フィライン・エデン Ⅱ

夜市彼乃

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7.追想編

34虹は呼ぶ、手の鳴るほうへ 後編

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***

 まぶたを上げたルシルは、ぼんやりと暗闇の虚空を見つめていた。次第に視界が鮮明さを帯びてくるのと同時に、頭もクリアになってくる。あのまま眠ってしまったようだった。電灯が消えているのは、無意識のうちに枕元のリモコンを押したのだろう。
 目が覚めてすぐに、胸の中に鉛が落ちて、小さく吐息を漏らした。しばらく微動だにせずにいた彼女だが、喉の渇きを覚えてゆっくりと起き上がった。洗面所まで歩いてきたところで初めて、今が何時なのかもわからないことに気づいた。ここからは壁掛け時計も見えない。日の短い冬は、このような真っ暗な時間の幅が広いので、案外早朝なのかもしれないし、あるいはあれから一時間もたっていないのかもしれない。
 蛇口をひねり、飲める水道水でコップを満たす。それを一気に飲み干すと、何とはなしに正面の鏡を見た。ある程度の暗視を可能とするルシルの目は、そこに映る自分の憔悴しきった顔を見て確信した。
「……やっぱり、ダメだ」
 この程度で動揺しているようでは、自分にはリーダーなど務まらない。まだまだ研鑽を積まなければ、皆を牽引したところで、危険な目に合わせてしまうのではないか。
 けれど、もう時間はない。あと二週間後には、正式に任命されてしまうのだろう。これまで、戦闘力も、危険予知能力も、そして後悔しない未来をつかみ取る力も、少しずつ養ってきた。それでも、ずっと二人の下にいたルシルには、何にも頼ることなく隊の進む道を決める自信がない。未熟なまま外敵の前に放り出される雛のようだ。
 洗面台に手をついてうなだれる。震える唇が再度、後ろ向きな言葉をこぼしそうになり、何とかこらえようとした時だ。
『無理だ』
 え、と目を見開いて固まる。声帯が震えた感覚がなかった。けれど、今のは紛れもなく自分の声だ。
 ルシルはゆっくりと顔を上げ、鏡を見た。木製のチェストにベッド、カーテンの閉まった窓。夜の部屋を映す鏡面の一番手前にいるのは、自分。こちらを同じように見つめてくる、河道ルシルだ。だが、暗さによる見間違いとは言いがたい違和感を伴っている。
(私は……こんな姿だったか?)
 なおも見つめあう、二人のルシル。やがて、先に口を開いたのは、鏡像のほうだった。
『無理だ。私にできるわけない』
 まただ、とルシルは瞠目した。自分は口を開いていないのに。
 だが、相手はその表情さえも、真似る気配はない。鏡の中から、ただ無表情のまま、淡々と否定的な言葉を並べるだけだ。
『他にふさわしいひとがいるはずだ。そうだ、コウに代わってもらおう。霊那でもいい。私がやらなくったって、きっと誰かが代わりにやってくれる』
 その考え方に聞き覚えがある気がした。誰が言いそうなセリフだったかを脳中で検索し、答えを得た瞬間、衝撃が走ると同時に、鏡に映った少女の正体を知った。ピンで留めるほどもない長さの前髪、胸まで垂れる漆黒のロングヘア。彼女は、あの日ルシルが殺したはずの人物。
 誰かに守られてばかりで、頼れば助けてもらえるだけの、河道家の深窓の令嬢だ。
「……違う」
 ルシルはふるふると首を振った。自分の目で見て気づいた。今のルシルは、あの時分の情けない己と同じことを思い、口にしている。
 ルシルは身を乗り出し、直立不動の碧眼の少女に訴えかけた。
「誰かじゃない。私がやらなければならないんだ。そうやって他人をあてにして、お前は……私は、ユキルを失ったんだろう」
『だって、うとめ隊長は仲間を頼っていいって言った。だったら、他の人に任せたって……』
「違う、頼るのと丸投げするのは違う! 誰かに手を貸してもらいながら、それでも最後は私自身の力でやるんだ。他の誰でもない、私がやるんだ!」
『でも』
 河道ルシルは、表情の欠落した顔で力なく言い返す。
『私が隊長になったら、きっと後悔する。また失うんだ。メルも、霞冴も、他の仲間たちも、ユキルみたいに』
 どくん、と心臓が大きく脈打った。
 失う。自分が隊長になって、もしこの前の侵攻のような局面に対峙することになったら、青い判断ゆえに誰かを犠牲にしてしまう――。
「……確かに、そうかもしれないな。私が完璧な指揮をとれるとは思えない」
 苦々しげに目を伏せた。彼女の懸念は、今の自分の心の内とぴったり重なる。
 だが、だからこそ。歩き出せるのは、鏡の中の過去にはない、今の自分の特権だからこそ――。
「でも……私はきっと、隊長にならなくても後悔する」
 陶器製の台についた両手の指で白い表面をかき、ぎゅっと拳の形に握りしめて、
「引き受けなかったら引き受けなかったで、どうしてあの時、と後悔するんだ。隊長になったせいで何かを失う? 上等だ。失うのが怖いなら、失わないよう全力で尽くせばいい。選択の先にあるかもしれない後悔の未来は変えられても、今この時の選択を後悔したところで遅いんだ!」
 手に力をこめ、顔を伏せて叫んだ。
「私しかいないんだ。だったら私がやらずに誰がやる! 安全策が最善策だと思うなよ。お前が口にしている後悔への恐れは、甘えることへの言い訳だ!」
 シンクにぶつかった声が、自分へと跳ね返ってくる。それを思いきり浴びながら、ルシルは残響が己の中にしみわたっていくまでの間、じっとうつむいたまま立っていた。
 静寂。時計の針の音が、久々に耳に届いた。
 そろそろと顔を上げる。闇に慣れた目が、さっきよりも明瞭に鏡像を捉える。左右に分けなければ目にかかる長い前髪と、正面から見ればショートカットに見える髪型。
 今ここにいる河道ルシルだ。考えてみれば当たり前だった。しばらくの間、狐につままれたような心地で立ち尽くしていた。
(……今のは、夢だろうか)
 洗面台のわきには、プラスチックのコップが水滴をまとって立っている。水を飲んだ直後にでも、夢幻の世界にいざなわれたか。
 ――いや、夢でもいい。現実の自分の胸中に生まれた、この確固たる決意と、実感できる変化は、夢ではないから。
「……私は」
 そこで言葉を止め、ルシルはコップを定位置に戻すと、ベッドへと戻った。声にしなくともよい。自分に聞こえる形にしなくとも、もうこの覚悟が揺るぐことはないだろうから。

***

 よく晴れたその日、彼女は最後の荷物を手にして、希兵隊の門へと向かっていた。青龍隊隊長ではなく、ただの宇奈川うとめとして。
 本部の敷地を出る一歩手前で、うとめは一つ息をつくと、くるりと振り返った。すっかり執行着が板についた後継の少女に、にっこりと微笑みかける。
「お見送りありがとう。ほかのみんなにもよろしくね」
「はい、伝えておきます」
 青龍隊――もとい、二番隊隊長に任命された河道ルシルは、歯切れよく返事して、小さく小さく笑った。
「隊長になるのは、まだ不安?」
「はい、少し。……でも、臆していられません」
 ルシルは左手を胸に当て、わずかな間、瞑目すると、うとめを見上げた。
「もし、再びあんな惨事が起きたとしても、誰も死なせないように……私自身も後悔しないように、尽くしていきます」
「期待しているわ。どうか、体には気を付けて。他のひとを守って、自分も後悔しないようにしたところで、自分が犠牲になったら、それは一番いけないことよ」
「はい、肝に銘じておきます」
 ルシルは生真面目な返事を返した。この実直さは、いつまでたってもぶれないものだ。
「よろしい。……じゃあね、ルシルちゃん」
「はい。お世話になりました」
 ルシルは深々と頭を下げた。顔も見えないほどの最敬礼に、うとめは大げさなと笑いそうになって、
「――……」
 軽く肩を叩こうとした手を引っ込めると、ルシルに対してまっすぐに立ち、自らも小さく礼をした。依然、お辞儀の姿勢から直ろうとしないルシルの足元に、再びひとしずくが落ちるのを見ながら、
「……こちらこそ、お世話になりました」
 ささやきに近い声で言うと、うとめは顔を上げ、踵を返そうとした。これ以上別れを惜しんでいても、お互いつらくなるだけだ。歩き出そうとするうとめに、ルシルはようやく頭を上げて呼びかけた。
「……あのっ!」
 振り向いたうとめに、ルシルは惜別の涙をこぼしながら、口を開いた。声を発する直前に、ためらう。聞くのが怖い。自分から尋ねるのを、ずっとずっと我慢していたのだ。
 けれど、ここで諦めれば、きっと悔いることになる。ルシルは固唾をのむと、おずおずと問うた。
「私は……強くなれましたか」
 うとめは驚いたようにまばたいた。嗚咽をこらえ、ルシルはじっと彼女を見つめる。期待と恐怖と、そのどちらにくみする返答が降りかかっても後悔しないという信念を抱いて。
 しばらくルシルを見つめ返した後、うとめはふっと口元を緩めた。浮かべた笑顔は、最初の一瞬だけ切なげで、あとはいつもの、お姉さんらしい微笑だった。
 彼女は、仕事終わりの反省会の時と同じ声色で言った。
「あと一息ね。これから先、つらい別れなんていくらでもあるわ。そのたびに泣いていたら、絶対後悔するわよ。最後に見せた表情が泣き顔なんて、悲しいじゃない。……いつか、笑って別れられるようになるといいわね」
 そう言い残して、うとめは今度こそ本部を後にした。遠ざかる背中に、声を詰まらせたルシルは、代わりに何度もうなずいた。そして、あふれるものを手の甲で必死にぬぐいながら、かき集めても集めきれないほどの感謝を込めて、一礼した。
 直属の上司の、最後の指導。一度も欠かすことのなかった元気のいい返事は返せなかったが、その助言は、心の深い深いところにまで刻み付けた。
 結局、うとめのいるうちに「強い」自分にはなれなかった。いくら理想を追おうとも、そのもとへたどり着くのは難しい。後悔するまいと努めたって、それで後悔の全くない人生を送れれば苦労しないのだ。
 だが、少しでも。ほんの少しでも近づければ、それでいいのかもしれない。
 いつかきっと。そのいつかを楽しみに、毎日全力で追いかければ、それが糧となり、自分を作っていくのだろうから。

***

「……っと」
 ルシルは我に返って時計を見上げた。気づかぬ間に、時計の針は半周を旅してしまっていた。
「いけない、日記など読みふけっている場合ではなかったのに。ファイル、ファイル……」
 水色のノートを、壊れ物を扱うようにそっとわきに置くと、ルシルは再びクローゼットの中をあさり始めた。まもなく見つかった空のポケットファイルを引っ張り出し、手元の書類を整理していく。隊長ともなると、この手の作業も不可避だ。
 かつての日々を読み返していた余韻で、あの小豆色の少女が目に浮かんだ。あれからずいぶんたったが、一度も連絡は取っていない。連絡先を知らないわけではなかったが、用もないのに声を掛けられる相手ではないからだ。
 もし、いつか何かの拍子で再会した時には、「強くなったね」と一言でも言ってもらえれば、それだけで報われるだろう。
 あれから隊長職を務めてきて、ルシルの中での考えは少しだけ変わった。
 一歩ずつでも半歩ずつでも近づければと思っていた理想は、実は永遠にたどり着けない場所なのかもしれない、と思い始めた。虹のふもとの宝を求めて追いかけても逃げられてしまうように、近づいた分だけ遠ざかるものなのかもしれない、と。
 けれど、それが無意味だとは思わなかった。宝を手に入れたなら、きっと虹の足元で腰を据えて、その先を見ようとしないから。そこで歩みを止めるくらいならば、もっともっとと誘われるままに走り続けたい。それが、生涯にわたる成長というものなのだろう。
 淡い回顧の残滓が消えるころには、書類整理の単純作業は終わっていた。ファイルをしまい、いつしかつけるのをやめてしまった日記も大切にしまい込むと、ルシルはもう一度、時計を見上げた。
「……そろそろ美雷さんが帰ってくるころか」
 つぶやいた自分の声で、そういえば美雷が霞冴に一つだけ仕事を頼んでいたな、ということを思い出した。次いで、朝会った霞冴のひどい顔色も。
(もう終えているころだろうか。途中で倒れていなければよいのだが……少し、様子を見に行くか)
 まずは今日の仕事場所となっている霞冴の部屋。もし不在ならば、総司令部室に行ってみよう。
 そう決めたルシルは、こんな時に出動要請などありませんようにと願いながら、自室を後にした。
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