【完結】僕らにはもう辿り着けない場所がある

松莉あげみ

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青い春編

第17話

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「来たい? 僕の家」

 車の中でそう耳打ちをされて、怜史は考える間も無く首を縦に振った。
 1秒でも多く流生の隣にいたい。受験で長く開いた時間を埋めたい。初めて流生の寂しさを聞いた怜史には、もう他に考えられなかった。

 合格発表の翌日、授業は半日だった。その足で怜史は流生の自宅へと向かった。
 流生はバイトがあるらしくいつものように迎えに来れなかったため、怜史は隣町に向かうバスに乗った。

 制服のままバスに乗るのは怜史しかいなかった。乗客のほとんどが老人だ。優先席に座っていた一人が怜史のことを物珍しそうに見つめてくる。怜史は控えめに会釈をしてから一番後ろの幅広の座席に座った。

受験で苦しんでいた時よりも、今の方が心臓が昂っている。そわそわと落ち着かない気分をやり過ごそうと、怜史はスクールバッグを抱えながら窓からの景色を見つめる。

 高校に行けばここからの景色を見ることはまずなくなる。この田舎町とも少し距離を置くようになる。流生のいる街の方が近くなる。

 この町が嫌いなわけではなかったが、怜史には今は先に見える来月からの未来しか見えていなかった。

***

 流生に指定されたバス停を降り、約束の場所になっているドラッグストアに向かった。

 初めて目にする知らない街並みを怜史はきょろきょろと見渡した。
 怜史が住んでいる場所よりは幾分都会だが、のどかな山に囲われている景色は大差なかった。

 怜史がぼんやりしているところを流生に見つかって、手招くままに家へと案内される。

「狭いところだけど、どうぞ」

 待ち合わせ場所から歩いて三分ほどで流生の家に辿り着いた。すぐ隣の駐車場には流生の車が停まっている。
 建物の一階、一番奥の角部屋のドアを流生が開いた。

「……お邪魔します」

 玄関に入ると見知らぬ香水のような甘い匂いが香った。シューズボックスの上の芳香剤から香っているのだとすぐ分かった。
 車とはまた違う匂いに怜史は緊張を覚える。特別な場所に踏み込む一歩を、怜史は身長な足取りで踏み出した。

 1Kのその部屋は流生の車と同じく、十二分に片づけられていた。目立った机とベッドとローテーブル、それに本棚だけだ。どれもダークブラウンで色を統一されている。
 キッチンにある家電はどれも新しいもので、家電量販店の展示と見紛うほどに綺麗だった。あるいは新品そのものだった。

「あんまり人呼ばないから、緊張するな」

「……俺も、緊張してる」

「そっか。じゃあ同じだね」

「……ん」

 両手を繋ぎ合わせて部屋の中央で視線を交わす。
 ここには他人の目がない。完全な二人きり。車という城よりももっと広く、自由でいられる場所。

「怜史、」

「……流生」

 互いの名前が部屋の中に心地よく響く。
 明確に「これが幸せだ」と確信づけるのは、怜史にとって人生で初めてであったような気がした。

 名前に惹きつけられるように、どちらからともなく顔を近付ける。怜史は少しつま先立ちになってそっと目を伏せた。

 唇が触れ合う。すぐには離れられなくて怜史は流生の背中に腕を回す。

(もっと、長くしていたいよ、流生)

 怜史は流生のメガネのブリッジをつまんで外す。これがあると邪魔だと思ったのだ。流生は微笑みながら、怜史が外したメガネを受け取ってテーブルに置く。

 ついばむようなキスが、やがて深く深く繋がっていく。流生の舌先が唇の内側に触れた瞬間に、怜史の鼓動が一際大きく打ち鳴らされる。

 この先の流れに怜史は密かに期待を寄せた。だが、流生はあっさりと目蓋を開いてしまった。
 動きが止まったのを不思議に思いながら怜史も薄目を開く。唇を触れ合わせたままに視線を合わせると、途端にぎこちない空気が流れ出す。

「……流生?」

「……ごめんね」

 流生は怜史の頬を撫でると、一度思い切り怜史の身体をぎゅうっと抱きしめた。

「ご飯にしよっか。お腹すいただろ?」

「……うん。空いた」

 もう少しあのまま続けても良かったのに、と思った本音に蓋をする。それでもまだ物足りないと思う衝動が怜史の指先に現れて、流生の手のひらをいたずらになぞった。流生は少し戸惑いながらも笑って、その手を握り直した。

***

 昼食は二人で焼きそばを作って食べた。
 流生はあまり自炊をしないことを決まりが悪そうに教えた。

「レシピ通りに作ってもね……火加減がわからなくて生焼けか焦げすぎるかの二択なんだ」

 それを裏付けるように焼きそばの具も肉類はそのままでも食べられるウィンナーだった。怜史はこっそり冷蔵庫の中を盗み見たが、やはり生肉や生魚の類は見受けられなかった。

「怜史は家の手伝いで料理とかする?」

「全然しない。焼きそば作れるなら、流生の方が俺よりスキルある」

「僕たちは二人揃って生活能力が低そうだね」

「……俺が料理できるようになったら嬉しい?」

「嬉しいって……いや、僕がちゃんと覚えるよ。なんだか怜史に包丁持たせるの申し訳ない」

「何それ」

 そんな子供らしい一面に流生が微笑むと、怜史は納得しない様子で焼きそばを啜った。麺の端が焦げて固くなっているが、流生が作ったものを食べられることが嬉しい怜史には些末な問題だった。

 もっと大人になったら、こんな風景が日常になるかもしれないと、遠い未来に思いを馳せる。
 例えば三年後、高校を卒業する頃の自分など、怜史には想像もつかなかった。だがその未来に今と変わらずに流生が居ればいいなと思っていた。

***

 食事の後、二人は並んでコンサート映像を見ていた。生活必需品以外ほとんど何もない、流生の家に唯一あったブルーレイディスクだ。

 CMやバラエティ番組でしか聞いたことのない、とうの昔に活動停止したバンド演奏に耳を傾ける。

 怜史はこれが流生の好きなものである事を身体に刻み込むように、その音ひとつ一つを吸収するように聴いていた。

 流生が好きなものは全て、知り尽くしたかった。

 一つの曲が終わると観客の歓声もそこそこに、すぐに次の曲のイントロが始まる。今度はバラードだった。アコースティックギターの緩やかな響きと、印象的なシンセサイザーの音色がゆっくりと流れていく。

「これ、好き」

 怜史は直感で口を動かした。流生は怜史の顔をながら静かに首を縦に振った。

「僕も好き」

「……うん、すごく好き」

 怜史は流生の腕に自分の腕を回す。顎を肩に乗せて、その耳のすぐそばで映像から流れてくる歌を口ずさんだ。

「……飽きちゃった?」

「ううん。そんなことない。でも」

「でも?」

「……もっと他に、流生とくっ付いてたいんだけど」

 流生の視線が完全に画面を逸れる。その隙をついて怜史は流生の両頬を捕える。唇が触れるギリギリまで近付いて、その瞳の奥を覗き込む。

「俺、さっきの続きがしたい」

「つ、続きって……」

 流生は視線を泳がせる。だがそうすればするほど怜史が頬を押さえる手に力を込める。
 行き場を失った流生が退こうとした時、手を滑らせて後ろにひっくり返った。怜史はそれに続いて流生の上に重なって倒れこむ。
 怜史の小さな身体では流生に覆い被さることは不可能だった。その代わりに胸の上に手を乗せて、流生の心臓の上を優しくなぞった。いたずら心を秘めたその目が子猫そっくりの形になって流生の視界に映り込んだ。
 その顔を前にした途端、流生は呼吸をするのを忘れてしまった。

「れい、じ」

「だめ?」

「自分が、どういう振る舞いをして、何を言ってるのか分かってる?」

「うん……分かってる」

 怜史から流生に進んでキスをする。不器用にもリップノイズを混ぜて震える唇が跳ねる。気恥ずかしさも少し合って怜史が照れ笑いを浮かべると流生は呆気に取られてしまった。

 流生の喉元が動いて、生唾を飲み込んだのが怜史にも分かった。

 何かを諦めたようにため息をつきながら、流生は姿勢を正した。そして、

「いてっ」

 流生は手のひらを縦にして、怜史の頭を軽く小突いた。

「悪い子」

「……えぇ?」

「ずっといい子だと思ってたんだけど……もしかしたら君はとんでもなく悪い子なのかもしれないね」

 流生の穏やかな表情に、怜史は目を奪われる。

 流生は怜史が望むようなことはしなかった。ただ、自分が小突いたつむじのあたりから後頭部をそっと撫でてくる。

 流生は腕の中で怜史を優しく抱き止める。ニット越しに流生の温度が伝わってくる。それだけで怜史は、息ができなくなるくらいに胸が騒いだ。

「そういうことは……またいつかね」

「いつか……」

 流生の胸に鼻を寄せながら考える。

 そのいつかは今日ではない。今日は大人になれそうもない。だが、そんな遠い未来の予想図を胸に描くのも悪くはないと怜史は思った。

***

 ライブの映像を観終える頃には、すっかり日が傾いていた。

 完全な夕暮れがカーテンのわずかな隙間から漏れている。

 今日は泊まりの予定できていない。怜史は帰らなければならない。そのタイムリミットが近づいて来ている。

 怜史は寂しさを胸に抱えながら、ふとあることを思いついた。
 思い至ったがままに、自身の制服の上から二つ目のボタンを引き千切る。それを流生の前に差し出した。

「これ、あげる」

「……第二ボタン?」

「ん」

 流生もゆっくりと起き上がると、怜史の手のひらからボタンを受け取った。ボタンを夕日にかざしてじっと目を凝らす。

「僕もこの制服だった」

「そうだよね」

「でも、これは特別だ……卒業式前なのにいいの?」

「卒業式終わるまでもう会えないし……」

「……僕でいいの?」

「……いいよっ」

 怜史は勢い付けて突進紛いのハグをする。そして静かに流生の背中を撫でた。

「……ありがとう、怜史」

「ん、」

 怜史はお礼よりも欲しいものがある。唇を流生の方に軽く突き出して目を閉じる。耳には流生の微笑む声が聞こえて来た。

 流生はそれに応えて、怜史の唇に自身の唇を触れ合わせた。

(このままずっと、永遠に、流生と一緒にいられたら良いのに)

 怜史は夢見心地のままその柔らかい感触に身を委ねた。一秒でも長く、流生の身体に触れていたかった。

***

 翌る日、普通にやってくる平日に辟易しながら怜史は家の扉を開けた。頭の中にはまだ昨日のことばかり浮かんでくる。少しにやけてしまいそうな頬を、一生懸命堪えながら通学路を歩く。

「れいちゃん、ちょっと」

 家から出てすぐの交差点、信号で足を止めていると後ろから声をかけられた。振り返ると怜史の家の近所に住む、母親と同じ歳くらいの女性が二人経っていた。

 親が交流のある人で面識がある。だがなかなか怜史に直接声をかけてくることは今までになかった。

「はい……」

 怜史はやや緊張しながら二人の顔を見る。女性達はやけに深刻そうに、怜史に一歩近づいて声のボリュームを下げていった。

「大丈夫? みんな心配してるのよ」

「何を……ですか?」

「何をって……盛谷さんのところのお兄さんのことよ」

「――え?」

 怜史の耳にはまだうまく二人の声が届かない。自分で自分の耳を遮断しているのだと怜史は確信する。この人たちは良いニュースを教えようとはしていないと分かってしまった。

 ようやく訪れた春。だが、空気は異様に熱く肌に張り付くように怜史を取り囲む。穏やかな時間には、到底辿り着けそうになかった。
 
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