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1輪の花
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今夜予定されていた晩課は、中止となった。
夕食を終えた修道女たちと僕ら門信者は、それぞれの宿舎へと戻っていく。
教会のすぐそばにある宿舎は、洞穴を改築した造りだ。
内部の壁には、二畳ほどのスペースがいくつも掘り込まれていて、僕らはその小さな穴を「部屋」として使っている。
僕にとっては、この狭い空間が唯一の個室だ。
といっても、置いてあるのは一冊の本だけ。
――カレンデュラ聖書。
他に何もない。でも不満はない。導きさえあれば、生きていける。
床には地底に自生する苔が敷かれていて、クッションのようにふかふかだ。
寝心地は想像以上に快適で、寒さを感じたことも一度もない。
神父様の話によれば、この地底教会《エウロパ》は、地熱を活かした構造になっているという。
だから僕は、ここに来てからというもの、ずっと心地よく過ごせている。
門信配属されて、もう半年。
まだ不慣れなことは多いけれど、この生活にもずいぶん慣れてきた。
一日の終わり。
湧き水で身体を清め、ローブを洗濯係に渡し、部屋着に着替えて戻る――
いつものルーティンのはずだった。
……だが、今夜は違った。
僕の部屋に、先客がいた。
「よう、バルサ。」
深刻な表情を浮かべて、僕の名前を呼んだのは、一人の少年。
僕と同じ13歳の同期――リンデンだ。
銀の髪をしていて背は僕よりも高く、言動も落ち着いていて、頼りがいのある奴だった。
「お前、聞いたんだろ? カリンがDOGに連れて行かれるって話。」
その問いに、僕は一瞬、答えを迷った。
確かに聞いた。けれど、それは……盗み聞きだった。
しかも、僕は知っている。
以前、リンデンが修道女宿舎の前で、カリンと手を繋いでいたのを見た。
門信者の立ち入りが禁じられている場所で――それでも、二人は確かにそこにいた。
その日から、僕は自分の想いを押し殺すようになった。
リンデンは僕よりも男らしく、堂々としていて、かっこいい。
重い荷物を運ぶ時だって、いつも真っ先に手を貸してくれる。
カリンが彼を選んだとしても、不思議じゃない。
僕の負けだと、認めざるを得なかった。
でも――
それでも、胸が痛い。
たとえ僕でも、こんなに寂しい。
ならば、リンデンは……どれだけ辛いだろうか。
僕は彼の目を直視できず、ただ小さく頷いた。
「どうした? カリンの門出なんだ、暗い顔するなよ。」
リンデンは穏やかな表情をしていた。
その笑顔は、悲しみを覆い隠しているように見えた。
「寂しい?……違うよ。本当に誰かを想うなら、自分の感情なんて後回しにすべきだ。
カリンが旅立つなら、それを祝福してやるべきだろ?」
そう言って彼は、手元に抱えていた聖書を少し持ち上げた。
その隣に、白く儚い一輪の花――酸草が添えられていた。
酸草(さんそう)。
地底に咲く、光合成効率の高い野草。
わずかな光でも豊富な酸素を生み出すため、地下での生活には不可欠だ。
けれど、その希少性から高価であり、僕ら門信者が持てるような代物ではない。
「カリンってさ、体弱いだろ?
旅立ちに付き添えるのはDOGだけだ。ミズメもいられない。
だから、少しでも役に立てたらと思ってさ。……遠い場所かもしれないし。」
リンデンの手の中で、花は静かに揺れていた。
そこには、言葉にならない想いが確かに宿っていた。
僕の中で、何かが突き動かされる。
「……僕も、一緒に行くよ。」
「ありがとう、バルサ。じゃあ……着替えてこないとな。」
リンデンは微笑み、立ち上がって自室へ向かった。
そのとき――
彼の持っていた聖書から、一枚の紙片がふわりと舞い落ちた。
黒い紙だった。
僕はそれを拾い、彼に手渡そうとした――その瞬間。
目に飛び込んできた文字列が、脳の奥底に火をつけた。
忘れていた記憶が、感情が、洪水のように溢れ出す。
僕にかけられていた「暗示」が、音を立てて崩れ去った。
そして、気がつけば僕の足は、自然と動き出していた。
――カリンが囚われているかもしれない、あの場所へ。
教会の最奥。
誰も語らぬ、誰も近づかぬ。
拷問部屋へ。
夕食を終えた修道女たちと僕ら門信者は、それぞれの宿舎へと戻っていく。
教会のすぐそばにある宿舎は、洞穴を改築した造りだ。
内部の壁には、二畳ほどのスペースがいくつも掘り込まれていて、僕らはその小さな穴を「部屋」として使っている。
僕にとっては、この狭い空間が唯一の個室だ。
といっても、置いてあるのは一冊の本だけ。
――カレンデュラ聖書。
他に何もない。でも不満はない。導きさえあれば、生きていける。
床には地底に自生する苔が敷かれていて、クッションのようにふかふかだ。
寝心地は想像以上に快適で、寒さを感じたことも一度もない。
神父様の話によれば、この地底教会《エウロパ》は、地熱を活かした構造になっているという。
だから僕は、ここに来てからというもの、ずっと心地よく過ごせている。
門信配属されて、もう半年。
まだ不慣れなことは多いけれど、この生活にもずいぶん慣れてきた。
一日の終わり。
湧き水で身体を清め、ローブを洗濯係に渡し、部屋着に着替えて戻る――
いつものルーティンのはずだった。
……だが、今夜は違った。
僕の部屋に、先客がいた。
「よう、バルサ。」
深刻な表情を浮かべて、僕の名前を呼んだのは、一人の少年。
僕と同じ13歳の同期――リンデンだ。
銀の髪をしていて背は僕よりも高く、言動も落ち着いていて、頼りがいのある奴だった。
「お前、聞いたんだろ? カリンがDOGに連れて行かれるって話。」
その問いに、僕は一瞬、答えを迷った。
確かに聞いた。けれど、それは……盗み聞きだった。
しかも、僕は知っている。
以前、リンデンが修道女宿舎の前で、カリンと手を繋いでいたのを見た。
門信者の立ち入りが禁じられている場所で――それでも、二人は確かにそこにいた。
その日から、僕は自分の想いを押し殺すようになった。
リンデンは僕よりも男らしく、堂々としていて、かっこいい。
重い荷物を運ぶ時だって、いつも真っ先に手を貸してくれる。
カリンが彼を選んだとしても、不思議じゃない。
僕の負けだと、認めざるを得なかった。
でも――
それでも、胸が痛い。
たとえ僕でも、こんなに寂しい。
ならば、リンデンは……どれだけ辛いだろうか。
僕は彼の目を直視できず、ただ小さく頷いた。
「どうした? カリンの門出なんだ、暗い顔するなよ。」
リンデンは穏やかな表情をしていた。
その笑顔は、悲しみを覆い隠しているように見えた。
「寂しい?……違うよ。本当に誰かを想うなら、自分の感情なんて後回しにすべきだ。
カリンが旅立つなら、それを祝福してやるべきだろ?」
そう言って彼は、手元に抱えていた聖書を少し持ち上げた。
その隣に、白く儚い一輪の花――酸草が添えられていた。
酸草(さんそう)。
地底に咲く、光合成効率の高い野草。
わずかな光でも豊富な酸素を生み出すため、地下での生活には不可欠だ。
けれど、その希少性から高価であり、僕ら門信者が持てるような代物ではない。
「カリンってさ、体弱いだろ?
旅立ちに付き添えるのはDOGだけだ。ミズメもいられない。
だから、少しでも役に立てたらと思ってさ。……遠い場所かもしれないし。」
リンデンの手の中で、花は静かに揺れていた。
そこには、言葉にならない想いが確かに宿っていた。
僕の中で、何かが突き動かされる。
「……僕も、一緒に行くよ。」
「ありがとう、バルサ。じゃあ……着替えてこないとな。」
リンデンは微笑み、立ち上がって自室へ向かった。
そのとき――
彼の持っていた聖書から、一枚の紙片がふわりと舞い落ちた。
黒い紙だった。
僕はそれを拾い、彼に手渡そうとした――その瞬間。
目に飛び込んできた文字列が、脳の奥底に火をつけた。
忘れていた記憶が、感情が、洪水のように溢れ出す。
僕にかけられていた「暗示」が、音を立てて崩れ去った。
そして、気がつけば僕の足は、自然と動き出していた。
――カリンが囚われているかもしれない、あの場所へ。
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誰も語らぬ、誰も近づかぬ。
拷問部屋へ。
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