フィライン・エデン Ⅲ

夜市彼乃

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13.水鏡編

61あわせてはならない ⑤

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 自然で満ち溢れた視界の真ん中に現れた、まるで違う場所から切り取って張り付けたように場違いな、無機質な人工物。光沢をたたえるその表面は、何をも映していない。
『雷奈ちゃん、今、念のため三番隊を向かわせたわ。……雷奈ちゃん、返事してちょうだい』
 呼びかけ続ける美雷に、雷奈は目の前の光景から目を離すことができないまま、震え声で一言だけ絞り出した。
「……鏡、が」
 あたかも、その言葉に反応したかのように。
 鏡面が、ぴしりと音を立てた。
 中央に、わずかな傷が走る。それが、ぴし、ぴし、ときしみながら、外に向かって広がっていく。
 割れてはいけないものが、割れていく。
 危うげな音の断続の果て、亀裂は幾何学的な装飾がなされた額まで到達した。まるで巨大な蜘蛛の巣が張ったかのような、不吉な風体。
 そこで、鏡は沈黙した。
 ――ように、みえた。
 直後、耳を覆いたくなるような絶叫を上げて、鏡が粉砕した。悲鳴を上げることさえできない少女たちの足元に、弾け飛んだ破片が散らばる。
 内側から破裂したように砕け散った姿見は、額縁に接している欠片を残し、鏡面を失った。
 ふいに、雷奈の耳に由実の講話がよみがえる。
 ――私達は、鏡が前にあるものを反射して映し出していることを知ってるけれど、
 きっとそれは、目の前ののせいだ。
 ――鏡の向こうに「あちら側の世界」があると考える人達は世界中にいるみたいだよ。
 鏡が割れた中央には、ぽっかりと暗闇が口を開けていた。鏡背きょうはいの色ではない。光のない、奥行きのある空間が、残った破片に縁どられて存在していた。
 そこに、人影が見えた。
 人影は、ゆっくりと歩みを進めると、姿見の額をまたいだ。
 ざ、と芝生を踏む。両の足が外の世界へ出た途端、鏡は蜃気楼であったかのように、ふっと消えた。
 つい数分前と同じ光景。何事もなかったかのような、緑と草木のにおいにあふれた自然公園。足元に飛んできた破片も、今は跡形もなく消えている。
 だが、今の一連の出来事は、白昼夢ではない。
 その証拠に、雷奈たちの前に、今も立っていた。
 その凛とした目と、人形のように整った顔立ちをもつ、小柄な少女の名を、雷奈たちは知っている。
「……ルシル……!?」
 顔のつくりは、背格好は、まぎれもなく河道ルシルのものだった。
 しかし、疑いようもなく、違う。
 雷奈たちの知る二番隊隊長は、長い前髪から後ろのセミロングヘアまで、つややかな漆黒だ。だが、目の前の彼女は、その全てが雪のように白い。しかも、その双眸にはめ込まれているのは瑠璃ではなく、翡翠。透けるような緑色が、白いまつ毛に縁どられてぼんやりと雷奈たちを見ていた。
 その身を包むのは、見たことのない意匠の服装だ。淡い淡い青色の、裾の広がったワンピース。ゆったりと広い大袖は、泉を思わせる濃紺の刺繍に縁どられている。胸の下で締められた帯も同じ濃紺で、ボレロのような短い羽織も然り。さらに同じ色合いに白い一本線が入った布が帯から長く垂れ、体の前面と脇から背中までとに分かれてワンピースの上に重なっている。
 おそらく、フィライン・エデンの伝統装束なのだろう。その手合いのものを初めて見た雷奈たちが無理やり人間界の知識に結び付けるならば、古代中国の妃の装束を彷彿させる……気がする、といったところか。
 雷奈は固唾をのもうとして、あまりの喉の渇きに仕損じてから、かすれた声のまま問うた。
「……あなたは」
「私は」
 声も同じだ。
 だが、黒髪碧眼のルシルよりも、どこか芯のない虚ろな響きだった。
「カミチ、ルシル。川路さんぼんがわのじのルシル」
 そう言って、ゆっくりと右手を持ち上げる。白く細い指が空を泳ぐと、そこに空気から湧き出すように、水が巻き起こった。
「私の、役目では、ないけれど……あなたたちには、消えてもらわなければならない」
「なっ……!」
 出会い頭から不穏な宣言をされ、雷奈たちは慌てて身構えた。川路と名乗る彼女の水術の腕が、ルシルと遜色ないものなのかはわからない。だが、それを食らって評価するのは愚行だろう。少なくとも、ルシルの術は戦闘員のものだ。正面から受けて無事でいられる保証はない。
 ふ、と右手がすばやく動かされる。呼応して、水かさがどっと増した。
 渦を巻く水流が、ひたと雷奈を見据えた。雷奈は闘牛士の心地で、襲い来るその瞬間を見定める。
 直後だった。
「!」
 突如鳴り響いた炸裂音と閃光が、水術の前兆を切り裂いた。同時、川路は斜め後ろに飛び退く。
 驚いて目を向けてきた氷架璃と芽華実に、雷奈は首を振る。
「私じゃなか」
「こっちこっち。あたしだよ」
 聞き覚えのある声は、右手の木の上からその場を見下ろしていた。レモン色の毛並みに、同じ黄色い首輪。芽吉めよし希雷キラ――三番隊の隊員だ。別の枝には、見たことはないが同じ色の首輪をした猫がもう一名いた。
 さっき、電話口で美雷が三番隊を向かわせたと言っていたのを思い出した。それがこの二名なのだろう。
 そこへさらに、ばたばたと走ってくる音が近づいてきた。
「え、何これ、どういう状況!?」
「私たちがいない間に、何があったの……!?」
「遅いぞー、正統後継者二人。ちゃんと人間を守らないと」
 ビニール袋――中身は出来合いの食糧だろう――を一つずつさげたアワとフーは、キラの冷やかしに「う」と言葉を詰まらせてから、白いルシルに視線を移した。怪訝そうな目で彼女をにらみながら、それぞれのパートナーの前に出る。
 川路は状況をゆるりと見回すと、ふっと雪解けのようなため息をついた。
「多勢に、無勢。戦闘は、私の役目ではない」
「何なんだい、君は」
 川路はアワには答えず、雷奈たちから見て左方向へ走り出した。ボリュームのある服装からは想像もつかないほど軽やかな動きだ。
「待てっ!」
 言われて待つはずもなく、彼女は立ち並ぶ木立へ駆けていくと、大きく跳躍した。帯から伸びる背面の布を大きく翻し、一番近い木の上に着地。そのまま、再び軽やかに宙を舞い、木立を越えて見えなくなった。
「ルシルっちの偽者も現れちゃったか」
 しばらくの間、白い姿が去っていったあとを呆然と見つめていた雷奈たちは、歩み寄ってきたキラの声で我に返った。
 アワとフーが険しい顔で彼女を問い詰める。
「キラ、あれはいったい何なんだい」
「ルシルのようだったけれど……ルシルじゃなかったわ」
「一応、情報管理局から速報で発信されてるんだけどね。外にいる君たちは見聞きしてないんだね」
 キラは人の姿をとると、ピッチを手にしながら言った。
「総司令部に連絡したら、送ってくよ。説明は安全なところでしたほうがいいでしょ」
 そこで、雷奈は美雷からの電話を途中ですっぽかしたことを思い出したが、案の定、既に通話は切れていた。

***

 キラ達の護衛のもと、人間界へ戻った雷奈たちは、雷華に事情を話し、「なぜ私まで」と険をにじませる彼女を無理やり引き込んで、いつもの会議席を設えた。
 場が整ったちょうどそこへ、希兵隊の代表が現れた。
「やほー、お疲れさん」
「あれっ、美雷やなくて霞冴?」
「美雷さんは三者会議中! オンラインだけど」
 副最高司令官は部屋に上がると、雷奈に促されて上座に腰を下ろした。
 その直前、部屋に入る前には霧で隠されていたものを、左腰から抜いて、座布団の右側に置いた。
 その一振りは、霞冴の警戒心そのものだ。
「ごめん、美雷からの電話、途中から応答できなくて……怒っとった?」
「そんなことで怒るわけないじゃ~ん。心配はしてたけど、無事って聞いてにっこりしてたよ」
 だいじょぶだいじょぶ、とふにゃふにゃ笑って、湯飲みのお茶を一口飲んだ霞冴に、氷架璃が「で」と切り出した。
「脱色したルシルに会ったんだけど。あいつ漂白剤でもかぶったのか?」
「それは大惨事だね。でも、今の状況は大大惨事」
 軽口を叩く口元は、薄く笑みを浮かべている。だが、さっきと打って変わって目が笑っていない。彼女の言葉は本当のようだ。
「キラからどこまで聞いたかな」
「え、何も。道中ずっと、数日前に喉に団子ば詰めかけた霞冴が、慌てたコウに見事なハイムリック決められて、九死に一生ば得た話ばっかり聞かされたっちゃけど」
「……」
「大大大惨事じゃねーか」
 返す言葉もない霞冴は、三回ほど咳払いしてから本題に入った。
「キミたち、に会ったと言ったね。つまり、キミたちの前には、黒髪ではないルシルが現れたということかな」
「うん、白髪。雪女みたいやったったい」
「しかも、ファンタジーな衣装に身を包んでな」
「それに、いつもの凛とした感じがなかったわね」
 雷奈たちが、鏡の向こうから現れた「川路ルシル」と名乗った少女について言及する一方で、アワとフーは霞冴の口から発せられた別の言葉を聞きとがめた。
と言ったね。どういうことかな」
「まるで、他の例もあるように聞こえたけれど」
「そうだよ。それも一件や二件じゃない。総司令部への通報がなりやまない始末だ」
 ネットニュース見てみ、と促され、アワとフーがスマホを手にする。わ、と声を上げた。
「ドッペルゲンガー……?」
「まあ、早い話が『もう一人の自分』だよね。偽者といってもいい。ちなみに私達は『鏡像』と呼んでる。通報内容は一様に同じ。身の丈ほどの姿見が現れ、その鏡面を破って自分あるいは身近なひとによく似た、けれど随所が大きく異なる人物が現れる。そして、それが襲ってくる」
 雷奈たちの体験をそのままなぞる描写だった。鏡から現れた、色や雰囲気の違うルシルが、雷奈たちに水術を放とうとしていたのと同じだ。
「そういう通報が今朝から何十件も入ってる。緊急の三者会議をおこなわざるを得ない事態だよ。前代未聞の現象だ」
「それで、美雷は早く人間界に帰れって……」
 霞冴はこくっとうなずいた。
「今のところ、通報者はみんな逃げ出したり、その前に反撃したりしてて、大ケガをしたひとはいない。希兵隊もすでに対応に乗り出してる。とはいえ、キミたちがこちらへ来た時、無事でいられる保証ができるわけじゃない。しばらくは来ない方がいいよ」
 そう忠告した霞冴のポケットから、ピリリリと着信音がした。ピッチを手に取り、いくつか相槌を打った後、彼女は「わかった、戻るね」と伝えて通話を切る。
「ごめん、本当は事象の前後について詳しく話を聞きたかったけれど、総司令部が思ったよりてんてこまいみたいだ。戻らないと」
 美雷が会議中の間は、霞冴が率先して指揮をとらなければならない。
 お茶ごちそうさま、と言い置いて立ち上がると、見送りも辞謝して部屋を後にした。
 ひと段落したところで、ずっと黙っていた雷奈の胃が辛抱たまらず細く長く鳴いたので、一同は思い出したように昼食にありついた。アワとフーがビニール袋から次々にとりだしたのは、ザ・コンビニ飯だ。
 フィライン・エデンの食べ物は相変わらず独特だ。動物由来の原料がないため、おにぎりの具は、しゃけのようで実は木の実であるし、サンドイッチに挟まっているのは、ハムのようで実は花びらだ。だが、なぜか食感も味もしゃけやハムなのだから不思議だ。
 雷華は用は済んだとばかりにふすまを閉めて自分のスペースに閉じこもってしまったが、雷奈たちはしばらくそのまま語らっていた。
 そろそろ日が傾いてきたというころ、アワとフーが腰を浮かせた。
「じゃ、そろそろお暇しようか」
「そうね。気をつけて帰らないとね」
「うっし、じゃあ一緒に行くか」
「そうね」
「いや、霞冴の話聞いてた!? それとも新手の反抗期!?」
「うっさいな、これだよ、これ!」
 氷架璃と芽華実が、同時に間の人物を指さす。二人に挟まれた雷奈が手にしていたのは、ピンク色のカバーがかわいらしいタブレットだ。
「あ……ユメの」
「これ返しに行かんと」
「それくらい、ボクたちが代わりに返しておくよ」
「大助かりやったのに、直接返さんのは失礼ったい。アワとフーがついてきてくれたら安心っちゃろ」
 二家の二人は顔を見合わせたが、諦念のため息をつくのにそう時間はかからなかった。
 もう三年目だ。三人の強情さは嫌というほどよくわかっていた。
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