フィライン・エデン Ⅰ

夜市彼乃

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2.覚醒編

10舞台には歌と晴れ着と白璧の微瑕を 前編

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 徹夜から数日たったおかげで、その朝、氷架璃は気持ちよく起きることができた。
 カーテンの隙間から入る朝日、ちゅんちゅんと耳に届く雀の声。伸びをしようと息を吸い込みながら、ふとベッドの脇を見て……。
 ――部屋の中にたたずむ、顔が長い前髪で覆われた人影に、吸った息の用途を間違えた。
「ぎゃああああああー!」
 腰を抜かして叫び倒す。その声が聞こえたのか、階下で祖父母の声がした。
「どうしたんだい、氷架璃。ゴキブリかえ?」
「いや、ばあさん、違うじゃろ。きっと痴漢じゃ」
「大丈夫、おばあちゃん、ゴキブリじゃないよ! そんで痴漢だと思うなら助けに来いや、くそジジイ! 痴漢でもないけど!」
 氷架璃の声が聞こえたのかどうかは定かではないが、それ以上の追及はなかった。
 一方、黒髪で顔が隠れている相手方も、氷架璃の絶叫に驚いて、身をすくませていた。
「な、何をする! びっくりしたではないか!」
「こっちのセリフだよ! 朝っぱらから人の部屋で何やってんだ、どっから入ってきた! あと、前髪はきちんと分けとけ!」
 声で素性がわかると、氷架璃は説教モードになって叱責した。相手は言うとおりに前髪をかき分けたが、中途半端な長さの一束は顔にかかったままだ。それはいつも通りだというように意に介さず、彼女は瑠璃色の瞳を氷架璃に向けた。
 彼女――河道ルシルは、髪を整え終えると、不遜に腕を組んだ。
「まず、ここで何をしているかという質問だが、我々二番隊が此度の人間界駐在任務を請け負ったのでな。ここが私の寝床となったため、下見に来ていたんだ。どこから入ってきたかといえば、窓が開いていたので、そこから。前髪が乱れていたのは、ストレッチのため前屈運動をしていたためで……」
「ちょっと待て! 今、前髪なんてどうでもいいくらい聞き捨てならないこと言ったな!? っていうか……なんだよ、!」
 氷架璃はルシルに、ビシッと指を突き付けた。指摘を受けたルシルは、フッと不敵に笑うと、プリーツスカートのすそをつまみあげて見せた。彼女が身にまとっていたのは、六月に入って夏服になった、皇学園の制服だ。
「手配したもらったのさ。日中はお前たちと同様、学校に行くからな」
「わけがわからん、ちゃんと説明しろ! あと、そのドヤ顔やめろ! しかも似合ってんのがムカつく!」
 ルシルは、ふむ、と考えを巡らせると、
「では、早く支度をしろ。どうせあとの二人にも話さなければならないのなら、今説明しても二度手間だ」

***

「えーと、つまり」
 いつも登校する際に待ち合わせている、雷奈が住む神社にて。
「クロやダークが人間界に出没する現状に鑑みて、ルシルたち二番隊が人間界に派遣されて」
「うむ」
「ルシル以外の隊員はあたりのパトロールして、夜は帰るばってん」
「ああ」
「ルシルは私たち周辺の警護のため学校へ同伴。加えて、万一のことがあっても部下の到着までしのげるように、夜は氷架璃の家にお泊り……っちゃか」
「その通りだ」
「なるほど。お勤めごくろうさまったい」
「待てェ!」
 雷奈の肩をつかんで止め、氷架璃は当然の反論を唱えた。
「なんで私の家!? どっちかっていうと、雷奈の神社のほうが広いじゃん! 宿坊としてあるくらいだし!」
「私に言われても困る。すべては最高司令官が決めたことだ」
「最高……なんて?」
「希兵隊総司令部最高司令官。各部に指令を出す総司令部で最高権限をもつ者……つまり、希兵隊のトップからのお達しと言っているんだ」
 達観したようにふうっと息を吐くと、ルシルは主体姿のアワとフーに向き直った。ちなみに、主体で登校する際は、持ち物は純猫術で源子レベルに分解しており、必要とあらば再構成している。雷奈たちは「そういうもん」という程度に理解していた。
「承知済みとは思うが、私は正統後継者のお前たちとは違い、記憶を改竄することができない。転校生としての手続きをきちんと踏んで潜入するから、そのあたりの認識をよろしく頼むぞ」
「そうだね、わかった。こちらこそよろしく」
「学校へはもう通してあるのよね?」
「ああ、それも手配済みだ。さて、では案内してくれるか?」
 歩き出したアワとフーについて、ルシルが足を踏み出したのを見て、氷架璃が二度待ったをかけた。
「事情は分かった、うちに泊まるのもしぶしぶ認める。けどな、これだけは注意しろ!」
「なんだ」
「あんた、その目どうすんの。日本人じゃありえない色してるじゃない!」
「ハーフとでも言っておこうか」
「ハーフ!? 英語ペラペラの必要があるじゃん!」
「何を言っている。日本生まれや日本育ちのハーフだっているだろう。親が日本語で育てているとすれば、英語が話せる必要はない」
「……あ、そっか」
 鎮火した氷架璃を見て、ルシルは「それに」と口の端をつり上げると、
「It's so-called needless anxiety, Hikari(それは取り越し苦労というものだよ、氷架璃)」
「……は? え、ちょっ……えええ!?」
 氷架璃の動揺しきった声を背中に受けながら、再び歩きだしたルシルは、久々に笑みらしい笑みを浮かべた。

***

 カツカツ、とチョークが黒板をたたく間、生徒たちは落ち着かない様子で互いに顔を見合わせていた。三年B組の担任である女性新米教師、黒田教諭は、チョークを置くと、生徒たちに向かって口を開いた。
「今日からこのクラスの新しい一員になる、河道さんです。お家の事情で中途半端な時期になってしまいましたが、皆さん、仲良くしてくださいね」
 黒板に書かれた自身の氏名の前で、ルシルが一礼すると、拍手とともに様々な感想が飛び交った。
「すっごい美人!」
「目、きれー! ハーフかな?」
「おい、お前のタイプじゃねーの?」
 全員の視線を集めながら、ルシルは端の空いた席に移動し、着席した。それを振り返って見ていた氷架璃は、「あいつお辞儀とかするんだ」と妙なところに感心。
 朝のホームルームは、このセンセーショナルな出来事で生徒たちを沸かせ、幕を閉じる――と、誰もが思っていた。
 ところが、黒田教諭は急にそわそわし始め、「それと、実はですね……」と言いにくそうに切り出した。
「皆さんに急ぎ伝えなければならないことがあります。光丘と隣町との境に、橘園という老人ホームがあって、毎年地元の中学校が、そこで歌を歌ったり、楽器を演奏したりして、高齢者の方々を元気づけているのですが……。七月七日に本番が迫っているにもかかわらず、その学校が季節外れのインフルエンザで学校閉鎖になってしまい、提携校の皇に話が回ってきて……」
 えっ、と嫌な予感を感じて一同は静まり返る。黒田教諭はその空気に押しつぶされないよう気を張りながら、努めて笑顔を浮かべて、
「……どの学級が代わりを務めるかを決めるくじで、三年B組に決まりました……」
 一瞬静まり返る教室。次の瞬間、黒田教諭に向かってつるべ矢が放たれた。
「えええ、何それ、強制参加!?」
「私たちの意見ガン無視!?」
「しかも七月七日って、二週間後じゃん! 練習間に合わない!」
「期末の勉強はどうなるの!?」
 当然の抗議に、黒田教諭は返す言葉もなくたじろぐ。
「先生、断れないんですか!?」
「もう決まっちゃったことで……」
「えーっ!」
 ブーイングは続き、もはや新米教師の手には負えない状態だ。事態の収拾は困難かと思われた――その時。
「……やりたいかも」
 ぽつりと落ちた声が、水滴が波紋を広げるように教室に響き、生徒たちを静まり返らせた。
「だって私、歌とか好きやし、中学校って音楽会とかなかけん、楽しそうって……」
 声の主、三日月雷奈の顔は無邪気だ。代理の責任感もなければ、時間がないことへの焦りもない。言葉の通り、ただやりたいから、やりたいと主張しただけ。そんな彼女に、クラスのメンバーは。
「どうする、三日月さんがああ言ってるぜ……」
「オレも賛成しようかな……」
「雷ちゃんってすっごく歌うまいんだよ!」
「ほんと!? 聞きたいー!」
「やってもいいかもね?」
 男子も女子も、急に態度を軟化させ始めた。
 新人である黒田教諭は、まだ生徒同士の関係性を見抜く目が養われていないため、知る由もないが、雷奈は男子からは憧れの的として、女子からはマスコット的存在として、たいそう人気なのだ。そんな雷奈が「いい」と言えば、鶴の一声、一気に意向は傾く。
 見えぬ力はいざ知らず、黒田教諭はこれ幸いと胸をなでおろし、
「ありがとう、みんな。では、詳しいことは今日のホームルームで決めるとして、一時間目の授業を……」
 そう言って教科書を手にするも、生徒たちの勢いは止まらない。
「ねえ、歌と演奏、どっちにする?」
「曲はどうするの?」
「皆さん、一時限目を……」
「スケジュールを決めよう!」
「雷奈が歌うのは決定だよね!」
「あのぉ……」
「確か芽華実ちゃん、ピアノ弾けたよね!」
「えっ、向こうにピアノとかあんの!?」
「だあぁーっ!」
 雑然と意見が飛び交うのに耐えかねて、氷架璃が机をバンと叩いて立ち上がった。学級委員長魂が燃え、担任を押しのけて教壇の前に立つ。
「進行役は学級委員長、水晶氷架璃が務めるっ! 私の指名を受けてから発言すること! いいか!?」
「はーい!」
「よし、じゃあまずは歌か合奏かを決めるぞ!」
「異議なーし!」
 一致団結したクラスの勢いによって、教室の隅に追いやられた黒田教諭は、「あの、授業……」と気弱な声を出したが、それは誰の耳に届くこともなかった。

***

 ここまでで決まったことといえば、歌は雷奈一人で歌い、芽華実がピアノ、氷架璃が指揮者を務め、あとは全員リコーダーでメロディをつけるということ。そして雷奈には、歌姫にふさわしい服を着てもらうということ。
「ピアノ付きの小さなホールがあるってすごいよな。芽華実の熟練の技が光るってもんよ。で、楽器はみんな使い慣れてるリコーダーで問題なし。雷奈の衣装はどっかでレンタルしような」
「いいんちょー!」
「なんだ」
「三日月さんの衣装は、巫女さんの服がいいと思いまーす。レンタルする必要ないし、かわいいし……でへへ」
「あははー、なるほどなー。巫女を何だと思ってんだ、却下!」
 野暮な男子を一蹴し、氷架璃は次の案件に腕を組んだ。
「曲をどうするかだよな。音楽の授業でやったやつとか?」
「えー、それはちゃっちいー」
「だよなー。リコーダーとピアノの楽譜があって、歌詞もあって、しかも二週間で完成できそうなもの……」
「……あ」
 声を漏らしたのは、ルシルだった。クラスの全員に振り向かれ、やや身構える。
「どうした、ルシル?」
「ああ、いや……曲なら私に心当たりがあると……」
「あ、そう? じゃあ後で聞かせてもらおうかな」
 軽い調子で言葉を交わす氷架璃とルシル。その光景は、ほかのクラスメイトには奇妙なものに映った。
「ねえ、ひかちゃん。河道さんといつの間に仲良くなったの?」
「ってか、さっき自己紹介したばっかだよね。今、ルシルって名前で……」
「げ」
 思わぬところでドジを踏んだ氷架璃を、すかさず雷奈がフォローする。
「じ、実は登校中に会ったと! 道に迷っとったけん、一緒に学校来て、その途中で仲良く……」
「なーんだ、そうなんだ」
 場を収めた雷奈に、氷架璃は目で感謝の意を伝える。それに気づいた雷奈は握りこぶしを見せて舌を出す。ソフトクリーム一本でよかよ、のジェスチャーに、氷架璃はやれやれと苦笑した。
「じゃあ、曲は後で吟味しよう。スケジュールだが……あーもうめんどくさい、こっちで決めるぞ! 最初の三日でメロディをつかむ、一週間で吹けるようにする、もう五日でみんなで合わせて本番までブラッシュアップだ! 文句あるやつはいるか!」
「文句ありませーん」
「部活があるヤツは遅れて行け! さもなくば家で倍練習しろ! なお、場所については黒田先生が音楽室を死ぬ気で取ってくれる!」
「了解でーす」
「それじゃ、決定! みんな、本番まで頑張るぞー!」
「おおおーっ!」
「ちょうどチャイムが鳴ったので、これで終わりまーす!」
 大歓声でしめられた一時間目。盛り上がりを見せる生徒たちの頭からは、「じゅ、授業……」と嘆く担任のことなどすっかり抜けていた。

***

「河道さん!」
 氷架璃が解散宣言をした後、すぐにルシルはクラスメイトの女子に囲まれた。雷奈も小学四年生の時に経験した、転入生の洗礼だ。
「大丈夫かね、あの人間嫌い」
「私たちで慣れてくれたと思うんだけど……」
「ちょっと様子ば見守るったい」
 雷奈たちの視線にも気づかず、さっそくクラスメイト達は質問を始める。
「河道さん、目、すっごいきれいな色してるよね! ハーフ?」
「ええ、そうなんです」
 ルシルはにこりともせずに答えた。嫌な表情こそしないものの、すました印象を与える顔つきだ。それでも、彼女を取り巻く女子たちは続ける。
「どこから来たの?」
「イギリスの、小さな田舎町から来ました。地名は、言ってもおそらく分からないかと。ですが、片親が日本人なので、言葉は大丈夫です」
「ええっ、海外から!」
「英語も話せる!?」
「何かしゃべってみて!」
「えっと……では……」
 ルシルの目が、一瞬雷奈たちのほうへ向けられた。三人が「何だろう」と思っている間に、ルシルは視線を戻し。
「Although it's our boss's command, isn't it cruel…?」
 早口の英語に、ギャラリーは沸き立つ。文の意味は分からずとも、英語を流暢に話したというだけで、彼女らは大満足だ。
「っつーか、あっちにも英語とかあんの? なんであいつペラペラなんだよ」
「今の、なんて言ったのかしら。早口で聞こえなかったわ」
「何でもそつない感じでちょっとムカつくな……お? 雷奈?」
 とことこと離れていく雷奈に、氷架璃が声をかけた。
「混ざりたいのか?」
「いや、助けてあげんと。……おーい、ルシル。トイレの場所、案内しちゃるよ~」
 割って入った雷奈を止める者も、いぶかしむ者もおらず、ルシルが引き抜かれた時点で人垣は解散した。
 氷架璃と芽華実は教室から出た雷奈とルシルを追って、「助ける」の意味を問うた。雷奈は端的に答える。
「英語」
「は?」
「さっき英語で、上司の命令とはいえ酷だ、みたいなこと言ったけん。もしかして、人間に囲まれて怖かったかなーと」
「聞き取ってくれて助かった。ありがとう、雷奈」
 ほんのわずかにほほ笑むルシルの表情は、まだぎこちない。
「雷奈、そういえば英語が得意だったわね」
「っていうか、ルシルはまだ怖いのかよ」
「慣れないだけだ」
 視線をそらすルシルに、氷架璃は心底不思議そうに問う。
「あんた、いざとなったら水術使えばいいんじゃないの?」
「水術でどうしろと?」
「こう、怖い人間がいたら、一発ドカーンと」
「そいつが溺死したらどうする。私をクロにしたいのか。そんなことより、曲のほうはいいのか? あまり私に偉そうなことを言うと、さっきの提案はなかったことにするぞ」
「あんた以上に偉そうな口調のヤツは今ここに存在しないぞ!?」
「……」
 冷たい視線を飛ばすルシル。余計に機嫌を損ねたか、と氷架璃はやや心配になった。その胸中を知ってか知らずか、ルシルはふんと鼻を鳴らすと、唐突に問うた。
「希兵隊がフィライン・エデンの中で公務員なのは知っているな?」
「え、何、藪から棒に」
「戸惑っている暇があれば『はい』か『イエス』か『ウィ』で答えろ」
「あ、もうその知識フラグは回収してる前提なんだ? じゃあ、ウィ」
「Bien(よろしい).公務員はほかにもある。その一つが、学院だ」
「学院って、学校のことっちゃか?」
「そうだ。学校として通っている生徒の間は、公務員でも何でもない。ただし、フィライン・エデンの学院とは、教育・研究機関を指す。つまり、義務教育の普通科とその後の応用科を卒業後もなお、研究のために残っている者、および教員は公務員だ」
 いったい何の話だろう、と頭にハテナが浮かびまくる三人に、「まあ最後まで聞け」と言ってから、ルシルは続けた。
「応用科の研究科はいくつもあるが、その中に音響学研究科というところがあってな。言語学や音楽学などをひっくるめた研究科なのだが、確かそこの卒業生かつ研究者に、透里とうり麗楽うららという者がいたはずだ。彼女を推薦する」
「透里、麗楽……」
「彼女を薦める理由は、音響学の研究者で私が知っている人物が彼女しかいないというのもあるが、研究テーマが大きい。彼女の研究テーマは、『覚えやすく、演奏しやすく、歌いやすい』曲の制作なんだ」
「すごい、ぴったりじゃない!」
「本来の研究テーマはヒーリング音楽で、要は音楽や歌の力で病気やけがを癒すというものなのだが、誰でも簡便にそれを用いるためには、やはり記憶、演奏、歌唱のどれも安易に行えるほうがよいということで、先ほどの三拍子が副テーマになっているわけだ。彼女に頼めば、曲の一つくらい紹介してもらえるかもしれないな」
 そこでチャイムが鳴ったので、四人は教室に戻った。続きは二限の後、と思いきや、提出物や返却物、教室の移動などで思うように時間が取れず、そのまま昼休みに入る運びとなった。

***

 学園の裏門付近は、昼休み中とは思えないほどの静寂に包まれていた。
 人間たちの喧騒から放たれたルシルは、それまでずっと体に力が入っていたことに気づいた。剣を振るうときでさえ、うまく力を抜けるのに、である。長年苦手としてきた人間に囲まれて半日、緊張しっぱなしだったのだ。
 一人ため息をつくと、ルシルは、裏門から外にせり出ている木の葉に向かって声をかけた。
「人払いご苦労。私だ」
 すると、風もないのに葉が揺れた。そして、その陰から、一匹の白猫が飛び降り、しなやかに着地する。青い首輪をつけた猫は、いつもの困ったような、気弱そうな目つきでルシルを見上げた。
「お疲れ様です、ルシルさん」
「お前もな、メル。報告を頼む」
「はい」
 猫術で人が払われているおかげで、報告は誰に見つかることもなく行われた。消え入りそうな高い少女の声と、アルト声の短い相槌が、そこだけ学園から切り取られたような空間で交互に交わされる。
「なるほど、ダークの出現範囲はそのようなのだな。わかった、ありがとう」
「副隊長として当然の務めです。……ところで、ルシルさん」
「ん?」
「先日、人間界で倒れられたとか」
「あ……ああ、そんなこともあっ……いだっ!?」
 飛び上がったメルに、しっぽで顔を正面からはたかれ、ルシルは悲鳴を上げた。
「道に迷ったなんて嘘をついて。嘘つきはクロの始まりですよ」
「相変わらず暴力に訴えかける悪い癖……わっ!」
 再び振るわれたしっぽの鞭を、ルシルは間一髪でよける。気弱そうな目のまま、顔色一つ変えずに隊長をビンタしようとする副隊長。それはルシルが「わかった、すまなかった!」と降参するまで続いた。
「わたしのほうが、一つとはいえ年上なんですから、容赦はしません。相手が上司であっても」
「まあ……それくらいの気概のほうがいいかもしれないな。では、引き続き頼む。また口頭で伝えることがあったら、その旨ピッチに入れてくれ」
「了解しました」
 メルは一礼すると、軽やかな動きで門を越え、去っていった。再び一人になったルシルは、ポケットから一台の端末を取り出した。ピッチのほかに所持している、私用のスマホだ。スリープを起こしてみても、通知はなさそうだ。
「忙しいのかな、あいつ……」
 ルシルの小さなつぶやきは、人払いが切れて聞こえてきた生徒の笑い声にかき消された。

***

「透里麗楽? 知ってるよ。今、学院で研究者してる子でしょ?」
「うん。その子が、三時半に噴水公園とやらに来てくれるらしいから、案内してくれる? 曲もらうから」
「え!? 急だね!? っていうかどうやってアポとったの!?」
 放課後、学校から出て周りに生徒がいなくなったのを見計らって始まった会話。仰天するアワに、氷架璃は涼しい顔で「ルシルがとってくれた」と答えた。
「なんか、六時間目の間に返信が来たらしくて。快諾だってさ」
「へえ、ルシルって学院に顔効くん……あ、そっかー……。で、そのルシルは?」
「仕事関係や緊急時以外でフィライン・エデンに帰っちゃいけないんだってさ。もうパトロールに行ったよ。律儀なことに、昼休みもいないと思ったら、部下と会ってたっていうし、あのワーカホリックめ。とりあえず、そういうだからアワとフー、よろしく」
「うん、いいよ」
「わかったわ」
 こちらも快諾。とんとん拍子で事が進んでいく様子に、雷奈は「著作権とか仲介料とか言ってる人間って小さいのかな」と口の中でつぶやいた。
 噴水公園は、フィライン・エデンに入ってから三十分ほど進んだところにあった。歩き疲れた雷奈たちを迎えたのは、中央に噴水が位置する大きな池と、その周りで輝く芝と木々の新緑だ。
 間欠泉から吹き上げるようなシンプルな噴水は、池の真ん中の小高くなった台座の上で休むことなく、白い柱を立て続ける。近づくにつれて、吹き出す水流がたてる力強い音と、池の水面に落ちるしずくが生み出す軽やかな響きが、奥行きのある二重奏を奏でているのが聞こえてきた。風が吹けばそこに加わる新たなさざめきに視線を巡らせると、木立の豊かな青葉若葉がそよぎ、揺れている。公園といっても、人間界にある遊具の立ち並ぶ児童遊園というより、自然豊かな憩いの広場というニュアンスのものだった。
「すげー……きれいだ」
「私たちの家の近くには、こんな公園ってないものね」
 氷架璃も芽華実も、きょろきょろと見まわして、その美しい景観を堪能した。一見して、どこまで行っても代わり映えのない風景が広がっているが、その素朴ささえも尊く、毎日の散歩コースにしても飽きない魅力があった。
 実際に散歩を楽しんでいる何人かの姿が見える。その中にぽつりと、人待ち顔で座る猫の姿が。
「あっ、彼女だよ」
 アワが駆け寄り、声をかける。アワとフーに挨拶の言葉を返した猫は、雷奈たちのほうを見ると、二本足で立ちあがって四十五度の礼をした。
「初めまして、透里麗楽と申します。お話はうかがっていますよ。選ばれし人間の方々のお手伝いをさせてもらえるなんて、光栄です」
 柔和な笑顔を浮かべる彼女は、白に近い体の色をしていた。純白ではない。しかし、白に何色が混ざっているのかわからない曖昧な毛並み。一言でいえばわずかに灰がかっているのだが、灰色というには、日に照らされた箇所の透明感が美しかった。おとなしめのミントグリーンの瞳も澄んでいる。しかし、名前負けしない麗しい容姿すらも意識の外に追い出されてしまうほど蠱惑的なのが、その声だ。まるでナレーターか朗読家のような、調和的な清み声は、いつまででも聞いていられるほど耳に心地よい。
(さすが、音響学研究科の研究者。たぶん、自身も歌うとね。地の声質もそうやけど……喉のケアば欠かしとらんに違いなか)
 小さいころ、歌の練習に励んでいたことのある雷奈は、そう推測した。そこへ、氷架璃が進み出る。
「いやあ、急にごめんね。私は水晶氷架璃。こっちは美楓芽華実で、三日月雷奈。……にしても、めちゃくちゃきれいな声してんね」
「よろしくお願いします、みなさん。声は私にとって、大切な仕事のパートナー。そう言っていただけるととても嬉しいです。……さて、お三方は、覚えやすくて、リコーダーとピアノで演奏しやすくて、歌いやすい、そんな曲を探しているとお聞きしました。ちょうど、この間完成させたばかりの曲があるので、さっそくですが、こちらをどうぞ」
 麗楽は中空に手をかざすと、源子化していたらしい楽譜を再構成した。雷奈たちは、アワとフーが主体で登下校するときに鞄に対して同じことを行うのを見ているが、やはり幻想的な光景である。水に溶ける角砂糖を逆再生しているように、楽譜が徐々に形作られていく。それが完成すると、麗楽は手にした三枚を雷奈たちに配った。
「ありがとう。……えーと、どうやって読むんだ、これ。オタマジャクシ泳いでるのはわかるけど、なんで分数書いてあるんだ? 約分していいやつ? あ、オタマジャクシの頭のへんに黒い点ついてるけど、インク飛んだのか?」
「……私も読み方わからんけど、そこまでの暴言は吐かんよ?」
 ピアノの経験のない二人が辟易する横で、芽華実が一通り目を通し、頭の中で音色を再現する。そして、驚いたように目を見開いた。
「すごい。こんなに無理のない指運びなのに、物語性と起伏のあるメロディが奏でられるなんて。難しい技術もいらないわ」
「それはよかったです。では、今度はリコーダーと歌の分の楽譜を。もともと、歌詞を歌う声とハミングにピアノを加えて完成させる曲なので、ハミング部分をリコーダーにあてました。どうぞ」
 また楽譜か、と雷奈と氷架璃は諦めモードだったが、二枚目の楽譜は先ほどとは比べ物にならないほどシンプルなものだった。音楽の授業のおかげで、多少は読み取れる二人は、時間をかけながらも最後までなぞり――。
「これか、芽華実の感動は! なんだこれ、簡単そうなのにイイ! 中毒性がありながら王道をいく、万人受けしそうなメロディだな!」
「歌詞がすっと頭に入ってくるばい……。しかも音程の幅が小さくて歌いやすそう、なのに豊かな表現力……あっ、オク上でも歌えるかも!」
 きゃっきゃっとはしゃぎ、すぐにでも練習したい衝動にかられた。アワとフーは、別段驚かない。麗楽がこの手の才能に長けた優秀な研究者であることを、重々承知だからだ。
「この曲、使ってよかと!?」
「はい。フィライン・エデンでは、研究成果として発表する関係で、公にはできませんが、人間界で使う分には、どうぞご自由に。アワさんとフーさん、ルシルさんが知る程度でしたら、構いませんし」
「ありがとう! そういえば、麗楽はルシルと友達と?」
「いえ……お恥ずかしながら、お会いしたことはなくて」
「え!?」
 じゃあどうやってアポを取ったんだ、という必然的な疑問をぶつけようとした、その時。
「あれ、麗楽じゃん」
 雷奈たちの背後から、抑揚のない声がした。麗楽がぱっと顔を輝かせる。
「シルクちゃん! 奇遇ですね!」
 シルクと呼ばれたのは、半袖のポロシャツを着た少女だ。その名の通り、絹のようになめらかな、白練しろねりの長い髪。無感動な瞳は深碧で、一見ぼーっとしているようにも見えるが、そのくせ抜け目ない雰囲気をまとっている。彼女は、振り返ったほかのメンバーの顔も眺めた。
「お? フーもいるじゃん、久しぶり。で、こっちは人間の三人?」
「ええ、久しぶりね。こっちは雷奈と氷架璃、芽華実よ」
「おー、よろしくー。私は湯ノ巻ゆのまきシルク。学院の社会学研究科で研究やってる、アワより有能な草猫だよ」
「待てい!」
 案の定、相対的にさげすまれた本人がかみつく。
「相変わらずだね、シルク!? ボクだけ挨拶がないと思ったら、だね!?」
「うまいこと言ったつもりなのがアレだよね」
「アレって何!?」
 突然始まった口論――といっても、シルクの挑発にアワが乗っているだけだが――に、一同はぽかんとする。麗楽を除いて。
「シルクちゃん、喧嘩はそのあたりにして、どうかお礼を言わせてください!」
 笑みを崩さずそう言った麗楽は、瞬く間に双体になった。猫の姿の時と同じ淡い色の髪は、ゆるやかにウェーブがかっている。光の加減でわずかに緑色に見えるところ、灰色がかっているのではなく、シルバーグリーンのようだ。真っ白なワンピースを身にまとった彼女は、さながら西洋人形のような容姿だった。
 彼女はワンピースの裾をつまんで優雅に広げると、シルクとは大違いの感情豊かな声で言った。
「シルクちゃんに仕立ててもらったこの服、サイズ感もちょうどよくって、とっても気に入りました。すばらしいです、ありがとうございます!」
「ん、お礼なんていいよ。私のせいで、前の服、汚しちゃったんだし。気に入ってくれてなにより」
「……えええ!?」
 たまげたのは雷奈たち三人だ。麗楽が来ているワンピースは、どう見ても素人が作れるものではない、凝ったものだ。三人はサササッと麗楽の周りに集まり、随所を指さしながらシルクを質問攻めにした。
「この袖のひらっとした感じも手作りか!?」
「うん」
「このフロントのリボンも自作なの!?」
「そうだよ」
「このスカラップの襟元もお手製っちゃか!?」
「まあね」
「この腰のシャーリングも自分でやったと!?」
「もちろん」
「このティアードスカートも手作りと!?」
「その通り」
「このシースルーのヨークも……」
「あんた詳しいな」
 最後は雷奈に唖然とする。
 三人の驚きっぷりをはたから見ていたアワが、補足説明をした。
「シルクはね、社会学研究科で文化……とりわけ服飾について研究する傍ら、実際に作ることを副職にしているんだ。こっちの世界では、副職は珍しいことじゃなくてね」
「……フクショクが、フクショク……」
「……そういうつもりじゃなかったんだ。副業、と言っておこうか?」
「またアワは何バカなこと言ってんの?」
「バカとまで言われる所業!?」
 またしても安い挑発に乗りかけたアワを制して、氷架璃は身を乗り出した。
「ねえ、ちょっと頼みがあるんだよ。私たち、今度、音楽の発表会があってさ。雷奈の晴れ着を探してんの。もしいい服があったら、貸してくれない? 人間界で借りると高くってさ!」
 初対面にもかかわらず、さっそく交渉に乗り出す氷架璃に、雷奈たちは驚きを禁じ得ない。が、当のシルクは涼しい顔だ。
「そうだね、もしデザインにこだわらないなら、研究用に作っただけのものがあるから、それを貸してあげてもいいよ。お金はいらない。ただ、代わりに、今度あなたたちの服をじっくり見せてもらえると嬉しいかも」
「それくらいお安い御用! ね、二人とも?」
「ええ、それだけでいいなら!」
「今度私の部屋でファッションショーするったい! ……ところで、シルク。私の晴れ着の件やけど、試着したほうがよかよね? サイズとか合わせなきゃだし」
 自分を指さす雷奈に、シルクは「その必要はないよ」と首を振った。そして、雷奈の肩口から腰まで、スキャンするように見つめて、
「……バスト七十七、ウエスト五十四、ヒップ六十九」
「!?」
「ちょっと丈が長くなるかもしれないけど、合う服はあるよ。研究室に置いてるから、後日写真を撮って送るね。無許可で学院に人間を入れるわけにはいかないからさ。気に入ったやつを教えて。メールアドレスは、っと……」
 全員の前でスリーサイズを暴かれ、石化した雷奈が立ち直るのには、少し時間を要した。

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