フィライン・エデン Ⅱ

夜市彼乃

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10.三日月の真相編

48三日月××× ⑨

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***

 メルがピッチをスピーカーフォンにして発信する間、波音はといえば、終始そわそわビクビクとしていた。
 ここから先は、未知の領域。いくら常時周りに花が浮かんでいるような朗らかさをまとう美雷とて、心ある一人の猫であり、偉大なる最高司令官なのだ。部下の命令無視で目の色が変わらないわけがない。
 コール音より速い心臓の鼓動は、応答したソプラノで飛び上がった。
『もしもし?』
「美雷さん、天草芽瑠メルです。水鈴波音さんもそばにいます」
 ひ弱そうな声をしていながら、怖じることのないメルの肝の座り方は、さしもの波音も及ばないものだ。波音自身も、入隊したしょっぱなから上司をあだ名で呼んだり、ため口をきいたりしたお転婆娘だ。今だって、美雷にも敬語を使ったことはない。だが、コウに怒鳴られるのは全くこたえなかったのに、どうしてか今の美雷の声を聞くのは震えるほど怖かった。
『ルシルちゃんのピッチは、謝罪の言葉とともに切れたわ。……何があったの?』
 そう問いかける美雷の声色は、真剣さの中に憂慮が含まれたものだった。だが、それもメルの答えでどう変貌するか。
「美雷さん、すみません。止められませんでした」
『何を止められなかったの?』
「ルシルさん、大和隊長、そのほかの皆さん……波音さん以外は全員、時空洞穴に飛び込んでいきました」
 メルの言葉に、ピッチの向こうで沈黙が答えた。しばらくして、美雷の静かな声が問う。
『近づいちゃダメって言ったのに?』
「はい」
 再び、沈黙。表情が見えない分、重すぎる間だった。あの温かい琥珀色のまなざしが冷え切っているのを見たくはないが、これはこれで、かえって次の一言が恐ろしい。
 波音は、ピッチとメルの顔の間で、何度も視線を往復させた。ピッチもメルも、互いを無表情で見つめあっている。
 やがて、スピーカーフォン越しに聞こえた小さなため息には、少なくとも怒気は感じられなかった。
『……ルシルちゃんはまじめだし、霞冴ちゃんも命令違反するような子じゃない。コウ君は時々苦言を呈するけれど、彼だってベテランよ。この状況で無鉄砲なことはしないはず』
 波音の肩から、少し力が抜けた。ふと、みんなのことをちゃんと見ているんだと霞冴が誇らしげに語っていた、カーキ色の元最高司令官の姿が目に浮かんだ。
 次に聞こえた美雷の声には、間違いなく糾弾の色はなかった。ただ純粋な疑問と思慮でできた問いかけだった。
『メルちゃん。どうしてみんなが飛び込んでいったのか、わかる?』
 その問いに、メルは少しだけうつむいて黙った後、意を決したように答えた。
「彼女らは……衝動的に飛び込みました。使命感からか、あるいはもっと個人的な私情によるものか。そのどちらであったにせよ……もしかしたら、そうしなかった私たちこそが間違っているのかもしれません」
『……どういうことかしら』
「時空洞穴が完全に開いて、接続先の景色を見たんです」
 それは、メルと波音も目にしたものだった。だが、他の皆と違って、二人は美雷の指令を優先してここに留まった。逆に言えば、その光景は、二人を除く全員が葛藤を投げ捨てて指示に背くほどの扇動力をもっていた。
 あの時、彼女らの頭には、その状況を具体的に描写する余裕などなかっただろう。ただぱっと目に飛び込んだ視覚的な事実に突き動かされたに違いない。
 けれど、賢明か非情か、冷静さを保てていたメルには、ほんの短い間に見えたワンシーンを、端的に、正確に描写することができた。
「――吹雪の中で、雷奈さんが、氷術によると思しき氷の中に閉じ込められていました」

***

 ――ここは、どこだろうか。
 真っ暗な闇の中、少女は誰にともなく問う。
 何も見えず、何も聞こえない。ただ、寒い。というより、冷たい。自分を包む空気か何かが、容赦なしに冷たかった。そのはずなのに、体の表面よりも、もっと奥の、魂が収まっているであろう芯に近い部分が、それ以上に寒かった。
(私は……さっきまで何しとったんやっけ?)
 凍り付いた記憶の糸を、少しずつ溶かしながら徐々に手繰り、見えてきたのは白い風。透明で冷たい柱。そして黒々とした姿に爛々と光る深紅――。
(そっか……私、親父と……ガオンと対峙して……)
 さながら、今いるのは氷でできた棺なのだろう。まだ死んではいないようだが、それも時間の問題だ。頭は依然ぼんやりとし、視力も失われている。この身に感じる寒さも、次第に薄れていくのだろう。
 体は何とか動かせそうだった。悪あがきかもしれないが、脱出に向けてあがけるだけあがいてもいいかもしれない。
 けれど。
(私は……ここから出て、よかと?)
 そのためらいが、腕の運動神経への指令を断つ。
(私は神殺しの娘。フィライン・エデンからすれば大敵。フィライン・エデンの皆には、もう会えない。ううん、人間ですらなかった私には、人間界にも居場所なんてない)
 最後に聞こえた言葉が、胸の中で冷たく脈打つ。
 ――お前は普通じゃない。なにせ、罪深き神殺しの娘だからな。
 今までのうのうと生きてきたことも、きっとおこがましかったのだろう。何も知らぬなど、罪だったのだろう。
 自分は、絶対悪の血を引いている。見紛うことなき強大な力とともに。
(私は……ここで、永遠に凍っているのがお似合いなのかもね……)
 それを最後に、雷奈は思考を手放した。なんだか、途端に楽になった気がした。昼寝のときのようなまどろみにたゆたって、薄れゆく感覚をただ眺める。何にも抗わず、何も考えず、ただなりゆくままに身を任せ――。
 ……――!
 ふと、何かが聞こえた気がした。凍り付こうとしていた雷奈の意識が、気づいた時にはそちらへ向いていた。
 今まで何も聞こえなかった中に、唐突に表れた聴覚刺激。とはいえ、先ほどまでの雷奈の精神状態なら、それも受け流してよいほどのささやかなものだった。
 だが、反射的に、まるで振り返るようにそこに注意を向けていた。何が聞こえたのかはわからないまま、けれど、いつもそうしていた気がしたから。
 もう一度、聞こえた。今度は、さっきよりもほんの少し鮮明だった。声だ。誰のものかはわからないし、本当にその言葉を発音しているのかもわからないが、確かに声はこう叫んだ。
 ――雷奈!
 呼んでいる。誰かが、呼んでいる。
 この凍てついた棺の中の、忌むべき存在を。
 もう一度、声がする。
 ――戻って来い、雷奈!
「戻れんよ」
 壁を張るようにつぶやく。もし本当に振り向いていたならば、その顔を再び背けていただろう。
「だって、私はガオンの娘やけん。大罪人の血を引く子やけん」
 諦めたように受け入れたはずの事実でも、自分で口に出してみれば、心につららが刺さるようだった。この声が、呼び声の主に届いているのかはわからない。そもそも、何もかも幻聴なのかもしれない。だから、これは自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。
 だが、音に乗せずに意味だけが伝わってくるかのようなその声は、確かに雷奈に答えた。
 ――だから何だ、関係ない! あんたが傷つけたわけじゃない。ガオンとあんたは別物だろ!
 きっと、嬉しいことを言ってくれている。だが、今の雷奈には響かない。硬い氷塊と化した心には、何も刺さらない。
 それでも、返事をよこしはした。いまだ、自分への言い聞かせが大部分を占めながら。
「ばってん、もう合わせる顔がなか。アワにも、フーにも……誰にも」
 今の雷奈を、きっと誰も歓迎しない。それは、揺るがない事実なのだと諦めていた。
 だが――。
 ――そんなもの、いつもの顔でいいだろ! 天然で無邪気な、いつものあんたでいい!
 その声の温度に触れて、氷塊の表面がほんの少しだけ溶け出した。分厚い氷の外側の、たった紙一枚分ほどだ。
 だとしても、なんと心地のいい言葉だろう。雷奈は、しばらくその残響に聞きほれていた。
 余韻に、さらなる声が重なる。
 ――もしそれで足りないっていうならな、救世主の顔をしろ。ガオンを懲らしめて、フィライン・エデンを救った正義の味方の顔で会えばいい。
「正義の、味方……?」
 無明の闇に、ぼうっと何かが現れた。目の前の暗黒をぼかす、ほの白い幽光。
 けれど、それに手を伸ばす勇気は、まだない。
「ガオンは、神ば……君臨者ば殺したって言ってた。私は神殺しの娘とよ。そんな私に……正義の味方なんてできる?」
 ――できる。
 即座に返る声に、息を詰める。
 ――できるさ。あんたはいつだって素直で正しかった。争いを好まず、悪を許さず、誰かのために動くヤツだった。あんたは最初から正義の味方なんだよ。
 そこに、綺麗事や社交辞令のにおいはしなかった。心の底から、雷奈をそう信じている者の声。きっと、雷奈をよく知り、ずっと見てきた人。
 尋ねる震え声に、わずかに熱がこもる。
「戻った先に、私の居場所はある? 私は人間じゃなかったのに、人間の世界に居場所なんてあると?」
 恐れと期待がないまぜになったまま、答えを待つ。
 声は、少し黙った後、短く告げた。
 ――例えば、神社の宿坊。
 心臓が、とくんと脈打つ。
 ――例えば、教卓から見て左の、前から三列目の席。
 じわり、熱が広がる。
 ――例えば、私たちのそば。
 溶け出す、厚い氷の壁。
 ――当たり前だろ。あんたの居場所なんて、いろんなところにある。他にももっとあるはずだ。
 闇を照らす仄かな明かりが、次第に広がって暗澹たる色を遠ざけていく。いつの間にか、寒さは薄らいでいた。いずれ消えるだろうと思っていたその感覚。だが、それ以外の何をも感じなくなるはずだった体は、今確かに、優しい温度を感じ取っていた。
 ――雷奈。
 声が響く。
 ――どんな真実が偉そうに現れたって、この真実の前には何も手出しできない。雷奈は雷奈。この絶対の真実は……未来永劫、変わらないよ。
 光が広がって、闇を払いゆく。人肌に似た温かさに包まれる。
 けれど、やっぱり何も見えない。まぶた越しに世界を見ているように、明暗の区別がつくだけ。
 光の向こうにあるものも、声の主も、何も目に映らない。こんなにも嬉しくて、もう一度、自分のいた世界をと願ってしまうのに。
 ここまでなのか。ここから先は、もう望めないのか。
(……違う)
 そうだ。これが、まぶた越しの世界なら。
(何も見えないでいるのは……私が目をつぶったままだからじゃないのか。何ものは、私自身じゃないのか)
 声を聞くだけは心地よくて、そのくせ今の自分の在り方を変えるのは怖かった。目を開けるのも、手を伸ばすのも。
 だが、それももう終わりだ。
 まぶたを上げる。手を伸ばす。どちらも、自分自身にしかできないこと。
 自ら閉ざした世界への扉を、自ら開いていく。
 ――戻って来い。一緒に戦おう、雷奈。
 声は、それが最後だった。伸ばした両手を、やけどしそうな熱が包んだ。同時に、まぶしすぎる光が目を刺す。
 手が熱い。目が痛い。けれど、なぜか嫌じゃなかった。
 焼けるように熱くて、刺すように痛くて、どうしてかそれが心地よくて、でもやっぱり、たまらなく熱くて、痛くて――。
 涙が、止まらなかった。
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