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13.水鏡編
63スワンプマンの実証実験 ⑥
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***
傾いていく陽を追って訪れる夜の気配が、公園内の緑から鮮やかさを奪っていく。
その薄暗闇に誰そ彼と問われて応えるように、彼は口を開いた。
「柳青と書いて柳青アワ。それがボクだよ」
口元だけのシニカルな笑みを浮かべ、彼はそう名乗った。
対峙する氷架璃とアワは、対照的に頬に緊張を張り続けている――と思いきや、片方が口の端を曲げた。
「おいおい、アワ。びっくりだぞ、こりゃ」
「何が」
「私ら、バディ組んでもう二年半だってのに、共闘すんの初めてだぞ」
高揚感すら漂わせる氷架璃の声に、アワは嘆息する。
「ボクはするつもりなかったんだけどね。人間は守るべき相手。神託を受ける前から、その心でずっとやってきたんだから」
「今は違うだろ?」
横目で流した互いの視線がぴたりと合う。アワの目に映る氷架璃の瞳は青藍。神託で見たときは、そして出会ったときは、黒一色の瞳だったのに。
この青い瞳で、彼女はダークと、そしてチエアリと戦い、生き抜いてきたのだ。その事実は、十年にわたって教え込まれた正統後継者の心得を覆すには十分だった。
「……仕方ないね。初共闘、やりますか」
「おうよ!」
二人の闘気が波長を合わせ、柳青に注がれる。それを受けて、彼は子猫のじゃれ合いでも見るかのようなまなざしでふっと笑うと、口調だけでトーンさえ低く聞こえるような落ち着いた声で言った。
「仲がいいのは結構だけど、君はもう少しわきまえた方がいいんじゃないかな、流清アワ」
「……何をだい」
「意中の風中家の正統後継者を脇に置いて他の女性と意気投合するのを、だよ」
その言い方があまりにも大人びていたからか、あるいは到底予想もできない内容だったからか、アワも氷架璃もしばらく理解に時間を要した。
……やがて。
「はっ……はあああ!?」
絶叫。ついでに、赤面。
由緒ある流清家の子息が、細かい汗をかきながら、わたわたと手をばたつかせて口を開け閉めしていた。
「なっ、何をっ、ちがっ……違うからね氷架璃っ!」
あまりの慌てふためきようを見て、かえって冷静になった氷架璃。その視線を何とか跳ね返そうとするように、アワはいっそう抵抗する。それはただ恋心を暴かれただけの男子の反応とは微妙に違う。彼の場合、勘当の危機がかかっているのである。
「違うから! フーはただの友達だから! 偽者の言うことなんて信じちゃダメだよ!」
「どうかな」
柳青はやはり冷笑する。
「君とボクの違いは、家のしきたりに従うか、自身の気持ちに従うかだ。だからボクは胸を張って言える。ボクは、フーのことが好きだ。それは君の本心と同じ……」
「跳ねろ水砲轟け洪瀧!」
およそ希兵隊員でもしないような早口の言霊が大量の水を呼び出し、一瞬で柳青を遠くへ押し流した。あまりに雑な言霊だったため、もはや水砲と洪瀧の体すら為していないが、とりあえず彼の目的は達成された。
ぜえぜえと肩で息をすると、アワは改めて氷架璃を振り返る。
それでもって、全力でダメ押し。
「違うからねっ!?」
「わかったから。ってか、あんた今、ガオンに向けたのよりエグいもん放ったな」
これが春先の修行の成果なのだろうか、と感心しつつ、氷架璃は鉄砲水の流れていったほうへ目を向け――。
「……オイ」
「何だいっ」
「あいつどこ行った?」
水が飛んでいった方向に、柳青の姿はなかった。いくら遠くへ押し流されたとはいえ、地平線の向こうに追いやったわけではない。芝の広がる広場の中には留まるはずなのに、どこにも見当たらない。
「もしかして、今の一撃でやられたんじゃないか?」
氷架璃の冗談めかした発言を話半分に聞きつつ、視線を巡らせていたアワの目に――動くものが映った。
「氷架璃!」
叫ぶと同時に即座に相棒の手を握り、力任せに引き込んだ。細身とはいえ男子の力で思い切りひっぱられ、氷架璃はつんのめって前に倒れかける。その体がしかと受け止められたところで、ノーマークだった方向から放たれた水砲が、彼女の背中をかすめた。空振った水の塊は地面に叩きつけられ、タァンッと柏手のような音でその威力を叫ぶ。
耳に刺さる残響に戦慄する氷架璃へ、至近距離からアワの声が降ってくる。
「大丈夫かい」
アワがゆっくりと体を離す。――つまり、それまで氷架璃は抱きしめられる格好で彼と密着していたのだった。
「お、おう」
そう答えると、アワは「よかった」と言いたげに微笑んで、氷架璃を自分の隣に立たせながら先を見据えた。
恋人でもない異性相手なら、緊張や決まり悪さを禁じ得ない距離だったが、違和感のいの字さえ感じなかったことに、氷架璃は逆に驚いていた。それは相手の正体が自分とは異なる種だからか、それともバディがすっかり板についているからか。
それはともかく、問題はアワの視線の先だ。
そこから聞こえる、軽い調子の声だ。
「残念、生きてました」
どうやら、アワと氷架璃が場違いな応酬をしている間に死角へ回り込んでいたらしい。柳青は水から上がったばかりのように全身を濡らし、髪からしずくを落としながらも、にっと不敵に笑う。体裁を悪くするどころか、水もしたたる何とやらといえる風貌で、前髪をかきあげる仕草さえ無駄に様になっている。氷架璃は舌を出すことで酷評した。キザなのはまったくもってアワらしくない。
「戦いの最中に茶番を繰り広げるなんて、不用心にもほどがあるんじゃないかい?」
「君が余計なことを言うからだよ」
アワは苦い声を発しながら、さりげなく氷架璃の前に進み出た。
「それより、ボクらは雷奈が心配なんだ。向こうに飛ばされてしまった芽華実とフーもね。だから、早めに観念して退場してくれないかな」
「ボクがリュウショウアワとしてこの世界で生きていくためには、君が邪魔なんだよ。だから、早めに観念して死んでくれないかな」
最後の一言が氷架璃の胸の奥をひやりと撫でた。冷たい刃物にひたと触れられたような心地だった。そのむごい言葉をアワの声で聞くのは、あまりにもショックが大きい。
黙るアワ。
柳青は小馬鹿にするようにふっと笑う。
「君だって、そんな風に言われて『はいそうですか』って納得するわけないでしょ? こっちだって……それは同じなんだよ!」
柳青の手から水の刃が飛んだ。反射的に避けた二人の間を、三日月状の薄刃がひゅんと音を立てながら通過する。
左右に分断された二人。そのうち、柳青が狙ったのは当初の獲物ではなく、先に狩りやすそうなもう一人だ。
「うおあ!?」
巨大な水の渦が氷架璃に迫る。高さ三メートルの竜巻が水を巻き上げたような脅威が突進してくる。
もつれそうになる足で走ってやり過ごすと、やられてばかりでは引っ込みがつかないと刀印を構えた。そろえて伸ばした人差し指と中指は、源子への命令の合図だ。
「極彩色の帰納、白色の来訪……おわっ!?」
だが、詠唱を許してくれるはずもなく、柳青が伸ばした左手から鉄砲水が氷架璃を襲った。とっさに腕を交差させて顔をかばうが、あまりの勢いに押し倒されそうになる。腕や頭に打ち付ける水流は、痛いほどの速度と質量だ。
轟音の向こうでアワの叫び声がした。
「斬り裂け、游断っ!」
同時、腕をつかまれて、激流から乱暴に引きずり出される。水から脱したことで再びその姿が見えた柳青はといえば、攻撃を中断して避けた水の刃を、背後に無造作に見送っていた。
危うく溺れるところだった氷架璃は、飲み込みかけていた口の中の水をぺっぺっと吐き捨てた。
「なんつー強引なエスコートだよ。それでも紳士か」
「口の中のものを吐き捨てる淑女に言われたくないよ」
アワはそう切り返すと、もう一度游断を繰り出した。続けて二つ、水の刃が飛んでいく。
柳青は少し好奇心めいた笑みを浮かべると、左手を振りぬいた。彼が放ったのもまた、二つの水の刃だ。
先鋒の游断は、両者互いにしのぎを削って散った。だが、続く勝負は柳青に軍配が上がり、アワの游断を弾き飛ばして術者に迫る。
「っ」
ブンと飛んできた刃を、アワは体を斜めにひねって避ける。あと数センチ誤れば大出血を見ることになった恐怖に、鳥肌が彼の全身を駆け巡ったのが、そばの氷架璃でさえわかった。
アワはすぐに敵に向き直ると、今度は「轟け、洪瀧!」と手を突き出した。さっき柳青が放ったものと同じジェット噴射のような放水。これに対しても、柳青は同じ術で迎え撃った。
中央でぶつかり合った両者は互角……と思いきや、アワが劣勢を強いられていた。単純に押されているというより、アワの洪瀧を突き破るようにして相手の洪瀧がにじりよってきている。
「く……っ」
アワが伸ばした右手に左手を添えた。その顔に焦りがにじむ。
横から光術を差し挟んでやろうと、氷架璃は刀印を構えた。が、柳青の視線がすかさずそれを捉えたので、動きを止める。今アワと拮抗している水の柱を少し横に振るだけで、氷架璃はさっきのように押し倒されかけるだろう。氷架璃は結界術を使えないうえ、光では迫りくる水に勝てない。
そうしているうちに、限界を悟ったアワが叫んだ。
「氷架璃、伏せて!」
突き刺すように鋭い指示に、考えるより先に従った氷架璃。直後、攻撃を収めて同じように体を伏せたアワの頭上を、そして氷架璃の頭のすぐ近くを、大龍のごとき水流が駆け抜けていった。
咆哮のような水音が去っていく。それ以上の追撃はなく、アワと氷架璃がゆっくりと立ち上がると、柳青は満悦そうな微笑を浮かべていた。
「わかったでしょ。こういう意味でも、ボクのほうが本物であるべきなんだ」
水術の強さのことを言っているのだろう。それを証明するために、あえて同じ術で迎え撃ったのだ。
氷架璃は当然生じうる不平をアワにぶつける。
「おい、あいつ何であんなに強いんだよ、あんたの鏡像なら、あんたとは互角のはずじゃないのか」
「簡単な話だよ」
長息に疲労を乗せて、アワ。
「あいつはチエアリの造形物。チエアリはすなわち源子。源子との相性は、その造形物の方が、ボク達なんかより断然いいってことだよ」
悔しげなアワの言葉は、相手にとっては立派な賛辞だ。笑みを浮かべたくもなるだろう。
氷架璃は困惑した。思った以上に強敵だ。
同じ攻撃をぶつけてもアワより柳青のほうが強い。光術で対抗しても水術には勝てない。
さっそく難航する初共闘は、どう切り替えていくべきか――。
「……まあ、こういう時のために修行したんだけどさ」
隣で嘆息交じりのつぶやきが聞こえて、氷架璃は振り返った。アワも氷架璃を見つめると、早口でささやいた。
「氷架璃。十五秒だけかせいでくれるかい。十五秒たったら、ボクの後ろに回るんだ」
「……勝算あんのか」
「この術は水術相手なら負けない」
氷架璃はまじまじとアワを見つめた。
彼は大言壮語を口にする人物ではない。自らの力を過信もしないし、悠長に構える性格でもない。
その彼が――「負けない」と言った。
本音を言えば、疑念が全くないわけではない。希兵隊の執行部員が言うならまだしも、戦闘は彼の本職ではない。
だが、ああ言われたからには無碍にできない。
源子の扱いは素人である人間であることも、水術に敵わない光術使いであることも織り込み済みで、それでも「十五秒かせいでくれ」と――氷架璃を信じてそう言ったのだ。
ここで信じ返さなければ、バディ失格だ。
「カッコつけてみせな、アワ」
「うん、見ててね、氷架璃」
十五秒のカウントダウン。
その合図はいらない。ただ融け合うように二人の間で同時に秒読みが開始され、その瞬間に氷架璃は駆け出す。
「憎く鳴く西、五夜の足、三束の波に三並の錘!」
柳青の目が氷架璃を追う。その手から、いくつもの水の砲弾が飛んできた。警戒アラートを発した体が足を止めようとするが、理性で押さえ込んで走り続ける。止まったら撃たれることは必至だ。
「写し代の大明と化し天動に頷け! 差せ、光砲!」
走りながら、同じく光の砲弾で反撃する。
柳青は連続して発射される光砲を次から次へと避けていくが、これでいい。攻撃は最大の防御、避けている間はさすがの柳青も水術を放っては来ない。それに、もとより氷架璃の役目は時間稼ぎだ。
後方では、アワが刀印を結び詠唱を唱えている。彼に流れ弾が当たらないよう立ち位置を調節しながら、ひたすらに光術を撃ち続ける。
あと五秒……四……三……二……一……。
「っ!」
体力を使い果たす勢いで攻め続けていた氷架璃は、一気に踵を返した。あっちへこっちへと走り続けている間に五メートルほどの距離が空いたアワのほうへと駆ける。詠唱を唱え終わったのか、刀印は構えたまま唇を引き結んで待つアワと、視線が強く結ばれる。
ざば、と水音がした。振り返ると、氷架璃の背後を大波が追ってきていた。まるで地面を這う手のひらのように、あるいは鎌首をもたげながら寄ってくるコブラのように、幅三メートルに及ぶ波が押し寄せる。高さは氷架璃の身長の倍ほどだ。
握った手のひらに冷や汗を感じながら、氷架璃は必死に足を動かした。
視線の先で、アワが左手を伸ばす。氷架璃も同じように左手を伸ばしながら、飛び込むような勢いでその手をつかむと、アワは力強くその手を引いた。
そして自分の背後へ氷架璃を回らせると、刀印を解いた右手を思いきり左に振りぬき――。
「境界死線を破り騒げ――反攻灘波!」
言霊を叫ぶと同時に、左から右へ、まるで手の届く範囲全ての空を切るように、すばやく腕を薙ぎ払った。
まるでその動きで地面が裂けたかのように――直下から水が吹き出す。
柳青が氷架璃を追わせたものと同じような、地上の波涛だ。それがアワと氷架璃を背に、柳青へ向かって――正確には氷架璃を追ってきていた荒波へ向かって進みだす。
アワの後ろに回った時点で彼の手を離していた氷架璃は、両手で服のすそをぎゅっと握った。
数分前の光景が思い起こされる。アワの游断に対する柳青の游断、アワの洪瀧に対する柳青の洪瀧。いずれも、鏡像が放ったものに軍配が上がったのだ。
そして今、柳青の大波に対してアワの大波が向かっていく。ならば、雌雄はすでに決している。
真っ向から攻め合う激浪が、直後、激突して――。
「……!」
激突した――という表現さえ正しいか定かでない。アワの波涛が、柳青の放ったそれを飲み込んだ。
勢いを緩めることなく、それどころか飲み込んだぶんの水かさで高さを増しながら、ごうごうと柳青へと向かっていく。
――反攻灘波は、同じく大波を起こす術・碧ノ渡罪とは似て非なる。すなわち、向かってくる水と接した時、どんなに相手の水流の勢いが強かろうと、相殺されることも押し負けることもなく、必ずその水を味方に引き込んで進み続ける。ゆえに、いかほどに相手の水術が強力であろうと、あるいはそれが自然の脅威であろうと、反攻灘波の前には無力となり果てる。
氷架璃はその説明をのちに聞かされるところとなるのだが、とにかく今は、耳に残響する術名を反芻しながら、呆然と相棒の背中を見つめていた。
反攻灘波。外来語の名を冠する術。推測されるに、炎術・回天業火や鋼術・粉塵爆発に並ぶ最強レベルの水術だ。
それを使用したのは、希兵隊の戦闘員でも学院の猫力学者でもない。
氷架璃にとって最も近しい、人間と親しくすることを生業とする穏やかな少年だ。
春先に修行すると言って行動を別にしたアワ。あの時、氷架璃はその肩に力の入った様子を笑い飛ばしていた。
けれど、これが結実した成果だ。
他でもなく、氷架璃たち人間を守るための研鑽の具現だ。
ザアアアアッ――。
波は柳青へと向かって突き進んでいく。もう、彼が何を放とうと止められない。彼が水使いである以上、止めるすべはない。
波の向こうで柳青がどんな顔をしているかは見えない。焦っているのか、絶望しているのか、はたまた落ち着いているのか。
だが、波の裾から彼の姿が出てこない以上は、避ける余裕もなく波にのまれようとしているのだろう。
正統後継者の誇りから生まれた、この勇ましく強い大波が――
――直後、崩れ落ちた。
「……!?」
氷架璃は目を疑った。猛進していた大波は、積み木の造形を横から突いたかのように形を失ったのだ。
術者本人であるアワも、呆然として言葉もなく立ちすくんでいた。対照的に、瓦解した波の向こうで、柳青は足元だけを濡らしながら、腰に片手を置いて悠然と笑みを浮かべていた。
「なんで……何が起こったんだよ……!?」
「簡単な話だ。ボクが反攻灘波を使わなかった理由もそこにある」
アワの代わりに答えた柳青は、優越感に浸るように唇の端を吊り上げた。
「未完成なんだ。君の、そしてボクの反攻灘波は。君は気づかなかったようだね」
「く……っ」
アワは歯噛みして、次なる手に打って出ようとした。
が、腕を伸ばす直前、ふらりと揺れて地面に膝をついた。
「アワ!?」
「反攻灘波は大量の源子を従える。体力をごっそり持っていかれるんだよ。だから不発に終わるとわかっていたボクは、そんな脱力状態に陥らないよう使用を控えたんだ」
さすが、本性が源子であるチエアリの造物。自身の手に負える源子の扱い方かどうかは、事前に熟知していた。
アワも、この術の使用に踏み切ったのは、一度ならず成功経験があったからに他ならないのだが、まだ不安定だったということだ。
「……っ」
激しい疲労感に、汗を流しながらうなだれるアワ。
幸い、氷架璃を襲おうとしていた大波は防ぐことができたが、この困憊具合では同じ芸当をもう一度というわけにはいかない。
「さあ、どうする? 消えてボクにその席を譲ってくれるかな? それとも……彼を守れる? パートナー」
アワに、そして氷架璃に視線を向けて、柳青は挑発的に笑う。その笑みに触発されたように、氷架璃が前に出た。
「氷架璃っ……」
「望むところだ、私が相手してやる」
「ダメだ……君一人で敵う相手じゃない……」
「あんたがへたってる今、私一人しかいないだろ」
柳青の本命の標的はアワだ。アワを倒してリュウショウアワの椅子を自分のものにすることだ。
であれば、氷架璃が抵抗しなければ、柳青がどう行動するかは火を見るよりも明らか。
「へえ、そっか」
氷架璃の選択を見届けて、柳青は――掲げた手に、渦巻く水を生み出した。
「見せてみなよ、偽氷架璃」
水の渦はどんどん大きくなる。抱えるほどの、人一人入るほどの、そして三人は飲み込むほどの巨大な渦潮に成長する。
その間に、氷架璃は刀印を構えて詠唱を唱え上げる。射出に備えて右手を突き出すのと、柳青の特大級の渦波が放たれるのは同時だった。
「差せ、光砲!」
迫りくる、すり鉢状の水の渦。そこへまばゆい光の砲弾が撃ち込まれる。二度、三度――しかし、渦波の勢いは衰えない。
「ちッ……!」
氷架璃は諦めずに光砲を撃ち続ける。暖簾に腕押しに見えても、いつかそのどてっぱらに穴を空けてやると意気込んで。
だが、それよりも相手の接近が早い。アワを後ろに控えている以上、氷架璃だけ回避するわけにはいかない。このまま、渦波を撃ち砕くほかないのだ。
光の弾をぱしゃぱしゃと飲み込みながら迫る渦波。もう目の前にまで来ているそれは、高さにして五メートルはあり、一番広いところで幅も三メートルあるだろう。そして、飲み込まれればその中でもみくちゃにされるハメになる――。
「氷架璃……!」
「アワ、逃げ……!」
引きずってでも、と踵を返してアワに駆け寄りかけたところで。
背中に、荒れ狂う炎が吹き抜けたかのような熱感を感じた。
「……!?」
振り返るも、その時には視界を白い蒸気に包まれていた。
そして、目と鼻の先に迫っていたはずの渦波が、襲ってこない。
まるで、本当に炎が水を蒸発させてしまったかのようだ。
いったい誰が。
真っ白くけぶる、辺りに広がっていく蒸気の中で、氷架璃は一つの人影を見た。
「おうおうおう、何やってんだ、こんなとこで!」
よく知る声だった。こんな様になった登場の仕方は全くもって似合わない人物の声だ。
登場の演出用スモークのような白い煙の中、絶体絶命の二人の前に立ちはだかった人物。蒸気が薄らいでいくにつれて、その姿は曖昧なシルエットから徐々に色を取り戻していく。
後ろに結った髪が、まるで戦隊ヒーローのような燃える赤色で揺れた。
傾いていく陽を追って訪れる夜の気配が、公園内の緑から鮮やかさを奪っていく。
その薄暗闇に誰そ彼と問われて応えるように、彼は口を開いた。
「柳青と書いて柳青アワ。それがボクだよ」
口元だけのシニカルな笑みを浮かべ、彼はそう名乗った。
対峙する氷架璃とアワは、対照的に頬に緊張を張り続けている――と思いきや、片方が口の端を曲げた。
「おいおい、アワ。びっくりだぞ、こりゃ」
「何が」
「私ら、バディ組んでもう二年半だってのに、共闘すんの初めてだぞ」
高揚感すら漂わせる氷架璃の声に、アワは嘆息する。
「ボクはするつもりなかったんだけどね。人間は守るべき相手。神託を受ける前から、その心でずっとやってきたんだから」
「今は違うだろ?」
横目で流した互いの視線がぴたりと合う。アワの目に映る氷架璃の瞳は青藍。神託で見たときは、そして出会ったときは、黒一色の瞳だったのに。
この青い瞳で、彼女はダークと、そしてチエアリと戦い、生き抜いてきたのだ。その事実は、十年にわたって教え込まれた正統後継者の心得を覆すには十分だった。
「……仕方ないね。初共闘、やりますか」
「おうよ!」
二人の闘気が波長を合わせ、柳青に注がれる。それを受けて、彼は子猫のじゃれ合いでも見るかのようなまなざしでふっと笑うと、口調だけでトーンさえ低く聞こえるような落ち着いた声で言った。
「仲がいいのは結構だけど、君はもう少しわきまえた方がいいんじゃないかな、流清アワ」
「……何をだい」
「意中の風中家の正統後継者を脇に置いて他の女性と意気投合するのを、だよ」
その言い方があまりにも大人びていたからか、あるいは到底予想もできない内容だったからか、アワも氷架璃もしばらく理解に時間を要した。
……やがて。
「はっ……はあああ!?」
絶叫。ついでに、赤面。
由緒ある流清家の子息が、細かい汗をかきながら、わたわたと手をばたつかせて口を開け閉めしていた。
「なっ、何をっ、ちがっ……違うからね氷架璃っ!」
あまりの慌てふためきようを見て、かえって冷静になった氷架璃。その視線を何とか跳ね返そうとするように、アワはいっそう抵抗する。それはただ恋心を暴かれただけの男子の反応とは微妙に違う。彼の場合、勘当の危機がかかっているのである。
「違うから! フーはただの友達だから! 偽者の言うことなんて信じちゃダメだよ!」
「どうかな」
柳青はやはり冷笑する。
「君とボクの違いは、家のしきたりに従うか、自身の気持ちに従うかだ。だからボクは胸を張って言える。ボクは、フーのことが好きだ。それは君の本心と同じ……」
「跳ねろ水砲轟け洪瀧!」
およそ希兵隊員でもしないような早口の言霊が大量の水を呼び出し、一瞬で柳青を遠くへ押し流した。あまりに雑な言霊だったため、もはや水砲と洪瀧の体すら為していないが、とりあえず彼の目的は達成された。
ぜえぜえと肩で息をすると、アワは改めて氷架璃を振り返る。
それでもって、全力でダメ押し。
「違うからねっ!?」
「わかったから。ってか、あんた今、ガオンに向けたのよりエグいもん放ったな」
これが春先の修行の成果なのだろうか、と感心しつつ、氷架璃は鉄砲水の流れていったほうへ目を向け――。
「……オイ」
「何だいっ」
「あいつどこ行った?」
水が飛んでいった方向に、柳青の姿はなかった。いくら遠くへ押し流されたとはいえ、地平線の向こうに追いやったわけではない。芝の広がる広場の中には留まるはずなのに、どこにも見当たらない。
「もしかして、今の一撃でやられたんじゃないか?」
氷架璃の冗談めかした発言を話半分に聞きつつ、視線を巡らせていたアワの目に――動くものが映った。
「氷架璃!」
叫ぶと同時に即座に相棒の手を握り、力任せに引き込んだ。細身とはいえ男子の力で思い切りひっぱられ、氷架璃はつんのめって前に倒れかける。その体がしかと受け止められたところで、ノーマークだった方向から放たれた水砲が、彼女の背中をかすめた。空振った水の塊は地面に叩きつけられ、タァンッと柏手のような音でその威力を叫ぶ。
耳に刺さる残響に戦慄する氷架璃へ、至近距離からアワの声が降ってくる。
「大丈夫かい」
アワがゆっくりと体を離す。――つまり、それまで氷架璃は抱きしめられる格好で彼と密着していたのだった。
「お、おう」
そう答えると、アワは「よかった」と言いたげに微笑んで、氷架璃を自分の隣に立たせながら先を見据えた。
恋人でもない異性相手なら、緊張や決まり悪さを禁じ得ない距離だったが、違和感のいの字さえ感じなかったことに、氷架璃は逆に驚いていた。それは相手の正体が自分とは異なる種だからか、それともバディがすっかり板についているからか。
それはともかく、問題はアワの視線の先だ。
そこから聞こえる、軽い調子の声だ。
「残念、生きてました」
どうやら、アワと氷架璃が場違いな応酬をしている間に死角へ回り込んでいたらしい。柳青は水から上がったばかりのように全身を濡らし、髪からしずくを落としながらも、にっと不敵に笑う。体裁を悪くするどころか、水もしたたる何とやらといえる風貌で、前髪をかきあげる仕草さえ無駄に様になっている。氷架璃は舌を出すことで酷評した。キザなのはまったくもってアワらしくない。
「戦いの最中に茶番を繰り広げるなんて、不用心にもほどがあるんじゃないかい?」
「君が余計なことを言うからだよ」
アワは苦い声を発しながら、さりげなく氷架璃の前に進み出た。
「それより、ボクらは雷奈が心配なんだ。向こうに飛ばされてしまった芽華実とフーもね。だから、早めに観念して退場してくれないかな」
「ボクがリュウショウアワとしてこの世界で生きていくためには、君が邪魔なんだよ。だから、早めに観念して死んでくれないかな」
最後の一言が氷架璃の胸の奥をひやりと撫でた。冷たい刃物にひたと触れられたような心地だった。そのむごい言葉をアワの声で聞くのは、あまりにもショックが大きい。
黙るアワ。
柳青は小馬鹿にするようにふっと笑う。
「君だって、そんな風に言われて『はいそうですか』って納得するわけないでしょ? こっちだって……それは同じなんだよ!」
柳青の手から水の刃が飛んだ。反射的に避けた二人の間を、三日月状の薄刃がひゅんと音を立てながら通過する。
左右に分断された二人。そのうち、柳青が狙ったのは当初の獲物ではなく、先に狩りやすそうなもう一人だ。
「うおあ!?」
巨大な水の渦が氷架璃に迫る。高さ三メートルの竜巻が水を巻き上げたような脅威が突進してくる。
もつれそうになる足で走ってやり過ごすと、やられてばかりでは引っ込みがつかないと刀印を構えた。そろえて伸ばした人差し指と中指は、源子への命令の合図だ。
「極彩色の帰納、白色の来訪……おわっ!?」
だが、詠唱を許してくれるはずもなく、柳青が伸ばした左手から鉄砲水が氷架璃を襲った。とっさに腕を交差させて顔をかばうが、あまりの勢いに押し倒されそうになる。腕や頭に打ち付ける水流は、痛いほどの速度と質量だ。
轟音の向こうでアワの叫び声がした。
「斬り裂け、游断っ!」
同時、腕をつかまれて、激流から乱暴に引きずり出される。水から脱したことで再びその姿が見えた柳青はといえば、攻撃を中断して避けた水の刃を、背後に無造作に見送っていた。
危うく溺れるところだった氷架璃は、飲み込みかけていた口の中の水をぺっぺっと吐き捨てた。
「なんつー強引なエスコートだよ。それでも紳士か」
「口の中のものを吐き捨てる淑女に言われたくないよ」
アワはそう切り返すと、もう一度游断を繰り出した。続けて二つ、水の刃が飛んでいく。
柳青は少し好奇心めいた笑みを浮かべると、左手を振りぬいた。彼が放ったのもまた、二つの水の刃だ。
先鋒の游断は、両者互いにしのぎを削って散った。だが、続く勝負は柳青に軍配が上がり、アワの游断を弾き飛ばして術者に迫る。
「っ」
ブンと飛んできた刃を、アワは体を斜めにひねって避ける。あと数センチ誤れば大出血を見ることになった恐怖に、鳥肌が彼の全身を駆け巡ったのが、そばの氷架璃でさえわかった。
アワはすぐに敵に向き直ると、今度は「轟け、洪瀧!」と手を突き出した。さっき柳青が放ったものと同じジェット噴射のような放水。これに対しても、柳青は同じ術で迎え撃った。
中央でぶつかり合った両者は互角……と思いきや、アワが劣勢を強いられていた。単純に押されているというより、アワの洪瀧を突き破るようにして相手の洪瀧がにじりよってきている。
「く……っ」
アワが伸ばした右手に左手を添えた。その顔に焦りがにじむ。
横から光術を差し挟んでやろうと、氷架璃は刀印を構えた。が、柳青の視線がすかさずそれを捉えたので、動きを止める。今アワと拮抗している水の柱を少し横に振るだけで、氷架璃はさっきのように押し倒されかけるだろう。氷架璃は結界術を使えないうえ、光では迫りくる水に勝てない。
そうしているうちに、限界を悟ったアワが叫んだ。
「氷架璃、伏せて!」
突き刺すように鋭い指示に、考えるより先に従った氷架璃。直後、攻撃を収めて同じように体を伏せたアワの頭上を、そして氷架璃の頭のすぐ近くを、大龍のごとき水流が駆け抜けていった。
咆哮のような水音が去っていく。それ以上の追撃はなく、アワと氷架璃がゆっくりと立ち上がると、柳青は満悦そうな微笑を浮かべていた。
「わかったでしょ。こういう意味でも、ボクのほうが本物であるべきなんだ」
水術の強さのことを言っているのだろう。それを証明するために、あえて同じ術で迎え撃ったのだ。
氷架璃は当然生じうる不平をアワにぶつける。
「おい、あいつ何であんなに強いんだよ、あんたの鏡像なら、あんたとは互角のはずじゃないのか」
「簡単な話だよ」
長息に疲労を乗せて、アワ。
「あいつはチエアリの造形物。チエアリはすなわち源子。源子との相性は、その造形物の方が、ボク達なんかより断然いいってことだよ」
悔しげなアワの言葉は、相手にとっては立派な賛辞だ。笑みを浮かべたくもなるだろう。
氷架璃は困惑した。思った以上に強敵だ。
同じ攻撃をぶつけてもアワより柳青のほうが強い。光術で対抗しても水術には勝てない。
さっそく難航する初共闘は、どう切り替えていくべきか――。
「……まあ、こういう時のために修行したんだけどさ」
隣で嘆息交じりのつぶやきが聞こえて、氷架璃は振り返った。アワも氷架璃を見つめると、早口でささやいた。
「氷架璃。十五秒だけかせいでくれるかい。十五秒たったら、ボクの後ろに回るんだ」
「……勝算あんのか」
「この術は水術相手なら負けない」
氷架璃はまじまじとアワを見つめた。
彼は大言壮語を口にする人物ではない。自らの力を過信もしないし、悠長に構える性格でもない。
その彼が――「負けない」と言った。
本音を言えば、疑念が全くないわけではない。希兵隊の執行部員が言うならまだしも、戦闘は彼の本職ではない。
だが、ああ言われたからには無碍にできない。
源子の扱いは素人である人間であることも、水術に敵わない光術使いであることも織り込み済みで、それでも「十五秒かせいでくれ」と――氷架璃を信じてそう言ったのだ。
ここで信じ返さなければ、バディ失格だ。
「カッコつけてみせな、アワ」
「うん、見ててね、氷架璃」
十五秒のカウントダウン。
その合図はいらない。ただ融け合うように二人の間で同時に秒読みが開始され、その瞬間に氷架璃は駆け出す。
「憎く鳴く西、五夜の足、三束の波に三並の錘!」
柳青の目が氷架璃を追う。その手から、いくつもの水の砲弾が飛んできた。警戒アラートを発した体が足を止めようとするが、理性で押さえ込んで走り続ける。止まったら撃たれることは必至だ。
「写し代の大明と化し天動に頷け! 差せ、光砲!」
走りながら、同じく光の砲弾で反撃する。
柳青は連続して発射される光砲を次から次へと避けていくが、これでいい。攻撃は最大の防御、避けている間はさすがの柳青も水術を放っては来ない。それに、もとより氷架璃の役目は時間稼ぎだ。
後方では、アワが刀印を結び詠唱を唱えている。彼に流れ弾が当たらないよう立ち位置を調節しながら、ひたすらに光術を撃ち続ける。
あと五秒……四……三……二……一……。
「っ!」
体力を使い果たす勢いで攻め続けていた氷架璃は、一気に踵を返した。あっちへこっちへと走り続けている間に五メートルほどの距離が空いたアワのほうへと駆ける。詠唱を唱え終わったのか、刀印は構えたまま唇を引き結んで待つアワと、視線が強く結ばれる。
ざば、と水音がした。振り返ると、氷架璃の背後を大波が追ってきていた。まるで地面を這う手のひらのように、あるいは鎌首をもたげながら寄ってくるコブラのように、幅三メートルに及ぶ波が押し寄せる。高さは氷架璃の身長の倍ほどだ。
握った手のひらに冷や汗を感じながら、氷架璃は必死に足を動かした。
視線の先で、アワが左手を伸ばす。氷架璃も同じように左手を伸ばしながら、飛び込むような勢いでその手をつかむと、アワは力強くその手を引いた。
そして自分の背後へ氷架璃を回らせると、刀印を解いた右手を思いきり左に振りぬき――。
「境界死線を破り騒げ――反攻灘波!」
言霊を叫ぶと同時に、左から右へ、まるで手の届く範囲全ての空を切るように、すばやく腕を薙ぎ払った。
まるでその動きで地面が裂けたかのように――直下から水が吹き出す。
柳青が氷架璃を追わせたものと同じような、地上の波涛だ。それがアワと氷架璃を背に、柳青へ向かって――正確には氷架璃を追ってきていた荒波へ向かって進みだす。
アワの後ろに回った時点で彼の手を離していた氷架璃は、両手で服のすそをぎゅっと握った。
数分前の光景が思い起こされる。アワの游断に対する柳青の游断、アワの洪瀧に対する柳青の洪瀧。いずれも、鏡像が放ったものに軍配が上がったのだ。
そして今、柳青の大波に対してアワの大波が向かっていく。ならば、雌雄はすでに決している。
真っ向から攻め合う激浪が、直後、激突して――。
「……!」
激突した――という表現さえ正しいか定かでない。アワの波涛が、柳青の放ったそれを飲み込んだ。
勢いを緩めることなく、それどころか飲み込んだぶんの水かさで高さを増しながら、ごうごうと柳青へと向かっていく。
――反攻灘波は、同じく大波を起こす術・碧ノ渡罪とは似て非なる。すなわち、向かってくる水と接した時、どんなに相手の水流の勢いが強かろうと、相殺されることも押し負けることもなく、必ずその水を味方に引き込んで進み続ける。ゆえに、いかほどに相手の水術が強力であろうと、あるいはそれが自然の脅威であろうと、反攻灘波の前には無力となり果てる。
氷架璃はその説明をのちに聞かされるところとなるのだが、とにかく今は、耳に残響する術名を反芻しながら、呆然と相棒の背中を見つめていた。
反攻灘波。外来語の名を冠する術。推測されるに、炎術・回天業火や鋼術・粉塵爆発に並ぶ最強レベルの水術だ。
それを使用したのは、希兵隊の戦闘員でも学院の猫力学者でもない。
氷架璃にとって最も近しい、人間と親しくすることを生業とする穏やかな少年だ。
春先に修行すると言って行動を別にしたアワ。あの時、氷架璃はその肩に力の入った様子を笑い飛ばしていた。
けれど、これが結実した成果だ。
他でもなく、氷架璃たち人間を守るための研鑽の具現だ。
ザアアアアッ――。
波は柳青へと向かって突き進んでいく。もう、彼が何を放とうと止められない。彼が水使いである以上、止めるすべはない。
波の向こうで柳青がどんな顔をしているかは見えない。焦っているのか、絶望しているのか、はたまた落ち着いているのか。
だが、波の裾から彼の姿が出てこない以上は、避ける余裕もなく波にのまれようとしているのだろう。
正統後継者の誇りから生まれた、この勇ましく強い大波が――
――直後、崩れ落ちた。
「……!?」
氷架璃は目を疑った。猛進していた大波は、積み木の造形を横から突いたかのように形を失ったのだ。
術者本人であるアワも、呆然として言葉もなく立ちすくんでいた。対照的に、瓦解した波の向こうで、柳青は足元だけを濡らしながら、腰に片手を置いて悠然と笑みを浮かべていた。
「なんで……何が起こったんだよ……!?」
「簡単な話だ。ボクが反攻灘波を使わなかった理由もそこにある」
アワの代わりに答えた柳青は、優越感に浸るように唇の端を吊り上げた。
「未完成なんだ。君の、そしてボクの反攻灘波は。君は気づかなかったようだね」
「く……っ」
アワは歯噛みして、次なる手に打って出ようとした。
が、腕を伸ばす直前、ふらりと揺れて地面に膝をついた。
「アワ!?」
「反攻灘波は大量の源子を従える。体力をごっそり持っていかれるんだよ。だから不発に終わるとわかっていたボクは、そんな脱力状態に陥らないよう使用を控えたんだ」
さすが、本性が源子であるチエアリの造物。自身の手に負える源子の扱い方かどうかは、事前に熟知していた。
アワも、この術の使用に踏み切ったのは、一度ならず成功経験があったからに他ならないのだが、まだ不安定だったということだ。
「……っ」
激しい疲労感に、汗を流しながらうなだれるアワ。
幸い、氷架璃を襲おうとしていた大波は防ぐことができたが、この困憊具合では同じ芸当をもう一度というわけにはいかない。
「さあ、どうする? 消えてボクにその席を譲ってくれるかな? それとも……彼を守れる? パートナー」
アワに、そして氷架璃に視線を向けて、柳青は挑発的に笑う。その笑みに触発されたように、氷架璃が前に出た。
「氷架璃っ……」
「望むところだ、私が相手してやる」
「ダメだ……君一人で敵う相手じゃない……」
「あんたがへたってる今、私一人しかいないだろ」
柳青の本命の標的はアワだ。アワを倒してリュウショウアワの椅子を自分のものにすることだ。
であれば、氷架璃が抵抗しなければ、柳青がどう行動するかは火を見るよりも明らか。
「へえ、そっか」
氷架璃の選択を見届けて、柳青は――掲げた手に、渦巻く水を生み出した。
「見せてみなよ、偽氷架璃」
水の渦はどんどん大きくなる。抱えるほどの、人一人入るほどの、そして三人は飲み込むほどの巨大な渦潮に成長する。
その間に、氷架璃は刀印を構えて詠唱を唱え上げる。射出に備えて右手を突き出すのと、柳青の特大級の渦波が放たれるのは同時だった。
「差せ、光砲!」
迫りくる、すり鉢状の水の渦。そこへまばゆい光の砲弾が撃ち込まれる。二度、三度――しかし、渦波の勢いは衰えない。
「ちッ……!」
氷架璃は諦めずに光砲を撃ち続ける。暖簾に腕押しに見えても、いつかそのどてっぱらに穴を空けてやると意気込んで。
だが、それよりも相手の接近が早い。アワを後ろに控えている以上、氷架璃だけ回避するわけにはいかない。このまま、渦波を撃ち砕くほかないのだ。
光の弾をぱしゃぱしゃと飲み込みながら迫る渦波。もう目の前にまで来ているそれは、高さにして五メートルはあり、一番広いところで幅も三メートルあるだろう。そして、飲み込まれればその中でもみくちゃにされるハメになる――。
「氷架璃……!」
「アワ、逃げ……!」
引きずってでも、と踵を返してアワに駆け寄りかけたところで。
背中に、荒れ狂う炎が吹き抜けたかのような熱感を感じた。
「……!?」
振り返るも、その時には視界を白い蒸気に包まれていた。
そして、目と鼻の先に迫っていたはずの渦波が、襲ってこない。
まるで、本当に炎が水を蒸発させてしまったかのようだ。
いったい誰が。
真っ白くけぶる、辺りに広がっていく蒸気の中で、氷架璃は一つの人影を見た。
「おうおうおう、何やってんだ、こんなとこで!」
よく知る声だった。こんな様になった登場の仕方は全くもって似合わない人物の声だ。
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