114 / 114
14.巫覡の磐座編
69凱風と水魚 ④
しおりを挟む
リーゼはようやく落ち着いてきた呼吸を繰り返しながら、ほぞを噛んだ。こんなことなら、メッセージの下描きなど書くのではなかった。あるいは、最初から多義的な解釈を許さない具体性を伴わせるべきだった。
ちら、と磐座へ目をむける。雷奈達はまだ帰ってくる気配はない。いっそ姿を現してくれれば、人間が来ていることも、その人間がフーの無実を訴えていることも、欺瞞ではないと証明できるのだが。
そう考えるリーゼの視界に――細い縄のようなものがきらめいた。
「!」
反射的に身を退く。光を反射していたのは、太さにして充電ケーブルほどの、長くのたくる水だった。
ちょうどリーゼの右手があったところで水の縄は絡まり、無形に戻って地面に落ちていく。だが、数秒とはいえ宙を泳いでいた水の縄は、本物の縄のように均一に細く、命をもっているかのように精密な動きをしていた。しわだらけの老女の手から紡ぎだされたとは思えない神業。リーゼが気づくのが遅ければ、確実にスマホをからめとられていただろう。
「見せられない画面でもあるのですか」
スマホを守るように胸に抱いたリーゼに、キンカは一歩、近づく。その手から、再びしゅるりと新たな無色透明の縄が現れる。
「……」
リーゼは迷った。だが、それも短い時間で、すぐさま踵を返した。キンカが来た方とは反対側の木立の中に飛び込む。枯葉の積もった土を踏み分けながら、ひとまずキンカから距離を取ろうと走った。
なぜかわからないが、キンカはリーゼの言葉を頭から偽と踏んでいる。それでは、いくらリーゼが誠意を見せたところで話が進まない。スマホの画面を素直に見せたところで、文意を誤解したキンカへの弁明は聞き入れてもらえないだろう。さりとて、逃げるというのも好手ではないのだが――その言い訳も、雷奈達が姿を見せてからのほうが通りやすい気がした。
所狭しとそびえる木々の果て、視界が開けたところで、リーゼは足を止めた。眼前には、直径二十メートルはあろう大池が悠然と横たわっていた。凪いだ水面には空の色が映り込み、取り囲む木々のシルエットが内周を縁取っている。陸と水の境界線さえ雑草で覆い隠された、柵もない自然のままの池だ。
「私はウィンディが禊に干渉するものと思っていたのですが」
背後から、足音さえ上品な気配が近づいてくる。
大池を背に振り向けば、息一つ乱さぬキンカが立っていた。あの水の扱いを見た後だ、年長けてなお、軽やかな弾趾を使われたところで驚かない。
「もしや、あなたが実行犯ということはありましょうか」
「……否定したら信じてもらえますか?」
「その腹に一物隠したような行動の理由も説明してくれるなら」
「……」
リーゼは一度口をつぐんだ。
このような駆け引きめいたことは、あまり得意ではない。普段自由気ままにふるまうリーゼにとって、交渉術だの、説得するだのといった器用なことはわずらわしいのだ。
どうせうまくやろうとしたところで、しょせん鵜の真似をする烏。ここはもう一度、事実を真正面からぶつけてみるしかない。
足元に力をこめる。風の流れをうかがう。まるで、爆弾につながっているとわかっていながら、試しに導火線に火をつけるような気構えで、リーゼは口を開いた。
「……人間が――」
「まだ言いますか」
水の球が飛んだ。予想通り、最後まで言わせなかった。
リーゼは大きく後方に飛び退った。避けなければ膝をやられていたであろうところを、危うげなくかわす。だが、大池を背にバックジャンプをきめたリーゼに、着地すべき陸地はない。あるのは、着いた足を支えることなく冷たい水底に引きずり込む、見せかけの透明な床のみ。
平らだった水面に、さざ波が広がった。
「ですから、見え透いた嘘をつきなさんな」
キンカは、変わらぬトーンで告げる。
それを、水面に降り立ったリーゼは辟易した顔で聞いていた。
正確には、靴底と水面の間隙に生じる局所的な上昇気流が、彼女を支えていた。まるでヘリが接近した時のように、水面にはリーゼを中心とした波紋が広がり続ける。同心円状の波は、バランスをとるために顕現させた白翔の翼が映り込み、白く染まっていた。
絶妙な風の操作の最中、リーゼは木々の群れから頭を出す磐座を見上げた。ずいぶん離れてしまったので、もう雷奈達が戻ってきてもわからない。
いっそこのまま白翔で飛び立って、磐座入り口地点まで帰ってしまおうか。当然キンカは追いかけてくるだろうが、彼女が到着するころには、雷奈達がフーを連れて出てきていそうな気もする。その状況でなら、リーゼの弁を信じてもらえるだろう。
背中の翼を一つ、大きく羽ばたかせた時――
「こちらへ戻りなさい」
ひゅん、と何かが飛んだ。反射的に体を横に反らすと、水の粒と思しきものが、翼をかすめて後方に飛び去っていくところだった。
振り向いている余裕はない。キンカはその手から、次々に小さな水の粒を――否、よく見ると針を飛ばしてきていた。さすがに顔は外してくれているが、当たれば服越しでも痛みは免れない。
リーゼは左足を軸にして右足を動かした。シャッ、とつま先で水面を円く切り取るように体を回転させる。その勢いに乗って、徐々に描く円の半径を広げながら、彼女は水面を滑走した。
ビシュッ、ビシュッ、ビシュッ。
真っすぐに立ったままのキンカの手のひらから、次々に水の針が撃ち出される。リーゼは大きく弧を描くように水の上を滑って、それらを全てかわしていく。
シュッ、と不意打ちでやや前方に針が飛んだ。リーゼは即座に急ブレーキをかけ、殺しきれなかった運動エネルギーで横に跳ぶ。もともと運動神経に優れているわけでもない彼女には厳しい急な動きに、当然のように体はぐらりと傾いだ。
だが、そのための白翔だ。ばさ、と一つ羽ばたけば、源子が重力に背を向けて彼女に味方する。つんのめったような姿勢のまま、リーゼは滑走を続けた。
ぐるりと回ってキンカの前に戻ってきたタイミングで、リーゼは速度も緩めず、ぐっと体を斜めに倒した。背中の翼で巧妙にバランスをとりつつ、水面に垂直に立てていた靴底をキンカに向けるようにわずかに傾ける。ドリフトのような動きと共に靴底の風が水面を削り、シャアアッ、と白いしぶきを巻き上げた。姿勢を低くしたリーゼの姿さえ隠す、水煙の壁。
それを遮蔽物にしつつ、S字を描いてゆるやかにバックで滑走。まるで銀盤の上のフィギュアスケーターのような身のこなしだ。風の余波で水面に巻き起こる白い波さえ、エッジに削られて立ち上る氷煙のよう。
キンカから大きく距離をとり、反対側の岸に近づいたところで、白翔が再び大きく羽ばたいた。
「キンカさん、わかりました。一度磐座に戻りましょう。そこで全部お話しします」
リーゼの体が、飛翔に備えて徐々に浮かび上がる。それを遠く離れた岸から見据えつつ、キンカは言った。
「いいえ」
しゃがれていてなお、よく通る荘厳な声だった。周囲の木々さえ直立不動に居直りそうな一声。
キンカはしわだらけの顔に、最初と寸分たがわぬ厳しい表情を乗せて、告げる。
「今、ここでお話しなさい」
節くれ立った右手が、す、と刀印を結んだ。
直後――リーゼは捕らえられていた。
「……!」
リーゼは自らを見下ろした。ちょうど、水面から一メートルほど浮き上がった体。その胴体に、無色透明な縄のようなものが何重にも巻き付いている。否、何重にもというより――何本も絡みついていた。
水だ。さっきスマホをかっさらおうとした時と同じ水の縄が、リーゼを拘束していた。
それらは全てリーゼの後方にぴんと張って伸びており――終着点は、周囲の木々。ちょうど、リーゼを要として扇の骨を形作るように、池を取り囲む木の幹が縄の端を握っていた。
リーゼはすぐに悟った。先程、リーゼが回避した水の針。それらはリーゼを捕らえ損ねた後、木の幹に突き刺さったものの、まだ術を生かしていたのだ。そして、キンカの合図に従って、種からつるを伸ばすようにリーゼを捉えた。
そんなのありか、とリーゼは内心独り言ちた。だが、よそから見れば、リーゼの水面スケーティングとて全く同じセリフに値する。
術ですらないがゆえに希兵隊にも真似できない。暗黙知に基づくがゆえに学院にも再現できない。
これが、流清家の水術で、風中家の風術だ。
「……それで、ここからどうしたらいいんでしょうねー?」
水の縄は、静止しているように見えて、実際は高圧水のような強靭さでリーゼを離さない。キンカから見て対岸に近い水上で立ち往生だ。ここで話せと言った割には、ずいぶんキンカから遠いところで拘束されている状態である。叫ぶというほどではないが、それなりに声を張らないと会話もままならない。
「この距離で話すんですか? そっち行きましょうかー?」
目上の人を動かしてはならない。目下の者が動くのが礼儀だ。……というのは建前で、あわよくばこの水の縄を緩めてくれないかと期待しつつ、リーゼはそう提案した。
だが。
「結構です」
言って、キンカは舟形下駄の足で一歩踏み出す。まさか、とリーゼは口元を引きつらせた。
「私がそちらへ伺います」
さく、さく……。
雑草を踏み分けながら、キンカはゆっくりと池の淵に近づいていく。舗装もされていない池の淵は、草に覆われ、もはやどこから水の領分かもわからない。次の一歩を踏み出した時には深みにはまっていてもおかしくはないのだ。
だが、キンカはためらうことなく歩を進め――草を踏み越えて、水面に静かな波紋を作った。
一つ、また一つ。下駄底から小さな同心円状の水紋を生み出しながら、鏡のような池の上を厳かに歩き進めていく。
リーゼはもはや驚かなかった。なにせ、相手は水猫なのだ。
水音さえ立たせず、キンカはリーゼのそばまでやってきた。もはや風による浮遊を諦め、水の縄に吊るされるだけになったリーゼを、穴さえ空きそうなほど鋭く射すくめる。心臓の弱い人ならそれだけで危なそうな鋭い視線を向け、キンカは口を開いた。
「それで、全部お話ししてくださるそうですね」
「そういえばそんなことも言いましたね」
「ええ、言いました」
この期に及んで軽口を叩くリーゼだが、キンカは暖簾に腕押しどころか、貫いて風穴を空けてきた。
リーゼは小さくため息をついた。さしものリーゼも、これ以上は逃げられるとは思わなかった。なにせ、三六〇度、そして足元さえ、リーゼを取り囲むのは水なのだ。
こうなっては仕方ない。体のいい筋書きを考えてくれたらしい雷奈には申し訳ないが、素直に話すほかないだろう。つまり、リーゼがフーの寝言を聞いていたという事実を。ゆえにフーは無実であると、それを遅ればせながら伝えに来たとでも言えばいい。
当然、嘘御法度の制約に従って寝言の内容を正直に言えば、いろいろ問題になるだろうが――イチかバチかだ。
リーゼは小さく口を開いた。キンカの緩まない眼光を見つめ返しながら、ゆっくりと言葉を紡ぎだす。
「実は――」
――その瞬間。
水が、空気が、震えた。
「リ――――ゼェェェェェェ!」
遠くからサイレンのように鳴り響いた大絶叫。びりびりと体中を駆け巡った大音声に、リーゼだけでなくキンカも振り向いた。
方向にして、磐座からだ。それも、地上階の入り口からではここまで響き渡らない。おそらく、ここからは見えないが三階部分の、外につながる崖の上から叫んでいる。
リーゼは口元が苦くほころぶのを感じた。あの声は、雷奈だ。一番小さな体をもつ彼女のどこからそんな声量が出るのかというほどの大声が、聖域中に反響していた。
まだ姿は見せていないものの、これで二家以外の者がここへ来ていることはキンカにも伝わっただろう。人間を連れてきたことに関しては怒られるだろうが、少なくとも虚言の濡れ衣は晴らせそうだ。
凪だった水上に、風が吹き始めた。風は、リーゼの向く方向へ吹いていた。
――そう思った、直後。
二発目の絶叫と同時、風向きはあらぬ方向へ傾いだ。
「――神判の、間がぁぁぁっ! 開いとるっちゃけど――ッ!」
ちら、と磐座へ目をむける。雷奈達はまだ帰ってくる気配はない。いっそ姿を現してくれれば、人間が来ていることも、その人間がフーの無実を訴えていることも、欺瞞ではないと証明できるのだが。
そう考えるリーゼの視界に――細い縄のようなものがきらめいた。
「!」
反射的に身を退く。光を反射していたのは、太さにして充電ケーブルほどの、長くのたくる水だった。
ちょうどリーゼの右手があったところで水の縄は絡まり、無形に戻って地面に落ちていく。だが、数秒とはいえ宙を泳いでいた水の縄は、本物の縄のように均一に細く、命をもっているかのように精密な動きをしていた。しわだらけの老女の手から紡ぎだされたとは思えない神業。リーゼが気づくのが遅ければ、確実にスマホをからめとられていただろう。
「見せられない画面でもあるのですか」
スマホを守るように胸に抱いたリーゼに、キンカは一歩、近づく。その手から、再びしゅるりと新たな無色透明の縄が現れる。
「……」
リーゼは迷った。だが、それも短い時間で、すぐさま踵を返した。キンカが来た方とは反対側の木立の中に飛び込む。枯葉の積もった土を踏み分けながら、ひとまずキンカから距離を取ろうと走った。
なぜかわからないが、キンカはリーゼの言葉を頭から偽と踏んでいる。それでは、いくらリーゼが誠意を見せたところで話が進まない。スマホの画面を素直に見せたところで、文意を誤解したキンカへの弁明は聞き入れてもらえないだろう。さりとて、逃げるというのも好手ではないのだが――その言い訳も、雷奈達が姿を見せてからのほうが通りやすい気がした。
所狭しとそびえる木々の果て、視界が開けたところで、リーゼは足を止めた。眼前には、直径二十メートルはあろう大池が悠然と横たわっていた。凪いだ水面には空の色が映り込み、取り囲む木々のシルエットが内周を縁取っている。陸と水の境界線さえ雑草で覆い隠された、柵もない自然のままの池だ。
「私はウィンディが禊に干渉するものと思っていたのですが」
背後から、足音さえ上品な気配が近づいてくる。
大池を背に振り向けば、息一つ乱さぬキンカが立っていた。あの水の扱いを見た後だ、年長けてなお、軽やかな弾趾を使われたところで驚かない。
「もしや、あなたが実行犯ということはありましょうか」
「……否定したら信じてもらえますか?」
「その腹に一物隠したような行動の理由も説明してくれるなら」
「……」
リーゼは一度口をつぐんだ。
このような駆け引きめいたことは、あまり得意ではない。普段自由気ままにふるまうリーゼにとって、交渉術だの、説得するだのといった器用なことはわずらわしいのだ。
どうせうまくやろうとしたところで、しょせん鵜の真似をする烏。ここはもう一度、事実を真正面からぶつけてみるしかない。
足元に力をこめる。風の流れをうかがう。まるで、爆弾につながっているとわかっていながら、試しに導火線に火をつけるような気構えで、リーゼは口を開いた。
「……人間が――」
「まだ言いますか」
水の球が飛んだ。予想通り、最後まで言わせなかった。
リーゼは大きく後方に飛び退った。避けなければ膝をやられていたであろうところを、危うげなくかわす。だが、大池を背にバックジャンプをきめたリーゼに、着地すべき陸地はない。あるのは、着いた足を支えることなく冷たい水底に引きずり込む、見せかけの透明な床のみ。
平らだった水面に、さざ波が広がった。
「ですから、見え透いた嘘をつきなさんな」
キンカは、変わらぬトーンで告げる。
それを、水面に降り立ったリーゼは辟易した顔で聞いていた。
正確には、靴底と水面の間隙に生じる局所的な上昇気流が、彼女を支えていた。まるでヘリが接近した時のように、水面にはリーゼを中心とした波紋が広がり続ける。同心円状の波は、バランスをとるために顕現させた白翔の翼が映り込み、白く染まっていた。
絶妙な風の操作の最中、リーゼは木々の群れから頭を出す磐座を見上げた。ずいぶん離れてしまったので、もう雷奈達が戻ってきてもわからない。
いっそこのまま白翔で飛び立って、磐座入り口地点まで帰ってしまおうか。当然キンカは追いかけてくるだろうが、彼女が到着するころには、雷奈達がフーを連れて出てきていそうな気もする。その状況でなら、リーゼの弁を信じてもらえるだろう。
背中の翼を一つ、大きく羽ばたかせた時――
「こちらへ戻りなさい」
ひゅん、と何かが飛んだ。反射的に体を横に反らすと、水の粒と思しきものが、翼をかすめて後方に飛び去っていくところだった。
振り向いている余裕はない。キンカはその手から、次々に小さな水の粒を――否、よく見ると針を飛ばしてきていた。さすがに顔は外してくれているが、当たれば服越しでも痛みは免れない。
リーゼは左足を軸にして右足を動かした。シャッ、とつま先で水面を円く切り取るように体を回転させる。その勢いに乗って、徐々に描く円の半径を広げながら、彼女は水面を滑走した。
ビシュッ、ビシュッ、ビシュッ。
真っすぐに立ったままのキンカの手のひらから、次々に水の針が撃ち出される。リーゼは大きく弧を描くように水の上を滑って、それらを全てかわしていく。
シュッ、と不意打ちでやや前方に針が飛んだ。リーゼは即座に急ブレーキをかけ、殺しきれなかった運動エネルギーで横に跳ぶ。もともと運動神経に優れているわけでもない彼女には厳しい急な動きに、当然のように体はぐらりと傾いだ。
だが、そのための白翔だ。ばさ、と一つ羽ばたけば、源子が重力に背を向けて彼女に味方する。つんのめったような姿勢のまま、リーゼは滑走を続けた。
ぐるりと回ってキンカの前に戻ってきたタイミングで、リーゼは速度も緩めず、ぐっと体を斜めに倒した。背中の翼で巧妙にバランスをとりつつ、水面に垂直に立てていた靴底をキンカに向けるようにわずかに傾ける。ドリフトのような動きと共に靴底の風が水面を削り、シャアアッ、と白いしぶきを巻き上げた。姿勢を低くしたリーゼの姿さえ隠す、水煙の壁。
それを遮蔽物にしつつ、S字を描いてゆるやかにバックで滑走。まるで銀盤の上のフィギュアスケーターのような身のこなしだ。風の余波で水面に巻き起こる白い波さえ、エッジに削られて立ち上る氷煙のよう。
キンカから大きく距離をとり、反対側の岸に近づいたところで、白翔が再び大きく羽ばたいた。
「キンカさん、わかりました。一度磐座に戻りましょう。そこで全部お話しします」
リーゼの体が、飛翔に備えて徐々に浮かび上がる。それを遠く離れた岸から見据えつつ、キンカは言った。
「いいえ」
しゃがれていてなお、よく通る荘厳な声だった。周囲の木々さえ直立不動に居直りそうな一声。
キンカはしわだらけの顔に、最初と寸分たがわぬ厳しい表情を乗せて、告げる。
「今、ここでお話しなさい」
節くれ立った右手が、す、と刀印を結んだ。
直後――リーゼは捕らえられていた。
「……!」
リーゼは自らを見下ろした。ちょうど、水面から一メートルほど浮き上がった体。その胴体に、無色透明な縄のようなものが何重にも巻き付いている。否、何重にもというより――何本も絡みついていた。
水だ。さっきスマホをかっさらおうとした時と同じ水の縄が、リーゼを拘束していた。
それらは全てリーゼの後方にぴんと張って伸びており――終着点は、周囲の木々。ちょうど、リーゼを要として扇の骨を形作るように、池を取り囲む木の幹が縄の端を握っていた。
リーゼはすぐに悟った。先程、リーゼが回避した水の針。それらはリーゼを捕らえ損ねた後、木の幹に突き刺さったものの、まだ術を生かしていたのだ。そして、キンカの合図に従って、種からつるを伸ばすようにリーゼを捉えた。
そんなのありか、とリーゼは内心独り言ちた。だが、よそから見れば、リーゼの水面スケーティングとて全く同じセリフに値する。
術ですらないがゆえに希兵隊にも真似できない。暗黙知に基づくがゆえに学院にも再現できない。
これが、流清家の水術で、風中家の風術だ。
「……それで、ここからどうしたらいいんでしょうねー?」
水の縄は、静止しているように見えて、実際は高圧水のような強靭さでリーゼを離さない。キンカから見て対岸に近い水上で立ち往生だ。ここで話せと言った割には、ずいぶんキンカから遠いところで拘束されている状態である。叫ぶというほどではないが、それなりに声を張らないと会話もままならない。
「この距離で話すんですか? そっち行きましょうかー?」
目上の人を動かしてはならない。目下の者が動くのが礼儀だ。……というのは建前で、あわよくばこの水の縄を緩めてくれないかと期待しつつ、リーゼはそう提案した。
だが。
「結構です」
言って、キンカは舟形下駄の足で一歩踏み出す。まさか、とリーゼは口元を引きつらせた。
「私がそちらへ伺います」
さく、さく……。
雑草を踏み分けながら、キンカはゆっくりと池の淵に近づいていく。舗装もされていない池の淵は、草に覆われ、もはやどこから水の領分かもわからない。次の一歩を踏み出した時には深みにはまっていてもおかしくはないのだ。
だが、キンカはためらうことなく歩を進め――草を踏み越えて、水面に静かな波紋を作った。
一つ、また一つ。下駄底から小さな同心円状の水紋を生み出しながら、鏡のような池の上を厳かに歩き進めていく。
リーゼはもはや驚かなかった。なにせ、相手は水猫なのだ。
水音さえ立たせず、キンカはリーゼのそばまでやってきた。もはや風による浮遊を諦め、水の縄に吊るされるだけになったリーゼを、穴さえ空きそうなほど鋭く射すくめる。心臓の弱い人ならそれだけで危なそうな鋭い視線を向け、キンカは口を開いた。
「それで、全部お話ししてくださるそうですね」
「そういえばそんなことも言いましたね」
「ええ、言いました」
この期に及んで軽口を叩くリーゼだが、キンカは暖簾に腕押しどころか、貫いて風穴を空けてきた。
リーゼは小さくため息をついた。さしものリーゼも、これ以上は逃げられるとは思わなかった。なにせ、三六〇度、そして足元さえ、リーゼを取り囲むのは水なのだ。
こうなっては仕方ない。体のいい筋書きを考えてくれたらしい雷奈には申し訳ないが、素直に話すほかないだろう。つまり、リーゼがフーの寝言を聞いていたという事実を。ゆえにフーは無実であると、それを遅ればせながら伝えに来たとでも言えばいい。
当然、嘘御法度の制約に従って寝言の内容を正直に言えば、いろいろ問題になるだろうが――イチかバチかだ。
リーゼは小さく口を開いた。キンカの緩まない眼光を見つめ返しながら、ゆっくりと言葉を紡ぎだす。
「実は――」
――その瞬間。
水が、空気が、震えた。
「リ――――ゼェェェェェェ!」
遠くからサイレンのように鳴り響いた大絶叫。びりびりと体中を駆け巡った大音声に、リーゼだけでなくキンカも振り向いた。
方向にして、磐座からだ。それも、地上階の入り口からではここまで響き渡らない。おそらく、ここからは見えないが三階部分の、外につながる崖の上から叫んでいる。
リーゼは口元が苦くほころぶのを感じた。あの声は、雷奈だ。一番小さな体をもつ彼女のどこからそんな声量が出るのかというほどの大声が、聖域中に反響していた。
まだ姿は見せていないものの、これで二家以外の者がここへ来ていることはキンカにも伝わっただろう。人間を連れてきたことに関しては怒られるだろうが、少なくとも虚言の濡れ衣は晴らせそうだ。
凪だった水上に、風が吹き始めた。風は、リーゼの向く方向へ吹いていた。
――そう思った、直後。
二発目の絶叫と同時、風向きはあらぬ方向へ傾いだ。
「――神判の、間がぁぁぁっ! 開いとるっちゃけど――ッ!」
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
五年後、元夫の後悔が遅すぎる。~娘が「パパ」と呼びそうで困ってます~
放浪人
恋愛
「君との婚姻は無効だ。実家へ帰るがいい」
大聖堂の冷たい石畳の上で、辺境伯ロルフから突然「婚姻は最初から無かった」と宣告された子爵家次女のエリシア。実家にも見放され、身重の体で王都の旧市街へ追放された彼女は、絶望のどん底で愛娘クララを出産する。
生き抜くために針と糸を握ったエリシアは、持ち前の技術で不思議な力を持つ「祝布(しゅくふ)」を織り上げる職人として立ち上がる。施しではなく「仕事」として正当な対価を払い、決して土足で踏み込んでこない救恤院の監督官リュシアンの温かい優しさに触れエリシアは少しずつ人間らしい心と笑顔を取り戻していった。
しかし五年後。辺境を襲った疫病を救うための緊急要請を通じ、エリシアは冷酷だった元夫ロルフと再会してしまう。しかも隣にいる娘の青い瞳は彼と瓜二つだった。
「すまない。私は父としての責任を果たす」
かつての合理主義の塊だった元夫は、自らの過ちを深く悔い、家の権益を捨ててでも母子を守る「強固な盾」になろうとする。娘のクララもまた、危機から救ってくれた彼を「パパ」と呼び始めてしまい……。
だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。
これは、全てを奪われた一人の女性が母として力強く成長し誰にも脅かされることのない「本物の家族」と「静かで確かな幸福」を自分の手で選び取るまでの物語。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
公爵令嬢は結婚式当日に死んだ
白雲八鈴
恋愛
今日はとある公爵令嬢の結婚式だ。幸せいっぱいの公爵令嬢の前に婚約者のレイモンドが現れる。
「今日の結婚式は俺と番であるナタリーの結婚式に変更だ!そのドレスをナタリーに渡せ!」
突然のことに公爵令嬢は何を言われたのか理解できなかった。いや、したくなかった。
婚約者のレイモンドは番という運命に出逢ってしまったという。
そして、真っ白な花嫁衣装を脱がされ、そのドレスは番だという女性に着させられる。周りの者達はめでたいと大喜びだ。
その場所に居ることが出来ず公爵令嬢は外に飛び出し……
生まれ変わった令嬢は復讐を誓ったのだった。
婚約者とその番という女性に
『一発ぐらい思いっきり殴ってもいいですわね?』
そして、つがいという者に囚われた者の存在が現れる。
*タグ注意
*不快であれば閉じてください。
断罪まであと10分、私は処刑台の上で「ライブ配信」を開始した〜前世インフルエンサーの悪役令嬢、支持率100%でクズ王子を逆処刑する〜
深渡 ケイ
ファンタジー
断罪まで、あと10分。
処刑台の上で跪く悪役令嬢スカーレットは、笑っていた。
なぜなら彼女は――
前世で“トップインフルエンサー”だったから。
処刑の瞬間、彼女が起動したのは禁忌の精霊石。
空に展開された巨大モニターが、全世界同時ライブ配信を開始する。
タイトルは――
『断罪なう』。
王子の不貞、聖女の偽善、王家の腐敗。
すべてを“証拠付き・リアルタイム”で暴露する配信に、
国民の「いいね(=精霊力)」が集まり始める。
そして宣言される、前代未聞のルール。
支持率が上がるほど、処刑は不可能になる。
処刑台は舞台へ。
断罪はエンタメへ。
悪役令嬢は、世界をひっくり返す配信者となった。
これは、
処刑されるはずだった悪役令嬢が、
“ライブ配信”で王子と王国を公開処刑する物語。
支持率100%の先に待つのは、復讐か、革命か、
それとも――自由か。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる