脱法ミントの密輸回顧録

針ノ木みのる

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己消しゴム、鈴木哲郎編

己を消す、消しゴム

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  俺は午後から病院に行く為、早退届けを専務に提出した。
 

 あの後、トイレから戻ると皆は河童に遭遇してたような顔をして俺の頭を見てくる。

 その度、言い訳になりそうだったが、失くなった髪はズラでは無いと必死に説明した。 

 皆、白々しい顔をしていたが、平岡専務だけは親身に話を聞いてくれた。さすが髪が無い事の虚しさを知る理解者だ。 

「人は誰だって失ってから大切さに気付く。手遅れかもしれないが、至急病院へ行った方がいい」と涙ながらに強く念を押されたので行く事にした。 

現場は猫の手も借りたいほどに追い詰められている。この状況下で流石に気が引けるが、髪の毛が一瞬で失くなってしまったら、何かの病気を疑ってもおかしくない。やっぱり病院へ行くべきなのだろう。

 ハゲを知る者はハゲにとても寛大だ。俺もこれからは無暗にハゲをディスらないようにしよう。 

 最初に自分の頭を見た時は衝撃を受けたが、心は直ぐに順応し、開き直れた。それは体裁を気にしていた己に決別をする意味でもあった。

 二十代の頃、女性に自分を少しでも良く見せようと身なりには気を付けていた。だが、こんなハゲ頭のオッサンを誰が好きになってくれるって言うんだよ。 

 アスカさんを除くとして、俺は三十年間異性にモテた試しがない。興味を持ってくれる人もいなかった。自分に自信がないから、自分で自分を肯定できないでいたのだろう。こんなつまらない人間、居ても居なくても関係ない、価値の無い俺に髪の毛オプションがあってもなくても何が変わるって言うんだ。 

 仕事に追われる日々を過ごして行く中で、俺の生活では仕事が最優先になってしまい、俺は俺を見失っていた。ファッションを考える余裕もなければ、異性を気にする余裕も、頭を気にする余裕もなかった。 

 きっと仕事のし過ぎで、俺は俺自身に興味が無くなってしまったのだろう。もし思春期の学生だった頃に頭がハゲたら、死に物狂いで隠して、自分のプライドを必死に守ろうとしていたと思う。 

 あの時の俺は自分を大切だと思えたからこそ、守りたかった自分がいた。 

 俺は髪の毛を失った事で自身が変わってしまった事に気付かされた。 

 いつからか、俺は自分を大切に思えなくなっていたのだ。 

 体に感じる無気力感。俺はお昼の休憩まで、デスクに落書きをしながら途方に暮れた。 

 はー。ナナは何してるかなー? 

 ふと無意識に落書きをしていたナナのイラストを見て、ナナの事を第一に考えている自分に気付いた。 

 俺には大切な家族がいる。ナナとの幸せな時間の為に俺は仕事を頑張っているんだ。 

 改めて自分の仕事に対する意味を見出した俺。心が少しだけ前を向いた。 

 まずは病院だ。 

 時計を見ると十一時。お昼までまだ一時間ある。 

 今ある仕事を中途半端に手を付けるより後輩に一任してサポート役に周るのが最善かな……。 

 引継ぎも兼ねて俺は北村君を呼び、俺が取り掛かっている一連の仕事の現状と内容を引き継いだ。 

 分からない事は平岡専務に確認するように指示を入れ、下請けの連絡もあるから俺のパソコンも使っていいと言っておいた。 

 十二時のお昼の鐘を知らせる社内アナウンスが流れる。 

「ごめんね北村君、よろしく頼む」 

「任せて下さい。お大事にでーす」 

 後々上司になるであろう後輩に頼む最後の仕事。俺は会社を後にした。 

 

 〇 

 

 十四時頃。下請けからのメールの内容を確認しようと北村は哲郎のデスクに座った。 

「ん? あれ? 哲郎先輩デスクに落書きしてる。これじゃ平岡専務に怒られちゃいますよー」 

 北村は哲郎のデスクに置いてある、消しゴムを取り出し、デスクに書いてあった哲郎の落書きを全部消した。消しゴムは魔法の効果を発動させ、一瞬、奇妙な輝きを放った。 

「んん? なんだ? この消しゴム……ま、いっか」 

 北村は消しゴムを戻し、気にせず作業に取り掛かった。 

 

〇 

 髪の毛が抜けたら何科になるんだっけ? 

 無知な俺はとりあえず総合病院に行けばいいだろうと安易に考えていた。 

 その結果、紹介状が無いため五千円以上の特別料が別途掛かり、大多数の受診患者の順番待ちで数時間後にやっと診察してもらえた。 

 後から聞くに、総合病院では緊急性の高い患者から最優先に診察され、一般患者が殺到されては困るので特別料金が掛かるらしい、次からは気を付けよう。 

 病院の先生の検診結果によると、どうやら俺の髪は又生えてくるらしい。今、髪は全部抜いてしまった状態で、毛根はしっかり残っているとの事。 

 なんでそうなったかは医学的には不明だが、事前に答えたアンケートの予想だと過剰な疲労やストレスが原因の可能性があるという結果だった。最後に試供品の栄養ドリンクを貰い飲んだ。 

 そりゃストレスって言ってしまえば、溜まっていない訳がない。朝から晩まで根詰めのデスクワーク。精神的にも体力的にも追い詰めてくる上司と納期。今まで八年間体が耐えてくれたのが不思議なくらいだ。 

 俺は診察結果を電話で上司に報告すると、今日はもう退社してOKとの事。まぁもう定時を過ぎているのだけどね。感覚がもう麻痺している。 

 だが納期もある為、明日は通常通り来てほしいとのこと、半分病人の俺に気を使って「明日は休んでいい」とは言ってくれないのか? この上司は。とりあえずお言葉に甘えて直接家に帰ると。 

 

 ……ナナが居ない! 

 

 俺は部屋の隅々まで七色を探した。警察にもすぐさま連絡し届け出を出した。保健所に連絡が来てないか何度も確認した。ペットを探してくれる慈善団体にも助けを求め、SNSにも拡散し、目撃情報を求めた。懐中電灯を持って近隣の公園や草木の辺りを徹夜で探した。

 だが、七色は何処にも居なかった。 

 気付けば朝。会社の出勤時間になり、俺の目元には大きなクマが出来、死んだ魚の目で家を後にした。 

 
〇 


 俺は気力、体力、魂とついでに髪の毛も抜け落ちた状態で会社に出勤した。 

「先輩、お疲れ様です。なんだかお疲れのようですね。はい、差し入れのコーヒーです」 

 北村君にブラック缶コーヒーを頂き、俺は眠気眼に喝を入れた。 

「ああ、ありがとう。助かるよ」 

「意外にスキンヘッドも似合ってますよ」 

「……五月蠅い」 

 彼成りの気遣いなのだろうが、イカした受け答え出来る気力が俺には無かった。 

 正直仕事処ではない。今すぐにでもナナを捜索に行きたかった。 

 だが、現場は地獄と化した合戦の最中、俺は前日、前々日と有給に早退を貰ってしまっている。これでは部下に示しが付かない。 

 俺は心を殺し、目の前に貯まった仕事に向き合い、黙々とプログラムを打ち続けた。 

 だが目を瞑る度に、浮かぶナナの幻影。内心もう心配で心配で目の前の仕事に集中できなかった。 

 もしかしたらナナは道路に飛び出して車に引かれてるんじゃないか? カラスに食べられてしまったんじゃないか? お腹を空かせて今も俺を探しているんじゃないのか? 

 最悪の状況が度々脳裏に浮かぶと、キーボードのタイプミスが連発する。 

「くそ!」 

 これでは全く仕事が捗らない。衝動的にイライラした俺はデスクに置いてあるペン立てを腕で薙ぎ払った。 

 ガシャン! と散らかる音で一瞬冷静になり、ふとデスク周りに落ちた文房具を拾おうとする。そして一つの消しゴムが目に留まった。 

「あれ? これって……」 

 自分の持っているものなら何でも消すことが出来る消しゴム、己消しゴム 

 数日前、この消しゴムを渡してくれた熊のマダナイさんの言葉が脳裏に浮かぶ。 

 俺は昨日、進捗状況表に書かれていた、北村君のメモ書きをこの消しゴムで消した事を思い出し、頭を触った。 

「も、もしかして……」 

 抜け落ちたのではなく、ものの見事に消えてしまった俺の髪の毛。まさかとは思うが、血の気が引いた脳は考えてしまう。そして答えを出さずには居られなかった。 

 俺はデスクの上に置いてある、飲み掛けの缶コーヒーを確認すると、付箋紙を一枚取り、 「缶」と言う文字を書いて、消しゴムで文字を消した。 

 すると目の前にあった缶コーヒーの容器は姿を消し、中身のコーヒーだけが大きな雫となって落ち、デスク一面、香ばしい匂いを撒き散らす、茶色い惨劇へと変えた。 

「嘘だろ……」 

 血の気が引いた脳は怖くなって震えだし、手は身震いする。 

「何やってるんですか! 哲郎さん!」 

 オフィスに広がる香ばしいブラックコーヒーの香りに気付いた北村君は、震える俺を見るなり、箱のティッシュペーパーを片手に慌てて駆けつけてくれた。すぐさま俺のコーヒーの拭き取りを手伝ってくれる。 

「……ちょっと待ってくれ」 

 試すのが怖かった。だが、試さずにはいられなかった。 

 俺は北村君の手を止め、再び付箋を取り出した。 

 そして今度は「零れたコーヒー」と書いて己消しゴムでその文字を消した。 

「あれ? 消えた……」 

 目の前に起きた現実は予想を確信へと変える。 

 この消しゴムはタダの消しゴムではない。本当に魔法の消しゴムだったんだ。 

 テーブルに広がっていた香ばしい香りと茶色い惨劇。そしてティッシュに染み込んでいたシミの数々は、ものの見事に消えてしまったのだ。俺が消しゴムで文字を消した瞬間、まるで時が戻ったかと思えてしまう程に、綺麗にコーヒーと言う液体の存在が消えた。 

「え? ……いったいどうやったんですか?」 

 北村君は大量に持っていたティッシュが新品の状態に戻っており、途方に暮れていた。 

 だが、もっと途方に暮れたかったの俺の方だ。 

 自分のデスクにはあるはずの物が今朝から無くなっていたんだ。 

 昨日、空き時間に妄想を膨らませて書いたナナの落書き。 

 俺はデスクを手で触り、消えている事を再度確認した。そして強張る唇をゆっくり広げ、北村君に尋ねた。 

「北村君……。ここに書いてあった落書き、知らない?」 

「あ、あれですか? 僕が消しておいてあげましたよ。専務に怒られると思って」 

「……もしかしてこの消しゴム使って?」 

「あ、はい。……なにかまずかったですか?」 

 人を殺したいという感情が生まれたのは後にも先にも、この瞬間だけである。 

 例え善意的な意図があったとしても、彼成りの優しさ故の行動だったとしても、全てをオブラートに含んで心で嚙み砕いて耐えようとしても、煮えたぎる怒りは止める事が出来なかった。 

「ふざけんな!」 

 俺は北村君に殴り掛かった。彼からしてみれば完全に八つ当たりだ。翌々考えればそんな大事な消しゴムをほったらかしにしていた俺が悪い。 

 だが昨夜からナナは姿を消した。その原因が彼によるものだとしたら、俺は拳を奮わずには居られなかった。物事を直視できない程に俺はパニックを起こしていたのだ。 

 目は血走り、顔は真っ赤。息を何度吸っても脳に酸素が行き渡らない。 

 殴った拳が痛さを感じ始める頃。俺は同僚や部下達六人掛かりで羽交い締めにされ、取り押さえられていた。 

「一体どうしたんだ? 落ち着け! 鈴木!」 

 平岡専務の声で我に返った俺。目の前には口から流血し、大量のティッシュで血止めしながら介護されている北村君がいた。 

 北村君は今まで俺に抱いていた敬慕な眼差しとは打って変わり、殺人鬼を見るような軽蔑の目で俺を睨んでいた。 

「俺が何したって言うんですか? 消しゴムで落書き消されたくらいで殴るんですか? クソったれ、もう、あんたのような人と仕事なんて真っ平ごめんだ」 

 北村君も平岡専務も、数多の従業員達も俺に軽蔑の目を向ける。だが、俺はそんな事どうでも良かった。ただただ、涙と嗚咽が止まらなかった。 

「七……なな……」 

 彼女が消えてしまったという事実が俺の心に突き刺さって抉り広げる。 

 
〇 


 あれから一週間。俺はナナを失った悲しみで壊れてしまった。 

 会社には無断欠勤を重ね、完全な引きこもり。カーテンを開いた時に指す日差しがウザくて開けれず、だからと言って電気を付ける気力も湧かない。 

 俺は真っ暗な部屋の中で、空っぽの鑑賞ゲージをじっと見つめながら、ベッド上で、ずっと蹲っていた。 

 食べ物は何を食べても胃が受け付けない。吐き気ばかりに悩まされ、水さえ飲むのが億劫になっていた。 

 体を動かそうと思えばいつでも動かせれるはずなのに、もう全てがどうでも良いと思える程に無気力状態は続き、考える事さえも放棄していた。 

 会社からの着信件数百八十二件。それ以降はスマホの電池が切れたので覚えていない。 

 充電する事さえも面倒くさい。トイレに行きたくなる尿意にさえ苛立ちを感じていた。 

「畜生。畜生。畜生。。」 

 人間とは自分の存在以上に大切な物を失った時、死にたいと思ってしまうのだろうか。 

 自分の存在よりも大切だったナナ。まるで最愛の恋人を失ったかの如く俺は喪失感で潰されそうだった。 

 ナナの居ない空っぽのゲージを見るたびにナナと共に過ごした楽しい時間の数々が頭の中から離れない。その全てを俺の軽率な行動が原因で壊してしまったのだ。 

 後悔と罪悪感が重くのしかかり、枯れ果てたはずの瞳から再び涙が零れる。その心の葛藤が何度も何度も何度も何度も繰り返された。 

 苦しい、もう嫌だ。 

 あれから妙に良く聞こえる自分の脈の音。 

 誰か教えてくれ。自ら命を絶つなら、どんな死に方で死ねば一番楽に死ねる? 

 部屋を見渡して映ったのはキッチンのシンクに洗わずに放置された少し錆びた包丁。 

 チラシを結んで捨てるように買っていた、首を締めるにはちょうど良さそうな強度の縄。 

 これから寒くなるので時間の空いていた時に買っていた灯油タンクの残り。 

 切る。締める。燃やす。 

 それらには道具として正しい使用方法があるが、涙袋の上に蓄積される塩分を含んだ液体が現実を直視させない悲嘆なフィルターとなって俺の心覆っていた。

 そして、その道具達はこの地獄から解放してくれる救いに映り、心に伝達していた。 

 放火はお隣さんに被害が及ぶかもしれないし、選ぶなら絞首か、斬首のどっちかか。 

 世界で一番愛していたナナはもうこの世に居ない。 

 ナナの居ないこんな世界なんて必要ない。 

 脳と呼ばれるCPUはナナの死と言う現実を情報処理しきれず。何度も何度もエラーを繰り返し、ずっと固まっている。 

 パソコン使ってる奴なら解るだろ? PCがフリーズしたら最後に選ぶのは強制終了だ。 

 人生をシャットダウンする。 

 横文字ってのは時々便利だ。自殺と言うと、荷を重く感じるが、シャットダウンなら気が少し楽になる。あんまり楽しくなかった人生だったけど、悪くは無かったかな。 

 死に向き合い、冷静になった俺。脳裏に浮かんだのは死んだ後、俺はどうなるのかと言う問いだった。 

 死ねば完全に消えてしまうのだろうか? それとも、魂が残り、再び転生が出来るのだろうか。 

 そんな事は考えるだけ無駄なのは百も承知。正直どうでも良かった。大切なのは死ねばナナの元に行けるのだろうか? という答えだ。 

 もしあの世に天国と地獄が存在するなら、ナナは天国に居る。 

 なら俺は天国に行けるのか?  

 ……絶対無理だ。ナナが俺の罪を許してくれるなんて到底思えない。 

 だって俺がナナを消してしまったんだから。 

「なんで! どうして! こうなった!」 

 いくら心を機械のように繕っても、後悔が脳裏に浮かんだ瞬間、俺は発狂してしまう。 

 拳を無機質な棒にして、己に対しての憤りと怒りを拳に込め、アパートの薄い壁を何度も何度も強打する。破壊される壁と心。指の節は赤く染まり、関節は痛みでもう曲がらない。それでも、それでも、手を奮わずには居られなかった。家にある家具家電。それらを破壊しつくしても収まらない憤り。投げたリモコンが壁を跳ね返り、ランプシェードに当たり割れてしまった。 

 無惨に散らばるガラス片を目の当たりにし、俺は我に返った。 



 ナナが好きそうだと、自ら選んだ木目調のランプジェード。 

 想い出と虚しさが足に刺さるガラスの痛みに変わり、俺の心にトドメを刺した。 

 

――死にたい。 

 

 この苦しみから解放されたい。救いを求めて探す先にあったのは部屋の側で転がっていた魔法の力を秘めた己消しゴムだった。 

 俺は消しゴムを手に取り、これを譲ってくれたマダナイさんの言葉を思い出した。 

「その消しゴムは自分が持っているものなら何でも消すことが出来る魔法の消しゴム。だが気を付けろよ、その消しゴムは己の存在をも消してしまう危険な消しゴムだからな」 

 ずっと捨てよう捨てようと考えていただけに、決心がつかず放置していた魔法の消しゴム。元はと言えば全てコイツが原因と言っても過言ではないのに、皮肉にもこんな所で役に立つとはな。

 俺は転がっているメモ紙に沢山の消したい自分を書いた。 

 「存在」という言葉を消せば俺は消えて無くなれるのだろうか。 

 「悲しみ」という言葉を消せば目頭から溢れる涙は止まってくれるのだろうか。 

 「記憶」という文字を消せば、僕は彼女との思い出を忘れる事ができるのだろうか。 

 「心」という字を消せばもう涙を流す事をしなくて済むのだろうか。 

 「命」という言葉を消せば俺は楽に死ぬことが出来るのだろうか。 

 俺は覚悟を決め、この世のすべてにサヨナラをする為に洗面台で顔を洗い、己の顔をジッと見つめる。 

 一週間前はスキンヘッドだった頭皮。今見ると小さい髪の毛達が顔を出し、青い頭になっていた。  

 初めて見る自分の生え始める頭の毛。そしてジョリジョリした触り心地の頭皮。 

 目元はクマで、目は真っ赤に腫れて、一週間伸びっ放しの無精ひげ。 

「だっせぇな……俺……はは」 

 あまりに情けない顔に俺は思わず笑ってしまった。 

 情けない俺。頼りない俺。つまらない俺。だけどそんな俺の頭皮の毛達は一週間かけて頭から外の風を浴びようと生まれてきた。 

 俺は死にたがっている。……でも俺の体は懸命に生きようと反抗していた。 

 こんな情けない俺は情けない自分に少しだけ励まされた……ハゲだけに。 

 ははは、クソったれ。もう嫌なんだ。終わりにしたいんだ。 

 俺は鉛筆を握って自身を説得させるように必死に消したい自分を書いた。 

 力み過ぎて何度も折れた鉛筆。破れるメモ紙。涙で滲む俺の感情を示す沢山の文字。 

 もういいんだ。これでいいんだ。 

 俺は覚悟を決め、今一番消してしまいたい「◯◯」の文字を消した。 

 
 〇 


 あれから二年は経っただろうか。 

 俺は今、アフリカにいる。 

 俺はあの後、会社を退職した。 

 八年も人生を費やしてきた会社だ。いざ別れとなると平岡専務も寂しかったのだろう。専務も優しさあってか、引きこもって休んでいた一週間は今まで使われていなかった有給扱いにしてくれた。 

 俺は最後のケジメとして、納期まじかに溜まっていた仕事を死に物狂いで終わらせた。 これが最後となるとどんな辛い仕事でも億劫になることは無かったかな。 

 だが結局「辞めないで!」と何度もせがんできた平岡専務。

 俺は「本当に辞めさせたくないのなら戻って来たくなるような会社にしてください」と言い残し会社を後にした。 

 そして北村君に謝罪の意味を兼ねて、ご褒美だった高級焼肉店に連れていった。 

 もう怪我は治っているはずなのに、彼は皮肉を兼ねて「せっかく美味しいお肉なのに、血の味がします」と言う。

 そしてその度に俺は謝罪を繰り返した。

 彼の招待する、ゲーム会社に行く選択は、俺にはもう無かったからだ。 

 それでも彼は何度も俺を誘い続けた。 

 なんなら今現在も、時々ラインを入れ誘ってくる始末だ。 

 だが俺は断り続けた。 

 彼にしたい野望があるように、俺にもやりたい事が見つかったからだ。 

 俺は自身が抱えていた全ての吹き出物にオサラバするように、日本を離れた。 

 八年住んだ東京のボロアパートも引き払い、ナナの思い出もすべて捨てた。 

 アフリカに来た俺はNPO法人、エデン倶楽部が運営している国際的な動物慈善団体に入り、絶滅危惧種とされている爬虫類達の生態保護、繁殖活動に取り組み、個体数を増やそうと奮闘している。 

 ここアフリカは日本に比べ、けして治安がいい場所ではない。 

 給料も寄付による必要最低限のもの。時には密猟者と遭遇して銃撃戦にあって怪我もした。

 だが俺はこの地を留まり続けた。

 今では公益財団法人から派遣されてくる若者の協力もあって、組織力が高まった気がする。まぁ髪色が派手な子とか学生さんが多いからジェネレーションギャップが酷いんだけどね。 

「哲郎さん! 見てください! もうすぐ生まれますよ!」 

 ……だが。努力の結晶とでも言おうか、卵から生まれる新しい命。

 赤ちゃんカメレオンを見たとき俺は涙が止まらなかった。  

 ナナを消してしまった事実は決して消えない。それは十分承知だ。でも愛くるしく生まれてくる赤ちゃんカメレオンの表情に、あの時犯した罪が少しだけ、救われた気がした。 

 俺は東京での生活で失っていたやりがいを、この広大な自然溢れる大地で感じている。 

 時々、ナナの事を思い出すんだ。あの六畳半の小さな部屋。 

 精神的に疲れきっていた俺をナナは何度も救い、前を向く気持ちを与えてくれた。 

 自分の愚かさで殺してしまったナナの命。あの子の一生に俺が出来た事は何もなかったかもしれない。それでも少しでも罪滅ぼしになればと思って、今もこのアフリカで一匹でも多くの命を救っている。 

 それに俺はカメレオンが大好きだ。これはナナと出会ってから今まで一度も変わっていない。 

「いつか……また逢いたいなぁ」 

 その言葉を言うと己消しゴムの力が働き、自分を戒めるように、自然と体と心が前を向く。 

 くそ、全てこいつが始まりだ。ただ、もう後ろは振り向かない。いや、振り向けないんだ。 

 俺は、ポケットに入っていた己消しゴムを取り出し、ライターで燃やした。 

 己消しゴムの燃えカスをアフリカの大地の風にのせる。 

 もう前を向くしか出来ない。 

 だってもう、後悔は出来ないのだから。 

 あの時、最後に己消しゴムで消した小さい「後悔」の文字。  

 俺の中には、もう残っていないようだ。
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