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人
コストパフォーマンス
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夏休みも半分を過ぎたある日、僕は講演会に来ていた。小説家の世界では知らぬ人はいないと言われるほど有名な人が街のコンサートホールで講演会を開いていた。
難なくチケットの取れたそれは、思いのほか人が多く、席が後ろの方だったならば、姿が見えず声だけを聞く講演会になった可能性もあるだろう。特にメモを取る気はないが、集中して話は聞いていた。そんな時、その人が言った言葉が引っかかる。
「こんな人間の講演会に来ていただけることにまず感謝です。そしてこんな講演会に来てくれる若い人に伝えたいことがあります」
それまでとは少しだけ温度感の違う声色とペースで話し始める。今まで以上に集中しながら、その言葉を受け取る。
「熱中できることを探してください。大人たちはみんな勉強しろっていうけど、勉強じゃなくていい。陸上競技でもいいし、ゲームでもいいし、電車に乗ってもいい。そのことのためなら時間も金も惜しまないことを探してください。僕の場合は小説を書くことでした」
不思議な感じを纏ったまま話を続ける。話し声を含めた雑音が少しだけ聞こえていたはずのその空間から、後援者の声以外の全てが消えたような感覚に陥った。
「僕にとって小説を書くこととの出会いは天啓だったと思います。文章を書くのが楽しいと思ってからはそれ以外のことを投げ捨てて打ち込んできました」
笑いながらそんなことを言う講演者から漂う只者じゃないという雰囲気。どれだけの修羅場をくぐり抜ければその雰囲気が出せるのか分からない。まだまだ話は続く。沈黙すればもはや音の存在しない世界かのようなコンサートホールで、その人は言葉を紡ぐ。
「親に勉強しろと言われても、次の日が提出の宿題があっても小説を書きました。同級生に馬鹿にされても小説を書きました。次の日が早起きだとわかっていても小説を書いていたこともあります。それぐらい僕にとって楽しいことだった。今思えばコストパフォーマンスは最悪です。でも、それで良かったんです。それで良かったんです」
どこまでも笑顔は崩さないけれど、声は真剣そのものだった。聴衆を異世界を引き摺り込むような不思議な雰囲気。なおも講演は続く。
「小説を書き続けた結果、高校もお世辞にはいいところには行けなかったし、大学も良いところには行けませんでした。それでもよかったんです。僕には小説があったから。小説の世界で芽が出ないままだった世界もあると思います。その世界ではきっと家もお金もなくホームレスにすらなれずに死んでいるかもしれません。でもそれで良かったんです。好きなことに熱中できた人生だったんですから」
そこまで話したその人は、最後の挨拶とばかりにお辞儀をしてから、もう一度話し始めた。
「なんだか話が脱線したまま盛り上がっちゃいましたけど、言いたいことは言えたので良かったような気がします。一度きりの人生の中で、どうやって後悔のない選択肢を選び取っていくか。その一つとして、好きなものに本気になる。それをお伝えできたなら、今日の講演は成功したかなと思います。最後までご清聴いただきまして、ありがとうございました」
日本を代表する作家の裏側。天才と呼ばれる人にも下積み時代は当然ある。それがこの人にとっては小説だったのだろう。
最後の司会の紹介の後、拍手で見送られるその人を見送ってから、聴衆側も解散となった。時刻は14時。今からでもできることはあるのだろうか。コンサートホールから外に出ると、清々しいほどの晴れだった。今ここからでもできることがあるだろうか。その一歩が、この晴れたこの地から踏み出せるだろうか。不安だったが、それでも聞いた瞬間から試したくなった。まずは本屋に行ってみようか。まずはその一歩を踏み出してみよう。未来なんて、考えずに。
難なくチケットの取れたそれは、思いのほか人が多く、席が後ろの方だったならば、姿が見えず声だけを聞く講演会になった可能性もあるだろう。特にメモを取る気はないが、集中して話は聞いていた。そんな時、その人が言った言葉が引っかかる。
「こんな人間の講演会に来ていただけることにまず感謝です。そしてこんな講演会に来てくれる若い人に伝えたいことがあります」
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「熱中できることを探してください。大人たちはみんな勉強しろっていうけど、勉強じゃなくていい。陸上競技でもいいし、ゲームでもいいし、電車に乗ってもいい。そのことのためなら時間も金も惜しまないことを探してください。僕の場合は小説を書くことでした」
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「僕にとって小説を書くこととの出会いは天啓だったと思います。文章を書くのが楽しいと思ってからはそれ以外のことを投げ捨てて打ち込んできました」
笑いながらそんなことを言う講演者から漂う只者じゃないという雰囲気。どれだけの修羅場をくぐり抜ければその雰囲気が出せるのか分からない。まだまだ話は続く。沈黙すればもはや音の存在しない世界かのようなコンサートホールで、その人は言葉を紡ぐ。
「親に勉強しろと言われても、次の日が提出の宿題があっても小説を書きました。同級生に馬鹿にされても小説を書きました。次の日が早起きだとわかっていても小説を書いていたこともあります。それぐらい僕にとって楽しいことだった。今思えばコストパフォーマンスは最悪です。でも、それで良かったんです。それで良かったんです」
どこまでも笑顔は崩さないけれど、声は真剣そのものだった。聴衆を異世界を引き摺り込むような不思議な雰囲気。なおも講演は続く。
「小説を書き続けた結果、高校もお世辞にはいいところには行けなかったし、大学も良いところには行けませんでした。それでもよかったんです。僕には小説があったから。小説の世界で芽が出ないままだった世界もあると思います。その世界ではきっと家もお金もなくホームレスにすらなれずに死んでいるかもしれません。でもそれで良かったんです。好きなことに熱中できた人生だったんですから」
そこまで話したその人は、最後の挨拶とばかりにお辞儀をしてから、もう一度話し始めた。
「なんだか話が脱線したまま盛り上がっちゃいましたけど、言いたいことは言えたので良かったような気がします。一度きりの人生の中で、どうやって後悔のない選択肢を選び取っていくか。その一つとして、好きなものに本気になる。それをお伝えできたなら、今日の講演は成功したかなと思います。最後までご清聴いただきまして、ありがとうございました」
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