フィライン・エデン Ⅱ

夜市彼乃

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9.過去編

44一蓮托生と今際の科白 ④

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 刹那、耳をつんざくような轟音とともに、宮希のすぐそばの氷壁の中央が砕け、大穴が空いた。
 そして、
「最司官、もーらいっ」
 ハスキーがかった少女の声とともに、割れた鏡の奥から黒い触手が伸びた。回避する間も、抵抗する余裕もなく、宮希の胴にぐるりと巻き付くと、恐ろしい速さでその身を穿孔の向こうへ引きずり込まんとする。
「宮希ッ!」
 遅まきながら霞冴が手を伸ばした。肩がちぎれるかと思うほどの勢いで宮希に差し出した手を、彼も同じようにして握ろうとして――届けと願う切望もむなしく、その距離は絶望的に引き離された。
 宮希が横穴に吸い込まれる。鏡の穴の向こうに、同じような迷路が広がっているのが見えた。触手が収縮し、先端に捕らえた少年ともども乱暴な動きで右の通路へと逃げていく。それを最後に、白服に包まれた姿は、霞冴の視界から消えた。
「み……やき……っ」
 唇の震えが声にも伝わる。寒いはずなのに、手のひらは汗ばんでいた。
 宮希が捕まった。この作戦の要で、一番死守しなければならない人物が。ほかならぬ霞冴が守らなければならない彼が。
「ど……どうし……」
 だが、他者の心配もそこまでだった。唐突に吹き荒れた、竜巻のごとき苛烈な吹雪が、見渡す限りの氷の鏡をことごとく砕き、破片ごと部屋の大気を暴力的にかき乱した。当然、旋風が霞冴を選り分けるわけもなく、彼女もまた枯葉のように巻き上げられる。
「うわあぁぁっ!」
 高速で浮いたかと思うと、横回転しながら斜め下に流され、再び上昇気流にすくいあげられる。おそらく天井だろう、背中を硬い表面に強く打ち付けた。今度は頭から水平方向に飛ばされたのち、一瞬停止して反対方向へ押し流される。このあたりで、霞冴の平衡感覚は使い物にならなくなっていた。一向に地に足がつかないまま、空中で荒々しく蹂躙される。さんざん弄ばれたのち、烈風の気まぐれな解散により凪が訪れ、霞冴は無抵抗なまま床にたたきつけられた。
「あ……ぅ……っ」
 呼吸も満足にできず、霞冴はうつぶせに倒れたまま、床についた拳を震わせた。口の中に鉄の味が広がり、たまらず吐き出すと、口元の床に唾液混じりの血が水たまりを作った。いつの間にか頬の内側を切っていたらしい。口腔内だけでなく、氷の破片で唇の横や手首も傷ついており、鮮血をにじませていた。壁だか天井だかに強打した背中や肩もズキズキと痛む。
 満身創痍となった霞冴は、しばらく起き上がれずに、めまいと激痛に耐えていた。何度か喘ぐうちに、徐々に頭のしびれが取れ、ようやく意識が周囲に向いた。
 迷路を形成していた氷の鏡たちは、跡形もなく粉砕され、破片となっては冷気を保てなくなったのか、床に染みを作るのみとなっていた。仕切りの取り払われた大部屋は、やはり扇型。ただし、一階の中心角にあたる部分から階段を上ってきたので、次の上り階段は弧に沿った場所にあった。
 こだわりなのか、現れた内壁も全面氷でできた、鏡張りの第二フロア。誰の趣味嗜好なのかは問うまでもない。階段の手前で、人質を床に押し付けたまま霞冴に含み笑いを向ける黒い大敵のものに相違なかった。
「いらっさい、希兵隊。まさか、あたしのとこに当たりが転がり込んでくるとはね」
 十代前半の女の声で話しかけてくる黒猫。学院でさえ、実物の画像を見ることのない災厄。相対せば死を覚悟すべしともいえるチエアリが、霞冴にまっすぐな視線をくれていた。
 だが、総毛立ちながらも、霞冴は強固に自我を保っていた。取り乱すわけにはいかない。逃げ出すわけにもいかない。今、チエアリから一メートル強ほど離れた床に伏せさせられる形で、宮希が身動きも取れないまま捕まっているのだから。
 彼を捕縛しているのは、ゆらゆらと揺らめきながらも実体をもっている、黒々とした長い触手だ。そしてそれは、チエアリの背中から生えていた。
「……ダークの、触手……」
 クロやダークとチエアリには、三大差異がある。一つ、容姿が体色以外、通常の猫と同じ。一つ、言葉を交わせるほどの知能を持つ。そして、一つ――猫種では説明できない特殊能力。
「驚いた? これがあたしの固有能力。距離を無視した腕って感じで、便利なのよ?」
 得意げに語るチエアリを、宮希が恨めしげににらみつける。隙を見て全力で体を起こそうとするも、あえなく床に押し戻されてしまう。人の腕より一回り太いだけの触手だが、相当な膂力を誇っているようだ。
 無駄な抵抗、とせせら笑うと、チエアリは悩ましげなため息をついた。
「長男様の命令だから、ホントは三階で待機してなくちゃいけなかったんだけどね。でも、退屈になっちゃったから下りてきたわけ。ここは特に気合い入れてアレンジしたから、気に入ってるのよ」
「長男様……」
「そ。あたしたちは同胞はらから。最初に生まれた長男様があたしたちのリーダーなの。このひ弱な最司官に電話かけたのが彼よ。それにしても、長男様には感謝しなくっちゃ。この北部屋を任せてくれたおかげで、手ずから希兵隊のトップを殺せるんだから」
「殺……っ」
 シアンの双眸の奥で瞳孔が開く。金属音を立てて刀が抜かれかけた。しかし、同時に聞こえた声に、霞冴の手は一度止まる。
「待てよ……」
「うん?」
「さっき『退屈になった』と言ったな……」
 しゃべりにくそうにしながらも、宮希は首を動かしてチエアリをねめつけながら問うた。
「永遠……銀髪の鋼猫とは遊ばなかったのか」
 びくりと霞冴の体が震えたのに驚いたのか、刀が小さく鳴った。
 この部屋には、永遠はいない。三階に行っている可能性もあったが、チエアリは三階から下りてきたと言った。すれ違わないはずがない。そして、すれ違ったが最後、殺しあわないはずがない。
「ああ、あの子、永遠っていうの?」
 チエアリが軽い調子で声を上げた。
「すごいね。あたし、腐るほどたくさんのクロをためこんで、一定数階下にたまるように落としてたのに、あの子ったら乗り込んできてそれらを一人で掃討しちゃうんだもん。一騎当千ってやつ?」
 霞冴の体の端から端まで、緊張が走った。やはり、このチエアリは永遠と遭遇している。
「その上であたしにまで刃を向けてくるんだもん、ちっちゃいし一人なのに、すごい度胸だったわ。実際、悔しいけど強かった。あたしも危ないかと思ったもん。……でも、あれね」
 思い出すように斜め上を見た後、ちらと目だけ霞冴に向けて、片方の口元だけで笑う。
「動かなくなっちゃうと、それはそれで退屈よね」
「――――ッ!」
 脳内で焔が爆ぜた。目の奥が燃えたかと思うと、霞冴は一蹴りで飛び出していた。大きく抜刀し、チエアリの額めがけて真向唐竹を繰り出す。
 小心そうな碧眼が一気に激昂に彩られたのを楽しむように、チエアリは笑みを深くした。そして、予備動作なしで、自分と同じだけの大きさの氷塊を目の前から発射した。ごつごつとした硬質な氷が刀身にぶつかり、甲高い衝突音が響き渡る。硬度にして互角の両者は、単純なパワーで雌雄を決した。
 氷塊の直進を許した刀は大きくのけぞり、持ち主を床に引き倒した。足さばきだけで瞬時に体勢を立て直すと、霞冴はいまだ燃え続ける激情のままに突進した。
 次に飛んできたのはつららだ。低層棟で見たものよりずっと長い荒削りの円錐は、霞冴の頭から足元までを網羅する範囲でいくつも飛来した。
 胸と大腿部を狙ったつららが最初に到達せんとしたそのとき、霞冴の姿は残像とともにかき消えた。空振り、壁にぶつかって短い生涯を終えるつららに見向きもせず、高く跳躍した霞冴は刀を二、三度空中で切り払った。袈裟、水平、逆袈裟と虚空を斬る間に速度をため込む。三角形を描くような軌道の中で勢いをつけた白刃が自分の頭部を狙うのを見て、チエアリは宮希をとらえているものとは別に、三本の触手を背中から伸ばした。
 小柄な体をからめとろうと、あるいは叩き落そうと疾駆する魔の手を、霞冴は体の反応に任せてすべて的確に斬り落とすが、おかげで当初の太刀筋が崩れた。動きが遅れ、難なく斬撃をかわされる。
 だが、初太刀が死んでもすぐに次へ備えるのが剣術熟練者だ。床を打った反動を利用して刀身を浮かせ、今度こそチエアリの首を薙ごうとする。
 瞬間、残された一本の伸縮自在な腕が動いた。
「っ…………!」
 まるで氷漬けにされたように、霞冴の全ての動作が速度を失った。水平斬りは中途半端なところで静止し、足は踏み込んだ状態で硬直する。唯一、大きく見開かれた瞳が小さく揺れていた。
 その真ん前で、カーキ色の髪がほんのひと房、はらりと落ちる。剣先に触れた白い頬は、しばらく何食わぬ様子でいたが、やがて赤いものをにじませ、ひとしずくを顎へと流した。痛みをこらえるブロンズの目を見つめて、霞冴は呆然と声を漏らした。
「み……みや……っ」
「人質って、やっぱりこういう使い道よね」
 直後、霞冴の腹部に衝撃が走った。人質の盾の向こうからチエアリが氷塊をぶつけてきたのだ、と理解する頃には、霞冴の体は勢いよく後方に飛ばされ、壁に張られた氷の鏡に手荒く歓迎されていた。ぶつかった衝撃で手放した刀を拾うより先に、破れたのではないかと思うほどの激痛を放つ腹部を押さえて、横倒しにうずくまる。
「ぅ……げほッ……」
 執行着は圧迫や殴打といったダメージは軽減してくれない。背中まで貫かれるような痛みに涙を浮かべながら、力の入らない腕で無理やり体を起こすと――開いた距離の向こうのチエアリに、信じがたいものを見た。
 霞冴の攻撃は一度も当たっていない。チエアリは単純な、それもさほど大規模でもない術しか使っていない。
 にもかかわらず、厄災の黒猫は息を乱し、苦しげに顔をゆがめていた。
 唖然とする霞冴に気づくと、チエアリは舌打ちした。
「あのチビ……鉱毒なんて生意気な真似を……。あたしがこの程度で息切れなんて……!」
 憎々しげに言葉を吐き、自分の手元に引き戻した宮希をじろりと睥睨する。右頬を血で濡らした最司官は、表情は険しいながら、怨嗟の視線を跳ね返して、ここにはいない部下を称えた。
「なるほど、遠距離攻撃が苦手とは言っていたが、猫術が苦手とは言っていなかったからな。一服盛ったか……やるじゃないか」
「ムカつくっ……ムカつくのよ、あんたたち!」
 真っ黒な姿の中に唯一の赤が見えた。血は通わぬはずだが普通の猫と同じ、口の中の色。怒りに任せて大きく開いたその中に、鋭い牙がのぞいた。
 霞冴は回復も途中の体に鞭打って立ち上がると、右手で刀印を結びながら走り出した。体はまだ痛むが、猫術なら問題なく発動できる。
 しかし、霧の砲弾を撃つより早く、チエアリの無造作な手の一振りで巻き起こった吹雪が霞冴を押し返した。なす術もなく床を転がった霞冴に、チエアリは宮希を引きずりながら近づいていく。
「無駄よ……仲間を取られたあんたは無力。攻撃も満足にできず、連携もできない。あたしも長くはないけれど……せめてあたしの手で死になさい!」
 チエアリが再び牙を見せた。口元に冷気が凝縮される。今度は礫かつららか、はたまた別の何かか――凝固した水分が新たな武器を形成しようとした時だ。氷術では生じない光度の輝きが、黒い体を横方向から照らした。
「お前が……先にッ!」
 触手に束縛されたままの宮希が、幸い自由のままだった両手に光を蓄えていた。今か今かと機を見計らった末に見えた隙を、逃すことなく突く。
 チエアリがハッとするも、光の速さを前にはどうすることもできない。二メートル弱の距離でも手を抜くことなく、宮希は素早く光砲を撃ち放った。
 床に転がされたまま体をひねった無理な体勢だったが、彼の不意打ちはチエアリの体側に命中した。喉が裂けるような悲鳴が二人の耳をつんざく。
 しかし、スピードを優先した彼の攻撃は、チエアリの体の一部のみを霧に変えるだけにとどまった。
「よくもっ……!」
 まなじりを吊り上げたチエアリが牙をむくと同時、触手がさながら生き物のようにうごめいた。巻きつくようにからめとっていた宮希の体を、床から空中へと持ち上げる。そして、高さ一メートル半で宙づりにしたまま、まるで獲物を窒息させる蛇のように、その痩躯を締め上げた。
「くっ……ぁあ……!」
「宮希っ!」
 霞冴は思わず駆け寄った。みし、という音が聞こえたのは幻聴だと思いたい。宮希は、ほとんど喘鳴のような呼吸を繰り返しながら、触手をひっかいて抵抗するが、その動きさえも弱弱しかった。
(あの触手さえ……あれさえ本体から切り離せれば!)
 霞冴はできるだけ局所的なダメージの大きい術を選び、言霊を唱えかけた。だが、それをチエアリが看過するはずもなく。
「動かないで?」
 チエアリの背中から二本目が生まれた。それが毒牙にかけた先を見て、霞冴は声も忘れて青ざめる。生身の体よりもはるかに強い力を有する黒蛇は、宮希の細い首に巻き付いていた。
「ここを胴体と同じ強さで締めたらどうなるかなー? 血流が止まるのが先か、呼吸が止まるのが先か……。まあ、どちらにしろ死ぬけど、それより先に首の骨が折れて死ぬかな」
 残虐な含み笑いに、霞冴は震えながら首を振った。
「や……やめて……やめて……っ」
 絶望は目の前だ。チエアリが面白半分にでもその白い喉に力を加えれば、彼はおそらく即死する。霞冴の目の前で――手をこまねき、見ていることしかできない彼女の眼前で。
 動きを止めた霞冴を見て、チエアリは嗜虐的に口の端をゆがめたかと思うと――ふと、思いついたような表情を浮かべた。
「そうだわ……あんたを残しておくと後が怖い。先にあんたのほうから死んでもらおっか。ねえ、最高司令官?」
 首に巻き付いていた触手がするするとほどけ、腹部を締め付けていたほうも力を緩める。まだ解放されないとはいえ、圧迫感から逃れた宮希は、激しく咳き込みながら呼吸を取り戻そうと努めた。
 そんな彼に、チエアリは言う。

「あんた、そこの部下を殺しなさい。そしたら、解放してあげてもいいわよ」

 咳き上げて浮かんだ生理的な涙の向こうで、茶色い瞳が驚愕に揺れた。死を命じられた霞冴のほうも、呆然と目を見開く。
「簡単でしょ? その子、あんたのことを傷つけるのをすごく嫌がってるみたいだから、抵抗はしないわよ。きちんと殺せたら、あんたの命は見逃してあげる。でも、嫌だっていうなら……あんたを殺して、そこの青い子も殺す」
 嘘だ、と霞冴は心の中で叫んだ。どちらにしろ、チエアリは二人とも殺す気に違いない。ただ自分が楽するため、すでに手中にある宮希を使って、戦闘能力の高い霞冴を先に葬ろうとしているだけだ。
 宮希はうつむいていた。表情は前髪に隠れていて、霞冴からは見えない。さしもの彼でも、この状況を頭脳と技術で乗り切るのは不可能か。
 膠着状態は長くはもたないだろう。チエアリが待ちくたびれたら、宮希はそのまま締め殺される。霞冴のほうは、なんとか時間さえ稼げばチエアリが先に毒で倒れてくれるかもしれないが、宮希が死亡した時点で希兵隊の敗北だ。そして、万が一宮希が霞冴を手にかけることがあっても、その直後には彼の息の根も止められるのだろう。
(そんなことない……絶対ない……!)
 霞冴は唇をかんで、動かない宮希を見つめた。
(宮希がむざむざやられるわけがない。かといって、部下を裏切るわけもない。宮希は天才だ。絶対、絶対に何か考えてくれるはず……!)
 死と隣り合わせのこの状況で、冷静な判断や巧妙な策略を求めるなど、大人に対してでも無理難題の押し付けだろう。
 けれど、宮希ならきっと。そう思う霞冴が胸に抱いているのは、絶大な信頼だ。
 その願いが届いたのか否かわからないまま、霞冴は宮希がゆっくりと頭を上げるのを見つめた。最初に見えたのは口元だけ。そこから、かすれた声が聞こえた。
「……そうだな。オレが死んだら、元も子もないしな」
 その言葉は、霞冴から一切の思考を奪った。自失とする霞冴を、顔を上げて見つめる。その瞳は、無感動な色をしていた。
「みや、き……?」
「思えば、こんな状況になってるのも、お前がオレをちゃんと護衛できなかったからだしな……。……お前みたいな出来の悪い部下なら、別にいいよな」
「なに、言って……」
 ひゅ、とひきつる喉。そこを延長線上として突き付けられているのは、左の人差し指と中指。術の発動を助ける印の基本形、刀印だ。脅しではない。見る見るうちに、指先に光が集まっていく。霞冴も永遠も届かなかったつららを破壊した輝きが、道を閉ざされた霞冴の行く先を切り開いたきらめきが、今、霞冴を見据えて爪を研いでいた。
 ――つまり、彼が下した判断は、それなのだろう。
 霞冴はゆるゆると首を振った。
「やだ……やだよ、宮希……」
「悪いな。これもフィライン・エデンのためだ」
「宮希に、殺されたくない……」
「恨むならチエアリを恨んでくれ」
「宮希に……殺させたくない……っ」
「怖いなら後ろを向いていろ。少しは怖くなくなるだろう」
 冷徹な声と視線に耐え切れず、両目からひとしずくずつ涙をこぼして、霞冴は緩慢な動きで体ごと後ろを向いた。その耳に、詠唱が届く。霞冴より低くて、しかし男子にしてはほんの少し高くて、子供らしくもない落ち着き払った声。霞冴の大好きなその音が、武器を鋭く研ぎ澄ますための言葉を奏でていた。それに伴い、光度が上がり、術のエネルギーが増す。外さない、と豪語する彼が、寸分たがわず狙いを定めるのが分かった。
 ――宮希の言葉は本当だった。波立っていた霞冴の心は、いつの間にか無風の水面のように静まっていた。
 残っていた最後の一滴を顎に落とすと、霞冴はそっと瞼を閉じた。
 暗闇の中、沈黙する。その時を、待つ。
「……じゃあな」
 雪の夜に聞くような静かな声で、彼は言った。目を閉じていても、背を向けていてもわかるほどの光の増幅。
 そして、運命の瞬間は訪れた。
 燎光。熱量とともに光としての性質が強く出る様態を命じられた源子が、術者に従ってその形をとり、指先を離れて標的を目指し――。
「イヤアァァアアア!?」
 部屋中に響き渡る悲鳴が、霞冴の背後で静寂を突き破った。
 それを合図に、彼女は動いた。身をひるがえしながら、かっと目を開くと、続けざまに二つの術を放った。一つは凍粒。あられのような、冷たく凝縮された霧が、触手の根本付近に命中して、それを黒い背中から引きちぎる。もう一つは白風。霧術屈指の大技が、顔を覆ってのたうち回るチエアリを飲み込み、向こう側の壁にたたきつけた。
 もうもうと霧が立ち込める階段ぎわを背に、主から引き離れた触手が黒い霧となって消えゆく。霞冴はすかさず駆け寄り、斜め前に投げ出された肢体を、肩を抱き寄せるようにして受けとめた。伝わってきたのは、服の上からでも骨格がわかるほどの細さと、驚くほどの軽さと、絶対に失いたくないと改めて思い知った温度。勢いに少しよろめきながらも支えきった霞冴は、ぐったりと身を預ける宮希の肩口で声を震わせた。
「み……宮希っ……」
「上出来だ、時尼……よくぞ、オレを信じてくれた。……ごめんな、怖かったろ」
 耳元で優しく温かい声がささやかれ、頭に触れられる感触があった。霞冴は涙声になりながら、懸命に首を振った。
「オレを信じてだけいろって、キミが言ったんだよ。それに、後ろを向いたから……そしたら、怖くなくなったから」
 ――怖いなら後ろを向いていろ。少しは怖くなくなるだろう。
 言われるがままにそうして、霞冴が目にしたもの。宮希が術を向ける霞冴の、背後にあったもの。
 それは、壁一面に張られた、氷の鏡だった。
 質量をもっていたり、任意の形をとったりと多岐にわたる光術であるが、大原則として、性質は光のそれだ。とりわけ、質量のない、光の特色を前面に出した術ならばよりあてはまる物性、屈折、散乱、分散――そして、反射。
 チエアリに直接術を向ければ、先ほどのように締められて終わりだ。だから彼は狙ったのだ。霞冴の、その向こうにある鏡の、そのまた向こうでほくそえむ黒猫の像を。宮希の刀印が指す先が、霞冴よりほんの少しずれていることに気づいたとき、彼女は一連の作戦を瞬時に理解した。
 さすがに、正面の鏡で強烈な光が反射するのだから、目は閉じざるを得なかったが、それでも霞冴は後の動きをシミュレーションするほどには冷静でいられた。入射角を間違えれば、チエアリに当たらないどころか霞冴に飛んでくる。けれど、それは起こりえない事象だと信じていた。
 決して外しはしない――彼はそう言って、撃ち放つ全射で証明して見せたから。
「宮希は休んでて。壁際まで歩けそう?」
「問題ない。……後は、頼んでいいか」
「うん、任せて」
 歯切れよい返事に安心したように息をついて歩き出す宮希と反対方向に、霞冴は足を踏み出した。いまだ残る霧の奥、かろうじて生き永らえた敵へと向かって。
「……天上の細小波いさらなみ五五〇間ごひゃくごじゅうげん先の紗幕しゃまく、儚き同胞の集合の利」
 徐々に薄らいでいく霧の向こうで、相手の表情が見えた。毒の回りに加えてもろに食らった攻撃で弱り、いまだ光術の直撃による盲目状態が癒えないチエアリの、憔悴しきった顔が。
「冬夜に倣いて片道を行進せよ」
 初めて目の当たりにした、チエアリという化け物。聞き及んでいた通りの、普通の猫と同じ容姿と話す言葉。
 そんな存在の弱り切った様子を見ても、同情も憐憫も浮かばなかった。許すには、そいつは大切なものを傷つけすぎた。
 立ち止まった霞冴は、近距離で手を伸ばすと、言霊を唱えて氷点下の霧の粒を放った。
「砕けろ、凍粒とうりゅう
 白く立ち上る霧と氷の破片。そして、そこに混じる黒い煙。
 存外に、断末魔の声というものはなかった。煙以外は何も残さず、静かに消え去った。
 霞冴は息を一つつくと、すぐに踵を返した。
「宮希、大丈……あうっ」
 ふらりとよろめいて、そのまま倒れこむ。消耗がダーク戦の比ではない。体の疲れよりも、攻撃を受けてのダメージが大きかった。口の中や氷の破片で切ったところの出血は止まっていたが、打撲した体中がズキズキとうずいていた。
 遠くから声が投げかけられる。
「時尼、純猫術がうまく使えるなら、治せるだけ治しておけ。時間がかかってもいい」
「でも……先を急がないと、永遠が……」
「焦ってミイラ取りがミイラになっても困る。万全の状態にしておけ」
「うん……わかった。……すぐ終わらせるから」
 霞冴はうつぶせから寝返りを打つと、まず氷塊を食らった腹部に術を施した。体の中心が痛いと、どうも動きづらい。次いで肩や腕を治すと、最後に自然治癒能力を活性化させて体力を回復させる。医療従事者やそれに準ずる者ほど効率よくはできないが、それでも、しばらくすればそれなりに動けるようになった。
 上体を起こし、立ち上がると、霞冴は部屋の内装が変化したのに気付いた。鏡張りだった壁は、一階のような灰色の木目になっている。猫術で形を変えた源子は、術者が死ぬと元の姿へ帰る。氷術でこしらえられた鏡が、作り手のチエアリの死に伴って源子化したと考えるのが道理だろう。寒さもましになっていた。
「行けそうか?」
 後ろから歩いてきた宮希が隣に並んだ。視線の動きで上り階段を指す。
「うん、平気。宮希こそ……」
 霞冴はハッと思い出して、考えるより先に手を伸ばした。左手で、宮希の右頬に触れる。彼はいぶかしげに、すぐそばの手と霞冴の顔の間で視線を往復させた。
「……何だ?」
「ごめん、私……刀、止められなくて……」
 チエアリが人質を身代わりにしたとはいえ、霞冴も何とか刃を止めたとはいえ、この手で宮希を傷つけてしまった。罪悪感で心が黒く浸っていく。
 しかし、宮希は気にした様子もない。
「ああ、あれか。構わん。オレこそ、足手まといになってしまったな」
「そんなことないよ。……傷、自分で治したの?」
「そうだ。休んでいる間にな」
 宮希の白い顔には傷跡も残っていない。きれいに治ったようで、霞冴はほっと胸をなでおろした。
「私が傷つけちゃったから、私が治してあげたのに」
「満身創痍のお前にそんなこと頼めるかよ。それに、済んだことだ。……話は変わるが、さっきピッチを見たら、ほかの三隊とも欠員なく進めているようだった。だが、いつ形勢が逆転するかわからない。加勢も考えて、早いうちに攻略するのがいいだろう」
「そう……だね。まだリミットまで時間はあるとはいえ、何があるかわからないもん。……じゃあ、行こっか」
 霞冴は投げ出されたままだった刀を拾い、丁寧に鞘に納めると、急ぎ足で階段を上った。
 チエアリは、永遠についてこう言った。
 ――動かなくなっちゃうと、それはそれで退屈よね。
 動かなくなったのか、動けなくなったのか。おそらく後者であろうが、まだ希望はある。チエアリは、「動かなくなった」と言ったのだ。「死んだ」とは一言も言っていない。
(永遠、待ってて……すぐ行くから)
 自力で回復しようと頑張っているのかもしれないし、瀕死で助けを待っている状態かもしれない。けれど、どちらにしても歩調は変わらない。先輩として、一刻も早く彼のもとへ駆けつける必要があるから。
 踊り場で息を整え、残り半分に足をかける。次のフロアに待ち構えているのはクロか、ダークか。本来は三階で待機を命じられていたらしい氷のチエアリだったことを考えると、もう一体が潜んでいるという可能性は低いだろう。とはいえ、油断は禁物――。
 ドサリ。
 鈍い音で、霞冴の思考は打ち切られた。音のしたほうを見下ろす。
 霞冴が五歩前にいたところ。半円上の踊り場で――倒れていた。
「……宮希?」
 細い螺旋階段で、小さな声がぽつりと静謐を震わせる。
 つかの間の静寂。
 そして、今度は同じ声がより大きく、激しく響いた。
「宮希……ッ!」
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