フィライン・エデン Ⅰ

夜市彼乃

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1.フィライン・エデン編

5始まった非日常 後編

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***

 五時間目、六時間目、そしてホームルームと、氷架璃は考えていた。
 彼女がフィライン・エデンとのかかわりを拒んでいた当初の理由は、怪しいから、かつめんどくさいから。
 この一週間を過ごしてきて、前者は杞憂かもしれない、と感じてきていた。
 となれば、残る理由はめんどくさいから、これ一つ。
 この単純な無精さで、人生をささげるほどの本気を一蹴していいのだろうか。
 確かに、クロやダークという、忌避すべき要素はある。しかし、パートナー関係を結んでいない今でも襲われているのだから、結ばない理由にはならない。
(だったら、私は……)
「氷架璃」
 突然、そばで声がして、氷架璃は座ったまま飛び上がりそうになった。
 くだんのアワが、すぐ隣に立っていた。
(いつの間に、ホームルーム終わってたんだ……)
 もう教室に担任の姿はなく、生徒たちもばらばらと解散しつつある。氷架璃の胸中も知らず、アワは暢気な声で言った。
「雷奈たちがね、帰りにたい焼き食べに行かないかって。屋台が出てるらしくてね」
「そう、私は別に構わないけど……。そういえば、あんた、たい焼き好きなの?」
「うん、好きだよ。あれ? 何で知ってるの?」
「……日曜日に買いに行ってたから、そうかと」
 家族の分も買いに行っていたようだが、なんとなく、アワの好物なのかと思ったのだ。
 すると、彼は満面の笑みを浮かべた。
「すごい、よく覚えてくれてるね! 氷架璃って意外と洞察力あるんだ……あ、意外とって言っちゃった」
「ああ、言っちゃったな!? 聞いちゃったぞ!?」
 氷架璃がこぶしを振り上げるとともに、アワが「痛ぁっ!」と叫んだ。
「……まだ殴ってないじゃん」
 あきれ顔の氷架璃は、腕を押さえて声を詰まらせるアワを見て……見つめて、そして気づいた。
「アワ、あんた……?」
「ご、ごめん、ちょっと冷やしてくる……」
 右腕をかばいながら、彼は急ぎ足で教室を出て行った。氷架璃の中に、いやな予感がよぎる。手早く荷物をまとめると、廊下に飛び出した。そこに、氷架璃の準備を待つ雷奈と芽華実の姿があった。
「あ、氷架璃。準備できたっちゃか?」
「なんか、アワがすごい勢いで飛び出してきたけど……。今、フーが様子を見に……」
 その直後だった。
 廊下の洗面所のほうから、悲鳴が上がった。周りの生徒も、びくりと肩を震わせて、声のしたほうを振り返る。振り返るだけで、そちらへ行こうとはしない。悲鳴は短く、何かに驚いただけのようなものだったので、皆たいしたことないと判断したのだろう。
 しかし、雷奈たちはすぐさま走り出した。その声は、まぎれもなくフーのもので。そしてフーが追った先には、ただならぬ様子のアワがいるはずで――。
「アワ、フー……、……っ!?」
 そこへ駆けつけた雷奈たちは、立ちすくむアワとフーを見て――一瞬、アワの肘から先にあるものが何か、わからなかった。
 それは、腕の形をしていた。さもありなん、それはアワの腕なのだから。
 しかし、それは人の肌の色をしていなかった。毒々しい紫色のあざが、袖をめくってあらわになった右腕を覆いつくしていた。
「な……なんだよ、これ!?」
 混乱した氷架璃が、怒鳴りながらアワへ歩み寄る。アワは茫然と自分の腕を見ながら、こぼした。
「……どうりで痛かったはずだ。しかもこの二時間で急に変色が広がった。……毒だ」
「毒……!?」
 言葉を失う氷架璃。雷奈がハッと息をのんだ。
「まさか、あのダーク……傷口に毒ば仕込んだっちゃか!?」
「そうだろう。草術の中には毒を操るものがある。それにやられたかな」
「それって……命にかかわったりは……?」
「ともすれば、ね」
 芽華実が声にならない悲声を上げた。
「それ、朝言ってた猫術で治らないわけ!?」
「毒抜きはできないよ。進行を遅らせることはできても」
「じゃあ、病院! あ、救急車か!?」
「焦りすぎだよ、氷架璃。ボクが人間じゃないのを忘れたの?」
「なら、どうしろっていうんだよ!?」
 自分の身が危ないというのに冷静なアワに、いら立ちを隠せない氷架璃は声を荒らげる。そこへ、フーが震える声をしぼりだした。
「フィ、フィライン・エデンの病院なら何とかなるわ。私が先にワープフープまで迎えを手配するから……!」
「フィライン・エデンに行けばいいんだな? わかった。アワ、行けるか!?」
「まだ歩けるよ。……途中で痛みのあまり気が狂わないといいんだけど」
 そう言う彼の頬には、すでに汗が伝っていた。変色した腕はだらんと垂れ、もう力も入らないことがわかる。
「そうと決まれば、急ぐったい。鞄は私が持つけん……」
 言って、階下へ降りる階段を振り返った雷奈は、そこで初めて、周りにギャラリーができていることに気づいた。皆アワの腕を指さし、ざわついている。
「大丈夫か、あれ……」
「すごい色になってるけど……」
「さっき毒とか言ってなかった?」
「ど、どうしよう、フー」
 うろたえる芽華実に、フーは「まかせて」と一言。震える体を叱咤し、右手を突き出すと、ぱちんと指を鳴らした。その途端、ギャラリーの生徒たちの目の前で、ポンと小さく煙が上がり、彼らはたちまちその場に崩れ落ちた。
「記憶を消したわ。起きるころには、アワの腕のことは忘れているはずよ。さあ、早く行きましょう!」
 フーの声に急かされ、一同は足早に階段を下りた。
 向かうは、ワープフープ。その先の、異世界へ。

***

 道中、痛みの中自分の足で歩くアワを見かねて、雷奈は主体に戻ることを提案した。しかし、体が小さくなれば、毒が回るのが早くなるという理由で、人間姿「双体」のままワープフープを目指した。
 やっとのことで青い輪をくぐり、人間界からフィライン・エデンへと転移した、直後。
 それまで自力で歩いていたアワが、膝をついた。
「い……たい……っ、痛い痛い……!」
「アワ!」
 骨を溶かされるような激痛が、アワの右腕を襲う。痛みのあまり、変色した部分に触れることもできず、少し離れた上腕を握りしめた。
 もっと静かに蝕んでいくものだと思っていた雷奈たちは、想像以上の悶えようを見て、恐怖と焦りを募らせた。あの落書きのような化け物の攻撃がかすっただけ。それだけのはずなのに、ことは重大になりつつある。
(まさか……こんな)
 氷架璃は茫然と、今朝のことを思い出していた。軽口を叩きあう、いつも通りのアワとの朝。ダークの出現によって一変した事態。その直前にあったのは、この状況に陥る原因となったのは――。
(私を、かばったから……)
 氷架璃の頬を、冷たい汗が流れる。
 と、その時。
「おい、こっちだ! 早く!」
 斜め後方から、白衣の男性が駆けてきた。そのあとを、男性と女性一人ずつが追ってくる。先頭の男性は、フーに早口で話しかけた。
「さっき連絡をくださった風中さんですね? お待たせしました、流清さんを先に病院へお連れします」
「は、はいっ」
 フーは雷奈たちを振り返り、「病院の人だよ!」と告げた。その間に、三人は手早く布担架を展開すると、あっという間にアワを包んだ。そして、
「っ、消えた!?」
弾趾だんしよ。猫術の一つ。私も使えるけど、あなたたちを置いていくわけにはいかないわ。ついてきて!」
 言って、フーは走り出した。瞬速とは高速移動のようなものなのだろうと解釈した雷奈たちは、自分たちが足を動かすことしかできないもどかしさを感じながら、フーの後を追った。
 二十分強ほど走っただろうか。雷奈たちは、いつか見た大きめの建物の一つと見られる場所に着いた。窓の数から、三階建てと見えるが、横幅の広い造りになっている。皇学園の中等部校舎より一回り小さいくらいか。フーによると、この地域はちょうどフィライン・エデンの首都のような場所で、その中央病院だという。
「それでこの規模ってことは、フィライン・エデンって人口少なかね。まあ、町並み見とってもわかるけど」
「確かにそうね。……そんなことより、ほら、戻ってきたわ」
 受付から帰ってきたフーは、アワが二階の検査室にいることを三人に伝えた。雷奈たちが走っている間に、検査が一通り行われていたのだ。
 受付と薬局、そして相談窓口のような場所を設けている一階を後にして、上の階へ上がると、とたんに病院特有のにおいが鼻をついた。いくつか並ぶ扉の上のプラカードに書かれているのは、処置室1、処置室2、薬品室、検査室1、そして検査室2――ちょうどその扉を開けて、中から半身を乗り出す一人の女性がいた。
「風中さん、人間さん、こっちデスー!」
「アイさん!」
 フーがアイと呼んだ彼女は、淡い桃色のセミロングヘアに糸目の、一見おっとりした若い女性だった。しかし、身にまとう白衣の着こなしや、ポケットから四色ペンやらライトやらがのぞいているさまが、彼女がれっきとした医者であることを物語っている。
「今結果が出て、お伝えしようとしていたところデスー。どうぞ一緒に聞いてくだサイー」
 間延びした甲高い声だが、表情は真剣そのものだ。雷奈たちが検査室に入ると、可動式のベッドに寝かされたアワと目が合った。
「アワ、大丈夫っちゃか?」
「一時は失神するかと思ったけど、今は麻酔のおかげでなんとかね。でも……よくないんでしょ、アイさん」
 疲れ切った表情のアワは、ため息まじりにアイに話しかけた。アイは笑ったような糸目のまま、しかし難しい表情をした。
「ダークの毒デスが、悪い組み合わせの二種類が混ざっていマスー。はっきり言って、解毒できないんデスー」
「どういうこと!?」
 氷架璃が声を上ずらせる。アイは冷静に答えた。
「まず、二種類をいっぺんに解毒する薬はありまセンー。それぞれに効くものならあるのデスが、やっかいなのは、一方の毒に対する解毒剤を使うと、もう一方の毒が助長されてしまうことデスー。前者と後者を入れ替えても同じで、はっきり言って、ここにある薬では手の施しようがないのデスー」
「なん……だよ、それ」
 フィライン・エデンに来れば助かると言ったフー。気休めではなく、フー自身も、そう信じていた。それが、あっさりと裏切られた。
 泣き出しそうなフーと、その隣で震える芽華実を背に、氷架璃はアイにつかみかかった。
「じゃあ、どうすんだよ!? 死ぬかもしれないんだろ!? 何とかしろよ、医者!」
「何とかするには」
 アイの声が、きんと冷えたものになる。それは、命を預かる者が、残酷な事実を口にするときの声。
「――侵食された腕を切断して、毒が回るのを防ぐ。これだけデスー」
 白衣をつかむ氷架璃の手から力が抜けた。
 フーと芽華実が声を失った。
 アワが目を見開き、雷奈は自分が呼吸を忘れていることに気づいた。
「切断……って」
「厳密には、投薬のタイミングや猫術を工夫して命を救うことはできマスー。しかし、投薬の結果毒の進行が早まって、命の危険や後遺症につながるのを防ぐためには、腕を切らなければならないのデスー」
 淡々と告げるアイは、決して冷徹なのではない。一刻を争うがゆえに、要点だけを述べているのだ。
 当人のアワは、想像だにしていなかった通達に、茫然としていた。腕を失うという事実が、事実として受け入れられない。なのに、
「処置には、流清さんの同意が必要デスー」
 決断の時は、もう目前にあった。すごい速さで近づいてきたというより、瞬き一つの間に目の前に立ちはだかっていた。そんな感覚だった。
(アワの腕が……なくなる。たぶん、猫の姿に……主体に戻っても、腕はなくなったままだ)
 自分の腕が切られるのを想像して、氷架璃はぞっとした。今までの彼の仕草を思い返せば、アワも右利きだったはずだ。その損失は大きい。
 けれど。
(そうでもしないと、命ごとなくなる。だったら……)
「もういいよ」
 静かな検査室に、ざらついた声が落ちた。
「アワ……?」
「アイさん、腕は切らなくていい。もう麻酔もしなくていい。このまま……、このまま……」
「何、言ってんの!?」
 氷架璃はベッドのふちに手をついてアワに怒鳴った。彼の表情は、諦念がにじみながらも、穏やかだ。
「そりゃわかるよ、ショックだよ! でもそれで助かるんだよ! 腕一本失ったって、それで生きていけるなら……!」
「生きるの? パートナーを得られなかった正統後継者のボクが?」
 二の句が継げなかった。言葉を詰まらせた氷架璃に、アワはゆっくりと静かに告げる。
「選ばれし人間がいながらもパートナーを得られなかった正統後継者はね、一家の恥なんだよ。ボクは人生をかけて君に臨んだ。そしてあっけなくフラれた。それだけで、ボクの価値はもうないんだ。この先どこへ行っても蔑まれ、指をさされる。そんなことになってまで、生きたくないなぁ、ボク。……そんなことになるくらいならさ、せめて……パートナーになるはずだった人をかばっての、名誉の死で終わらせたいよ」
 氷架璃は、じわじわと心が腐食され、崩れ落ちていくのを感じた。命を簡単にあきらめたアワが解せなかった。その原因を作った自分が許せなかった。でも、それ以上に、
(なんで……そんな穏やかな顔で言えるんだよ……!)
 誇りを、名誉を、あまつさえ自分自身を失う原因となった少女に、淡い微笑みさえ浮かべて彼は言う。恨みも憎しみもなく、そこにあるのはあくまでも氷架璃を尊重する心。その理不尽な一途さが、気に食わなかった。
 リンから聞いた、神託があってから一年間のアワ。
 フーが口にした、正統後継者のこれまで。
 遅まきに失して、それらを心の底から本当のことだったのだと信じた。そして、もしやり直せるなら、どうするべきなのかも。
(……違う。やり直せればとか、そういうのじゃなくて、今からでも、私は……!)
 歯噛みして、決意する。氷架璃が口を開きかけた時、一瞬早く、沈黙を破る者がいた。
「ユウ……そうだ、ユウ!」
 今まで黙っていた雷奈が、徐々に声量を上げて言葉を発した。アイに歩み寄り、興奮した様子で言う。
「アイ、ユウって子が、この辺にいるお姉さんが医者だって言ってたばい! ユウのお姉さんなら、もしかしてほかの薬を持ってたり、方法を知ってたり……!」
 氷架璃と芽華実がいなかったときに交わされた会話を思い出して、雷奈はまくしたてた。新たな希望に、氷架璃と芽華実の表情が晴れる。
 が、その喜びはほんの束の間だった。
「それは無理よ、雷奈」
「フー……?」
 苦しげに口にしたフーの言葉の意味が分からず、呆ける雷奈。
「ユウなら、私たちの友達よ。よく知ってるわ。……でも、その子のお姉さんは」
「雷奈さん」
 アイが自分の白衣の胸元を指した。そこにつけられた名札を見て、雷奈は希望が崩れ落ちる音を聞いた。
「……知念……アイ……」
「ユウは私の妹デスー。その医者とは、十中八九、私のことデスー」
「……そんな」
 今更ながら、雷奈は、今までアワとフーがアイのことを名前で呼んでいたのを思い出した。友人の姉だったからこその、親しげな呼称だったのだ。
 雷奈は震えながらうつむいた。万策尽きた。もう八方塞がりだ。そう思う一方で、何かが引っ掛かっている。
(待って……待って、もっと考えて。ユウは何と言ってた? お姉さんが医者? ううん、その前、確か……)
 電流が走るように、雷奈の脳裏によみがえった声。
 ――私の家族や親戚は、医療従事者が多いの。
「流清さん、だめデスー。このままでは本当に命にかかわりマスー」
「ごめん、アイさん。それでも、ボクは……」
「待って、アイ」
 雷奈が二度、話しかけた。その目には、確固たる自信が映っていた。
「アイ。医療従事者……?」
 アイが目を見開いた――ように見えた。糸目は変わらない。それでも、ハッとした表情になった。
「一番近い医療関係の親戚に電話して」
「応援を呼ぶのデスか? でも、親戚は眼科だったり研究関係だったり、専門外デスー。一人、従兄に薬師がいマスが、今はどこにいるのやら……」
「情報をもらうだけでも違うったい。早く!」
 鬼気迫る雷奈の勢いに、アイはすぐさま室内の電話を取った。コールの間、芽華実がそっとフーに問いかける。
「フー、ユウって子とアイの従兄にあたるひと、誰か知ってる?」
「ええ、寡黙だけど優秀な薬師よ。でも、少し前に、弟子を探しに旅に出かけたって聞いたわ」
「だからどこにおるか分からんとね……」
 雷奈がつぶやいた時、電話がつながり、アイが話し出した。
「サイ! 緊急デスー。実は……」
 状況を話すアイ。相槌が雷奈たちにも聞こえてくるあたり、スピーカーフォンにしているようだ。気の抜けたような「うん、うん」という低い声に、雷奈たちは不安を感じ始める。
「……ということなんデスー。何か手立ては……」
『それはねー、今病院にある薬では無理かな』
 スピーカー越しの彼は、気の抜けた声のまま、残酷にもそう告げた。
「……無理、って……」
『お、聞き覚えのない声だね。人間かな?』
「……そうだよ。水晶氷架璃ってんだ」
 氷架璃がアイのほうへ歩み寄り、電話機をひったくった。
「そんなに簡単に言うなよ! あんたプロだろ!? 助けろよ!」
『君が言うかい? 流清君のパートナーにならなかった人間』
 氷架璃が押し黙る。声はさらに迫った。
『知ってるんだよ、ボクは情報通だからね。確かに、突然わけのわからない世界からの使者に、パートナーになれって言われたら困惑するだろうね。断るのも一つの手かもしれない。でも、そのくせに彼を助けろと言ってボクを頼ろうとしている。フィライン・エデンと交わりたいのか、それとも違うのか、どっちなんだい。仮に流清君が助かったとして、永らえた彼をどうせまたフるんだろう?』
「……」
『そんな君がどうしてそこまで必死になる? エゴの可能性が考えられるね』
「……命助けんのがそんなにおかしいか、薬師ッ!」
 部屋中に響く声で、氷架璃が激高した。
 日常、彼女は短気だ。よく声を荒らげる。しかし、それとはまったく色の違う怒号が、人も猫も関係なくその耳朶を震わせた。
「ああ、断ったよ! 関わりたくないって言ったよ! だからなんだ、見捨てる理由になるか! 関係ないことごちゃまぜにしてんじゃねえよ! あんたならどうなんだ! 自分に関係ない他人だったら見殺しにすんのか! え? 薬師さんよ!」
 電話の向こう、サイと呼ばれた男は黙っている。その猶予が幸いだった。氷架璃の胸中、決意が固まっていることを確認するのに、十分な時間だったから。
「……それにな。あんたはもう一つ間違ってる! もしやり直せるなら! 私にチャンスがあるなら! 私はっ……!」
『もういいよ』
 サイは変わらず平坦な声で言った。
「……なんて?」
『もういいって言ったんだ、水晶氷架璃。全部わかったから。君の熱意も、決意も、そして――』
 電話が切れる。ブツリと音を残して、静寂が支配した検査室。そのドアが、開いて。
「――この場所もね」
 長身の青年だった。服は質素で、春らしさなどみじんもない。黒い髪は無造作に首の後ろでまとめられている。昏い、死んだ目をしているのに、野暮ったさはなく、世慣れた大人の空気をまとっていた。そんな彼の後ろから、二匹の猫がついてきている。
「サイ……!」
「お待たせ、アイ。二階だろうとは思ったけど、水晶君が大きな声で叫んでくれるから、どの部屋かまでもわかってしまったよ」
「どうしてここに……?」
「ちょうど弟子探しが終わって、帰ってくるところだったんだ。運がよかったね。ボク単体じゃなくて、一通りの薬草も、そして二人の有能な弟子もいるよ」
 サイはアワの寝台の前に来ると、斜めがけにしていた鞄を下ろした。
「な、何するの?」
「その声、君が水晶君だね。もちろん、薬の調合さ」
「さっきは無理って……」
ね。ボクだって開発後、一定量生産しない限りは病院に売れないよ。これから調合するのは、今度病院にも売る予定だった、新作の漢方だよ」
「漢方……」
「サイは漢方が専門なんデスー。とはいえ、西洋薬の造詣も深いデスー」
 サイは鞄の中から、さらに鞄を出した――と思いきや、鞄に見えたそれは、三つに折った布製の薬草ホルダーだった。それぞれのポケットに薬草の名前が書かれている。
「西洋薬では歯が立たないよ、アイの言う通り。従来の漢方でも綱渡りだね。でも、ボクがこの前調合に成功した漢方なら、副作用も後遺症も心配ないよ」
 サイは薬草ホルダーを広げ終え、薬研と乳鉢も取り出すと、アワを見下ろして、
「色々大変だったと思うけど、流清君。ボクも君には死んでほしくないからね。悪いけど助けるよ」
「……うん」
「目が覚めたら全部終わってるだろうから、麻酔が効いているうちに寝てしまうことだね」
 それだけ言うと、主体のまま付き従う二匹の猫に目線を向けた。一匹は白い体の折れ耳の猫。それも、ウサギのように少し耳が長い。もう一匹は薄茶色の、普通の三角耳をした猫。鼻で止まるタイプの眼鏡をかけている。
「ミンリ、ケイ。初仕事は大仕事。流清家が正統後継者の命を救うことだ。わかってると思うけど、失敗は許されないよ」
「はい、師匠!」
「よろしい。では、まず……」

***

 刺すようなまぶしさに、アワは目を開いた。窓から入る日は、オレンジ色に輝いている。
 瞬きを数回して、自分があおむけに寝ていることを把握。ぼんやりと記憶の糸を手繰り寄せ、これまでの経緯を思い出した。恐る恐る右手を掲げ、見慣れた普通の腕が視界に入ると、小さく息を吐く。
「……ああ、ボク助かったんだ」
「悪かったね、意向に沿えなくてさ」
 声は右から聞こえた。ベッド脇に、氷架璃が腰かけている。
「……氷架璃」
「よ、アワ」
「……何食べてんの」
「見りゃわかるでしょ。たい焼きだよ、たい焼き」
 言って、手にしたそれをぱくんと頬張った。口の端から魚の尾がのぞく。
「ふぁいふぁふぁふふぁふぁ」
「食べてからしゃべりなよ……」
「ごくん。雷奈たちなら、先に帰ったよ。早めの晩御飯食べたらまた来るつもりだってさ」
「君は……?」
「これが晩御飯」
 抱えた紙袋の中には、まだいくつか詰まっている。アワは苦笑した。
「親御さん心配するよ」
「親は同居してないっつの。じじいとおばあちゃんと、時々、家政婦」
「そうだったね……言ってたね」
 夢のようだった。氷架璃が、またフィライン・エデンに来ている。
(思えば、こうやって普通に話をして、時々フィライン・エデンに遊びに来てくれれば、それでよかったんだ。……ボクってば、いきなりパートナーなんて言い出したから、断られちゃったんだろうな)
 十歳で学院を卒業してからの四年間を追憶する。パートナー締結を断られるなど、つゆほども考えに上らなかった。何の疑いもなく、仲良くなれると思っていた。
(これからどうしようかな。ボク……どうしたらいいのかな)
 暗闇に足を踏み出すような心地だった。襲い来る不安を振り払おうと、無理に笑って氷架璃に話しかける。
「そういえば、ボクの分のたい焼きはないの?」
「あるよ」
「え、ホント!?」
「ただし」
 紙袋入りのたい焼きを突き出した氷架璃は、ジト目でアワをにらむと、
「もしこれ食べるんなら、二度と私にパートナーの話をしないこと。もうここにも来てやんない」
「え……」
「でも、まあ、今朝のことは感謝してるから、どっちか選ばせてあげる」
 アワの目が見開かれる。氷架璃は視線をそらして、唇を尖らせた。
「……どうすんの? いるの、いらないの?」
 しばらくの間、アワは頭が真っ白になった。一面の白の中に、やがてぽつりと一つの感情が現れる。それは自身の存在を確かめるように広がっていき、アワの頭を埋め尽くした。温かいその感情の名前が「幸せ」であると気づいた途端、視界がにじみそうになって、ぎゅっと目をつぶる。ごまかすように思い切り破顔して、アワは手を伸ばした。氷架璃の、たい焼きの袋をつかんだ左手には目もくれず、
「ありがとう。よろしくね、氷架璃」
「……仕方ないなあ。よろしくね、アワ」
 氷架璃の右手が握り返すその感触に、彼はずっと求めていた誇りと安堵を覚えた。
 そんな光景を、扉からそっとのぞいていた、夕食から帰ってきた三人
 雷奈と芽華実、フーは、互いに顔を見合わせて笑みをこぼす。扉を大きく開けて、中に入ると、
「おめでとう、アワ!」
「え、フーたち!?」
「よかったね、パートナー結成できて!」
「なんか、パートナーって響き、恥ずかしいな……」
「じゃあ、氷架璃は何がいいの?」
「うーん……バディ、とか」
「じゃあ、よろしくね、バディ!」
「私も改めてフーにあいさつしなくっちゃ。よろしくね。フー」
「こちらこそよろしくね、私のパートナー、芽華実」
 それから、面会時間が過ぎるまで、彼女らの笑い声が絶えることはなかった。

 ――何の変哲もない普通の世界だったのだ。
 まさか異世界と、そしてその住人と関わる突飛な生活が始まるなど、夢にも思うまい。
 春休みの向こう、非日常が始まった。
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