【完結】僕らにはもう辿り着けない場所がある

松莉あげみ

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プロローグ

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 今、目の前にいるのは同じ未来を選んだ存在だ。手を取って、熱に浮かされた目で見つめ合う。ただそれだけの時間が心地よい。
 彼を見上げた時に見える煌々としたシーリングライトだけが居心地を悪くする。今夜の二人を咎めているみたいだと怜史は思った。この照明のように二人のすぐそばで見つめていた、もう一人の光が脳裏を過っていく。

「怜史……っ」

 今、名前を呼んだのは誰か。怜史は沸騰しかけた頭では判別できなかった。

「れい、じ」

 唇を合わせて、手を重ねて、それでも足りないと思ってしまう。慣れた体温はどこまでも怜史を慈しんだ。

「っあ…まっ、て」
「まてない……」

 切羽詰まった目の前の男を見て、怜史の視界に火花が走る。熱っぽい声がまともな思考を奪ってしまう。

「好きだよ……っ、ずっと、変わらずに……!」

 甘く自分の名前を呼ぶ声を、怜史は二つ知っている。
 頭に浮かぶ選択肢のうち、一方は二度と聞くことが叶わない。二度と戻らない、遠い時間を一緒に過ごした大切な人。

 怜史の目の前にいるのは一人だ。

 怜史の浮気じみた思考などつゆ知らず、目の前の彼は夢中になって頬を紅潮させている。余裕が無い一方でその口角はしっかりと上がっている。どうしようもなく愛おしい存在を見つめている瞳だった。怜史はそれを真っ直ぐに浴びせられている。

 それを見ていたらもう何もかもどうでも良くなって、怜史は彼が作った影の中に飲み込まれていくことを、選んだ。

***

 三ヶ月前。

 浅賀怜史(あさがれいじ)は大学の就職課内に併設された相談スペースで待ちぼうけを食らっていた。予定では十五分前から同じ大学の卒業生によるOB訪問が行われているはずだ。
待ち人はどうやら電車の遅延に巻き込まれていると、就職課の職員から伝えられた。

 怜史は忠犬の如く、言われるがままに待ち続けている。

 真横の掃き出し窓から差し込む夏の日差しが怜史を照らしている。黒い髪が光で艶を増し、深く黒い大きな瞳が眩しそうに太陽を見上げる。

 瞳の大きさにそぐう長いまつ毛が目を細めた時に静かに空を仰いだ。気温に反して細い鼻筋と薄紅の唇は涼やかで、白すぎる肌も相まって夏の陽気さとはやや不釣り合いだ。

 二十歳をすぎた青年にしてはあまりにも中性的な顔立ちだった。人間離れした美しい風貌を、周囲は口を揃えて褒め称える。現に外を通る学生は窓際の怜史に目を奪われて、足の速度を緩めながら通り過ぎていった。

 怜史にとってはそれがコンプレックスでもあった。

 退屈を極めた怜史はSNSとホーム画面を行き来している。SNSでは有名インフルエンサーが1999年にタイムスリップ旅行をしたという話題で持ちきりだった。

 20XX年。タイムマシンが一般的に普及し始めていた。タイムマシンは大手航空会社が旅客機さながらの運用を開始しており、それなりに費用はかかるもののハードルの高いものでは決してなかった。市民の長期休暇の旅行先の候補として過去や未来という選択肢はあることは大きなブームになっていた。

 人々は新時代の到来に胸を躍らせていたが、怜史には全く興味のわかない話だった。
 
 そんな話題には目もくれず、いよいよすることがなくなって、ただひたすらスマホの画面のオンオフを繰り返している。

 待受画面に写る実家の柴犬と何度か目を合わせたのち、それを覆い隠すようにメッセージアプリの通知が現れる。決して待ち望んでいたわけではないものの、怜史は目で見て暇を潰せる存在の到来に嬉々としてスマホの画面を開いた。

 メッセージの送り主は地元に住む友人の柏葉刹那(かしわばせつな)からだった。刹那とは中高生時代を共に過ごした怜史にとってはいわば親友だった。

『今年は盆に帰ってくんのか?』

 怜史が上京して以来、この季節に刹那が必ず送ってくる話題だった。そしてそれに対する返答もお決まりの言葉があった。

『まだ決めてない』
『またかよ! 新幹線取れなくなるぞ』
『大丈夫』

 刹那はややお節介な節があり、怜史の母親であるような振る舞いをする時がある。恒例のそれに「また」はこっちだよ、と思いながら刹那を嗜めるようにメッセージを連ねていく。

『こっちでの生活ももう三年目なんだしちゃんと分かってる』
『帰ってこなかったら泣く』
『誰が』
『おれ』

 刹那から犬が号泣しているスタンプが連投され、怜史は堪えながらも静かに微笑む。怜史は刹那が泣いているところなど見たことがなかった。

『うそつき』
『今回ばかりは泣いてやる』
『メンヘラちゃん?』
『そりゃもう抜群のヘラを見ることになるよ』

 夢中になってメッセージを送っていると、怜史の後ろからそっと誰かが現れた。怜史は慌てて『ごめん、用事』と送ってスマホをスラックスのポケットに押し込む。

 そこに現れた人物の顔もろくに見ずに立ち上がり、小さく会釈をする。

「すみません、電車が遅延していて……お待たせしました」

 その声は心底申し訳なさそうで、だがとてもか細いものだった。怜史を見下ろすほどの大きな体躯の持ち主から発せられたものとは思い難い、自信の無さが目に見えて現れているようだった。

 だが、怜史にはその声に聞き覚えがあった。

 はっとして顔を上げる。
 少し長いゆるいウェーブのかかった茶髪。薄茶の瞳と垂れ目の柔らかい顔立ち。強張って結ばれた大きな口。白いワイシャツの上からでも分かる引き締まった胸の筋肉に反して、豪胆さはどこにも見られない。背中に背負った大きなリュックの方が本人よりもずっと無骨に感じられる。

 怜史はこの男を知っている。

「――る、」
「!」

 怜史が名前を呼びかけようとして口籠もる。その途端に向こうも怜史の存在に気が付いた。柔和な表情がたちまち強張る。そういえば顔に全て出る奴だった、と怜史は思い出を振り返って苦い顔を浮かべる。

「……怜史」
「……ども」

 せっかく自分が言い切るのを耐えたのに向こうは簡単に名前を呼んだと、怜史は内心で腹を立てた。

 OBはあからさまに動揺しながら、震える手つきで名刺を取り出すと怜史におずおずと差し出した。

「株式会社ブランディーズの企画運用部、も、盛谷流生(もりたにるい)と申します。本日はよろしくお願いいたします。……って、一応形式だけ……な」

 盛谷流生。懐かしい名前の綴られた小さな紙を怜史は黙って受け取る。指先に触れた途端に投げ捨ててしまいたいような、それでいて胸のポケットに大切にしまい込んでしまいたいような、渦巻く感情が怜史を襲う。

「……浅賀、怜史です。よろしくお願いします」

 怜史は流生と同じく一旦体裁を保つべく自ら名乗っておくことにした。すると流生は目尻を下げて笑った。その耳がほんの少し赤らむ。照れているのが怜史に伝わり、怜史はすぐに目を逸らした。

「変な感じだな。れ……浅賀とこんな風に堅苦しい挨拶するなんてさ」
「……ん、」

 流生は大きく深呼吸をすると椅子に付いて、リュックからタブレットとA4サイズのパンフレットを取り出して準備を始めた。

 怜史はその短い時間の間ずっと、流生の指を見つめていた。節くれ立った指と深爪になるほどに切られた爪は怜史の記憶にある形と何一つ変わりがなかった。目の前にいる男が自分の中で燻り続けている存在と同一であるとありありと感じていた。

「それじゃあ、まずはうちの会社に興味があるってことだったから……会社概要から説明させていただきます」
「……流生の手、」
「え……」

 怜史は流生の言葉をまるで聞いていなかった。視線の先の手に夢中で思わず口をついた言葉だった。怜史はすぐに後悔した。流生は固まって怜史を待っている。動揺しているのはあからさまだった。だが唇を噛んで無表情を貫いている。

「……なんでもないです。すみません」
「い、いや……それじゃあ、説明を……」

 この調子では今日のOB訪問の時間は何の収穫にもならなさそうだと怜史は予感する。流生相手では駄目だった。真面目に就職相談をするには阻害する要因が多すぎる。

 流生の説明が始まると同時に怜史は記憶を巡らせる。幼い頃の初恋を。もう取り戻せない大切な人を。悲しみを塗りつぶすように重ねた逃避行を。

 ――胸の中に蓋をし続けていた、流生との儚い恋人としての時間を。
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