わないといけない」
しかし、当主が王都に滞在しているというのに、一度も陛下に謁見を求めず、しかも社交シーズンの終わらぬうちに領地に帰ってしまうのはよろしくない。
陛下を無視しているとか、執政に不満があるのだとか、叛意があるのだとか、いろいろ疑われることになるのだ。
本来ならば、昨日がその場であるはずだったが、会場入りすら許されなかったので挨拶ができていない。
向こうがこちらを拒否したのだと言いたいところだが、末端貴族の衣装などに王が関与しているとも思えない。きっと、どこかの貴族か、仕事熱心な警備の仕業だろう。
仮にも貴族であるにもかかわらず、年頃なのにデビューの場である王室主催の舞踏会に参加しなかったことも、報告に上がらなくてはならない。
理由は、今代限りでカランストン男爵位を返上するつもりだからと言えば、不思議はないだろう。
無理にドレスを仕立てて舞踏会に参加しようとせずに、最初からそうすればよかった。
しかし、父である男爵は、フィディアを一度でいいから華やかな場所に立たせようと思ったのだ。
フィディアは、ドレスを準備する父と母が、『贅沢どころか労働込みの質素倹約な日々を送っているにもかかわらず、貴族としての勉学を押し付けられている娘に、一度くらい、夢を』、そう話しているのを聞いてしまった。
だから、本当は贅沢だと思っていたドレスも、素直に喜んで、舞踏会も楽しみにしていたのだ。
きっと父は、本当にフィディアが望むのなら、貴族との婚姻も考えていたはずだ。
それなのに――最大限の力を使おうと思って臨んだ末の、最低な結果。
あの舞踏会の日の翌日に、王に謁見申請をし、それから一週間。ようやく謁見の許可が下りた。
タウンハウスを借りるのも無料ではない。
挨拶が終わり次第、帰路につこうと準備を始めたフィディアに、父が声をかけた。
「フィディア、城へ一緒に行かないか?」
父の言葉に、フィディアは目を見開いた。そんなことを言われるとは思わなかったのだ。
「……ドレスがないわ」
またみすぼらしいと馬鹿にされたら、余計に悲しくなってしまう。それでもフィディアは、嫌だと拒否はできなかった。
華やかな空間。そこに暮らす人々。何より……
「この間の濃緑のドレスでいい。今度は舞踏会ではない。挨拶くらいならあれで充分だ。それに今日は、軍の演習があるらしい。なかなか見られるものではない。……領地に戻る前に、見ておくのもいいだろう」
「お父様……!」
父はフィディアの迷いを小さな頷きだけで払拭し、いたずらっぽく笑った。
どうやら、フィディアのジェミールに対する密かな憧れなど、お見通しだったようだ。
直接お目にかかることは無理でも、近くで拝見したい。
フィディアは迷いながら、母に視線を移すと、彼女も頷いてくれる。
――全員が、私の想いを知っているのね。
少々気恥ずかしく思いながら、フィディアは頷いた。
「ええ。行きます……行きたいわ。連れて行ってくださる?」
「もちろんだ」
父は、嬉しそうに微笑んだ。
舞踏会に向かう時は、馬車を少しでも豪華にしようと飾り立てていたけれど、今回は必要ない。
それどころか、馬車も必要ないのだが、馬車がないと衛兵に城に入れてもらえないこともあるらしい。平民と間違われるからだろう。だから、今回も馬車を借り、城へ向かった。
城の敷地内に入って、衛兵に謁見の間まで案内してもらう。
「今日は軍の演習もしているとお聞きしています。一度見てみたいと思いまして」
案内してくれる衛兵に父が話しかけると、彼はにっこりと笑った。
「そうですか。謁見までには、まだ多少お時間がございます。そちらを先にご案内しましょうか?」
衛兵はとても親切な方で、嫌な顔一つせずに演習場へと案内してくれた。
この後、謁見の時間が近くなったら、また迎えに来てくれるそうだ。
「そこまでしていただくわけには」
遠慮する父とフィディアに、衛兵は目を丸くした後、肩を揺らして笑う。
笑ってしまったことへの謝罪をしてから、彼はにこにことフィディアたちを見つめる。
「城への来客を案内することが、私の仕事なのです。お客様が行きたい場所に案内し、ご用事を済ませていただく。そのためにここにいるのですから、そのようにおっしゃらないでください」
普通、貴族はそれを当たり前だと言い、お茶の準備までさせることもあるのだそうだ。
よその家に来て、そんなことができる人がいるのか。
仕事でさえ領民と力を合わせてするカランストン男爵家には馴染みがない文化だ。
衛兵がその場を立ち去った後、二人は演習場がよく見えるように前の列の方へ進む。
演習場は、すり鉢型に観覧席が並ぶ大きな広場だ。広い観客席は半分以上が埋まっている。
ここでも色とりどりのドレスが溢れているが、中にはごく普通のワンピースを着ている娘などもいる。
演習は、平民であっても持ちもの検査など一定の検査を受ければ見学することができるらしい。
だったら、平民になった後も、頑張ってお金を貯めて王都に来れば、見ることができるかもしれない。
今日、これが最後というわけではないかもしれないという可能性が、フィディアには嬉しかった。
演習場には、数百人の騎士が一定の間隔をとって美しく整列している。その数百人が立ち並ぶ中心に、銀色の光を放ちながら、その人は立っていた。
周りの兵士よりも一回り大きく見えるその姿は、堂々としたその立ち姿からも、非常に目立つ。
ピンと立った耳に、ふさふさの尻尾。元は白かっただろう肌は小麦色に日焼けをしている。距離があるため、表情を見ることまではできないが、それで充分だった。
その姿を見てしまったら、もう目をそらすことなどできない。
彼が指示を飛ばしながら、腕を振る。兵士が一斉に剣を抜き、一糸乱れぬ動きを披露する。その見事さに、観客席から歓声が飛ぶ。
「素敵……」
感動で胸が熱くなって、フィディアの口から思わず言葉がこぼれた。
その瞬間、将軍閣下の耳がぴんっと立ち上がり、彼の顔がぐるんとこちらに向いた。
そして――そんなはずもないのだが――フィディアは自分を見つめたのかと思った。
タイミング的に、フィディアの声が彼に聞こえたようにも思える態度だ。
でも、こんなに遠いのに、あり得ない。
フィディアの周りには、将軍閣下をうっとりと眺める令嬢で溢れている。
『素敵』『格好いい』は言われなれた言葉だろう。もっと心を尽くした美辞麗句を聞きすぎて、そんな単純な言葉がむしろ新鮮に響いたと言われれば納得できるが、なんのひねりもない言葉に反応するわけがない。
むしろ、フィディアの声は小さくて、周りの喧騒に消されてしまったはずだ。
なのに――
強い視線で射抜かれ、フィディアは息が止まりそうだった。
この距離だ。フィディアを見ているわけではない。
そう理性は叫ぶのに、彼から見つめられていると考えるだけで、体が歓喜に震える。
表情も分からない距離で、色彩でしか彼を認識できないというのに。
この一瞬。目が合った気がするという遠い憧れのような勘違いだけで、フィディアは将軍閣下に恋をした。
何故かは分からない。彼が見つめるのは、ずっと自分だけがいいだなんて分不相応にも思ってしまった。
明日には田舎に引っ込んでしまう身なのに、なんて身の程知らずな恋。
フィディアは瞬きさえできない時間を過ごした。
それを終わらせたのは、将軍閣下だった。
さっきまで、あれほど強い視線でフィディアを見つめてきたと思ったのに。すぐに興味を失ったように兵士たちを振り返る。
瞬間、フィディアの心臓の真ん中を、冷たい風が通り抜けていく。ふわふわと夢見心地だった頭がすっと冷えた。
将軍閣下はフィディアには興味はない。そんなものは当然だ。
片や、公爵位を継ぎ、将軍にまで上り詰めた彼。片や、小さな領地で農民と一緒に作物を育てるフィディア。
釣り合うはずがない。考えることすら不敬だと思える。
今、目が合ったと思ったのだって気のせいだ。
そんなことを考えて、一人勝手に舞い上がっていた自分が情けない。
そう思っているのに、彼の背中から目が離せない。
こんなに惹かれるなんて、どうしてしまったのだろう。
喉の奥から固いものが込み上げて、フィディアの目に涙が盛り上がってくる。このまま泣いてしまいそうだと考えていた時、後ろから声がかかった。
「カランストン男爵様。お待たせいたしました。謁見の場がご準備できました」
振り返ると、先ほど案内してくれた衛兵が迎えに来てくれていた。
「ああ、そうですか。ありがとうございます。フィディア、行くよ」
「はい」
父に促されて、フィディアも演習場に背を向ける。
先を行く男性二人に、気が付かれないように、涙をのみ込もうと大きく息を吸った。
どうして、こんなに焦がれているのだろうか。……話したこともない、遠くで見ただけの人に。
フィディアにとって初めての謁見は、滞りなく終わった。父が辞去の挨拶をして、フィディアは後ろで頭を下げているだけだった。
ぼんやりしていたため、申しわけないが、国王の顔さえもよく見ていない。
フィディアの頭の中はジェミールのことでいっぱいで、王からの言葉も全て聞き流してしまった。
謁見が終わって、外に出ると、門へ向かう人の流れができていた。
演習が終わって、帰る人が溢れだしてきているのだ。
もしもまだやっているならば、父にお願いしてもう少し見ることもできるだろうかと思っていた。本音を言えば、最後に一目だけでも、彼を見たかった。
だけど、それは叶わなかった。
結局、こんなものだ。公爵閣下と田舎の男爵令嬢の関係なんて。すれ違うことさえない。
公開演習は明日も行われるらしいが、明日には王都を発つ。
いつまでも未練がましく演習場を見ているわけにもいかない。
応援ありがとうございます!
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