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14.巫覡の磐座編
68風発の誘い水 ⑦
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***
進むにつれて、道は徐々に狭まっていった。左右を壁に挟まれ、もはや一列になってしか進めないほどだ。さらに、緩くだがカーブしているために、元の広間はすでに見えなくなっている。
暗闇と閉塞感で雷奈たちの中に不安が募り始めたころ、再び開けた場所に出た。開けたといっても、最初に見たところほど広くはない。六畳くらいだろうか。
アワが部屋の中央まで進むと、ぼんやりとだが部屋全体が照らし出された。部屋の奥には、上り階段の入り口が見える。ここからでは最初の数段しか視認できないが、そう勾配が強いわけでも、足元が険しいわけでもなさそうだ。
ふと、雷奈は階段に向かって右側の壁に、またも木製プレートが取り付けられているのに気づいた。さっきと同様の案内表示だろうか、と駆け寄る。
プレートには、朱筆でこう書かれていた。
――付添人はお帰りください。
「ぇ……」
思わず声を漏らして、後ずさる。背中を冷たい汗が転がり落ちた。同じように文字を読んだ氷架璃と芽華実も、目を見開いて言葉を失っている。
「なんだこれ……」
「き、気味が悪いわね……」
「禊には一人で向かわなければならないからね」
歩み寄ってきたアワが、プレートに向けてランタンを掲げた。プレートの文字は、光を浴びて真っ赤に浮かび上がり、雷奈たちの心に本能的な恐怖と忌避感を叩き込んだ。
「禊の間にたどり着くまでにはいくつかの部屋を通るらしいんだけど、それぞれに手順というか、行うべきことが書いてあるんだってさ。……ボクも入ったのは初めてだから、伝聞形で教わっただけだけど」
いつも通りの口調のようでいて、アワの声はぴんと張った糸のように平坦で、微弱に揺れていた。
雷奈たちは彼からプレートに目を戻した。
付添人はお帰りください――ここまで付添人がいると見込んでの指示書きだ。いてもおかしくないだろう。ある晩に突然罪を言い渡され、死をも覚悟する儀式に向かわされる正統後継者。本人の底なしの恐怖もさることながら、その家族が手放しで送り出せるはずがない。せめてこの暗闇の中を歩く間、そして禊ノ淵に飛び込む直前まで、そばに寄り添って少しでも心の拠り所を与えたいはずだ。一緒に飛び込むことはできなくても、せめてその間際まで共にいたいはずだ。
そんな思いで付き添う家族に、付き添われる正統後継者に、最初に突き付けられる指示が――分断なのだ。
誰が取り決めたのかはわからない。二家の先祖が意図したのか、はたまた君臨者から神託か何かでそう命じられたのか。いずれにせよ、禊に向かう正統後継者とその家族の傷ついた心に、さらに追い打ちの鉄槌を振り下ろすような残酷さをはらんでいた。
「さあ、行こう。……立ち止まっている暇はない」
アワはプレートからランタンをそらし、階段室を照らした。二階へと続く無骨な石階段は、切り出したままの姿のようで、表面はでこぼこしている。雷奈たちは手すりに手をかけながら、慎重に階段に足を乗せた。
十段ほど上ると、踊り場でUターン。さらに十段ほどを経て、二階へと上がる。すると、またも同じような部屋に出た。
ただし、先程の部屋とは違う点が二つあった。
一つは、奥に見えるのは細い通路で、階段ではないところ。三階へ上がるには、まだいくつか部屋を通らなければならないのかもしれない。
もう一つは、右手の壁際の地面に穴が空いているところだった。直径二十センチほどの円い穴だ。円いと言っても、岩を荒く掘削したような歪な形をしている。底は暗くて見えず、深さもうかがえなかった。
そして、穴の近くの壁には、またも朱筆で字が書かれたプレートが取り付けられていた。今度は氷架璃が近づいて、二つ目の指示書きを読む。
――お守りなど、余計なものは捨ててください。
「……注文の多い料理店じゃないんだから」
口元を引きつらせて冗談を言ったつもりだったが、かの童話の結末を考えると、気休めにすらならなかった。
心の支えとなる者を排除した後は、心の支えとなる物を排除しようということか。横暴な指示に怒りさえ感じ――れればまだよかったのだろうが、雷奈達の体の芯を満たすのは、うすら寒い恐怖だけだった。
「この穴に……捨てろということなのかしら」
芽華実は離れたところから穴を見て言った。のぞきこむ勇気は持ちあわせていなかった。
怯える芽華実の敵討ちとばかりに、氷架璃が穴を見下ろして語気を荒くする。
「けっ、じゃあこの穴より大きいお守りなら持ってっていいな!」
「氷架璃」
次の部屋へ続く通路の前に立ったアワが、腕を伸ばして明かりを提供してやりつつ、プレートが取り付けられている壁を顎で示す。
「それ、何のためにあると思う」
雷奈達は、そう言われて初めて、プレートの隣に何かがひっかけられているのに気づいた。ランタンがかけられていたのと同じように、フックに二つの道具が吊るされている。
大きな金づちと、裁ちばさみだった。
「――……」
言葉すら発せないままアワを振り返る少女達。彼女らを促すように、アワは次の部屋へと歩いて行った。
再び現れた六畳一間の広さの部屋は、今度は通路が右に続いていた。奥の壁際には、通路や階段の代わりに木机が一つ置いてある。天板に四つ足をつけただけの簡素なもので、椅子はない。
机の上には、横置きの和紙と鉛筆が一つずつ。そして、例に漏れず、この部屋にも指示書きのプレートが壁に設置されていた。
何となく自分の番のような気がして、芽華実が歩み寄り、赤い字に目を走らせた。
書かれていたのは、
――名前をお書きください。
「……」
見てはいけない、と思いながら、芽華実の視線がさっき見たものに吸い寄せられる。木机の上、湿気と経年で劣化の色が見えつつも、いまだ筆記に耐えうる和紙。その紙面には、右端を起点として、縦書きの文字が三行、連ねられていた。
一行目と二行目に何と書いてあったのか、芽華実は、よく読んでいなかった。彼女の目は、一番左端――最も新しい行に吸い寄せられていた。
そこには、あまりにも不格好な書体が四つ、横たわっていた。一画一画がつながり、あらぬ方向へ歪み、まるで年老いた老人が書いたかのような震える線で記された字。
極めて読みにくくも、それは確かに――芽華実の愛するパートナーの名を指していた。
「……っ……!」
芽華実は思わずむせび泣きそうになり、両手で顔を覆った。氷架璃がその肩を支え、アワに目配せした。アワは痛みをこらえるように眉をひそめたまま頷き、「行こう」と歩き出した。
氷架璃に手を添えられながら歩き出した芽華実が、まだ顔を覆ったまま、涙声を漏らす。
「フー……本当に、怖い思いを……っ」
「大丈夫、フーは無実なんだろ。リーゼが言ってたじゃんか」
「あんなに、震えて……独りで、こんな……っ」
「そこを助けに行くのが私らだ。行こう、きっと禊の間の手前とやらで立ち往生してるぞ」
あえて明るい声を出しながら、芽華実の背中を押す。その様子を振り返りながら歩いていた雷奈は、次なる部屋に足を踏み入れたことに気づき、辺りを見回した。
今度も、通路は右に続いていた。つまり、階段があった方角へUターンする形で部屋が配置されているようだ。部屋の大きさや通路の距離が同程度だったことを考えると、さらに次の部屋に行けば、三階に上がる階段がありそうである。
やはり奥の壁際には机が置いてあって、同じように和紙と鉛筆が乗っていた。ただし、今度の紙は、蓋の開いた浅い文箱に入れられていた。
文箱は左右に二つある――あるいは片方は蓋なのかもしれない。左側のものに束で入れられた紙は、A4に近いサイズだ。対して、右側のものに入れられた紙――三枚ある――は、それよりも小さく、長方形に折りたたまれている。
先頭を行くアワが、右側の壁を照らしかけて、ふっとランタンをよそへ向けた。自然体を装ったようだが、雷奈の目にも明らかに、彼はわざと光源をそらした。それでも、大きくない部屋なので、近づけば見える程度には光が届いている。
雷奈は通り過ぎざま、そっと壁のプレートを盗み見た。なるほど、アワが見せたくなかった――あるいは、彼自身見たくなかったのも道理だった。
血のように赤い字で、「遺書を書いてください」とつづられていた。
右の文箱に積まれた、折りたたまれた紙。一番上にあるのは、おそらく――。
雷奈は振り返りそうになるのをこらえて、前進する足に精神を集中させた。
早足で部屋を通り抜けるアワに続いて、雷奈達も次の部屋につながる細い通路へ足早に踏み入った。
部屋を通るたびに覚える、魂を削られていくかのような感覚。なるほど、タフな道のりだ。
愛する者と別れて独りになり、心の寄る辺を捨てて無防備になり、名簿に名を連ねて後戻りできなくなり、遺書を書いて死を覚悟する。少しずつ、段階を経て、自分は禊を受けるべき咎人なのだと思い知らされる空間。
無関係だとわかっている雷奈たちでさえ、気を抜けば果てのない闇にのまれてしまいそうだった。 今、地についている足の感覚と、振り向けば目を合わせあえる友人たちの存在。それだけが、自我を正気に引きとどめておける錨だった。
まして、破門の神託を受けたと、罪を犯したのだと思い込みながらここを通ったフーの心境はその比ではない。想像するだけで、光子一つも届かない深淵をのぞきこむように気が遠くなるが、きっとそんな比喩さえ生ぬるい。
次の部屋に到着した。予想通り、奥には階段の入り口が見えた。
その部屋には、何も置かれていなかった。そのかわり、壁に埋め込まれたプレートは、これまでの六倍ほどの大きさがあった。書かれている文言も、数行にわたっている。
――次の手順で、禊を行ってください。
――一、丁字路で右に向かって一礼。
――二、光に背を向け、振り返らず進む。
――三、崖を視認したのち、丁度十歩にて際に至る。
――四、装いを整え、一礼、三息ののち、左足からの一歩で踏み出す。
――至。
そして、文章の下には、ご丁寧に番号に沿って図解まで記されていた。白い着物のような服を着た女性が光に向かって一礼し、闇に向かって進み、崖へ歩み寄って、その先に至る様子が、絵巻のような画風で描かれている。
ちょうど、神社の手水舎で見かける作法の看板のようだった。だが、この指示書は、手と口をすすぐ禊と同じ淡々さで、ひと一人を水底に沈めようとしている。事務的で簡潔な文体は、決まった機械工程に乗せられたような抗いがたさを覚えさせる。
雷奈も、曲がりなりにも神社の巫女だ。だが、たとえこのような儀式を強要されても、おそらくおとなしくは従わない。今のねぐらを捨ててでも逃げ出すだろう。普段は神に仕えながら、我に返ったように唯物論を振りかざし、そんな非現代的な、と叫びながら。
しかし、この世界の常識は違う。
フィライン・エデン。神の存在が証明された世界。直接的・客観的に観測はできずとも、実在することは確信されている。神も、神罰も、巫覡の務めも、ダークマターやヒッグス粒子と何ら変わらない。
だから、ここへ来た正統後継者は、何の疑いも抗いもなく、書かれた通りの手順を踏むのだろう。自分の意思に反して、足を踏み出しながら。けれど心だけは、自分の中から湧き出る恐怖に満たされながら。
アワが階段室へと向かう。雷奈達も急き立てられるように後を追う。
階段を上る足は、二階へ上がってくる時よりもせわしなかった。足が石階段に慣れてきたためだけではないだろう。
先頭のアワと競い合うかのように、最後の階段を上り終え――ついに、三階へとたどり着いた。
階段室から出て、数歩右に折れると、道は左右に分かれていた。左手は今までと同じような暗い通路だが、右手は明らかに違う空気が漂っていた。
暗く、狭く、心を侵食するような道のりをたどってきた雷奈達が本能的に求めたくなる――光が、見えていた。
雷奈たちは、外から磐座を見上げた時、三階部分にバルコニーのようにせり出した屋根のない部分が見えたのを思い出した。右手の通路を進んでいけば、そこに出るのだろう。
ということは、神判の間は反対方向だ。
「で、神判の間の扉はどこっちゃか、アワ?」
精神的苦痛の間から抜け出た雷奈は、肺に滞っていた空気を吐き出すようにアワに問うた。左手には通路が見えており、今のところ扉らしきものはない。神判の間は、通路の奥だろう。
そんな簡単な答えを予想していた雷奈達の耳に――声ならざる響きが届いた。
カラン、カラン……。
金属製のものが転がる音。
明かりが消えた。かと思えば、流清の少年の手にあったはずのランタンは、彼の足元で無意味に地面を照らしていた。
「……アワ?」
光源から離れた彼の顔は、暗闇に沈んでいて見えにくい。だが、わずかな光も拾って反射する猫の目は――不安定に揺れていた。
暗がりの中、雷奈の問いに答えるはずの彼の口から出たのは。
「……どうして」
震える疑問文。あとは、取り巻く浅い呼吸のみ。
それだけで、雷奈達の肌がざわめいた。
そして、何となく――本当に何の確証もないまま、察した。
体が冷えていく。指先まで、凍りつくように。
なぜこうなったのか。
話が違う。
自分達は、一体どこから間違っていたのか。
アワと同じ言葉が、三人の頭を駆け巡る。どうして。どうして。どうして。
雷奈の問いへの、その答えは――。
進むにつれて、道は徐々に狭まっていった。左右を壁に挟まれ、もはや一列になってしか進めないほどだ。さらに、緩くだがカーブしているために、元の広間はすでに見えなくなっている。
暗闇と閉塞感で雷奈たちの中に不安が募り始めたころ、再び開けた場所に出た。開けたといっても、最初に見たところほど広くはない。六畳くらいだろうか。
アワが部屋の中央まで進むと、ぼんやりとだが部屋全体が照らし出された。部屋の奥には、上り階段の入り口が見える。ここからでは最初の数段しか視認できないが、そう勾配が強いわけでも、足元が険しいわけでもなさそうだ。
ふと、雷奈は階段に向かって右側の壁に、またも木製プレートが取り付けられているのに気づいた。さっきと同様の案内表示だろうか、と駆け寄る。
プレートには、朱筆でこう書かれていた。
――付添人はお帰りください。
「ぇ……」
思わず声を漏らして、後ずさる。背中を冷たい汗が転がり落ちた。同じように文字を読んだ氷架璃と芽華実も、目を見開いて言葉を失っている。
「なんだこれ……」
「き、気味が悪いわね……」
「禊には一人で向かわなければならないからね」
歩み寄ってきたアワが、プレートに向けてランタンを掲げた。プレートの文字は、光を浴びて真っ赤に浮かび上がり、雷奈たちの心に本能的な恐怖と忌避感を叩き込んだ。
「禊の間にたどり着くまでにはいくつかの部屋を通るらしいんだけど、それぞれに手順というか、行うべきことが書いてあるんだってさ。……ボクも入ったのは初めてだから、伝聞形で教わっただけだけど」
いつも通りの口調のようでいて、アワの声はぴんと張った糸のように平坦で、微弱に揺れていた。
雷奈たちは彼からプレートに目を戻した。
付添人はお帰りください――ここまで付添人がいると見込んでの指示書きだ。いてもおかしくないだろう。ある晩に突然罪を言い渡され、死をも覚悟する儀式に向かわされる正統後継者。本人の底なしの恐怖もさることながら、その家族が手放しで送り出せるはずがない。せめてこの暗闇の中を歩く間、そして禊ノ淵に飛び込む直前まで、そばに寄り添って少しでも心の拠り所を与えたいはずだ。一緒に飛び込むことはできなくても、せめてその間際まで共にいたいはずだ。
そんな思いで付き添う家族に、付き添われる正統後継者に、最初に突き付けられる指示が――分断なのだ。
誰が取り決めたのかはわからない。二家の先祖が意図したのか、はたまた君臨者から神託か何かでそう命じられたのか。いずれにせよ、禊に向かう正統後継者とその家族の傷ついた心に、さらに追い打ちの鉄槌を振り下ろすような残酷さをはらんでいた。
「さあ、行こう。……立ち止まっている暇はない」
アワはプレートからランタンをそらし、階段室を照らした。二階へと続く無骨な石階段は、切り出したままの姿のようで、表面はでこぼこしている。雷奈たちは手すりに手をかけながら、慎重に階段に足を乗せた。
十段ほど上ると、踊り場でUターン。さらに十段ほどを経て、二階へと上がる。すると、またも同じような部屋に出た。
ただし、先程の部屋とは違う点が二つあった。
一つは、奥に見えるのは細い通路で、階段ではないところ。三階へ上がるには、まだいくつか部屋を通らなければならないのかもしれない。
もう一つは、右手の壁際の地面に穴が空いているところだった。直径二十センチほどの円い穴だ。円いと言っても、岩を荒く掘削したような歪な形をしている。底は暗くて見えず、深さもうかがえなかった。
そして、穴の近くの壁には、またも朱筆で字が書かれたプレートが取り付けられていた。今度は氷架璃が近づいて、二つ目の指示書きを読む。
――お守りなど、余計なものは捨ててください。
「……注文の多い料理店じゃないんだから」
口元を引きつらせて冗談を言ったつもりだったが、かの童話の結末を考えると、気休めにすらならなかった。
心の支えとなる者を排除した後は、心の支えとなる物を排除しようということか。横暴な指示に怒りさえ感じ――れればまだよかったのだろうが、雷奈達の体の芯を満たすのは、うすら寒い恐怖だけだった。
「この穴に……捨てろということなのかしら」
芽華実は離れたところから穴を見て言った。のぞきこむ勇気は持ちあわせていなかった。
怯える芽華実の敵討ちとばかりに、氷架璃が穴を見下ろして語気を荒くする。
「けっ、じゃあこの穴より大きいお守りなら持ってっていいな!」
「氷架璃」
次の部屋へ続く通路の前に立ったアワが、腕を伸ばして明かりを提供してやりつつ、プレートが取り付けられている壁を顎で示す。
「それ、何のためにあると思う」
雷奈達は、そう言われて初めて、プレートの隣に何かがひっかけられているのに気づいた。ランタンがかけられていたのと同じように、フックに二つの道具が吊るされている。
大きな金づちと、裁ちばさみだった。
「――……」
言葉すら発せないままアワを振り返る少女達。彼女らを促すように、アワは次の部屋へと歩いて行った。
再び現れた六畳一間の広さの部屋は、今度は通路が右に続いていた。奥の壁際には、通路や階段の代わりに木机が一つ置いてある。天板に四つ足をつけただけの簡素なもので、椅子はない。
机の上には、横置きの和紙と鉛筆が一つずつ。そして、例に漏れず、この部屋にも指示書きのプレートが壁に設置されていた。
何となく自分の番のような気がして、芽華実が歩み寄り、赤い字に目を走らせた。
書かれていたのは、
――名前をお書きください。
「……」
見てはいけない、と思いながら、芽華実の視線がさっき見たものに吸い寄せられる。木机の上、湿気と経年で劣化の色が見えつつも、いまだ筆記に耐えうる和紙。その紙面には、右端を起点として、縦書きの文字が三行、連ねられていた。
一行目と二行目に何と書いてあったのか、芽華実は、よく読んでいなかった。彼女の目は、一番左端――最も新しい行に吸い寄せられていた。
そこには、あまりにも不格好な書体が四つ、横たわっていた。一画一画がつながり、あらぬ方向へ歪み、まるで年老いた老人が書いたかのような震える線で記された字。
極めて読みにくくも、それは確かに――芽華実の愛するパートナーの名を指していた。
「……っ……!」
芽華実は思わずむせび泣きそうになり、両手で顔を覆った。氷架璃がその肩を支え、アワに目配せした。アワは痛みをこらえるように眉をひそめたまま頷き、「行こう」と歩き出した。
氷架璃に手を添えられながら歩き出した芽華実が、まだ顔を覆ったまま、涙声を漏らす。
「フー……本当に、怖い思いを……っ」
「大丈夫、フーは無実なんだろ。リーゼが言ってたじゃんか」
「あんなに、震えて……独りで、こんな……っ」
「そこを助けに行くのが私らだ。行こう、きっと禊の間の手前とやらで立ち往生してるぞ」
あえて明るい声を出しながら、芽華実の背中を押す。その様子を振り返りながら歩いていた雷奈は、次なる部屋に足を踏み入れたことに気づき、辺りを見回した。
今度も、通路は右に続いていた。つまり、階段があった方角へUターンする形で部屋が配置されているようだ。部屋の大きさや通路の距離が同程度だったことを考えると、さらに次の部屋に行けば、三階に上がる階段がありそうである。
やはり奥の壁際には机が置いてあって、同じように和紙と鉛筆が乗っていた。ただし、今度の紙は、蓋の開いた浅い文箱に入れられていた。
文箱は左右に二つある――あるいは片方は蓋なのかもしれない。左側のものに束で入れられた紙は、A4に近いサイズだ。対して、右側のものに入れられた紙――三枚ある――は、それよりも小さく、長方形に折りたたまれている。
先頭を行くアワが、右側の壁を照らしかけて、ふっとランタンをよそへ向けた。自然体を装ったようだが、雷奈の目にも明らかに、彼はわざと光源をそらした。それでも、大きくない部屋なので、近づけば見える程度には光が届いている。
雷奈は通り過ぎざま、そっと壁のプレートを盗み見た。なるほど、アワが見せたくなかった――あるいは、彼自身見たくなかったのも道理だった。
血のように赤い字で、「遺書を書いてください」とつづられていた。
右の文箱に積まれた、折りたたまれた紙。一番上にあるのは、おそらく――。
雷奈は振り返りそうになるのをこらえて、前進する足に精神を集中させた。
早足で部屋を通り抜けるアワに続いて、雷奈達も次の部屋につながる細い通路へ足早に踏み入った。
部屋を通るたびに覚える、魂を削られていくかのような感覚。なるほど、タフな道のりだ。
愛する者と別れて独りになり、心の寄る辺を捨てて無防備になり、名簿に名を連ねて後戻りできなくなり、遺書を書いて死を覚悟する。少しずつ、段階を経て、自分は禊を受けるべき咎人なのだと思い知らされる空間。
無関係だとわかっている雷奈たちでさえ、気を抜けば果てのない闇にのまれてしまいそうだった。 今、地についている足の感覚と、振り向けば目を合わせあえる友人たちの存在。それだけが、自我を正気に引きとどめておける錨だった。
まして、破門の神託を受けたと、罪を犯したのだと思い込みながらここを通ったフーの心境はその比ではない。想像するだけで、光子一つも届かない深淵をのぞきこむように気が遠くなるが、きっとそんな比喩さえ生ぬるい。
次の部屋に到着した。予想通り、奥には階段の入り口が見えた。
その部屋には、何も置かれていなかった。そのかわり、壁に埋め込まれたプレートは、これまでの六倍ほどの大きさがあった。書かれている文言も、数行にわたっている。
――次の手順で、禊を行ってください。
――一、丁字路で右に向かって一礼。
――二、光に背を向け、振り返らず進む。
――三、崖を視認したのち、丁度十歩にて際に至る。
――四、装いを整え、一礼、三息ののち、左足からの一歩で踏み出す。
――至。
そして、文章の下には、ご丁寧に番号に沿って図解まで記されていた。白い着物のような服を着た女性が光に向かって一礼し、闇に向かって進み、崖へ歩み寄って、その先に至る様子が、絵巻のような画風で描かれている。
ちょうど、神社の手水舎で見かける作法の看板のようだった。だが、この指示書は、手と口をすすぐ禊と同じ淡々さで、ひと一人を水底に沈めようとしている。事務的で簡潔な文体は、決まった機械工程に乗せられたような抗いがたさを覚えさせる。
雷奈も、曲がりなりにも神社の巫女だ。だが、たとえこのような儀式を強要されても、おそらくおとなしくは従わない。今のねぐらを捨ててでも逃げ出すだろう。普段は神に仕えながら、我に返ったように唯物論を振りかざし、そんな非現代的な、と叫びながら。
しかし、この世界の常識は違う。
フィライン・エデン。神の存在が証明された世界。直接的・客観的に観測はできずとも、実在することは確信されている。神も、神罰も、巫覡の務めも、ダークマターやヒッグス粒子と何ら変わらない。
だから、ここへ来た正統後継者は、何の疑いも抗いもなく、書かれた通りの手順を踏むのだろう。自分の意思に反して、足を踏み出しながら。けれど心だけは、自分の中から湧き出る恐怖に満たされながら。
アワが階段室へと向かう。雷奈達も急き立てられるように後を追う。
階段を上る足は、二階へ上がってくる時よりもせわしなかった。足が石階段に慣れてきたためだけではないだろう。
先頭のアワと競い合うかのように、最後の階段を上り終え――ついに、三階へとたどり着いた。
階段室から出て、数歩右に折れると、道は左右に分かれていた。左手は今までと同じような暗い通路だが、右手は明らかに違う空気が漂っていた。
暗く、狭く、心を侵食するような道のりをたどってきた雷奈達が本能的に求めたくなる――光が、見えていた。
雷奈たちは、外から磐座を見上げた時、三階部分にバルコニーのようにせり出した屋根のない部分が見えたのを思い出した。右手の通路を進んでいけば、そこに出るのだろう。
ということは、神判の間は反対方向だ。
「で、神判の間の扉はどこっちゃか、アワ?」
精神的苦痛の間から抜け出た雷奈は、肺に滞っていた空気を吐き出すようにアワに問うた。左手には通路が見えており、今のところ扉らしきものはない。神判の間は、通路の奥だろう。
そんな簡単な答えを予想していた雷奈達の耳に――声ならざる響きが届いた。
カラン、カラン……。
金属製のものが転がる音。
明かりが消えた。かと思えば、流清の少年の手にあったはずのランタンは、彼の足元で無意味に地面を照らしていた。
「……アワ?」
光源から離れた彼の顔は、暗闇に沈んでいて見えにくい。だが、わずかな光も拾って反射する猫の目は――不安定に揺れていた。
暗がりの中、雷奈の問いに答えるはずの彼の口から出たのは。
「……どうして」
震える疑問文。あとは、取り巻く浅い呼吸のみ。
それだけで、雷奈達の肌がざわめいた。
そして、何となく――本当に何の確証もないまま、察した。
体が冷えていく。指先まで、凍りつくように。
なぜこうなったのか。
話が違う。
自分達は、一体どこから間違っていたのか。
アワと同じ言葉が、三人の頭を駆け巡る。どうして。どうして。どうして。
雷奈の問いへの、その答えは――。
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