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14.巫覡の磐座編
69凱風と水魚 ②
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その啖呵で、火蓋は切られた。
両者を取り巻いていた風と水が、竜巻の形状を保ちながら、それぞれの前を進みだす。そう遠くなかった彼我の距離は直ちに埋められ、二つの螺旋は中央で激しくぶつかり合った。高速回転しながら接触した瞬間、喧嘩独楽のように弾かれ合いかけて、しかし術者の命じる推進力のままに進み続ける。結果、両者は互いの体を削り合いながらの押し相撲にもつれ込んだ。
風の砕片が四散し、辺りの気流をめちゃくちゃにかき乱す。それに乗って飛び散る水しぶきで、地面に、周囲の木々に水の粒が突き刺さる。
まるで、林の中に突如生まれた暴風雨。もしこの世界に鳥や虫がいたならば、一斉にこの区画から逃げ出すであろう、人工的な自然の脅威が猛威を振るっていた。
火花さえ飛び散らさん勢いで相剋していた二つの渦。弾き合い、しのぎ合っていた両者は、やがて特異点を超えた。
突如として、まるで天文学的な確率で噛み合った歯車のように交わると、内包するエネルギーはそのままに重なり合い、融合した。結果、生まれたのは空をかき乱し、地をしとどに濡らす巨大な竜巻だ。いかずちのごとき低い咆哮が響き渡る。内部では、まるで二頭の龍の乱闘のごとく、激流と颶風が敵対的に暴れまわっていた。
せめぎ合う二つの暴力が、長く一つの形を保っていられるはずもなかった。数秒ともたず、逆巻く嵐は次の瞬間には爆発的な崩壊にその身を散らした。爆心地から同心円状に小枝と土が吹き飛ばされ、穿つような水が十数メートル先にまで着弾する。
超新星爆発のごとき最期を遂げた嵐の跡地で、二人は息を切らしながら反目しあっていた。
猫術の英才教育を欲しいままにした当主二人とはいえ、普段から術を使い慣れる立場でもない。感情に任せた、突沸のような力の放出に、双方ともに相応の体力を消耗していた。
互角の激突を繰り広げたバブルとウィンディだが、僅差でより疲弊の色が濃いのはウィンディの方だった。それを見越して、バブルが喘ぐ合間に言い放つ。
「……わかったろ」
同じように肩で息をしながら、それでもうつむかずバブルをにらみつけ続けるウィンディに、言葉を重ねる。
「あんたが禊に干渉しようってんなら、私は止める。体張ってでも止めるんだ。……それでも行くっていうのかい」
両手を膝について喘いでいたウィンディは、何も言わずに右手を体の横に掲げた。その手に風が集まり始める。――が、すぐに消散し、右手も膝の上に戻った。
もはや風砲程度の風術を放つ余力もなくなったウィンディは、ついに頭を垂れて荒い息を繰り返した。
うつむく彼女の唇から、絞り出すような声が落ちる。
「……バブルは」
細く削られた声が、弱弱しくバブルに切っ先を向ける。
「禊を行うのが、自分の子じゃないから……そんなことが言えるのよ」
一足先に息を整えたバブルは、無言でウィンディを見下ろしていた。その唇は、硬く引き結ばれている。
沈黙が流れる間に、ウィンディの呼吸も徐々に穏やかになっていった。
それでも、彼女はうつむいたままだった。絞り出した声も、震えるままだった。
「フーが禊をしなきゃいけないって言ってきた時の、私の気持ちがわかる? あんな足もすくむような高所から、冷たい水に向かって飛び降りるあの子を……命にかかわることをするあの子を想像した時の気持ちが……」
彼女の声は、再び乱れ始めた呼吸で、ひどく歪んでいた。それでも、その響きにはまだ、わずかに芯のようなものが残されていた。膨れ上がる感情をせき止める堤防のような理性といってもいい。
だが、それも薄氷のごとき脆いものだ。薄氷の堤など、最愛の存在へのわき上がる感情を前にしては、決壊の一途しかない。
あふれ出した想いは、滂沱と頬を伝い、濡れた地面をさらに切なく濡らしていく。
「不安とか、恐怖とか、そんな色のある感情が出てくる前に……真っ白になるの。その真っ白な頭に、今までのあの子が次々によみがえってくる。あの子が生まれた瞬間のこと、幼いあの子の成長、初めて学校へ行った時のこと、神託を受けた時の嬉しそうな顔……全部が、まるで……走馬灯みたいに……っ」
頼んでもいないのに、勝手にアルバムがめくられるように。
願ってもいないのに、勝手にビデオのフィルムが回されるように。
最期だから、思い出の総ざらいでもしておけ。まるで何者かにそう言い放たれたかのように。
思い起こされた愛娘の全てが――「最期」というもしもにあまりにも鮮烈な現実味を帯びさせる。
それは、母親という生き物に対しての死刑宣告だ。
「――……」
バブルは、そんな親友をじっと見つめていた。押さえ込んでいた感情を露わに、体を折り、両手で口元を覆って涙をこぼし続ける彼女を。
ずきりと、バブルの胸の奥が痛みを訴えた。けれど、無視した。そんな拙速な同情があっていいわけがない。
「……そうだな」
だから、一度目を閉じると、あえて平らな声で答えた。
「私はフーの母親じゃない。あんたと全く同じ痛みを抱えることは、今の私にはできないかもしれない。それこそ、アワかアクアが神判の間に入らない限りはな」
共感などおこがましい。
これは冷酷などではない。ウィンディはフーの母親で、バブルはそうではない。その事実は、永遠に決定的な隔たりだ。
だが。
だからこそ。
「だからこそ――私が止めなきゃいけないんだよ」
体の横で、拳を握る。爪が食い込み、手のひらが痛みを訴える。そう、痛いのは心じゃない。そんな中途半端な同情よりも必要な使命がある。
「わかってんだろ。禊の完遂条件は、なにも溺死することじゃない。禊の淵に飛び込み、着水することだ。そんで落ちたとしても、百パーセント死ぬわけじゃない。それに、禊は二の判がある。フーが潔白なら、飛び降りても、そもそも着水すらしないんだぞ。……だけど」
吐き出す言葉は、傷ついた相手に追い打ちをかける針球のようだった。発するたび、駆けあがるバブルの喉をもズタズタに刺していく。
痛みに裏返りそうな声を、それでも喘ぐようにして絞り出し続ける。
「だけど、あんたが禊を邪魔したら、君臨者は私達に神罰を下す。それは百パーセントだ。君臨者だぞ。この世界の神だぞ。今度こそ、逃れられるわけないだろう!」
そこまで言って、バブルは息を継いだ。喉の奥に血の匂いがした、そんな気さえした。
ウィンディがうつむいていることをいいことに、歯を食いしばる。渾身の力で痛みをこらえて、言葉と声だけでも、努めて不撓の態度を貫く。
「冷静に考えろ。今ならまだ間に合う」
「冷静に、って」
ウィンディの声が、震えを伴って小さく響いた。その震えは、先程のような狼狽の化身ではなく、爆発の予兆だった。
ばっと顔を上げる。瞳に涙を浮かべたまま、牙もあらわに、もう何年ぶりかも知れない怒声をほとばしらせる。
「なれるわけないでしょう! なっていいわけがない! 我が子の危機に冷静でいられる母親がどこにいるっていうの!」
「んなこたぁわかってんだよ!」
負けず劣らずの怒号と共に、バブルがウィンディの両肩を鷲掴む。歯を噛みしめて、揺れる瞳でにらみつけてくるウィンディに、バブルは真っすぐに言い渡す。
「だから私がいるんだ、ウィンディ。二家の役割は協力、そして牽制だ。片方が行きすぎた行動をするなら、もう片方が止める。そのために巫覡の子は、巫覡の当主は、二人いるんだよ」
巫覡とて、しょせんはただのフィライン・エデンの猫だ。従容たる君子などではない。時には私情に絆され、正しい道を見失うこともあるだろう。そんな時、彼らと対等に渡り合い、進むべき道を示せるのは、同じ巫覡の一族だけだ。
今が、その時なのだ。
「あんたを冷静にさせるために、私はここにいる。流清家を……そして風中家を守るために」
ウィンディの胸に、しみるような痛みがにじんだ。それ以上バブルをにらみ返すことはできず、そろりと目を伏せる。バブルの言葉は、何一つ間違っていない。
「禊を邪魔したせいで私の家族に神罰が下っちゃたまらない。悪いけど、それは本音だ。私には流清家当主として、流清家を守る義務がある」
バブルが抗うのは当然だ。風中家は、目の前に迫る自分達にとって熾烈な道を避けようとして、流清家をも危険に巻き込む非道な道を選ぼうとしたのだから。とばっちりも甚だしい流清家を守るという動因は、至極もっともなのだ。
だが、バブルが守ろうとしているのは流清家だけではない。そして、その主張もやはり過たない。
「けどな、それは風中家だって同じだ。あんたが禊に手を出したばっかりに、あんたの家族に何かあったらどうする。リーゼに、タイガに、スフレに、シフウさんやふゆさんに……裁きが下されたらどうする」
ウィンディはうつむき、唇をかんだ。
流清家の当主であるバブルは、当主として一家を守るために戦っている。
だが、自分はどうだ。風中家当主でありながら、娘の禊を見届ける覚悟も決められず動揺し、自らの家族を危険にさらそうとしている。
いや、家族たちは皆、神罰を受け止める覚悟でここへ来ている。だから裁きが下されたとしても、誰も後悔などしない――。
ここへきてすぐならば、そんな反論を振りかざしただろう。けれど、バブルの正しさを真っすぐに突き付けられた今――拳の中に握りしめたその標榜は、あまりにも身勝手に思えた。
ウィンディの胸に渦巻く黒い信念が、揺らぐ。その黒が、愛を焦がした末の色だと分かったうえで――バブルの悲しげな声が、静かに最後の一押しを紡いだ。
「――もし、君臨者にフーを奪われたらどうするんだ」
うつむいたままのウィンディの両目がいっぱいに開かれた。みるみるうちに、その瞳はにじみ――大粒の涙が、ぼろぼろと零れ落ちていく。
目の前に映るように、ありありと想像できてしまった。フーを救った気でいて、その実何も変えられなかった――むしろ地獄を招いただけの未来を。
禊を乗り越えた安堵と潔白の喜びもつかの間、娘は訪れた神罰に全てを知るのだ。
自分を救った神風は、君臨者の慈悲などではなく母のエゴだったことを。己の潔白が成したところではなかったことを。
先代の正統後継者と仰いだ母が、しきたりに背いたことを。流清家までもを巻き込む罪を犯したことを。
神判の間へ向かう間の恐怖は、飛び降りた時の勇気は、全てないがしろに捨てられたことを。
自分が信じた自分を、母は信じてくれなかったことを。
その絶望を最後に果てることを。
「……っ――」
ウィンディの足が力を失い、その場に崩れ落ちた。顔を覆い、声もなく泣きじゃくる。
その間にも、時間は流れていく。一秒一瞬を捉えんと光らせていた目は、今はただ緩慢に涙を流し続けることしかできなかった。磐座は、遠いままだ。
バブルはウィンディの両肩を抱いたまま、一緒に座り込んだ。そして、力強くも穏やかな口調で語りかける。
「ウィンディ。私だって……フーに何かあったら嫌だよ。けど、フーが君臨者に見とがめられるような何かをするわけがないとも信じてるんだ」
「……で、も……もし……っ」
「ああ、わかってるさ。もしもの時は、私も飛び込んでフーを引き上げてやる。心肺蘇生? 任せとけ。そんで落ち着いたら、その場で君臨者に抗議してやる。こんないい子が何したってんだって、怒号と罵声交じりにな」
覆っていた両手をわずかにずらして、ウィンディは涙に濡れる両目をのぞかせた。その目をのぞきこむバブルは、真剣なまなざしを宿しつつも、口元に勝気な笑みを浮かべていた。
ウィンディの口から、わずかに吐息が漏れた。
(思い出した――昔から、そうだった)
たとえ揺れる吊り橋を前にしても、足を踏み外さないように慎重になるウィンディを引っ張って、バブルは怖じもせずに駆け抜ける。足元を案じて下を向くウィンディの横で、バブルはいつも、たどり着くと信じて疑わない前を向いていた。
そこにあるのは、どんな困難に直面しようとも持ち直せるという絶対の自信。困難の直面を避けようと用心するウィンディよりも、よほど強くて真っすぐな心。
彼女と共にならば――この橋がどんなに揺れても、向こう岸へたどりつくことができるだろうか。
ウィンディの瞳が、そんな光明を見出したのを、バブルは見逃さなかった。ニッと笑って両手を離し、立ち上がる。
「そういうこった。フーはよくて普通の生還、悪くてもびしょ濡れで生還。心配することなんて何もない」
そして、座り込んだままのウィンディに右手を差し出す。
「行こう、ウィンディ。生還したフーを一番に抱きしめたいだろ」
「……ええ――」
その手を取りかけて――
ウィンディの視線が、愛する親友から、わずかに逸れた。
バブルが目をしばたたかせる。希望の輝きを取り戻したウィンディの瞳に、陰をかけるような戸惑いの色がさしていた。
「ウィンディ? どした?」
「……バブル」
彼女のブラウンの瞳は、バブルの背後、遠くに投じられていた。
視線を追って、バブルは振り返る。ウィンディが見つめていたのは、磐座だ。バブルの猛ダッシュで少し離れてしまったが、頂上に近い部分はここからでも木々越しに目に入る。
こちらから見て左方向に少しせり出た、岬のようになっている部分に――何かが見える。
「あれ……何」
遠くて視認しづらいが、動く影が三つ。人影のように見える。
小さく口を開いたまま、磐座を見つめる二人。
その耳に届いたのは――。
両者を取り巻いていた風と水が、竜巻の形状を保ちながら、それぞれの前を進みだす。そう遠くなかった彼我の距離は直ちに埋められ、二つの螺旋は中央で激しくぶつかり合った。高速回転しながら接触した瞬間、喧嘩独楽のように弾かれ合いかけて、しかし術者の命じる推進力のままに進み続ける。結果、両者は互いの体を削り合いながらの押し相撲にもつれ込んだ。
風の砕片が四散し、辺りの気流をめちゃくちゃにかき乱す。それに乗って飛び散る水しぶきで、地面に、周囲の木々に水の粒が突き刺さる。
まるで、林の中に突如生まれた暴風雨。もしこの世界に鳥や虫がいたならば、一斉にこの区画から逃げ出すであろう、人工的な自然の脅威が猛威を振るっていた。
火花さえ飛び散らさん勢いで相剋していた二つの渦。弾き合い、しのぎ合っていた両者は、やがて特異点を超えた。
突如として、まるで天文学的な確率で噛み合った歯車のように交わると、内包するエネルギーはそのままに重なり合い、融合した。結果、生まれたのは空をかき乱し、地をしとどに濡らす巨大な竜巻だ。いかずちのごとき低い咆哮が響き渡る。内部では、まるで二頭の龍の乱闘のごとく、激流と颶風が敵対的に暴れまわっていた。
せめぎ合う二つの暴力が、長く一つの形を保っていられるはずもなかった。数秒ともたず、逆巻く嵐は次の瞬間には爆発的な崩壊にその身を散らした。爆心地から同心円状に小枝と土が吹き飛ばされ、穿つような水が十数メートル先にまで着弾する。
超新星爆発のごとき最期を遂げた嵐の跡地で、二人は息を切らしながら反目しあっていた。
猫術の英才教育を欲しいままにした当主二人とはいえ、普段から術を使い慣れる立場でもない。感情に任せた、突沸のような力の放出に、双方ともに相応の体力を消耗していた。
互角の激突を繰り広げたバブルとウィンディだが、僅差でより疲弊の色が濃いのはウィンディの方だった。それを見越して、バブルが喘ぐ合間に言い放つ。
「……わかったろ」
同じように肩で息をしながら、それでもうつむかずバブルをにらみつけ続けるウィンディに、言葉を重ねる。
「あんたが禊に干渉しようってんなら、私は止める。体張ってでも止めるんだ。……それでも行くっていうのかい」
両手を膝について喘いでいたウィンディは、何も言わずに右手を体の横に掲げた。その手に風が集まり始める。――が、すぐに消散し、右手も膝の上に戻った。
もはや風砲程度の風術を放つ余力もなくなったウィンディは、ついに頭を垂れて荒い息を繰り返した。
うつむく彼女の唇から、絞り出すような声が落ちる。
「……バブルは」
細く削られた声が、弱弱しくバブルに切っ先を向ける。
「禊を行うのが、自分の子じゃないから……そんなことが言えるのよ」
一足先に息を整えたバブルは、無言でウィンディを見下ろしていた。その唇は、硬く引き結ばれている。
沈黙が流れる間に、ウィンディの呼吸も徐々に穏やかになっていった。
それでも、彼女はうつむいたままだった。絞り出した声も、震えるままだった。
「フーが禊をしなきゃいけないって言ってきた時の、私の気持ちがわかる? あんな足もすくむような高所から、冷たい水に向かって飛び降りるあの子を……命にかかわることをするあの子を想像した時の気持ちが……」
彼女の声は、再び乱れ始めた呼吸で、ひどく歪んでいた。それでも、その響きにはまだ、わずかに芯のようなものが残されていた。膨れ上がる感情をせき止める堤防のような理性といってもいい。
だが、それも薄氷のごとき脆いものだ。薄氷の堤など、最愛の存在へのわき上がる感情を前にしては、決壊の一途しかない。
あふれ出した想いは、滂沱と頬を伝い、濡れた地面をさらに切なく濡らしていく。
「不安とか、恐怖とか、そんな色のある感情が出てくる前に……真っ白になるの。その真っ白な頭に、今までのあの子が次々によみがえってくる。あの子が生まれた瞬間のこと、幼いあの子の成長、初めて学校へ行った時のこと、神託を受けた時の嬉しそうな顔……全部が、まるで……走馬灯みたいに……っ」
頼んでもいないのに、勝手にアルバムがめくられるように。
願ってもいないのに、勝手にビデオのフィルムが回されるように。
最期だから、思い出の総ざらいでもしておけ。まるで何者かにそう言い放たれたかのように。
思い起こされた愛娘の全てが――「最期」というもしもにあまりにも鮮烈な現実味を帯びさせる。
それは、母親という生き物に対しての死刑宣告だ。
「――……」
バブルは、そんな親友をじっと見つめていた。押さえ込んでいた感情を露わに、体を折り、両手で口元を覆って涙をこぼし続ける彼女を。
ずきりと、バブルの胸の奥が痛みを訴えた。けれど、無視した。そんな拙速な同情があっていいわけがない。
「……そうだな」
だから、一度目を閉じると、あえて平らな声で答えた。
「私はフーの母親じゃない。あんたと全く同じ痛みを抱えることは、今の私にはできないかもしれない。それこそ、アワかアクアが神判の間に入らない限りはな」
共感などおこがましい。
これは冷酷などではない。ウィンディはフーの母親で、バブルはそうではない。その事実は、永遠に決定的な隔たりだ。
だが。
だからこそ。
「だからこそ――私が止めなきゃいけないんだよ」
体の横で、拳を握る。爪が食い込み、手のひらが痛みを訴える。そう、痛いのは心じゃない。そんな中途半端な同情よりも必要な使命がある。
「わかってんだろ。禊の完遂条件は、なにも溺死することじゃない。禊の淵に飛び込み、着水することだ。そんで落ちたとしても、百パーセント死ぬわけじゃない。それに、禊は二の判がある。フーが潔白なら、飛び降りても、そもそも着水すらしないんだぞ。……だけど」
吐き出す言葉は、傷ついた相手に追い打ちをかける針球のようだった。発するたび、駆けあがるバブルの喉をもズタズタに刺していく。
痛みに裏返りそうな声を、それでも喘ぐようにして絞り出し続ける。
「だけど、あんたが禊を邪魔したら、君臨者は私達に神罰を下す。それは百パーセントだ。君臨者だぞ。この世界の神だぞ。今度こそ、逃れられるわけないだろう!」
そこまで言って、バブルは息を継いだ。喉の奥に血の匂いがした、そんな気さえした。
ウィンディがうつむいていることをいいことに、歯を食いしばる。渾身の力で痛みをこらえて、言葉と声だけでも、努めて不撓の態度を貫く。
「冷静に考えろ。今ならまだ間に合う」
「冷静に、って」
ウィンディの声が、震えを伴って小さく響いた。その震えは、先程のような狼狽の化身ではなく、爆発の予兆だった。
ばっと顔を上げる。瞳に涙を浮かべたまま、牙もあらわに、もう何年ぶりかも知れない怒声をほとばしらせる。
「なれるわけないでしょう! なっていいわけがない! 我が子の危機に冷静でいられる母親がどこにいるっていうの!」
「んなこたぁわかってんだよ!」
負けず劣らずの怒号と共に、バブルがウィンディの両肩を鷲掴む。歯を噛みしめて、揺れる瞳でにらみつけてくるウィンディに、バブルは真っすぐに言い渡す。
「だから私がいるんだ、ウィンディ。二家の役割は協力、そして牽制だ。片方が行きすぎた行動をするなら、もう片方が止める。そのために巫覡の子は、巫覡の当主は、二人いるんだよ」
巫覡とて、しょせんはただのフィライン・エデンの猫だ。従容たる君子などではない。時には私情に絆され、正しい道を見失うこともあるだろう。そんな時、彼らと対等に渡り合い、進むべき道を示せるのは、同じ巫覡の一族だけだ。
今が、その時なのだ。
「あんたを冷静にさせるために、私はここにいる。流清家を……そして風中家を守るために」
ウィンディの胸に、しみるような痛みがにじんだ。それ以上バブルをにらみ返すことはできず、そろりと目を伏せる。バブルの言葉は、何一つ間違っていない。
「禊を邪魔したせいで私の家族に神罰が下っちゃたまらない。悪いけど、それは本音だ。私には流清家当主として、流清家を守る義務がある」
バブルが抗うのは当然だ。風中家は、目の前に迫る自分達にとって熾烈な道を避けようとして、流清家をも危険に巻き込む非道な道を選ぼうとしたのだから。とばっちりも甚だしい流清家を守るという動因は、至極もっともなのだ。
だが、バブルが守ろうとしているのは流清家だけではない。そして、その主張もやはり過たない。
「けどな、それは風中家だって同じだ。あんたが禊に手を出したばっかりに、あんたの家族に何かあったらどうする。リーゼに、タイガに、スフレに、シフウさんやふゆさんに……裁きが下されたらどうする」
ウィンディはうつむき、唇をかんだ。
流清家の当主であるバブルは、当主として一家を守るために戦っている。
だが、自分はどうだ。風中家当主でありながら、娘の禊を見届ける覚悟も決められず動揺し、自らの家族を危険にさらそうとしている。
いや、家族たちは皆、神罰を受け止める覚悟でここへ来ている。だから裁きが下されたとしても、誰も後悔などしない――。
ここへきてすぐならば、そんな反論を振りかざしただろう。けれど、バブルの正しさを真っすぐに突き付けられた今――拳の中に握りしめたその標榜は、あまりにも身勝手に思えた。
ウィンディの胸に渦巻く黒い信念が、揺らぐ。その黒が、愛を焦がした末の色だと分かったうえで――バブルの悲しげな声が、静かに最後の一押しを紡いだ。
「――もし、君臨者にフーを奪われたらどうするんだ」
うつむいたままのウィンディの両目がいっぱいに開かれた。みるみるうちに、その瞳はにじみ――大粒の涙が、ぼろぼろと零れ落ちていく。
目の前に映るように、ありありと想像できてしまった。フーを救った気でいて、その実何も変えられなかった――むしろ地獄を招いただけの未来を。
禊を乗り越えた安堵と潔白の喜びもつかの間、娘は訪れた神罰に全てを知るのだ。
自分を救った神風は、君臨者の慈悲などではなく母のエゴだったことを。己の潔白が成したところではなかったことを。
先代の正統後継者と仰いだ母が、しきたりに背いたことを。流清家までもを巻き込む罪を犯したことを。
神判の間へ向かう間の恐怖は、飛び降りた時の勇気は、全てないがしろに捨てられたことを。
自分が信じた自分を、母は信じてくれなかったことを。
その絶望を最後に果てることを。
「……っ――」
ウィンディの足が力を失い、その場に崩れ落ちた。顔を覆い、声もなく泣きじゃくる。
その間にも、時間は流れていく。一秒一瞬を捉えんと光らせていた目は、今はただ緩慢に涙を流し続けることしかできなかった。磐座は、遠いままだ。
バブルはウィンディの両肩を抱いたまま、一緒に座り込んだ。そして、力強くも穏やかな口調で語りかける。
「ウィンディ。私だって……フーに何かあったら嫌だよ。けど、フーが君臨者に見とがめられるような何かをするわけがないとも信じてるんだ」
「……で、も……もし……っ」
「ああ、わかってるさ。もしもの時は、私も飛び込んでフーを引き上げてやる。心肺蘇生? 任せとけ。そんで落ち着いたら、その場で君臨者に抗議してやる。こんないい子が何したってんだって、怒号と罵声交じりにな」
覆っていた両手をわずかにずらして、ウィンディは涙に濡れる両目をのぞかせた。その目をのぞきこむバブルは、真剣なまなざしを宿しつつも、口元に勝気な笑みを浮かべていた。
ウィンディの口から、わずかに吐息が漏れた。
(思い出した――昔から、そうだった)
たとえ揺れる吊り橋を前にしても、足を踏み外さないように慎重になるウィンディを引っ張って、バブルは怖じもせずに駆け抜ける。足元を案じて下を向くウィンディの横で、バブルはいつも、たどり着くと信じて疑わない前を向いていた。
そこにあるのは、どんな困難に直面しようとも持ち直せるという絶対の自信。困難の直面を避けようと用心するウィンディよりも、よほど強くて真っすぐな心。
彼女と共にならば――この橋がどんなに揺れても、向こう岸へたどりつくことができるだろうか。
ウィンディの瞳が、そんな光明を見出したのを、バブルは見逃さなかった。ニッと笑って両手を離し、立ち上がる。
「そういうこった。フーはよくて普通の生還、悪くてもびしょ濡れで生還。心配することなんて何もない」
そして、座り込んだままのウィンディに右手を差し出す。
「行こう、ウィンディ。生還したフーを一番に抱きしめたいだろ」
「……ええ――」
その手を取りかけて――
ウィンディの視線が、愛する親友から、わずかに逸れた。
バブルが目をしばたたかせる。希望の輝きを取り戻したウィンディの瞳に、陰をかけるような戸惑いの色がさしていた。
「ウィンディ? どした?」
「……バブル」
彼女のブラウンの瞳は、バブルの背後、遠くに投じられていた。
視線を追って、バブルは振り返る。ウィンディが見つめていたのは、磐座だ。バブルの猛ダッシュで少し離れてしまったが、頂上に近い部分はここからでも木々越しに目に入る。
こちらから見て左方向に少しせり出た、岬のようになっている部分に――何かが見える。
「あれ……何」
遠くて視認しづらいが、動く影が三つ。人影のように見える。
小さく口を開いたまま、磐座を見つめる二人。
その耳に届いたのは――。
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突然のことに公爵令嬢は何を言われたのか理解できなかった。いや、したくなかった。
婚約者のレイモンドは番という運命に出逢ってしまったという。
そして、真っ白な花嫁衣装を脱がされ、そのドレスは番だという女性に着させられる。周りの者達はめでたいと大喜びだ。
その場所に居ることが出来ず公爵令嬢は外に飛び出し……
生まれ変わった令嬢は復讐を誓ったのだった。
婚約者とその番という女性に
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そして、つがいという者に囚われた者の存在が現れる。
*タグ注意
*不快であれば閉じてください。
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