短編集

ぽよ

文字の大きさ
45 / 55

コストパフォーマンス

しおりを挟む
 夏休みも半分を過ぎたある日、僕は講演会に来ていた。小説家の世界では知らぬ人はいないと言われるほど有名な人が街のコンサートホールで講演会を開いていた。
 難なくチケットの取れたそれは、思いのほか人が多く、席が後ろの方だったならば、姿が見えず声だけを聞く講演会になった可能性もあるだろう。特にメモを取る気はないが、集中して話は聞いていた。そんな時、その人が言った言葉が引っかかる。

「こんな人間の講演会に来ていただけることにまず感謝です。そしてこんな講演会に来てくれる若い人に伝えたいことがあります」

 それまでとは少しだけ温度感の違う声色とペースで話し始める。今まで以上に集中しながら、その言葉を受け取る。

「熱中できることを探してください。大人たちはみんな勉強しろっていうけど、勉強じゃなくていい。陸上競技でもいいし、ゲームでもいいし、電車に乗ってもいい。そのことのためなら時間も金も惜しまないことを探してください。僕の場合は小説を書くことでした」

 不思議な感じを纏ったまま話を続ける。話し声を含めた雑音が少しだけ聞こえていたはずのその空間から、後援者の声以外の全てが消えたような感覚に陥った。

「僕にとって小説を書くこととの出会いは天啓だったと思います。文章を書くのが楽しいと思ってからはそれ以外のことを投げ捨てて打ち込んできました」

 笑いながらそんなことを言う講演者から漂う只者じゃないという雰囲気。どれだけの修羅場をくぐり抜ければその雰囲気が出せるのか分からない。まだまだ話は続く。沈黙すればもはや音の存在しない世界かのようなコンサートホールで、その人は言葉を紡ぐ。

「親に勉強しろと言われても、次の日が提出の宿題があっても小説を書きました。同級生に馬鹿にされても小説を書きました。次の日が早起きだとわかっていても小説を書いていたこともあります。それぐらい僕にとって楽しいことだった。今思えばコストパフォーマンスは最悪です。でも、それで良かったんです。それで良かったんです」

 どこまでも笑顔は崩さないけれど、声は真剣そのものだった。聴衆を異世界を引き摺り込むような不思議な雰囲気。なおも講演は続く。

「小説を書き続けた結果、高校もお世辞にはいいところには行けなかったし、大学も良いところには行けませんでした。それでもよかったんです。僕には小説があったから。小説の世界で芽が出ないままだった世界もあると思います。その世界ではきっと家もお金もなくホームレスにすらなれずに死んでいるかもしれません。でもそれで良かったんです。好きなことに熱中できた人生だったんですから」

 そこまで話したその人は、最後の挨拶とばかりにお辞儀をしてから、もう一度話し始めた。

「なんだか話が脱線したまま盛り上がっちゃいましたけど、言いたいことは言えたので良かったような気がします。一度きりの人生の中で、どうやって後悔のない選択肢を選び取っていくか。その一つとして、好きなものに本気になる。それをお伝えできたなら、今日の講演は成功したかなと思います。最後までご清聴いただきまして、ありがとうございました」

 日本を代表する作家の裏側。天才と呼ばれる人にも下積み時代は当然ある。それがこの人にとっては小説だったのだろう。
 最後の司会の紹介の後、拍手で見送られるその人を見送ってから、聴衆側も解散となった。時刻は14時。今からでもできることはあるのだろうか。コンサートホールから外に出ると、清々しいほどの晴れだった。今ここからでもできることがあるだろうか。その一歩が、この晴れたこの地から踏み出せるだろうか。不安だったが、それでも聞いた瞬間から試したくなった。まずは本屋に行ってみようか。まずはその一歩を踏み出してみよう。未来なんて、考えずに。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

幽縁ノ季楼守

儚方ノ堂
キャラ文芸
「季楼庵当主の代理を務めてもらう」 幼少期、神隠しにあった過去を待つ青年ユメビシ。 迷い込んだ先で、事件に巻き込まれ両手を失い、生死を彷徨うことに。 ただ「死にたくない」と望んだ願いは、ある故人の手を移植することで実現した。 これを境に不死の体質へと変貌したユメビシは、約70年の時を経て、因縁の土地『瞑之島(みんのとう)』へ帰還する。 しかし、どうして今自分がここにいるのか、その理由となる記憶がすっぽり抜け落ちた状態で……。 奇妙な忘却に焦りを抱えながら、手がかりを求め探索するさなか、島の中枢を担う組織『季楼庵(きろうあん)』の面々と関わりを持ち、次々と巻き起こる騒動に身を投じていくのだった。 現代において、人と人ならざる者が共存する瞑之島を舞台に、半ば強制的に当主代理に据えられたユメビシの非日常。 異色の現代ファンタジー✖️和風奇譚✖️ミステリー 様々な思惑が交錯する中、彼の帰還を以て、物語は一つの結末へ動き出す。 その約束は、何十年何百年経ち、たとえ本人達が覚えていなくとも。 幽かな縁で繋がり続け、決して解けない糸となる。 それを人は、因縁――またの名を『呪い』と呼ぶのだった。

徒野先輩の怪異語り

佐倉みづき
キャラ文芸
「助けて、知らない駅にいる――」 きさらぎ駅に迷い込み行方不明となった幼馴染みを探す未那は、我が物顔で民俗学予備研究室に陣取る院生・徒野荒野を訪ねる。 あらゆる怪談や怪奇現象を蒐集、研究する彼の助手にされた未那は徒野と共に様々な怪異に行き当たることに…… 「いつの世も、怪異を作り出すのは人間なんだ」

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

処理中です...