フィライン・エデン Ⅰ

夜市彼乃

文字の大きさ
23 / 54
2.覚醒編

10舞台には歌と晴れ着と白璧の微瑕を 後編

しおりを挟む
***

 次の日の放課後、三年B組に衝撃が走った。
「ふ、吹ける……吹けるぞー!」
「もう覚えちゃった!」
「しかも、なんていいメロディ!」
 雷奈たちが持ち帰った楽譜をもとに、音楽室でリコーダーを吹いてみたクラスメイトたちが、次々に感動の声を上げる。
「耳からメロディが離れない!」
「もっと、もっと吹きたい……!」
「涙が止まらないー!」
「麻薬かよ。ここまでくると、もはや怖いな、麗楽が」
 むしろ冷静になった氷架璃の言葉に、雷奈と芽華実も戦慄しながらうなずいた。氷架璃のリコーダーはもちろん、雷奈の歌も最後まで通せるようになっており、芽華実も、楽譜を見ながらであればすべて弾けるようになっていた。
 クラスメイトたちも、たった二時間ですぐに吹けるようになったどころか、そのメロディは誰の賛同をも得、感動させ、虜にさせた。これこそが、麗楽の才能のようだ。
「で、雷奈。服のほうは?」
「決めて、今朝メール返したばい。どれもすっごくかわいかった! 今度受け取りに行ってくるばい」
「楽しみね。それを着て歌う雷奈の姿も」
 雷奈はにっこり笑うと、姿勢を正し、肩を開いて張った胸に右手を当てて息を吸い込んだ。喉の形を最適に調節して、息の量にも気を使いながら、麗楽の歌のサビを歌い上げる。その途端、クラスメイト達の笛の音がぱたりとやんだ。皆、その歌声に聞き入る。
 大空のようにのびやかで、広がりのあるソプラノ。やや幼さの残る甘い声だが、耳にすっきりと残る響き。声量も申し分なく、高音も安心して聞いていられる、安定した声音だった。
 歌い終わった雷奈を、大喝采が包む。
「すっげー、プロみたい!」
「やっぱいいな、雷ちゃんの歌! 今度カラオケ誘ってみよ!」
「はいはい、練習に戻る! みんなのリコーダーがそろうようになったら、歌とも合わせるんだから!」
 氷架璃がパンパンと手をたたく。そこに、残りの練習期間への不安など全くなかった。リコーダーの完成も、そう遠い先の話ではなさそうだったからだ。その予感は外れず、週末には全員が完璧に奏でられるようになり、次の週の月曜日には歌やピアノと合わせられるようになった。
 練習は、着々と進んでいく。

***

 発表会まで指折りとなった水曜日。
 昼休み、廊下を歩いていた雷奈は、ふと女子トイレから聞こえてきた声に足を止めた。
 B組の女子の話し声だ。トイレで立ち話をする生徒は少なくないが、雷奈はその内容に気を取られた。
「――河道さんって、やっぱり、とっつきにくいよね、なんか」
 彼女らから見えない位置で立ち止まっていた雷奈は、心臓がドクンと跳ねるのを感じた。
「この前、お弁当一緒に食べようって誘ったのに、断られちゃった」
「いつまでたっても、私たちには敬語だしね」
「すっごくまじめだし、完璧って感じで……なんていうか、あたしたちとは壁がある感じだよね」
 会話はまだ続いていたが、雷奈はそのまま踵を返し、早足で立ち去った。努めて平静のふりをするが、動揺したのは事実だ。
(確かに、ルシルはまだ人間のこと避けてる。ばってん、こんな風に言われたら……もっと怖がってしまう。ここにルシルがいなくてよかったけど……あの子たちが、いつかルシルに面と向かって言ったら……)
 雷奈が立ち聞きしていたことなどつゆ知らず、女子たちはなおも話しながら、のんびりとした足取りでトイレを後にした。彼女らが去った後、唯一閉まっていたトイレの個室のドアが開いた。そこから出てきた人物は、ややうつむき加減で立ちすくむ。
「……」
 彼女は、人目をはばかって確認していたピッチを左手に握りしめると、トイレを出て、校舎からも出て、裏門の近くへと歩いていく。前回同様、先着が人払いをしてくれているので、そこに人間の姿はない。視線を落としたままの彼女のもとに、白い猫が現れた。
「お疲れ様です、ルシルさん」
「……ああ。報告を」
 目を合わせようとしないルシルだったが、メルは何も聞かずに事務連絡を行った。報告の間、ルシルは相槌も打たずに、黙って聞いていた。
「――以上です」
「わかった。ご苦労、メル」
「ルシルさんも苦労されている様子ですね」
 そこで初めて、ルシルはメルに視線を投じた。いつもと違い、そのツリ目には覇気がない。ルシルは大きく嘆息した。
「新しい環境というのは、難しいな」
「どのような困難に面しているのかは存じませんが、私からしたら、あなたのほうが難しいです」
「……私は、難しいか」
 メルはゆっくりとうなずいた。
「あなたは隙がなさすぎるんです。そつがなく、完璧であるようにふるまって見せる。実際は欠点だらけなのに」
「……言ってくれるな」
「本当のことでしょう」
 それには反論せず、ルシルは苦く笑った。
 どの希兵隊員に言わせても、ルシルの評価は高い。謹厳実直で勤勉家。戦闘要員としての実力は十分で、頭も切れる。誰もが、彼女を抜け目ない優秀な人物だとみなしていた。ルシル自身も完璧主義者で、なんでも遺漏なくこなそうとする。人間界で学校に通うことになってもその意識は同じだ。
 仕事場では高く評されるその性分が、同年代の人間には近寄りがたさにしかならないなど、予想もしていなかった。無論、彼女はアワやフーとは違い、人間と交流するために来ているのではないのだから、親交を深める必要はない。それでも、いざ敬遠されていると知ると、胸の奥が濡れたように重くなる。
 黙り込んだルシルを見て、正鵠を射たのだと直感したメルは、しっぽですねをふわりと撫でた。
「隙を見せるな、隙があるように見せろ」
 ルシルの目が、わずかに見開かれる。
「あなたの言葉ですよ、ルシルさん」
「……それは、戦闘技術の話だろう、莫迦者」
 言葉とは裏腹に、彼女は淡く笑っていた。
「でも、そうだな。少し肩に力が入りすぎていたかもしれない。もちろん油断はしないが、もう少し楽にしてもいいのかもな」
 そう言って、膝をつき、メルの頭を一撫でする。
「ありがとう、メル。……そろそろ行くよ」
「お疲れの出ませんよう」
「ああ、お互いな」
 行き道よりも幾分かやわらかい表情で、ルシルは教室へと戻っていった。

***

 やがて迎えた、発表会当日。
 日曜日だが、一度教室に集まって点呼と練習を行うことになっていたので、三年B組の生徒たちは学校にいた。雷奈と氷架璃もしかり。だが、皆が教室で最後の仕上げをしている中、二人はある人物を探して、教室の外を歩いていた。
「どこ行ったとかねー?」
「電話にも出ないし……おっ?」
 前方に人影を認めた。段の入った黒髪に小柄な体。ルシルだ。
「おーい、何こんなところで一人ほっつき歩いてんだ?」
「ああ、氷架璃に雷奈か」
「教室で誰かと音合わせしてろっての。さては一緒に合わせる相手がいないな?」
 その言葉に、ルシルはむっと眉を寄せた。氷架璃は、ルシルが陰でどのように言われているかを知らない。雷奈が慌てて間に入った。
「ひ、氷架璃ってば、そんな意地悪なこと言わんで。ルシルはまだ人間に慣れとらんとよ」
 そう言った後、ルシルのほうへ向き直る。
「あのね、私も転入した当時は、クラスメイトと距離があったばい。変なしゃべり方って言われたこともある。ばってん、しばらくしたら馴染んだばい。やけん、ルシルもすぐに……」
 早口でまくし立てる雷奈に、ルシルはくすりと笑った。予想外の反応に雷奈は目をしばたたかせる。
「ありがとう。でも、心配ない。……私は、クロやダークが人間界に現れなくなったら、この学校からも去る存在だ。ここでの友人を作ったところで、空しいだけだ」
「ばってん……」
「それに」
 ルシルは、初対面の時とは見違えるほどに柔らかい表情で微笑んだ。
「私には、あなたたちがいる。それで十分だ」
 最初は敵意しか向けなかったその瞳は、今、雷奈と氷架璃への親愛をたたえていた。
 雷奈の中に、すとんと落ちるものがあった。無理にクラスに溶け込む必要はない。ルシルが、たった数人でも気を許せる相手を作れたのなら、それでいい。彼女はこんなにも穏やかな表情をしているのだから。
「そっか」
 だから、雷奈も笑った。氷架璃も、仕方ないなというように口の端をつり上げる。
 話がひと段落したところで、「そういえば」と雷奈が切り出した。
「芽華実を見とらん? 教室にいなかと」
「そうそう、芽華実を探して歩いてたら、あんたに会ったのよ」
「なんだって?」
 ルシルの目が細められた。
「それは……私がここにいる理由と関係あるかもしれないな。先程、嫌な気配を感じて教室を出たんだ。おそらく、校内にクロかダークがいる」
 二人の緊張が一気に高まった。
「ク、クロならまだしも、ダークはまずいだろ!」
「その場合はすぐに応援を呼ぶ。それより気がかりなのは、クロにしろ、芽華実の行方不明が絡んでいるかもしれないことだ。正統後継者は何をして……」
「ルシルっ!」
 ちょうどその時、件の正統後継者が駆け込んできた。ひどく狼狽した様子のフーは、泣きそうな顔で裏庭のほうを指さす。
「助けて! 芽華実が……!」
 三人はハッと顔を見合わせた。嫌な予感ほど、的中するものだ。
 全速力で裏庭へ駆けつけて、一同は息をのんだ。花壇の真ん中、耳障りな音を立てながら、雷が檻のような形状をとって明滅を繰り返していた。その中にとらわれているのは、怯え切った芽華実だ。
「な、何だよ、あれ……!」
「あっ、見て!」
 雷奈が檻の向こうを指さす。光の瞬きのせいで見えにくかったが、そばにクロがいる。雷奈たちのほうを見て、ケケケと笑った。
「あのクロ、ものすごくすばしっこくて。かまいたち以外の風術じゃ、とらえられないの。かといって、かまいたちを使ったら周りがどうなるか……」
 そのため、フーは手出しができなかったのだ。
 雷の近くにいるクロ。とすれば、そのクロが雷の檻の元凶であることは間違いない。芽華実を救出するためには、クロを除する他なかった。
 ルシルは素早くあたりを見回した。芽華実が抵抗した跡だろう、花壇の花がいくつか折れているのに痛ましげに目を細め、ふと、離れた場所に大きめのシャベルが放置されているのを認めた。迷わずそちらへと走る。
「ルシル?」
 シャベルを持ち上げ、左手を手前にして両手で握る。何度か、重さを確かめるように揺らした。金属でできたそれは、見るからに重そうで、ルシルの細い腕では扱うことすら難しそうだ。
 だが、それは、ルシルが仮に一般人だった場合の話だ。
「――いける」
 右足を引き、脇構えになったかと思えば、一瞬で地を蹴ってクロに肉薄した。そして、ブオンッと音を立ててシャベルを逆袈裟に薙ぐ。まるでゴルフバットでも振るような軽やかで素早い動きに、皆瞠目した。
 クロは間一髪で初太刀を逃れたようで、挑発する素振りを見せながらちょろちょろと逃げ回った。ルシルは振り切ったシャベルの遠心力を活かして方向転換し、クロへと飛びかかる。下からすくい上げるような一撃が小さな体をとらえ、花壇の外へと吹き飛ばした。
「やったか!?」
「まだだ。今のは花の救済措置にすぎん」
 花を踏まないよう、一回のジャンプで自身も花壇から抜けたルシルは、転がったクロに追撃を仕掛ける。クロはすぐに体勢を立て直し、その手から電気の球を飛ばした。それを、ルシルは手のひらを突き出して弾く。
「今のは……」
結界術シールドよ。でも、あの反応速度は異常だわ」
 すぐさまシャベルを握りなおし、突きを繰り出す。ジャンプしてかわすクロ、しかし最初からそのつもりであったかのように、ルシルは手首を返して巻き上げるようにクロを打ち据えた。宙を舞ったクロにさらなる攻撃を加えようとするルシルに、今度は電流が放たれる。空中から斜め下へと走る電流は、よけても地面に当たるだけで被害を出さないと判断し、彼女は後方へとんぼがえりをうった。そして、着地のバネで弾丸のごとくクロへと迫り、いまだ空中で身動きの取れない体の正中線を狙って、上から思い切りシャベルを振り下ろした。シャベルのさじ部はクロの脳天を直撃し、そのまま黒い霧へと葬ってしまう。
 あまりにも軽く、素早い身のこなしに、氷架璃が呆然とつぶやいた。
「なんか……前と全然戦い方が違くない? 別人じゃん……」
「前回のダーク戦の時のほうがおかしかったのよ。力任せに水術を放つだけの戦法なんて、彼女らしくないわ。何度も道場に見学に行ったことがあるから知っているけど、本来ルシルの強みはあの身軽さ。前の時は体調が万全じゃなかったのね」
「ちゃんと食わないからだよ」
 苦笑いした氷架璃は、クロの消滅と同時に雷の檻から解放された芽華実の手を引いて立たせた。
「あ、ありがとう……助かったぁ……」
「なんだってこんなところにいたんだよ」
「恥ずかしい話、緊張しちゃって。落ち着こうと思って、人のいないところに来たら、こんなことに……。スマホで助けを呼ぼうにも、あの雷のせいか、電波がおかしくなっちゃってたの」
「なーる」
 芽華実は深呼吸して、まだ震えていた手を落ち着けると、
「ありがとう、ルシル。それから、フーも。見つけてくれて助かったよ」
「う、ううん。私、何もできなくて……」
「だってフーが見つけてくれなかったら、私、ずっとあのままで、発表会にも出られなかったところだよ。リコーダーならまだしも、ピアノの私がいなくなったら、すっごく迷惑かけちゃう。だから、ありがとう」
「芽華実ぃ……」
 相当な無力感に苛まれていたらしく、フーが涙ぐむ。そこへ、氷架璃が手をたたいて割って入った。
「はいはい、感動的なシーンはいいんだけど、そろそろ点呼の時間だよ。急げ急げ」
「おっ、もうこんな時間!? 行かなきゃ! ほら、ルシルも!」
「いや、先に行っててくれ」
 ルシルは花壇のほうを見たまま、そう言った。
「え、なして?」
「やることがある」
「……そう。とりあえず、間に合うように来るとよ!」
「ああ」
 バタバタと走っていく足音を背中に受けながら、ルシルは一人、花壇の花を見つめていた。クロが出現しなければ踏み荒らされることのなかった被害者たち。
「――来い、メル」
 よく通る声は、静かながらも、無人の裏庭の端まで響き渡った。風もなく木の葉が揺れたかと思うと、ルシルの足元に、困り顔の白猫が一瞬で現れた。
「はい」
「やはり近くにいたか」
「クロの気配を感じましたので」
「見ての通り、それは私が片した。……そして、これは草猫のお前にしか頼めないことだ。やれるな?」
「お任せください」
 副隊長の頼もしい返事にうなずくと、ルシルは踵を返して教室へと戻った。
 花を気にかけるなんて、心の余裕ができたようで何よりです。
 その言葉へのいらえをよこさなかったのを、風の音のせいにして。

***

「うわあぁぁっ……!」
 クラス全員の口から、悲鳴にも似た感嘆が漏れる。輪の中心にいるのは、晴れ着姿の雷奈だ。
 彼女が身にまとっているのは、黒を基調としたドレス。胸元はスカラップに開いており、肩が出るデザインも相まって着る者を艶やかに見せている。腰まわりには白い飾りひもがついており、左脇腹にタッセルが揺れる。裾はたっぷりとしたフリルで膨らみ、黒とのコントラストで映える白いレースは、闇夜に咲く月下美人のようだ。
「似合うぞー!」
「三日月さん、まさに姫って感じだ!」
「かわいい……かわいいっ……!」
「写メ取らせて!」
「わわっ、押さんで、押さんで!」
「何をやっとるか、何を」
 女子にもみくちゃにされる雷奈を救出し、氷架璃が呆れた声をあげる。
「あんたら、緊張感がないぞ。もう橘園の控室まで来てるっつーのに」
「だってー」
「た、大変だ!」
 そこへ、トイレに立っていたアワが憔悴しきった様子で飛び込んできた。
「どうした、アワ。男子トイレに黒光りするヤツでも現れたか。女子の私には関係ないな」
「冷たいね!? っていうか、違うよ! そうじゃなくて!」
 しきりに外を指さしながら、つんのめりそうな早口でまくしたてる。
「施設の人の話し声が聞こえて、それによるとホールは満員御礼! 八十代から九十代までの老若男女がひしめきあってる!」
「それ老若男女って言うのか?」
「その全員が、今回の歌姫・雷奈の話題で持ちきりらしいんだ!」
「は!? どゆこと!?」
「なんでも、雷奈の住んでいる神社のおばさんが、結構顔が広い人らしくて……。彼女が事前に触れ回ったのか、みんな雷奈を心待ちにしているんだ! 妖精のごとき美貌、天使の歌声、女神のような笑顔って、どんどん神格化されてる!」
「あのおばさん、有名人だったのか……」
「ホールは雷奈コールで大騒ぎだよ! みんな、手をたたいて、雷奈、雷奈って……」
「怖っ!? ってかここの高齢者たちミーハーだな!? 大丈夫か、雷……」
 目に見えて、雷奈が震えていた。そこまで期待されるとは思っておらず、「あわわわ」とあがりまくっていた。
「だ、大丈夫? 雷奈……」
「めめめ芽華実ぃ……緊張するばいぃ……」
「いつも通りを心がけて。ここで少し口ずさんでみたら?」
「う、うん……あっ」
「どうしたの?」
「出だしのメロディ飛んだ……」
 全員が、一瞬耳を疑い、そして騒然とした。
「み、三日月さんん!」
「しっかり、雷ちゃん!」
「ってか、俺も緊張してきた……!」
「そんなこと言うなよ、俺まで……!」
 いつも平然としている雷奈の緊張ぶりに、ほかのクラスメイトたちまで調子を崩し始めた。先ほどまでの余裕は、風船をつけて空に放ったように、どこかへ飛んでいったようだ。
「やばい、手が震える……」
「ちゃんと吹けるかな……!?」
「ご、ごめん、みんな、私がメロディ飛んだとか言ったせいで……」
「雷奈は悪くない! アワ、責任取れ!」
「ボク!?」
「お、落ち着け、雷奈!」
 唯一、まだ冷静さを保っていたルシルが、雷奈の腕をつかむ。
「お前が尋常なら、皆平静を取り戻す! いいか、出だしのメロディは……」
 ――否、彼女もまた、緊張していたのかもしれない。
 己の得手不得手も忘れて紡ぎだしたその歌声は、完全無欠と敬遠された河道ルシルの、まさしく玉に瑕。
 ハッと我に返った時には遅く、控室は呆然自失の静寂に包まれていた。数秒おいて、笑い声が巻き起こる。氷架璃が腹を抱えてルシルを指さした。
「ル、ルシル、あんた、めちゃくちゃ音痴……!」
「もう、河道さんかわいいー!」
「なんか、安心した! 河道さんも苦手なことってあるんだね!」
「……っ」
 弁解の余地もなく、声にならないうめきをあげるルシル。色白の肌は、顔の紅潮を隠してくれない。
「なんだよ、ルシル。あんたもそういうとこあるんだー」
「う、うるさいっ!」
 肩に腕を回してきた氷架璃に小さな拳で抗議する。
 そこへ、ガチャリと扉が開いた。
「皇学園の皆様、そろそろ……、どうされましたか?」
 呼びに来た施設の職員が、爆笑する生徒たちを見てあっけにとられる。
「なんでもありません!」
「そ、そうですか? では、お時間ですので、こちらへ……」
「はいっ!」
 まだ笑いをこらえている様子の彼らからは、心身を縛る緊張が抜けて流れていっていた。かわりに、これまでの練習の成果が身も心も満たしていく。
「よし、みんな! 行くぞ!」
「おぉーっ!」
 鬨の声をあげ、舞台へと進みだす3年B組の少年少女たち。前を向き、笑みを浮かべ、自信と高揚感を胸に足を踏み出し――。
 そして、幕が上がる。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

恋と首輪

山猫
恋愛
日本屈指の名門・城聖高校には、生徒たちが逆らえない“首輪制度”が存在する。 絶対的支配者・東雲財閥の御曹司、東雲 蓮の「選んだ者」は、卒業まで彼の命令に従わなければならない――。 地味で目立たぬ存在だった月宮みゆは、なぜかその“首輪”に選ばれてしまう。 冷酷非情と思っていた蓮の、誰にも見せない孤独と優しさに触れた時、みゆの心は静かに揺れはじめる。 「おめでとう、今日から君は俺の所有物だ。」 イケメン財閥御曹司 東雲 蓮 × 「私はあなたが嫌いです。」 訳あり平凡女子 月宮 みゆ 愛とか恋なんて馬鹿らしい。 愚かな感情だ。 訳ありのふたりが、偽りだらけの学園で紡ぐカーストラブ。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

さようならの定型文~身勝手なあなたへ

宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」 ――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。 額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。 涙すら出なかった。 なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。 ……よりによって、元・男の人生を。 夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。 「さようなら」 だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。 慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。 別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。 だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい? 「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」 はい、あります。盛りだくさんで。 元・男、今・女。 “白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。 -----『白い結婚の行方』シリーズ ----- 『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

処理中です...