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7.追想編
33姫殺しのラピスラズリ 中編
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***
五月半ばのことだった。
学校の昼休み、裏庭を散歩していたルシルとコウが目にしたのは、ユキルと、彼女の同級生と思しき男子二人だった。片方は主体、もう片方は双体だ。これで睦まじそうにしていたら、微笑ましい情景だったのだろうが、あいにくと穏やかでない場面に出くわしたようだ。双体の方が、ユキルのやや灰色がかかった茶髪をひっぱり、高らかに言い放つ。
「もう一度言うぞ。授業中は本なんか読んだらいけないんだよーだ」
「だって、先生がいいって……」
「そりゃ、先生に気に入られてるだけだろー?」
「違うもの、早く課題が終わっただけだもの……」
「ずるいぞ、授業中に好きなことしてるなんて!」
周りには誰もいない。あえて、ひとの目がない場所を選んだのだろう。
そんな場面を姉が見過ごすわけもなく、ルシルはずんずんと歩いて近づいて行った。
「ん? 誰?」
「六年の河道ルシル。その子の姉だよ」
「六年!? ちっこいから同い年かと思った……」
カチン、という音がルシルの脳内から聞こえたような気がした。最近伸び悩んでいる彼女に、それは禁句だ。コウはうつむき加減で額に手を当てた。
「ってことは、あんたもお嬢様か。ちぇっ、こうしてやる!」
短髪の男子は、ルシルの顔に手のひらを向けると、ばしゃっと水を放出した。子供の、それも詠言を破棄した水術だ。さしたる威力も量もないが、かぶればびしょ濡れにはなる。
しかし、ルシルはそれをひょいとよけると、素早く地を蹴り、高く跳んだ。男子の頭上を、体をひねりながら舞う。長い黒髪が宙に踊って、コウはまた見とれた。
あっという間に男子の背後をとると、ルシルは彼のTシャツの後ろ襟を軽く引っ張り、中に水術で召喚した水を注ぎこんだ。暖かい季節とはいえ、まだ水浴びには早すぎる時期である。
「ぎゃーっ、冷てーっ!」
ユキルから手を放し、いじめっ子はのたうち回る。その隙に逃げ込んできたユキルを抱き寄せながら、ルシルはやれやれという目でやんちゃ男子の醜態を見ていた。
「よくもーっ……ぎゃあ!?」
もう一人の男子が、猫姿のままで駆け出すが、その爪がルシルの足をひっかく前に、宙に持ち上げられた。自分と同じ灰色猫の首根っこをつかんだコウは、そのままぶらぶらと不規則に揺らす。
「やややめろーっ! 酔うから! うっぷ……」
「あ、そっか、昼飯直後か。悪り」
ぱっと手を離すと、灰色猫は液体のように地面に落ちて伸びた。
「ほんと、クロになるのが怖くないみたいだね。まあ、クロ化を逃れたとしても、覚悟しておいて。次に妹に手を出したら、私の水術で滝行させてあげるから」
冷たく言い放ち、ルシルはユキルの肩に手を添えながら、その場を後にした。コウも続く。後ろから、男子たちの負け惜しみが飛んできた。
「あんた、本当に村長の孫か!? 全然おしとやかじゃねー!」
「そうだそうだ、お嬢は妹みたいにお家で静かに本でも読んでな!」
まさしく子供の捨て台詞である。だが、再度ユキルをいじめた場合、どんな目に合うかわからないほど、彼らも愚かではないだろう。
ユキルを四年生の教室に送っていく最中、ルシルとコウに挟まれた彼女は、照れたように笑った。
「二人とも、本当に助かったよ、ありがとう。ちょうど通りかかってくれるなんて、わたし、運がよかったね。やっぱり、四つ葉のクローバーのおかげかな……えへへ」
「クローバー?」
「うん。湖の近くの岬に、クローバーがたくさん生えててね。この前、友達とその子のお兄ちゃんと一緒に行った時、たくさん四つ葉が見つかったの。ほら、四つ葉のクローバーって幸運の印っていうじゃない?」
彼女の言う湖とは、子供の足では少し遠くにある鏡湖のことだ。遠足気分で足を延ばして遊びに行くならうってつけの場所である。
「よかったら、今度の休みに三人で行く?」
「確かに、珍しい四つ葉がたくさん見られるのなら、ぜひ見たいかな。そうしようか」
「やったーっ、約束ね! あ、教室、ここだから。本当にありがとうね!」
ユキルはパタパタと入口へ向かうと、笑って手を振り、教室の中へと消えた。
素直で愛らしいユキルを見ていると、ひとりっ子のコウは少々うらやましい気分になる。だが、ルシルと共に彼女にかかわっていると、本当の妹ができたように感じるし、彼女もまた、コウを兄のように慕ってくれているので、この関係も悪くないな、とは思っていた。
一息ついたコウは、ふとルシルの方を見て、
「……どした?」
「うん?」
「なんか、難しい顔してるけど」
「いや……」
ルシルは少し言葉を濁した後、ちらりとコウを上目遣いに見て、
「私も、もう少しおしとやかにした方がいいのかな」
「は?」
「いや、その……もし周りがそういうのを求めているなら、そうしたほうがいいのかと……」
しきりに髪をいじりながら、ぽそぽそと言う。
――どうやら、あの稚拙な捨て台詞を気にしているようだった。
「関係ねえだろ」
コウはポケットに手を突っ込んで廊下を歩きだした。あえて、悩むほどのことでもなさそうに、そっけなく。ルシルもワンテンポ遅れて、その後を追う。
「無理に変わる必要ねえよ。お前の強くて、まっすぐなところはそのままでいいんだ」
「本当に? このままでも、私は河道家の娘らしいかな……?」
「ああ。ユキルがどうとか、周りがどうとか、気にすんな。今のままでも十分だ。ってか、オレはお前のそういう凛々しいところが……」
そこで言葉を止められたのはファインプレーだといっていいだろう。突然黙り込んだコウをいぶかしく思って、「どうしたの?」と問うてくるルシルに、「何でもねえ」と答えて、足を速める。「廊下を走るな」という教えを律義に守るルシルには、競歩並みの速さでスタスタ進むコウには並ぶこともできない。
「待ってよー」
「待たねえ」
しばらくは、顔の色を見られたくなかった。
***
迎えた休日は、あいにくの曇天だった。
三人は、お弁当や水筒などを用意して、クローバー畑へと向かっていた。両家の親は、あまり崖に近寄りすぎないようにと口酸っぱく注意していたが、ほかの子供たちも頻繁に遊びに行く場所なので、三人だけで行かせてくれた。
岬までは一本道ではなく、途中いくつも分岐点がある。しかし、その先はどれも正規の道ではなく、柵もない切り立った崖なので、分かれ道にはその旨の注意書きと頂上までの道しるべが必ず立てられていた。
草むらと低木で緑のあふれる景色の中、勾配の強い坂を、時々休憩をはさみながら上っていた途中だった。もう少しで頂上の目的地、というところで、ユキルがあっと声を上げた。
「お姉ちゃん、コウ君、ちょっと待って」
「どうしたの、ユキル」
立ち止まったユキルは、しきりにこめかみあたりの髪を触っていた。そしてきょろきょろと辺りを見回し、困り顔でこぼす。
「ヘアピン、落としちゃった……」
「ホントだ、ねえな。行くときはつけてたのに」
ピンク色の、パチンと留めるタイプのヘアピンは、ユキルのお気に入りで、いつもつけているものだった。上るのに夢中で、落としたことに気づかなかったのだろう。
「ごめん、わたし、ちょっと探してくる。先に行ってて」
「一緒に探した方がいいんじゃねえか?」
「いいよ、せっかく上ってきたのに、悪いもの。クローバーがあるのは、そこを右に上っていったところよ。もうすぐだから。じゃ、あとでね」
言って、ユキルは急いで来た道を戻った。スカートのすそを翻して、小柄な姿はみるみる遠ざかっていく。
ルシルとコウは顔を見合わせた。
「どうする?」
「まあ、ユキルがせっかく気を遣ってくれたから、それを無下にするのも悪いかな。先に行こう」
「ん」
ルシルの言葉に従って、コウも坂の続きを上り始めた。
――二人は、この時の選択を、長きにわたって後悔することになる。
ユキルの言うとおり、クローバー畑まではすぐだった。坂のてっぺん、湖に向かってせり出した岬は、柵で囲まれており、来訪が多いからこそひとの手が入っていると推察できた。湖はさほど大きいものではなく、向こう岸がはっきり見える程度だ。それでも、深さは十分にあるといわれているので、不用意に柵から身を乗り出しては危険だ。
ルシルの瞳のような青色の、美しい湖面も絶景だが、その手前に広がるクローバー畑も美観だ。一面の緑の中に無数の白い花がちりばめられている様子は、色鮮やかな星空のよう。そして、一見しただけでも、貴重な四つ葉がいくつも顔を出しているのが分かった。きっと、晴れていれば、より一層目にまぶしい光景であっただろう。
「すごい、幸運のシンボルがこんなにたくさん!」
「ありがたみがねえな」
「でも、これだけの四つ葉を見られた私たちには、いいことがありそうだね」
「……そうだな」
幸運の大安売り、と冷めていたコウも、純粋に喜ぶルシルを見れば、自然に頬が緩んだ。
二人は、花畑を避けて芝が見えている場所にレジャーシートを敷くと、源子化していた鞄から弁当などを取り出した。ユキルが帰ってきたら、すぐにお花見ができるように。
「どこまで戻ったのかな」
「見つからなかったらどんどん戻って行ってそうだな……。やっぱり一緒に行ったほうがよかったか?」
せっかく準備したものの、やはり後を追ったほうがいい気がする。暗黙のうちに二人の意見が一致し、立ち上がろうとした、その動きを止めたのは、
「――きゃああぁっ!」
やや下方であがった悲鳴。二人は目を見開いて硬直する。和やかな雰囲気から緊張状態に入るのに、わずかなタイムラグがあった。
先に駆け出したのはルシルだ。
「ユキル!?」
一拍遅れて、コウも後を追う。転がるように坂を駆け下りていくうちにも、泣き叫ぶ声が耳に届いた。
「お姉ちゃん! お姉ちゃーん!」
ちょうどユキルと別れたY字路で、声の発生源が水平方向に変わった。登山方向から見て左、傾斜のない道の先から聞こえてくる。上り坂を囲むように緩くカーブした細い道を全力疾走して、見えてきたのは。
「……っ、あれは……!」
まっすぐに伸びる道の先の行き止まり、柵もない崖っぷちのそばに、ユキルはいた。そして、彼女をさらに絶壁に追いやろうとする、三体のクロの姿も。
「くっ……ユキル!」
「お姉ちゃ……きゃっ!」
ユキルが動こうとすると、クロたちは炎を噴出させた。どれも炎属性のようだ。
ルシルは思わず手を突き出して術を発動させようとした。しかし、かろうじて残っていた冷静さがそれをとどめる。今、下手に水術を放てば、ユキルごと崖から落としてしまいかねない。まだ細かい加減ができるほど、彼女の腕は熟達してはいないのだ。
ルシルは奥歯をかみしめると、俊敏な動きで地を駆けた。素手でクロをかき分けてユキルの手を引くしかない。そのためなら、やけどの一つや二つは歓迎だ。
クロたちは、なおもユキルが身じろぎするたびに炎をちらつかせる。致命的な攻撃は行わず、脅し、嬲り、幼い少女がすくみあがるさまを面白がるように。ルシルと違い、氷猫の妹は、半端な術では炎に太刀打ちできるはずもない。
必死に手を伸ばして駆け寄るルシルの後ろで、コウは簡潔な作戦を頭の中で繰り返していた。
(ルシルが妹の手を取ったら、オレがクロを蹴散らす。隙を見て、全員で逃げる。間に合う、間に合うに決まってる……!)
コウの脳裏には、ついさっき目にした緑の星空がよみがえっていた。それにすがるように強く願う。
だが、それは何の意味も持つことなく、現実は最悪の運命へと転がり落ちていくだけだった。
ルシルが叫ぶ。蹴り上げた土ぼこりが舞う。また一つ、炎が上がって、体をすくませたユキルの右のかかとが崖のふちを越えて、
「お姉ちゃん、助けて――」
声の最後は、ほとんど聞き取れなかった。響き渡る絶叫、悪夢のような光景。ルシルのたった一人の妹は、コウの年下の幼馴染は、嘘のようにあっけなく視界から消え、時の停止を錯覚させるかのごとき静寂を経て――彼方下方で水音を立てた。
呆然と足を止めるルシル。けたけたと笑うクロ。もう、姉を呼ぶ声も悲鳴も聞こえなくなって、それは永遠に水底に沈められたのだと気づいた。
現実から乖離したかのような奇妙な浮遊感の中、コウは嫌味のように再びよみがえった光景を見ていた。
期待したのに。信じたのに。垣間見た希望の予感を、目の前であっさりと砕かれた。裏切られた。
親友の、喉を突き破る血まみれの慟哭を聞きながら、彼は今までの人生で最大の恨み言を毒づいた。
(――何が、幸運の印だよ……)
***
帰り道に何を思っていたのか、彼はよく覚えていない。
記憶に残っているのは、やけどの痛みも感じないほど半狂乱になってクロたちを蹴り飛ばし、彼らがそうしたように崖下に突き落としたことと、呼吸もままならずむせび泣くルシルを震える手で支えたこと。
帰ってから大人たちになんと説明したのか、そのとき彼らがなんと声をかけたのかもおぼろげだった。ただ、二人を咎めたり、責めたりする者はいなかったことだけは覚えていた。
これを境にルシルと疎遠になる、などということはなかった。ただ、彼女がこの日から変わってしまったのは間違いなかった。
柔らかい表情が消えた。時折笑顔を見せたかと思えば、ぎこちない自嘲の笑みか、悲哀の混じったアンビバレンス。声さえも、冷たく冷え切ったものになった。
そして、前にもまして剣術に打ち込むようになった。わき出る感情を昇華するかのごとく、時間があれば道場に通い、ふらふらになるまで剣をふるう。おそらく師範や兄弟子たちの影響だろう、徐々に言葉遣いは固く、男性じみたものになっていった。
小さな村ということもあり、噂は瞬く間に広がった。ルシルを気の毒に思う者は多くいたが、無表情で口数も減ったルシルにどう接すればいいか分かりあぐねて距離を置いた。一部、子供だけで岬に行ったことの軽率さを糾弾する者もいた。彼女は、学校でも一人でいることが多くなった。
三人で遊ぶことが多かった夏休みも、毎年紅葉を見に行く秋晴れの日も、ユキルの誕生日祝いに集う十二月も空虚に過ぎ去り、迎えた二月上旬のことだった。
雨が降りしきるある日、コウは河道邸を訪れていた。ほかでもない、ルシルに呼ばれたのだ。
閃光、ついで鳴り響く轟音に、後ろの障子を振り返る。激しさを増す雷雨を案じながら、コウは前方に視線を戻した。
ルシルの部屋も、純和風の造りだ。従姉のそれとは打って変わって地味な調度で揃えられ、本人の几帳面さがうかがえる整頓ぶり。本棚には、若者向けの教養の本に交じって、明らかに格の違う専門書が数冊並んでいた。従姉にもらったか、借りているものだろう。赤い花が生けられた花瓶の手前、床板の上には、本家から餞別として贈られたという脇差が置かれている。
やや殺風景な部屋の真ん中、ルシルとコウは、茶もなしに向かい合って座っていた。大人顔負けの整った正座で目を伏せるルシルは、部屋に入ってからもう十分も黙っている。コウはため息交じりに口を切った。
「……で、話ってなんだよ」
「……ああ」
ルシルは長いまつ毛の奥からコウを見つめた。いつからか伸ばし始めた前髪の左側を留めているのは、元凶の一つとして一時期は恨んで仕方なかった、見慣れたピンクの髪留めだ。今となっては、形見としてこの上なく大切にしている。この頃には、だいぶルシルの心の内も落ち着いてきているようだった。あの事件の後しばらくは、見るに堪えない様子だったが、時間がほんのわずかずつでも傷を癒してくれたのだろう。
それでも、無表情がデフォルトとなった顔と、固く冷えた口調は、変わることはなかった。
ルシルは、少し逡巡した後、静かに問うた。
「コウ。……ユキルが死んだのは、なぜだと思う」
胸の奥で心臓が跳ね上がったのを、コウは素知らぬ顔で隠し通した。時間が積もり積もって埋まっていった二人のトラウマを、なぜ今になって掘り返したのか、解せなかった。
コウはなんとかポーカーフェイスを繕って答えた。
「クロに追い詰められたからだろ」
「違う」
「……まあ、オレたちがあの時、一緒に探しについてってやらなかったのも悪かったけど」
「それも違う」
怪訝そうに眉をひそめたコウに、ルシルは言い放った。
「私が、弱かったからだ」
コウは、すぐには言葉を返せなかった。彼女は、自虐的になっているのではない。心の底からそう思っているように見えた。
「私の手が届いていれば、あるいはクロを払いのけていれば、ユキルは落ちずに済んだんだ」
「けど……あれは間に合わなかったんだ。言い方は悪いが、仕方なかったんだよ。お前が弱かったとか、そういう話じゃない。お前が責任を感じることじゃ……」
「いいや、私のせいだ」
ルシルの語勢が強くなった。コウさえも気圧されるほどに。
「……どういう……」
「クロに追い詰められたユキルを見て、私が何を思ったかわかるか。怯え切った彼女が私に助けを求める声を聞きながら、必死の形相で見つめてくる彼女の視線を受けながら、私は――きっと大丈夫だろうと、そう思ったんだ」
ルシルの膝の上で、こぶしが固く握られた。ぎりりと音まで聞こえた気がした。
「大きな悲鳴を上げたのだから大人が来てくれるだろうと、いつも誰かに助けられて、何不自由なく満ち足りてきたから、今日だって何も失わないだろうと、そう思ったんだよ!」
口の端から小さな牙をのぞかせて、ルシルはそう声を荒らげた。
「許せないんだ……少しでもそう思って本気になれなかった自分が! もっと速く走れたのに、もっと遠くに手を伸ばせたのに! 母さんが、父さんが、先生方が、見回り当番の方たちが、そしてコウ、お前が……いつも本当に困ったときには誰かが助けてくれる、その立場に甘えた自分の弱さが許せないんだよ! ……だから……」
ふっと、ルシルの瞳に静けさが戻った。凪の水面のようなまなざしを向け、彼女は言った。
「――だから私はもう、箱入りの娘をやめる」
その言葉が何を意味しているのか、すぐにはわからなかった。
次いで告げられた宣言で、コウはいつか予想していた卒業後のビジョンが、あらぬ方向へと変わったことを悟った。
「私は卒業後、飛壇へ行き、希兵隊になる。二月終わりの冬季試験を受けて、希兵隊員になって、これからは私が誰かを助ける存在になる。もう……守られ、助けられ続けるのは終わりだ」
「何……言ってんだよ……!」
コウは正座の姿勢から身を乗り出し、畳に左のこぶしをついた。言いたいことが、つんのめりながら、急き込むように出てくる。
「お前は村長の孫だろ!? 分家とはいえ、河道家は重要な立場にあるんだ。この村を今後担っていかなきゃいけねえんだ! 周りのひとたちだって、それを期待してお前を育ててきたんじゃねえか! 忘れるな、お前はこの村の姫なんだぞ!」
まくしたてるコウを、ルシルは黙って見つめていた。動揺も何もない、静かすぎる目だった。
やがて、彼は気づいた。ルシルのまなざしに浮かんでいたのは、一種の失望だ。
「そうか」
彼女は、無機質に瞬きをした。
「お前なら、わかってくれると思ったんだがな。残念だよ」
そう言って、片膝を立て、ゆっくりと立ち上がる。
「私はね、これでも出生を誇りに思っていたんだ。おじい様の孫であること、将来は本家と協力してこの村の未来を担っていくこと。少し周りと違う扱いを受けることはむずがゆかったが、それでも、大切に丁重に扱われること、悪い気はしなかった」
戸惑うコウの視線を受けながら、彼女は部屋の端へと歩いて行った。紅蓮の生け花のそばで、一度しゃがみ込み、
「……だが、それがしがらみとなるならば。私の生い立ちが、それによる周囲の認識が、私の望みを阻むのならば……」
コウは息をつめて瞠目した。ルシルの白い手の中で、花瓶の前の刀掛けから取り上げた脇差が抜かれる。模造刀ではない、真剣特有の鈍い輝きに、コウは戦慄した。彼女がしようとしていることが、手に取るようにわかってしまった。
腕を伸ばして立ち上がろうとする。叫ぶ言葉も見つからず、ただかすれた吐息を漏らしながら、それでもこいねがうように念じる。
(頼む……やめろ!)
ルシルは、抜き身の脇差を首の後ろにまわした。一瞬の稲妻が室内を強烈に照らし、その雷光を鋭い刃がぎらりと反射する。目を閉じたルシルは、もうコウの表情も見ていない。それでも、コウははくはくと声なく口を動かしながら、脳の回路がショートしそうなほど痛烈に切望した。
(やめてくれ……河道ルシルを殺さないでくれ!)
――彼の望みは、遅れて届いた雷鳴が轟くと同時に絶たれた。
声を上げる暇もなかった。立ち上がりかけた姿勢のまま、自失として硬直するコウの目の前で、あのつややかな漆黒が、見るも無残に畳に散らばった。
コウは糸が切れたように膝を落とし、畳に手をついた。そんな幼馴染を、ルシルは立ったまま見下ろした。頭を動かしても、肩につかない位置で寸断された黒髪は、もう揺れることはなかった。
何の感慨もなく、彼女は言葉を落とした。
「これで姫としての私は死んだ。お前の知っている河道ルシルは死んだんだよ、コウ」
頭上から降ってくる残酷なセリフにも、コウは頭を上げることができなかった。切り落とされた長い髪から目を離せなかった。ルシルの動きに合わせて踊る様子が、白い指にくしけずられる姿が、走馬灯のようによみがえった。生き生きと輝いていたそれは、今は命を失ったように色あせていた。
虚脱状態のコウを見ても、ルシルは驚くそぶりも見せなかった。言葉にされずとも、彼女は知っていたのだ。背中に届く長さになったころから、彼がそれを気に入っていたこと。美しいと思っていたこと。彼の中では、強さと威厳に並ぶ、ルシルを姫たらしめるシンボルであったこと。すべて知ったうえで、ルシルは彼の眼前で、令嬢の象徴を殺したのだった。
脇差を鞘に納め、元の位置に戻すと、ルシルは足元に広がった自分だったものには目もくれず、ふすまへと向かった。
「これが私の覚悟だ。……わかるな」
固い音を立てて、ふすまが閉まる。足音が廊下の向こうへ遠ざかる。
次の足音が部屋の空気を揺らすまで、長い長い時間がかかった。
五月半ばのことだった。
学校の昼休み、裏庭を散歩していたルシルとコウが目にしたのは、ユキルと、彼女の同級生と思しき男子二人だった。片方は主体、もう片方は双体だ。これで睦まじそうにしていたら、微笑ましい情景だったのだろうが、あいにくと穏やかでない場面に出くわしたようだ。双体の方が、ユキルのやや灰色がかかった茶髪をひっぱり、高らかに言い放つ。
「もう一度言うぞ。授業中は本なんか読んだらいけないんだよーだ」
「だって、先生がいいって……」
「そりゃ、先生に気に入られてるだけだろー?」
「違うもの、早く課題が終わっただけだもの……」
「ずるいぞ、授業中に好きなことしてるなんて!」
周りには誰もいない。あえて、ひとの目がない場所を選んだのだろう。
そんな場面を姉が見過ごすわけもなく、ルシルはずんずんと歩いて近づいて行った。
「ん? 誰?」
「六年の河道ルシル。その子の姉だよ」
「六年!? ちっこいから同い年かと思った……」
カチン、という音がルシルの脳内から聞こえたような気がした。最近伸び悩んでいる彼女に、それは禁句だ。コウはうつむき加減で額に手を当てた。
「ってことは、あんたもお嬢様か。ちぇっ、こうしてやる!」
短髪の男子は、ルシルの顔に手のひらを向けると、ばしゃっと水を放出した。子供の、それも詠言を破棄した水術だ。さしたる威力も量もないが、かぶればびしょ濡れにはなる。
しかし、ルシルはそれをひょいとよけると、素早く地を蹴り、高く跳んだ。男子の頭上を、体をひねりながら舞う。長い黒髪が宙に踊って、コウはまた見とれた。
あっという間に男子の背後をとると、ルシルは彼のTシャツの後ろ襟を軽く引っ張り、中に水術で召喚した水を注ぎこんだ。暖かい季節とはいえ、まだ水浴びには早すぎる時期である。
「ぎゃーっ、冷てーっ!」
ユキルから手を放し、いじめっ子はのたうち回る。その隙に逃げ込んできたユキルを抱き寄せながら、ルシルはやれやれという目でやんちゃ男子の醜態を見ていた。
「よくもーっ……ぎゃあ!?」
もう一人の男子が、猫姿のままで駆け出すが、その爪がルシルの足をひっかく前に、宙に持ち上げられた。自分と同じ灰色猫の首根っこをつかんだコウは、そのままぶらぶらと不規則に揺らす。
「やややめろーっ! 酔うから! うっぷ……」
「あ、そっか、昼飯直後か。悪り」
ぱっと手を離すと、灰色猫は液体のように地面に落ちて伸びた。
「ほんと、クロになるのが怖くないみたいだね。まあ、クロ化を逃れたとしても、覚悟しておいて。次に妹に手を出したら、私の水術で滝行させてあげるから」
冷たく言い放ち、ルシルはユキルの肩に手を添えながら、その場を後にした。コウも続く。後ろから、男子たちの負け惜しみが飛んできた。
「あんた、本当に村長の孫か!? 全然おしとやかじゃねー!」
「そうだそうだ、お嬢は妹みたいにお家で静かに本でも読んでな!」
まさしく子供の捨て台詞である。だが、再度ユキルをいじめた場合、どんな目に合うかわからないほど、彼らも愚かではないだろう。
ユキルを四年生の教室に送っていく最中、ルシルとコウに挟まれた彼女は、照れたように笑った。
「二人とも、本当に助かったよ、ありがとう。ちょうど通りかかってくれるなんて、わたし、運がよかったね。やっぱり、四つ葉のクローバーのおかげかな……えへへ」
「クローバー?」
「うん。湖の近くの岬に、クローバーがたくさん生えててね。この前、友達とその子のお兄ちゃんと一緒に行った時、たくさん四つ葉が見つかったの。ほら、四つ葉のクローバーって幸運の印っていうじゃない?」
彼女の言う湖とは、子供の足では少し遠くにある鏡湖のことだ。遠足気分で足を延ばして遊びに行くならうってつけの場所である。
「よかったら、今度の休みに三人で行く?」
「確かに、珍しい四つ葉がたくさん見られるのなら、ぜひ見たいかな。そうしようか」
「やったーっ、約束ね! あ、教室、ここだから。本当にありがとうね!」
ユキルはパタパタと入口へ向かうと、笑って手を振り、教室の中へと消えた。
素直で愛らしいユキルを見ていると、ひとりっ子のコウは少々うらやましい気分になる。だが、ルシルと共に彼女にかかわっていると、本当の妹ができたように感じるし、彼女もまた、コウを兄のように慕ってくれているので、この関係も悪くないな、とは思っていた。
一息ついたコウは、ふとルシルの方を見て、
「……どした?」
「うん?」
「なんか、難しい顔してるけど」
「いや……」
ルシルは少し言葉を濁した後、ちらりとコウを上目遣いに見て、
「私も、もう少しおしとやかにした方がいいのかな」
「は?」
「いや、その……もし周りがそういうのを求めているなら、そうしたほうがいいのかと……」
しきりに髪をいじりながら、ぽそぽそと言う。
――どうやら、あの稚拙な捨て台詞を気にしているようだった。
「関係ねえだろ」
コウはポケットに手を突っ込んで廊下を歩きだした。あえて、悩むほどのことでもなさそうに、そっけなく。ルシルもワンテンポ遅れて、その後を追う。
「無理に変わる必要ねえよ。お前の強くて、まっすぐなところはそのままでいいんだ」
「本当に? このままでも、私は河道家の娘らしいかな……?」
「ああ。ユキルがどうとか、周りがどうとか、気にすんな。今のままでも十分だ。ってか、オレはお前のそういう凛々しいところが……」
そこで言葉を止められたのはファインプレーだといっていいだろう。突然黙り込んだコウをいぶかしく思って、「どうしたの?」と問うてくるルシルに、「何でもねえ」と答えて、足を速める。「廊下を走るな」という教えを律義に守るルシルには、競歩並みの速さでスタスタ進むコウには並ぶこともできない。
「待ってよー」
「待たねえ」
しばらくは、顔の色を見られたくなかった。
***
迎えた休日は、あいにくの曇天だった。
三人は、お弁当や水筒などを用意して、クローバー畑へと向かっていた。両家の親は、あまり崖に近寄りすぎないようにと口酸っぱく注意していたが、ほかの子供たちも頻繁に遊びに行く場所なので、三人だけで行かせてくれた。
岬までは一本道ではなく、途中いくつも分岐点がある。しかし、その先はどれも正規の道ではなく、柵もない切り立った崖なので、分かれ道にはその旨の注意書きと頂上までの道しるべが必ず立てられていた。
草むらと低木で緑のあふれる景色の中、勾配の強い坂を、時々休憩をはさみながら上っていた途中だった。もう少しで頂上の目的地、というところで、ユキルがあっと声を上げた。
「お姉ちゃん、コウ君、ちょっと待って」
「どうしたの、ユキル」
立ち止まったユキルは、しきりにこめかみあたりの髪を触っていた。そしてきょろきょろと辺りを見回し、困り顔でこぼす。
「ヘアピン、落としちゃった……」
「ホントだ、ねえな。行くときはつけてたのに」
ピンク色の、パチンと留めるタイプのヘアピンは、ユキルのお気に入りで、いつもつけているものだった。上るのに夢中で、落としたことに気づかなかったのだろう。
「ごめん、わたし、ちょっと探してくる。先に行ってて」
「一緒に探した方がいいんじゃねえか?」
「いいよ、せっかく上ってきたのに、悪いもの。クローバーがあるのは、そこを右に上っていったところよ。もうすぐだから。じゃ、あとでね」
言って、ユキルは急いで来た道を戻った。スカートのすそを翻して、小柄な姿はみるみる遠ざかっていく。
ルシルとコウは顔を見合わせた。
「どうする?」
「まあ、ユキルがせっかく気を遣ってくれたから、それを無下にするのも悪いかな。先に行こう」
「ん」
ルシルの言葉に従って、コウも坂の続きを上り始めた。
――二人は、この時の選択を、長きにわたって後悔することになる。
ユキルの言うとおり、クローバー畑まではすぐだった。坂のてっぺん、湖に向かってせり出した岬は、柵で囲まれており、来訪が多いからこそひとの手が入っていると推察できた。湖はさほど大きいものではなく、向こう岸がはっきり見える程度だ。それでも、深さは十分にあるといわれているので、不用意に柵から身を乗り出しては危険だ。
ルシルの瞳のような青色の、美しい湖面も絶景だが、その手前に広がるクローバー畑も美観だ。一面の緑の中に無数の白い花がちりばめられている様子は、色鮮やかな星空のよう。そして、一見しただけでも、貴重な四つ葉がいくつも顔を出しているのが分かった。きっと、晴れていれば、より一層目にまぶしい光景であっただろう。
「すごい、幸運のシンボルがこんなにたくさん!」
「ありがたみがねえな」
「でも、これだけの四つ葉を見られた私たちには、いいことがありそうだね」
「……そうだな」
幸運の大安売り、と冷めていたコウも、純粋に喜ぶルシルを見れば、自然に頬が緩んだ。
二人は、花畑を避けて芝が見えている場所にレジャーシートを敷くと、源子化していた鞄から弁当などを取り出した。ユキルが帰ってきたら、すぐにお花見ができるように。
「どこまで戻ったのかな」
「見つからなかったらどんどん戻って行ってそうだな……。やっぱり一緒に行ったほうがよかったか?」
せっかく準備したものの、やはり後を追ったほうがいい気がする。暗黙のうちに二人の意見が一致し、立ち上がろうとした、その動きを止めたのは、
「――きゃああぁっ!」
やや下方であがった悲鳴。二人は目を見開いて硬直する。和やかな雰囲気から緊張状態に入るのに、わずかなタイムラグがあった。
先に駆け出したのはルシルだ。
「ユキル!?」
一拍遅れて、コウも後を追う。転がるように坂を駆け下りていくうちにも、泣き叫ぶ声が耳に届いた。
「お姉ちゃん! お姉ちゃーん!」
ちょうどユキルと別れたY字路で、声の発生源が水平方向に変わった。登山方向から見て左、傾斜のない道の先から聞こえてくる。上り坂を囲むように緩くカーブした細い道を全力疾走して、見えてきたのは。
「……っ、あれは……!」
まっすぐに伸びる道の先の行き止まり、柵もない崖っぷちのそばに、ユキルはいた。そして、彼女をさらに絶壁に追いやろうとする、三体のクロの姿も。
「くっ……ユキル!」
「お姉ちゃ……きゃっ!」
ユキルが動こうとすると、クロたちは炎を噴出させた。どれも炎属性のようだ。
ルシルは思わず手を突き出して術を発動させようとした。しかし、かろうじて残っていた冷静さがそれをとどめる。今、下手に水術を放てば、ユキルごと崖から落としてしまいかねない。まだ細かい加減ができるほど、彼女の腕は熟達してはいないのだ。
ルシルは奥歯をかみしめると、俊敏な動きで地を駆けた。素手でクロをかき分けてユキルの手を引くしかない。そのためなら、やけどの一つや二つは歓迎だ。
クロたちは、なおもユキルが身じろぎするたびに炎をちらつかせる。致命的な攻撃は行わず、脅し、嬲り、幼い少女がすくみあがるさまを面白がるように。ルシルと違い、氷猫の妹は、半端な術では炎に太刀打ちできるはずもない。
必死に手を伸ばして駆け寄るルシルの後ろで、コウは簡潔な作戦を頭の中で繰り返していた。
(ルシルが妹の手を取ったら、オレがクロを蹴散らす。隙を見て、全員で逃げる。間に合う、間に合うに決まってる……!)
コウの脳裏には、ついさっき目にした緑の星空がよみがえっていた。それにすがるように強く願う。
だが、それは何の意味も持つことなく、現実は最悪の運命へと転がり落ちていくだけだった。
ルシルが叫ぶ。蹴り上げた土ぼこりが舞う。また一つ、炎が上がって、体をすくませたユキルの右のかかとが崖のふちを越えて、
「お姉ちゃん、助けて――」
声の最後は、ほとんど聞き取れなかった。響き渡る絶叫、悪夢のような光景。ルシルのたった一人の妹は、コウの年下の幼馴染は、嘘のようにあっけなく視界から消え、時の停止を錯覚させるかのごとき静寂を経て――彼方下方で水音を立てた。
呆然と足を止めるルシル。けたけたと笑うクロ。もう、姉を呼ぶ声も悲鳴も聞こえなくなって、それは永遠に水底に沈められたのだと気づいた。
現実から乖離したかのような奇妙な浮遊感の中、コウは嫌味のように再びよみがえった光景を見ていた。
期待したのに。信じたのに。垣間見た希望の予感を、目の前であっさりと砕かれた。裏切られた。
親友の、喉を突き破る血まみれの慟哭を聞きながら、彼は今までの人生で最大の恨み言を毒づいた。
(――何が、幸運の印だよ……)
***
帰り道に何を思っていたのか、彼はよく覚えていない。
記憶に残っているのは、やけどの痛みも感じないほど半狂乱になってクロたちを蹴り飛ばし、彼らがそうしたように崖下に突き落としたことと、呼吸もままならずむせび泣くルシルを震える手で支えたこと。
帰ってから大人たちになんと説明したのか、そのとき彼らがなんと声をかけたのかもおぼろげだった。ただ、二人を咎めたり、責めたりする者はいなかったことだけは覚えていた。
これを境にルシルと疎遠になる、などということはなかった。ただ、彼女がこの日から変わってしまったのは間違いなかった。
柔らかい表情が消えた。時折笑顔を見せたかと思えば、ぎこちない自嘲の笑みか、悲哀の混じったアンビバレンス。声さえも、冷たく冷え切ったものになった。
そして、前にもまして剣術に打ち込むようになった。わき出る感情を昇華するかのごとく、時間があれば道場に通い、ふらふらになるまで剣をふるう。おそらく師範や兄弟子たちの影響だろう、徐々に言葉遣いは固く、男性じみたものになっていった。
小さな村ということもあり、噂は瞬く間に広がった。ルシルを気の毒に思う者は多くいたが、無表情で口数も減ったルシルにどう接すればいいか分かりあぐねて距離を置いた。一部、子供だけで岬に行ったことの軽率さを糾弾する者もいた。彼女は、学校でも一人でいることが多くなった。
三人で遊ぶことが多かった夏休みも、毎年紅葉を見に行く秋晴れの日も、ユキルの誕生日祝いに集う十二月も空虚に過ぎ去り、迎えた二月上旬のことだった。
雨が降りしきるある日、コウは河道邸を訪れていた。ほかでもない、ルシルに呼ばれたのだ。
閃光、ついで鳴り響く轟音に、後ろの障子を振り返る。激しさを増す雷雨を案じながら、コウは前方に視線を戻した。
ルシルの部屋も、純和風の造りだ。従姉のそれとは打って変わって地味な調度で揃えられ、本人の几帳面さがうかがえる整頓ぶり。本棚には、若者向けの教養の本に交じって、明らかに格の違う専門書が数冊並んでいた。従姉にもらったか、借りているものだろう。赤い花が生けられた花瓶の手前、床板の上には、本家から餞別として贈られたという脇差が置かれている。
やや殺風景な部屋の真ん中、ルシルとコウは、茶もなしに向かい合って座っていた。大人顔負けの整った正座で目を伏せるルシルは、部屋に入ってからもう十分も黙っている。コウはため息交じりに口を切った。
「……で、話ってなんだよ」
「……ああ」
ルシルは長いまつ毛の奥からコウを見つめた。いつからか伸ばし始めた前髪の左側を留めているのは、元凶の一つとして一時期は恨んで仕方なかった、見慣れたピンクの髪留めだ。今となっては、形見としてこの上なく大切にしている。この頃には、だいぶルシルの心の内も落ち着いてきているようだった。あの事件の後しばらくは、見るに堪えない様子だったが、時間がほんのわずかずつでも傷を癒してくれたのだろう。
それでも、無表情がデフォルトとなった顔と、固く冷えた口調は、変わることはなかった。
ルシルは、少し逡巡した後、静かに問うた。
「コウ。……ユキルが死んだのは、なぜだと思う」
胸の奥で心臓が跳ね上がったのを、コウは素知らぬ顔で隠し通した。時間が積もり積もって埋まっていった二人のトラウマを、なぜ今になって掘り返したのか、解せなかった。
コウはなんとかポーカーフェイスを繕って答えた。
「クロに追い詰められたからだろ」
「違う」
「……まあ、オレたちがあの時、一緒に探しについてってやらなかったのも悪かったけど」
「それも違う」
怪訝そうに眉をひそめたコウに、ルシルは言い放った。
「私が、弱かったからだ」
コウは、すぐには言葉を返せなかった。彼女は、自虐的になっているのではない。心の底からそう思っているように見えた。
「私の手が届いていれば、あるいはクロを払いのけていれば、ユキルは落ちずに済んだんだ」
「けど……あれは間に合わなかったんだ。言い方は悪いが、仕方なかったんだよ。お前が弱かったとか、そういう話じゃない。お前が責任を感じることじゃ……」
「いいや、私のせいだ」
ルシルの語勢が強くなった。コウさえも気圧されるほどに。
「……どういう……」
「クロに追い詰められたユキルを見て、私が何を思ったかわかるか。怯え切った彼女が私に助けを求める声を聞きながら、必死の形相で見つめてくる彼女の視線を受けながら、私は――きっと大丈夫だろうと、そう思ったんだ」
ルシルの膝の上で、こぶしが固く握られた。ぎりりと音まで聞こえた気がした。
「大きな悲鳴を上げたのだから大人が来てくれるだろうと、いつも誰かに助けられて、何不自由なく満ち足りてきたから、今日だって何も失わないだろうと、そう思ったんだよ!」
口の端から小さな牙をのぞかせて、ルシルはそう声を荒らげた。
「許せないんだ……少しでもそう思って本気になれなかった自分が! もっと速く走れたのに、もっと遠くに手を伸ばせたのに! 母さんが、父さんが、先生方が、見回り当番の方たちが、そしてコウ、お前が……いつも本当に困ったときには誰かが助けてくれる、その立場に甘えた自分の弱さが許せないんだよ! ……だから……」
ふっと、ルシルの瞳に静けさが戻った。凪の水面のようなまなざしを向け、彼女は言った。
「――だから私はもう、箱入りの娘をやめる」
その言葉が何を意味しているのか、すぐにはわからなかった。
次いで告げられた宣言で、コウはいつか予想していた卒業後のビジョンが、あらぬ方向へと変わったことを悟った。
「私は卒業後、飛壇へ行き、希兵隊になる。二月終わりの冬季試験を受けて、希兵隊員になって、これからは私が誰かを助ける存在になる。もう……守られ、助けられ続けるのは終わりだ」
「何……言ってんだよ……!」
コウは正座の姿勢から身を乗り出し、畳に左のこぶしをついた。言いたいことが、つんのめりながら、急き込むように出てくる。
「お前は村長の孫だろ!? 分家とはいえ、河道家は重要な立場にあるんだ。この村を今後担っていかなきゃいけねえんだ! 周りのひとたちだって、それを期待してお前を育ててきたんじゃねえか! 忘れるな、お前はこの村の姫なんだぞ!」
まくしたてるコウを、ルシルは黙って見つめていた。動揺も何もない、静かすぎる目だった。
やがて、彼は気づいた。ルシルのまなざしに浮かんでいたのは、一種の失望だ。
「そうか」
彼女は、無機質に瞬きをした。
「お前なら、わかってくれると思ったんだがな。残念だよ」
そう言って、片膝を立て、ゆっくりと立ち上がる。
「私はね、これでも出生を誇りに思っていたんだ。おじい様の孫であること、将来は本家と協力してこの村の未来を担っていくこと。少し周りと違う扱いを受けることはむずがゆかったが、それでも、大切に丁重に扱われること、悪い気はしなかった」
戸惑うコウの視線を受けながら、彼女は部屋の端へと歩いて行った。紅蓮の生け花のそばで、一度しゃがみ込み、
「……だが、それがしがらみとなるならば。私の生い立ちが、それによる周囲の認識が、私の望みを阻むのならば……」
コウは息をつめて瞠目した。ルシルの白い手の中で、花瓶の前の刀掛けから取り上げた脇差が抜かれる。模造刀ではない、真剣特有の鈍い輝きに、コウは戦慄した。彼女がしようとしていることが、手に取るようにわかってしまった。
腕を伸ばして立ち上がろうとする。叫ぶ言葉も見つからず、ただかすれた吐息を漏らしながら、それでもこいねがうように念じる。
(頼む……やめろ!)
ルシルは、抜き身の脇差を首の後ろにまわした。一瞬の稲妻が室内を強烈に照らし、その雷光を鋭い刃がぎらりと反射する。目を閉じたルシルは、もうコウの表情も見ていない。それでも、コウははくはくと声なく口を動かしながら、脳の回路がショートしそうなほど痛烈に切望した。
(やめてくれ……河道ルシルを殺さないでくれ!)
――彼の望みは、遅れて届いた雷鳴が轟くと同時に絶たれた。
声を上げる暇もなかった。立ち上がりかけた姿勢のまま、自失として硬直するコウの目の前で、あのつややかな漆黒が、見るも無残に畳に散らばった。
コウは糸が切れたように膝を落とし、畳に手をついた。そんな幼馴染を、ルシルは立ったまま見下ろした。頭を動かしても、肩につかない位置で寸断された黒髪は、もう揺れることはなかった。
何の感慨もなく、彼女は言葉を落とした。
「これで姫としての私は死んだ。お前の知っている河道ルシルは死んだんだよ、コウ」
頭上から降ってくる残酷なセリフにも、コウは頭を上げることができなかった。切り落とされた長い髪から目を離せなかった。ルシルの動きに合わせて踊る様子が、白い指にくしけずられる姿が、走馬灯のようによみがえった。生き生きと輝いていたそれは、今は命を失ったように色あせていた。
虚脱状態のコウを見ても、ルシルは驚くそぶりも見せなかった。言葉にされずとも、彼女は知っていたのだ。背中に届く長さになったころから、彼がそれを気に入っていたこと。美しいと思っていたこと。彼の中では、強さと威厳に並ぶ、ルシルを姫たらしめるシンボルであったこと。すべて知ったうえで、ルシルは彼の眼前で、令嬢の象徴を殺したのだった。
脇差を鞘に納め、元の位置に戻すと、ルシルは足元に広がった自分だったものには目もくれず、ふすまへと向かった。
「これが私の覚悟だ。……わかるな」
固い音を立てて、ふすまが閉まる。足音が廊下の向こうへ遠ざかる。
次の足音が部屋の空気を揺らすまで、長い長い時間がかかった。
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