フィライン・エデン Ⅲ

夜市彼乃

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13.水鏡編

61あわせてはならない ①

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「……何だ、これは」
 思わず、声が出た。相対するモニターディスプレイは、当然、何も返さない。
 奥の壁に向かう仕事用デスクには、他にモニターがもう一つあり、グラフと数値をそれぞれ分担して映し出している。
 乱雑というわけではないが、全体的に物が多い部屋だった。壁際の本棚の中身は、ずらりと並んだファイルと小難しそうな書籍。一番下の段にはテンキー付きキーボードさえ入る大きさのガジェットポーチ。デスクの右側には縦に長い私物ロッカー。床には未処理の案件をまとめた段ボール箱が鎮座している。
 ここは、情報管理局の一室。回転椅子に座るのは、この部屋の主だ。
 色分けされたうねるグラフ曲線と、目も眩むような数値の群れを前に、素人が見ても同じセリフになるだろう一言を、しかし素人の何倍もの理知を込めて、彼はもう一度呟いた。

***

 フィライン・エデンの天気予報システムは、人間界のそれとは大きく異なる。
 人間界の気象庁を例に挙げれば、地上気象観測や気象レーダー観測、気象衛星などにより観測データを集め、これを元にスーパーコンピュータでシミュレーションを行い、天気を予測する。降水予測の的中率は約八十%といわれており、外れれば文句が飛び交うほどには信用を集めているシステムである。
 しかし、フィライン・エデンは違う。
 そもそも、気象予測に優れた気象レーダーがない。気象衛星もない。というか、この世界に宇宙があるのかどうかが定かではない。
 確かに二十四時間周期で日は登るし、月は姿を変えるし、星々も瞬いているのだが、地上から同じように見えるだけで、人間界とは全く異なる機序であってもおかしくはない。今と変わらないはずの大昔の空だって、当時の人間にはドーム状や天蓋から星が吊り下げられているように見えていたのだから。
 そして、ロケットや飛行機の技術もない以上、いくら白翔という飛翔手段があっても、遙か上空を観測することはできない。
 ともかく、そのような事情があり、この世界の気象予報というのは、風上の雲の様子を観測し、風下の天気を予測する程度のものであった。ゆえに、外れても誰も文句を言わないほど頼りないのは周知の事実。
 結果、何が起こったかというと、飛壇の住民たちはその日、終日快晴の予報に反した突然のゲリラ豪雨に見舞われることとなったのである。
「まさかここまで降るとはな……」
 一人分の木陰で雨宿りするルシルの腕の中には、広げたハンカチを頭部に共有した主体姿の部下二人が収まっていた。
「ええ、ダーク討伐後でよかったです。視界が悪いと戦闘も不利ですからね」
「降る気配すらなかったっすね。曇りをすっとばして、快晴から豪雨、って感じで」
「すぐ止んでくれるといいんだが……このまま時間が押すのもよくないな。小さなハンカチでは心許ないだろうが、そのままかぶっていろ。この状態で突っ切る」
 できるだけ二人の頭に雨がかからないよう腕で覆ってやりながら、ルシルは水たまりを飛び越え飛び越え、雨の中を駆け抜けていった。
 一方、希兵隊本部、総司令部室では。
「こりゃ、もっと早くに屋根修理しとくべきだったな」
「雨漏りしたとこが機材の上じゃなかっただけ幸いだね……」
 霞冴とコウの寄せ合った顔が映り込むのは、バケツになみなみとたまった水の表面だ。
「美雷さん、次のバケツを持ってきますね」
「あら、もういっぱい? さっき見た時は半分くらいまでだったのにねぇ。でも、霞冴ちゃんには別の仕事をお願いしたいから、他の子に持ってきてもらいましょう。あと、コウくんにはレインコートを……」
「この雨の中で屋根修理させる気かよ」
「頼りにしてるわ、大工さん」
「家は継いでねえっつの」
 そしてまた一方、噴水公園では。
「ああああ死んだぁぁぁ」
「こっちもったいぃぃぃ」
「うう、頑張ったのにね……」
 大きな木の影に逃げ込んだ雷奈、氷架璃、芽華実が、スケッチブックを敢えなくなった我が子のように抱きしめ、悲嘆の叫びをあげていた。
 その日、美術科の課題「空想上の場所」の一枚を描きに、三人はアワとフーを伴ってフィライン・エデンへ来ていた。そうして半日かけて完成させ、さあ帰ろうというところで、空襲のごとき豪雨に襲われ、雨をしのげる大木まで走ったものの、産声を上げた力作たちは、口惜しくも提出に耐えがたいびしょ濡れになったというわけである。
「くそぉ……力作だったのに……」
「チートしておいてよく言うよ」
 自身はすでに課題を終えているので、ただの付き添いに徹していたアワが呆れ声で言う。
 フィライン・エデンは他の人間たちには知られていない。評価する教員が知らなければ、実在するフィライン・エデンの景色も空想上の風景だ。
 実在する景色を見て写生するのは易くとも、想像して描き出すのは難しい。その壁を、三人は立場を利用して取っ払ってしまったというわけである。……この噴水公園の風景が、人間界にもある自然公園とどう違うかは別問題にして。
 だが、アワが言及したのはそこだけではない。
「ユメも、こんなことに発明品貸さなくていいのに……」
 アワの目配せで、隣のフーが空中に手をかざした。源子から再構成されていったのは、一台のタブレット端末だ。源子化されていたそれは、雨に濡れることなく無事を保っていた。
「あー! 私たちのスケッチブックもそうして欲しかったったい」
「だって、三人とも、それを抱えて走り出しちゃったんだもの……」
「でも、借り物だけでも無事でよかった。ありがとう、フー」
 それはタブレットのように見えて、スマホの大画面版のような普通のタブレットではない。見てくれは同じようなものだが、発明家・叶ユメが開発した、ある機能に特化したデバイスだ。
 まず、タブレット搭載のカメラで写真を撮る。すると、内蔵のアプリケーションで、どのようなタッチで被写体を表現したいかを、シミュレーション画像を見ながら選ぶことができるようになる。今回なら、撮った公園内の風景を、水彩風に、あるいは油絵風に、はたまた漫画風に加工した画像が選択肢として表示される。
 この端末の画期的な特徴はここからで、選んだタッチの画像を描くには、どのような画材を使い、どのような色使いで、どのような筆運びをすればよいかをレクチャーしてくれるのだ。
 雷奈たちは、色鉛筆でのスケッチ風の仕上がりを選択し、どの色でどのように描いていけばよいかは、アプリが教示する通りに進めていたのである。
 その結果が、これだ。
「楽しようとするからバチが当たったんだよ。今度また、自力でリベンジしな」
「くっそー、えらそうに……」
「アワもフーも、もう描き終わっとるけんね」
「それに二人とも、人間界ともこことも違う景色をちゃんと想像して描いたのよ。えらいじゃない」
「本当にちゃんと描いたのかぁ? 私に見せてみろ」
「写す気でしょ!? そんなことより、君たちにはしなきゃならないことがあるんじゃないのかい?」
 アワに言われて、「はぁ?」と喧嘩腰の声を出した氷架璃に対して、雷奈は「あっ」と焦りを浮かべた。
「ミンリの案内……!」
「この後すぐの予定だったけど……」
 同じことに思い当たった芽華実が、腕時計を見て、ついでに自分の服を見下ろして、落胆のため息をついた。
「今からでも直接神社へ向かえば、時間はちょうどだけれど、この状態でお迎えするわけにはいかないものね……」
 十月とあって制服は中間服の時期に入っていたからよかったものの、夏服のブラウス一枚だったなら、三人とも胸を張って道を歩けない濡れそぼち具合だった。だが、見苦しさの極みではないからといって、今のまま水をしたたらせながら、薬師・サイのおつかいでやってくる弟子のミンリを町案内するわけにはいかない。
「着替えてたら遅くなるな」
「連絡入れよっか。ミンリの連絡先知らんけん、サイに伝えとこ」
 濡れた手をブラウスの裾で適当に拭いて、雷奈はスマホを取り出した。
 電話には、本人のかわりに、もう一人の弟子・ケイが出た。事情を伝えたところ、遠くで何事か話し合う声を挟み、濡れて冷えた体でまた町に繰り出してもらうのは悪いので、ミンリには地図を頼りに独力で行ってもらう、と言伝があった。約束を違えたのはこちらだが、「お願いしたのはこちらだし、体を冷やさないように」と配慮してくれるあたり、さすがは大人で、医療従事者だ。
 もう一度お詫びの言葉を入れると、その後の予定は雨足を見計らっての帰宅のみとなった。

***

 あくる朝のことだった。
 ローテーブルの上で、木雪に借りているチエアリ検出センサー(仮)を震わせながら、スマホのバイブレーションが鳴った。
 制服に袖を通していた雷奈は、ふと振り返ると、スカートのホックだけ留めてから、そちらへ歩み寄った。
 来客がない間のローテーブルは、敷居をまたいで雷奈の部屋と雷華の部屋に半分ずつ渡して置いている。雷奈一人の部屋だったころは気にならなかったのだが、雷華と分け合ったことで部屋をふすまで半分に仕切ってしまうと、このローテーブルはどちらかの空間に入れ込むには大きすぎるのだ。
 ゆえに、着信を知らせる雷奈のスマホが震えているのは、押し入れと短辺ぶんだけ開けたふすまの間に挟まれているローテーブルの、中央より雷奈の部屋に突き出ている部分の机上、という状況だ。
 しばらく使っていないせいで、ローテーブルの上は少し散らかり気味だった。
 せつなにお詫びの品――学院と希兵隊の正面衝突の後、謝罪会見に来た――としてもらった、見た目よりゼロの数が二つ多い超高級和菓子の箱。
 タンスにしまおうと思って置いている、洗濯済みのハンカチ。
 返却されたばかりの、中間考査のテスト用紙。
 すみの方できらりと光る丸い――。
「……?」
 一つだけ、心当たりのないものが見えたが、とりあえずは電話だ。
 スマホを手に取ると、発信者に何となくの用件を察しながら、通話ボタンをタップする。
「もしもし、サイ? おはよう。昨日のことっちゃかね?」
『おはよう、三日月君。朝早くにすまないね』
 彼のほうから言われて、雷奈は違和感に気づいた。
 確かに、朝支度どきというのは、夕飯の準備どき・就寝前に並んで、「三大電話かけちゃ迷惑時間」といえる。緊急でもない限り、諸々の配慮を見せる社会人のサイにしては無思慮な行動だ。
 ――弟子の安否の最優先をも「無思慮」というならばの話だが。
「えっ……」
 さっと顔から温度が消えていく心地がした。
「ミンリが、戻ってない……!?」
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