21 / 54
2.覚醒編
9逃げるな、と臆病者は言った 後編
しおりを挟む
「ルシル……!」
「気安く呼ぶな、人間」
雷奈を一蹴し、彼女はダークを見据えた。その背後、一度下火になった入り口の炎が再燃し、またも退路を断つが、ルシルが意に介す様子もない。
「アワ、フー。応援を呼んだが、脱出は火急だ。私がこいつの相手をする。アワは入り口を広い範囲で消火、フーは人間を逃がせ」
「あ、う、うん!」
「わかったわ」
フーが雷奈たちを誘導し、アワが入り口に向けて手をかざす。言霊を発する前に、彼めがけてダークが触手を伸ばした。しかし、その先端はアワに届くことなく墜落する。触手は、根元から切断されていた。
「どこを狙っている。相手は私だ、聞こえなかったのか」
一瞬でダークと雷奈たちの間に入ったルシルは、その手に持った刀を相手に突き付けた。抜いた瞬間さえ捉えられない、素早い抜刀、そして斬撃。ダークがひるむのが分かった。
「今よ」
フーが炎をよけて出口まで三人をいざなう。それをやすやすと見逃すダークでもなく、すぐに逃亡者たちに攻撃を仕掛けようとするが、それより早くルシルの水術が巨体を襲う。
ルシルの手から放たれる無数の水の弾丸は、ダークに痛手を負わせるには至らないが、術を阻む程度には効いていた。標的をルシルに変え、再び目を怪しく光らせるも、
「轟け、洪瀧!」
まるで消防ホースから放たれるような、とめどない水流に、術は不発に終わる。
「あの子、すごい……」
「念術はほかの術よりも集中力がいるから、畳みかけるのがセオリーなのよ。……それより」
脱出は難航していた。ダークが作った炎の壁は破れたものの、大勢のクロたちが行く手を阻むのだ。一匹一匹は強くはないものの、ちょこまかと逃げ回っては新たに火を起こす。
「ああもう、埒が明かない! でも、ボクがやらないと、フーの風術じゃ炎が広がっちゃう……」
「アワ、もっと水力増せよ! ドッカーンとぶちまけろ!」
「無茶言うね!? ドッカーンとぶちまけるためには詠言……つまり詠唱と言霊の両方がフルで必要で、そんなことしてたらクロがちょっかいだしてくるんだよ、こんな風に!」
飛びついてきたクロに水砲をお見舞いするアワ。のべつ幕なしに水術を使い続けて、さすがに疲労の色が見えている。それは、ダークと接戦を繰り広げるルシルにも伝わっていた。
(当然だ。希兵隊ばりの猫力の使用量……正統後継者だからこその力量だろうが、日常、慣れていないはずだ。仕方ない)
ルシルはそれまで片手で持っていた刀を、素早く鞘に納めると、左手をダークに、右手を出口付近に向け、鋭利な声で叫んだ。
「轟け、洪瀧ッ!」
両手から大量の水がほとばしる。それはダークを襲い、そしてクロたちをアワごと一網打尽にした。呆気にとられる雷奈たちの前、巻き添えを食ったアワは、ずぶぬれになって起き上がった。
「ぷはあっ、窒息するかと思ったよ!? 何か合図してよ!」
「いいから早く行け! あとは……」
次の術を発動するまでのこの一瞬が、隙だった。
ビュン、と風を切る音を聞いたルシルが警戒するも、時すでに遅し。洪瀧が止んだ間隙を狙って、ダークが伸ばした触手が、大きくしなってルシルの左わき腹を打ち据えた。
「っぁ……!」
「ルシル!」
小柄な体は大きく吹き飛ばされ、フェンスに激突して止まった。その勢いが威力を物語る。脇腹の痛みは徐々に激しさを増しながら腹全体に広がり、動くことはおろか呼吸すらも許さない。
反射的に、アワとフーがルシルへと駆け寄ろうとする。しかし、雷奈たちから離れたのを見逃さず、遠方の炎が宙を舞って二人を囲んだ。
「しまった!」
アワは急いで水をまき、鎮火させる。だが、その時にはもう、雷奈たちはフェンスの際へ追い込まれていた。
じりじりと近づいてくるダークをにらみながらも、下手に動けない三人。
(まずかっ……)
雷奈は氷架璃と芽華実をうかがい見た。警戒を解かない二人の目の色は、いつも通り。猫術の使用は見込めない。
(私はそもそも猫術に目覚めてなかけん、使えるはずがなか……。なして、なして私には力がなかと? 何か出ろよ、何でもよかけん、何か……!)
――何か?
その一言が、雷奈の頭に引っかかった。
(何かって、何ね?)
こんな窮地だというのに、突然、思考が冷静になった。周りの音も、時間の流れもなくなったように感じた。
(何かって言っとるけど、私はそれが何かもわからんまま、それを出そうとしとーと?)
それは違うと、何かが告げる。それは理性かもしれないし、本能かもしれなかった。何かはわからないが、雷奈には確信があった。
(そうじゃない、何かじゃない。自分に意識向ければ、感じるはず。私は、何をもってる?)
問いかけは、頭の奥底の暗闇に落ちていった。しばらく、返事はなかった。
しかし、次の瞬間、雷奈の意識の中で走るものがあった。流れるものといってもよかった。それは、突然現れたというより、今気づいたというほうが近い。ずっと自分の中にあったのに、気付かなかったもの。それが初めて意識に上り、一度認識すれば、もう消えることはなかった。
――傍らの氷架璃と芽華実をうかがい見てからわずか五秒。その間に巡った思索は、雷奈の感情を変え、表情を変え、そして――目を変えた。
「ふ、フー、ボクが行くから、ルシルを!」
「うん、わかっ……」
「来ないで!」
アワとフーが、同時に肩を震わせた。二人は、初め、雷奈がダークに叫んだのかと思った。しかし、次の言葉がそれを否定する。
「来ないで。誰も……来ないで」
「ら、雷奈、どうしたんだよ。急に前に出るし……」
「誰も来ないでって、どういう……?」
氷架璃と芽華実が怪訝そうな表情を浮かべる。二人に背を向け、両手を広げて立ちはだかった雷奈が、伏せていた目を上げた。
――真っ赤に変色した、目を。
「雷奈!?」
「まさか……雷奈まで覚醒したの!?」
アワとフーの叫びを裏付けるように、雷奈の両手から電流が走った。雷奈の後ろに立つ氷架璃と芽華実も、それを見て雷奈の覚醒を確信する。
線香花火のようにパチパチとはじける電気を見て、ダークは動きを止めた。様子をうかがっているようだ。
「来ないで……お願い、来ないで」
依然として、電気を手に宿したままダークをにらみつける雷奈。しかし、それだけだ。仕掛けようとはしない。
「雷奈、どうして……」
そこで、アワとフーは気付いた。力を手にした雷奈の顔にあったのは、自信でも誇りでもない。
恐怖だ。
雷奈はその顔を恐怖に染まらせながら、悲痛な声で訴える。
「使わせないで、この力……。使ったら、私……!」
その声を聞いて、フーは思い当たった。
「まさか雷奈、猫術を使ったら人間じゃなくなるって……そう気にしてるんじゃ……」
以前、芽華実がこぼしていたこと。それと同じことを、雷奈も考えているのではないか。人間でなくなる恐怖が、ダークに襲われる恐怖を凌駕しているのではないか。フーはそう危惧した。
「何を、している……!」
その時、小さな声が聞こえて、アワとフーは振り返った。腹這いのまま、ルシルがすぐ後ろまで移動してきていた。
「ルシル! 大丈夫?」
「それは二の次だ。それより……おい、人間!」
力の入らない体で、ルシルは精一杯叫んだ。
「猫術を使えば人間でなくなるだと? そんなつまらない拘りで臆している場合か! それに、もう遅い……その手のものを放とうと、放つまいと! 発している時点で、その目をしている時点で! お前はもうさっきまでのお前ではなくなったんだ! だから……」
大声を出せば内臓ごと吐き出してしまいそうな苦痛の中、それでも叱責するように叫ぶ。
「逃げるな人間、現実を見ろ! そして今なすべきことを、すべからくなせ!」
「……ッ!」
ダークが目を光らせた、直後。その淡い光など消し去るほどの閃光とともに、耳をつんざく轟音が鳴り響いた。激しい明滅は十秒弱続き、誰も目を開けていることができない。
ようやく光と音が止み、皆が目を開けた時には、雷奈の前方の雑草はおろか、フェンスも黒焦げになり、近くの電柱からは切れた電線が垂れ下がっていた。
想像を絶する威力に、氷架璃と芽華実が手を取り合って震える前で、雷奈は大きくため息をついた。
「やけん、使いたくなかったとよ……。なんか、大変なことになる気がしたけん。あと、危なかけん、アワとフーにも来んでほしかったと」
「……馬鹿な」
ルシルがゆっくりと身を起こす。
(報告と違う。ほかの二人は突発的に闇雲な術の使い方をしたと聞いた。なのに、今のは……意図して術を使い、さらにその威力を事前に把握していただと? いや、それよりも異常なのは、あの威力……!)
ルシルの視線の先には、雷奈の膝の高さまで縮んだダークがいた。溶けかけたスライムのようにうごめいているが、攻撃の気配はない。
(通常、ダークなど、希兵隊員でも手がかかる。それを一撃であそこまで打ちのめすなど……)
ルシル同様、アワとフーも驚愕のあまり動けないでいた。と、その時。
「波音、消火ついでにとどめを刺せ」
「あいさー! 巡れ、渦波!」
上方から声が聞こえたかと思うと、大きな水の渦が落ちてきた。それはダークに直撃すると、はじけてあたりに散らばり、まだ残っていた炎をことごとく湯けむりに変えた。ダークもまた、黒い霧になって消えていく。
「遅くなっちゃってごめんね! 一番隊参上!」
飛んできた水しぶきに目をつぶっていた雷奈たちは、明るい少女の声で目を開いた。空地の中心にいたのは、先ほど声を発した薄紅色の猫、波音――を肩に乗せた、執行着姿の少年だ。
灰色の髪に、同じく灰色の目をした彼は、クールな面持ちで悠然と立っている。背は高いが、すらっとやせていて、一見して警察・消防組織の男手には見えない。
「波音、お前はほかのヤツらと合流して、先に隊舎に帰ってろ。オレはルシルを連れて帰る」
「わかったー。じゃあね、雷ちゃんたち! かみっちゃん、またあとで!」
無表情で言った少年に明るく返して、波音は雷奈たちに手を振りつつ空地の外へ跳ねていった。
「……ルシル」
座り込んだままのルシルに氷架璃が駆け寄り、手を貸そうとする。その手を、ルシルは無下にはねのけた。パン、と乾いた音が響く。
「触るな、人間」
彼女は自力で立ち上がり、横目で氷架璃をにらみつけた。
「言っただろう、私は人間が……」
そこで、彼女は言葉を止めた。アワと目が合った。あの夜と同じ目をした、アワと――。
***
彼の言ったことは、正鵠を射ていた。だからこそ、言い返せなかった。
「ねえ、ルシル。君の考えは、半分は正しいと思うよ。でも、半分は間違ってる。すべての人間がそうじゃない。だってボクは現に、普通に人間とかかわっているんだ」
「……そんなお前から見たら、私はさぞ滑稽だと、そう言いたいのか」
「違うよ!」
どうしてわからないの、とアワはやきもきして言った。
「じゃあ、せめて。せめて、選ばれし人間の三人だけは信じてあげて。あの人たちは、違う。君が思っているような人間じゃない。ボクが保証する」
「根拠は何だ」
「正統後継者の勘だよ」
ルシルは呆れて嘆息した。だが、どこかで、今までの考えを否定しようと声を上げる自分に気づいていた。
違うのだと、あの人間たちは違うのだと、自分の認識は違うのだと、違う、違う、違う――。
***
「違う……」
かすれた声が漏れた。うつむいたまま、ルシルはうわごとのように言った。いつしか声は震えていた。
「嫌い、なのではない。私は、私は……人間が……」
言葉を紡ぐたび、ずっと本心を隠してきた鎧が、ぼろぼろとはがれていく。そして、何に阻まれることもなく、その一言はこぼれた。
「――人間が、怖いんだ」
息を継ぐ。綻びたところから、徐々に虚勢は崩れ始め、震える本音が流れ出ていく。ルシルは自分を抱きしめるように、腕を胴体に回した。
「そうだ……私は嫌いだったのではない。臆病な私は、怖かったんだ……。自然環境や他の生命を虐げる人間が、恐ろしい速度で進化していく彼らが。いつかフィライン・エデンを脅かすのではないかと、私たちをも虐げる存在になるのではないかと……!」
人間界学の授業で得た知識は、ルシルにとって脅しだった。しかし、怯えは劣勢を意味する。だから彼女は、嫌悪を盾にした。人間にかかわらないのは怖いからではなく嫌いだからだと、自分自身に言い聞かせて。
一種の嘘をついたルシルは、どんな非難が待つのかと息をつめた。あるいは、嘲笑されるかもしれない。
しかし、答えは。
「うん、知ってたよ」
ルシルは目を見開いて氷架璃を見つめた。驚きを禁じ得ないルシルに、氷架璃は穏やかに語りかける。
「だってさ、もし本当に人間が嫌いだったら、人間の姿をしているわけがわからないよ。忌避の対象に自らなるなんて、おかしな話でしょ? ルシルは……怖い人間に少しでも太刀打ちできるよう、せめて互角になれるよう、同じ人間姿でいたんだよね」
ルシルと初めて会った時から氷架璃が感じていた疑問。気になって、それでも詮無いことだと放置したひっかかり。その違和感は、いつしか氷架璃に一つの答えをもたらした。氷架璃自身は、決して自分から言うまいと決めていたが。
「でもね、ルシル。私たちは……」
「もういい。もう……わかった」
顔を斜に向けて、ルシルはそう言い切った。その表情は、いつもの冷たさが緩み、どこか照れを隠す子供のようなものだった。
「すべての人間が、他のものを脅かす存在ではないということ。少なくとも、お前たちは違う。……行き倒れの猫を足蹴にした人間に激怒するヤツが、悪いわけはないんだ……」
後半の言葉を聞いた氷架璃が、「え」と声を漏らす。
「何で知ってんの? 見てたの!?」
「見ていたというより……」
騒ぐ氷架璃に嘆息。その一呼吸で、ルシルは主体へと変化した。
「一つ忠告しておこう。通常の猫にやる魚は、塩気を落としておくものだよ」
人間姿の時の黒髪からは想像もできない、純白の毛並み。瑠璃色の瞳はそのままだ。首には希兵隊の着用義務である首輪。色は青色――。
「って、あんた……!?」
「そう。お前に世話になった猫は私だ。手間をかけさせたな」
開き直ったように礼の言葉を投げるルシル。氷架璃はそのそばに膝をついて、
「ちょっと待て、大丈夫なのか? 倒れてたじゃんか!?」
「うむ、問題ない」
「問題あるだろ」
ため息交じりに言ったのは灰色髪の少年だ。ルシルのもとへ歩み寄り、腕を組んで彼女を見下ろす。
「部下を先に帰したまま夜中になっても帰ってこないと思ったら、やっぱり倒れてたか。迷子になったなんてわけのわかんねー言い訳しやがって」
「ルシルはどこか悪かと? 病気?」
「ああ。何が悪いかっていうと、聞き分けが悪い。何の病気かっていうと、ワーカホリック。ろくに食わずに雑務やら書類作成やらしやがって。お前、最後にまともに食った飯はなんだ?」
少年に問い詰められ、ルシルはそろりと目をそらして答えた。
「……卯の花を。確か、一昨日だ」
「正直でいいが、残念ながらそれは五日前の献立だな」
「え」
「日にちの感覚まで狂ってんのかよ」
少年は大きく息をつくと、しゃがんで白い体を抱き上げた。
「ここ五日間、栄養食品でしのいでるんだろ。そんなだから貧血起こすんだよ。帰るぞ。そんで飯食うか十番隊で点滴受けるか選択しろ」
「待ってくれ、まだたくさん仕事が……」
「よし、点滴決定な」
「なぜ忙しいと言っているのに時間がかかるほうを強要するんだ!?」
少年の手の中でじたばたと暴れていたルシルは、雷奈たちの視線に気づくと、決まり悪そうにおとなしくなった。そして上目遣いに彼女らを見て、
「……に、人間たち。その……出会い頭は気分を害してしまったな」
「よかよ、気にせんで。それより、さっきはありがと。私が猫術ば使うのためらっとった時、喝入れてくれて」
「べ、別に礼を言われるほどのことではない! ただ、あのままやられていたら、希兵隊員として寝覚めが悪いというか、その……」
「素直になれよ。それとも何か、慣れ合うつもりはない、とか言った以上、引っ込みがつかなくなったのか?」
「ッ!? お前、見ていたのか!?」
「ああ、屋根の上からな。そんなことにも気づかなかったなんて、迂闊なヤツ」
少年がルシルの頭を指で小突いた。そして、はたと顔を上げる。
「やべ、消防車だ。サイレンが聞こえる」
耳のいい猫である少年がそう言った数秒後、雷奈たちにも徐々に聞こえ始めたサイレン。ようやく、誰かが通報した消防隊がやってきたらしい。
「お前ら、ここにいたら事情聴取されるぞ。早く立ち去るんだな」
空き地のあちこちが焦げているのに加え、被害はフェンスにまで及び、電線がちぎれて垂れている。そんな中に子供がたむろしているなど、不自然極まりない。雷奈たちは、落ち着いた今、やっと事態のまずさに気付いた。
「やばっ。と、とにかく来た道もどるったい!」
「そ、そうね」
「よし。じゃあね、ルシル。点滴がんばれよ」
「余計なお世話だ!」
慌ててその場を後にした雷奈たちを見送ってから、少年は激昂するルシルを抱いたまま、身長の倍以上のジャンプでフェンスへ、屋根へと飛び移り、姿を消した。その三分後。現場に到着した消防隊員たちは、無残な姿と化した空き地を見て、何があったらこうなるのかと首をひねるのだった。
「結局、みんな覚醒しちゃったね」
閑静な住宅街に戻ってくると、芽華実は苦笑いした。氷架璃もうなずく。
「しかも雷奈、なんかめちゃくちゃ強くなかった?」
「自分でも怖かったばい。覚醒が詰まって遅れた分、ドバッと出ちゃった、みたいな?」
「踏んづけたホースか」
「わかりにくい例えツッコミだね……。でも、ますます謎は深まるばかりだ。なぜ、人間が猫術を使えるんだ……?」
「お母さんもわからないって言ってたわ。前代未聞の事態よ」
人間に関するあらゆる知識をもつアワやフーでさえ、解せない状況。そういえばそのことをルシルに聞き逃した、と雷奈は悔しげに天を仰いだ。
空は広く、遥か高みから雷奈を見下ろす。世界を知るには、誰もが小さすぎるのかもしれない。
***
「はあぁ……」
隊舎の廊下を、早足に歩いていく。本当は走りたいところだが、廊下は走ってはいけないという不文律を律義に守り、努めて歩行の域にとどめる。
「本当に点滴を打たれるとは……。しかもわざわざ利き手に刺して、ながら作業を封じるなど。業務が滞ってしまうではないか……」
ルシルは絆創膏が張られた左腕を押さえながら、唇を尖らせた。悪態や渋面とは裏腹に、心は妙に軽い。その理由を考えれば、人間三人組の笑顔がちらつくのだから、そのたびにむず痒い気持ちになる。
文句を言って、思い出して、こそばゆくなる。それを三、四回繰り返すうちに、彼女は目的地に到着した。
隊舎の中でも奥に位置する部屋だ。希兵隊の要となるため、防衛の関係上、そうなっている。ここで務める隊員は基本的に外へは行かないというのもあるが。
「総司令部室」と書かれたプラカードを見上げ、ルシルは扉をノックした。返事を待たずに中に入る。
「失礼します」
部屋では、何名かの隊員が、主体姿で黙々と作業をしていた。ルシルの来訪に気づくと、「お疲れ様です!」「おい、道をあけろ!」と動き出す。仕事を邪魔してしまったか、とルシルが申し訳ない気持ちになっていると、
「やあ、ルシル。失礼しますなんて、そんなカタいこと言わないの」
部屋の奥、大きな仕事机の前に座っていた人物が、のんきな声をかけた。ゆったりと構えているさまが、ルシルにかしこまった態度をとったほかの隊員とは一線を画している。それもそのはず、人間姿のその人物が身にまとっているのは、執行着ではなく、希兵隊ではただ一人、トップのみが着用を許される制服なのだ。
回転いすに腰掛けたその人物に歩み寄ると、ルシルは神妙な顔を向けた。
「さて、キミを呼び出した用件だけどね。寄合で正式発表する前に、一応キミの了承を取っておきたいんだ」
ルシルは瞬きで先を促した。相手はいつもの気楽な笑顔で続ける。
「人間界でのダークやクロの出没に伴って、執行部から一隊、遠征として人間界に出すことは前に話したね。あれから検討を重ねて、結論を出したんだ。――キミたち二番隊、行ってくれないかな?」
それを聞いたルシルが、何か言おうと口を開きかける。だが、それより先に相手は「ああ、事情はコウから聞いたんだよ。もう人間は平気だよね」と答えを呈して、ルシルの口をつぐませた。
「そういうわけで、どうかな、河道隊長?」
ルシルはわずかに嘆息すると、礼の代わりにゆっくりと一つ、瞬きをして、
「――了解した」
自分と同じ、青系統の瞳を見つめた。
「気安く呼ぶな、人間」
雷奈を一蹴し、彼女はダークを見据えた。その背後、一度下火になった入り口の炎が再燃し、またも退路を断つが、ルシルが意に介す様子もない。
「アワ、フー。応援を呼んだが、脱出は火急だ。私がこいつの相手をする。アワは入り口を広い範囲で消火、フーは人間を逃がせ」
「あ、う、うん!」
「わかったわ」
フーが雷奈たちを誘導し、アワが入り口に向けて手をかざす。言霊を発する前に、彼めがけてダークが触手を伸ばした。しかし、その先端はアワに届くことなく墜落する。触手は、根元から切断されていた。
「どこを狙っている。相手は私だ、聞こえなかったのか」
一瞬でダークと雷奈たちの間に入ったルシルは、その手に持った刀を相手に突き付けた。抜いた瞬間さえ捉えられない、素早い抜刀、そして斬撃。ダークがひるむのが分かった。
「今よ」
フーが炎をよけて出口まで三人をいざなう。それをやすやすと見逃すダークでもなく、すぐに逃亡者たちに攻撃を仕掛けようとするが、それより早くルシルの水術が巨体を襲う。
ルシルの手から放たれる無数の水の弾丸は、ダークに痛手を負わせるには至らないが、術を阻む程度には効いていた。標的をルシルに変え、再び目を怪しく光らせるも、
「轟け、洪瀧!」
まるで消防ホースから放たれるような、とめどない水流に、術は不発に終わる。
「あの子、すごい……」
「念術はほかの術よりも集中力がいるから、畳みかけるのがセオリーなのよ。……それより」
脱出は難航していた。ダークが作った炎の壁は破れたものの、大勢のクロたちが行く手を阻むのだ。一匹一匹は強くはないものの、ちょこまかと逃げ回っては新たに火を起こす。
「ああもう、埒が明かない! でも、ボクがやらないと、フーの風術じゃ炎が広がっちゃう……」
「アワ、もっと水力増せよ! ドッカーンとぶちまけろ!」
「無茶言うね!? ドッカーンとぶちまけるためには詠言……つまり詠唱と言霊の両方がフルで必要で、そんなことしてたらクロがちょっかいだしてくるんだよ、こんな風に!」
飛びついてきたクロに水砲をお見舞いするアワ。のべつ幕なしに水術を使い続けて、さすがに疲労の色が見えている。それは、ダークと接戦を繰り広げるルシルにも伝わっていた。
(当然だ。希兵隊ばりの猫力の使用量……正統後継者だからこその力量だろうが、日常、慣れていないはずだ。仕方ない)
ルシルはそれまで片手で持っていた刀を、素早く鞘に納めると、左手をダークに、右手を出口付近に向け、鋭利な声で叫んだ。
「轟け、洪瀧ッ!」
両手から大量の水がほとばしる。それはダークを襲い、そしてクロたちをアワごと一網打尽にした。呆気にとられる雷奈たちの前、巻き添えを食ったアワは、ずぶぬれになって起き上がった。
「ぷはあっ、窒息するかと思ったよ!? 何か合図してよ!」
「いいから早く行け! あとは……」
次の術を発動するまでのこの一瞬が、隙だった。
ビュン、と風を切る音を聞いたルシルが警戒するも、時すでに遅し。洪瀧が止んだ間隙を狙って、ダークが伸ばした触手が、大きくしなってルシルの左わき腹を打ち据えた。
「っぁ……!」
「ルシル!」
小柄な体は大きく吹き飛ばされ、フェンスに激突して止まった。その勢いが威力を物語る。脇腹の痛みは徐々に激しさを増しながら腹全体に広がり、動くことはおろか呼吸すらも許さない。
反射的に、アワとフーがルシルへと駆け寄ろうとする。しかし、雷奈たちから離れたのを見逃さず、遠方の炎が宙を舞って二人を囲んだ。
「しまった!」
アワは急いで水をまき、鎮火させる。だが、その時にはもう、雷奈たちはフェンスの際へ追い込まれていた。
じりじりと近づいてくるダークをにらみながらも、下手に動けない三人。
(まずかっ……)
雷奈は氷架璃と芽華実をうかがい見た。警戒を解かない二人の目の色は、いつも通り。猫術の使用は見込めない。
(私はそもそも猫術に目覚めてなかけん、使えるはずがなか……。なして、なして私には力がなかと? 何か出ろよ、何でもよかけん、何か……!)
――何か?
その一言が、雷奈の頭に引っかかった。
(何かって、何ね?)
こんな窮地だというのに、突然、思考が冷静になった。周りの音も、時間の流れもなくなったように感じた。
(何かって言っとるけど、私はそれが何かもわからんまま、それを出そうとしとーと?)
それは違うと、何かが告げる。それは理性かもしれないし、本能かもしれなかった。何かはわからないが、雷奈には確信があった。
(そうじゃない、何かじゃない。自分に意識向ければ、感じるはず。私は、何をもってる?)
問いかけは、頭の奥底の暗闇に落ちていった。しばらく、返事はなかった。
しかし、次の瞬間、雷奈の意識の中で走るものがあった。流れるものといってもよかった。それは、突然現れたというより、今気づいたというほうが近い。ずっと自分の中にあったのに、気付かなかったもの。それが初めて意識に上り、一度認識すれば、もう消えることはなかった。
――傍らの氷架璃と芽華実をうかがい見てからわずか五秒。その間に巡った思索は、雷奈の感情を変え、表情を変え、そして――目を変えた。
「ふ、フー、ボクが行くから、ルシルを!」
「うん、わかっ……」
「来ないで!」
アワとフーが、同時に肩を震わせた。二人は、初め、雷奈がダークに叫んだのかと思った。しかし、次の言葉がそれを否定する。
「来ないで。誰も……来ないで」
「ら、雷奈、どうしたんだよ。急に前に出るし……」
「誰も来ないでって、どういう……?」
氷架璃と芽華実が怪訝そうな表情を浮かべる。二人に背を向け、両手を広げて立ちはだかった雷奈が、伏せていた目を上げた。
――真っ赤に変色した、目を。
「雷奈!?」
「まさか……雷奈まで覚醒したの!?」
アワとフーの叫びを裏付けるように、雷奈の両手から電流が走った。雷奈の後ろに立つ氷架璃と芽華実も、それを見て雷奈の覚醒を確信する。
線香花火のようにパチパチとはじける電気を見て、ダークは動きを止めた。様子をうかがっているようだ。
「来ないで……お願い、来ないで」
依然として、電気を手に宿したままダークをにらみつける雷奈。しかし、それだけだ。仕掛けようとはしない。
「雷奈、どうして……」
そこで、アワとフーは気付いた。力を手にした雷奈の顔にあったのは、自信でも誇りでもない。
恐怖だ。
雷奈はその顔を恐怖に染まらせながら、悲痛な声で訴える。
「使わせないで、この力……。使ったら、私……!」
その声を聞いて、フーは思い当たった。
「まさか雷奈、猫術を使ったら人間じゃなくなるって……そう気にしてるんじゃ……」
以前、芽華実がこぼしていたこと。それと同じことを、雷奈も考えているのではないか。人間でなくなる恐怖が、ダークに襲われる恐怖を凌駕しているのではないか。フーはそう危惧した。
「何を、している……!」
その時、小さな声が聞こえて、アワとフーは振り返った。腹這いのまま、ルシルがすぐ後ろまで移動してきていた。
「ルシル! 大丈夫?」
「それは二の次だ。それより……おい、人間!」
力の入らない体で、ルシルは精一杯叫んだ。
「猫術を使えば人間でなくなるだと? そんなつまらない拘りで臆している場合か! それに、もう遅い……その手のものを放とうと、放つまいと! 発している時点で、その目をしている時点で! お前はもうさっきまでのお前ではなくなったんだ! だから……」
大声を出せば内臓ごと吐き出してしまいそうな苦痛の中、それでも叱責するように叫ぶ。
「逃げるな人間、現実を見ろ! そして今なすべきことを、すべからくなせ!」
「……ッ!」
ダークが目を光らせた、直後。その淡い光など消し去るほどの閃光とともに、耳をつんざく轟音が鳴り響いた。激しい明滅は十秒弱続き、誰も目を開けていることができない。
ようやく光と音が止み、皆が目を開けた時には、雷奈の前方の雑草はおろか、フェンスも黒焦げになり、近くの電柱からは切れた電線が垂れ下がっていた。
想像を絶する威力に、氷架璃と芽華実が手を取り合って震える前で、雷奈は大きくため息をついた。
「やけん、使いたくなかったとよ……。なんか、大変なことになる気がしたけん。あと、危なかけん、アワとフーにも来んでほしかったと」
「……馬鹿な」
ルシルがゆっくりと身を起こす。
(報告と違う。ほかの二人は突発的に闇雲な術の使い方をしたと聞いた。なのに、今のは……意図して術を使い、さらにその威力を事前に把握していただと? いや、それよりも異常なのは、あの威力……!)
ルシルの視線の先には、雷奈の膝の高さまで縮んだダークがいた。溶けかけたスライムのようにうごめいているが、攻撃の気配はない。
(通常、ダークなど、希兵隊員でも手がかかる。それを一撃であそこまで打ちのめすなど……)
ルシル同様、アワとフーも驚愕のあまり動けないでいた。と、その時。
「波音、消火ついでにとどめを刺せ」
「あいさー! 巡れ、渦波!」
上方から声が聞こえたかと思うと、大きな水の渦が落ちてきた。それはダークに直撃すると、はじけてあたりに散らばり、まだ残っていた炎をことごとく湯けむりに変えた。ダークもまた、黒い霧になって消えていく。
「遅くなっちゃってごめんね! 一番隊参上!」
飛んできた水しぶきに目をつぶっていた雷奈たちは、明るい少女の声で目を開いた。空地の中心にいたのは、先ほど声を発した薄紅色の猫、波音――を肩に乗せた、執行着姿の少年だ。
灰色の髪に、同じく灰色の目をした彼は、クールな面持ちで悠然と立っている。背は高いが、すらっとやせていて、一見して警察・消防組織の男手には見えない。
「波音、お前はほかのヤツらと合流して、先に隊舎に帰ってろ。オレはルシルを連れて帰る」
「わかったー。じゃあね、雷ちゃんたち! かみっちゃん、またあとで!」
無表情で言った少年に明るく返して、波音は雷奈たちに手を振りつつ空地の外へ跳ねていった。
「……ルシル」
座り込んだままのルシルに氷架璃が駆け寄り、手を貸そうとする。その手を、ルシルは無下にはねのけた。パン、と乾いた音が響く。
「触るな、人間」
彼女は自力で立ち上がり、横目で氷架璃をにらみつけた。
「言っただろう、私は人間が……」
そこで、彼女は言葉を止めた。アワと目が合った。あの夜と同じ目をした、アワと――。
***
彼の言ったことは、正鵠を射ていた。だからこそ、言い返せなかった。
「ねえ、ルシル。君の考えは、半分は正しいと思うよ。でも、半分は間違ってる。すべての人間がそうじゃない。だってボクは現に、普通に人間とかかわっているんだ」
「……そんなお前から見たら、私はさぞ滑稽だと、そう言いたいのか」
「違うよ!」
どうしてわからないの、とアワはやきもきして言った。
「じゃあ、せめて。せめて、選ばれし人間の三人だけは信じてあげて。あの人たちは、違う。君が思っているような人間じゃない。ボクが保証する」
「根拠は何だ」
「正統後継者の勘だよ」
ルシルは呆れて嘆息した。だが、どこかで、今までの考えを否定しようと声を上げる自分に気づいていた。
違うのだと、あの人間たちは違うのだと、自分の認識は違うのだと、違う、違う、違う――。
***
「違う……」
かすれた声が漏れた。うつむいたまま、ルシルはうわごとのように言った。いつしか声は震えていた。
「嫌い、なのではない。私は、私は……人間が……」
言葉を紡ぐたび、ずっと本心を隠してきた鎧が、ぼろぼろとはがれていく。そして、何に阻まれることもなく、その一言はこぼれた。
「――人間が、怖いんだ」
息を継ぐ。綻びたところから、徐々に虚勢は崩れ始め、震える本音が流れ出ていく。ルシルは自分を抱きしめるように、腕を胴体に回した。
「そうだ……私は嫌いだったのではない。臆病な私は、怖かったんだ……。自然環境や他の生命を虐げる人間が、恐ろしい速度で進化していく彼らが。いつかフィライン・エデンを脅かすのではないかと、私たちをも虐げる存在になるのではないかと……!」
人間界学の授業で得た知識は、ルシルにとって脅しだった。しかし、怯えは劣勢を意味する。だから彼女は、嫌悪を盾にした。人間にかかわらないのは怖いからではなく嫌いだからだと、自分自身に言い聞かせて。
一種の嘘をついたルシルは、どんな非難が待つのかと息をつめた。あるいは、嘲笑されるかもしれない。
しかし、答えは。
「うん、知ってたよ」
ルシルは目を見開いて氷架璃を見つめた。驚きを禁じ得ないルシルに、氷架璃は穏やかに語りかける。
「だってさ、もし本当に人間が嫌いだったら、人間の姿をしているわけがわからないよ。忌避の対象に自らなるなんて、おかしな話でしょ? ルシルは……怖い人間に少しでも太刀打ちできるよう、せめて互角になれるよう、同じ人間姿でいたんだよね」
ルシルと初めて会った時から氷架璃が感じていた疑問。気になって、それでも詮無いことだと放置したひっかかり。その違和感は、いつしか氷架璃に一つの答えをもたらした。氷架璃自身は、決して自分から言うまいと決めていたが。
「でもね、ルシル。私たちは……」
「もういい。もう……わかった」
顔を斜に向けて、ルシルはそう言い切った。その表情は、いつもの冷たさが緩み、どこか照れを隠す子供のようなものだった。
「すべての人間が、他のものを脅かす存在ではないということ。少なくとも、お前たちは違う。……行き倒れの猫を足蹴にした人間に激怒するヤツが、悪いわけはないんだ……」
後半の言葉を聞いた氷架璃が、「え」と声を漏らす。
「何で知ってんの? 見てたの!?」
「見ていたというより……」
騒ぐ氷架璃に嘆息。その一呼吸で、ルシルは主体へと変化した。
「一つ忠告しておこう。通常の猫にやる魚は、塩気を落としておくものだよ」
人間姿の時の黒髪からは想像もできない、純白の毛並み。瑠璃色の瞳はそのままだ。首には希兵隊の着用義務である首輪。色は青色――。
「って、あんた……!?」
「そう。お前に世話になった猫は私だ。手間をかけさせたな」
開き直ったように礼の言葉を投げるルシル。氷架璃はそのそばに膝をついて、
「ちょっと待て、大丈夫なのか? 倒れてたじゃんか!?」
「うむ、問題ない」
「問題あるだろ」
ため息交じりに言ったのは灰色髪の少年だ。ルシルのもとへ歩み寄り、腕を組んで彼女を見下ろす。
「部下を先に帰したまま夜中になっても帰ってこないと思ったら、やっぱり倒れてたか。迷子になったなんてわけのわかんねー言い訳しやがって」
「ルシルはどこか悪かと? 病気?」
「ああ。何が悪いかっていうと、聞き分けが悪い。何の病気かっていうと、ワーカホリック。ろくに食わずに雑務やら書類作成やらしやがって。お前、最後にまともに食った飯はなんだ?」
少年に問い詰められ、ルシルはそろりと目をそらして答えた。
「……卯の花を。確か、一昨日だ」
「正直でいいが、残念ながらそれは五日前の献立だな」
「え」
「日にちの感覚まで狂ってんのかよ」
少年は大きく息をつくと、しゃがんで白い体を抱き上げた。
「ここ五日間、栄養食品でしのいでるんだろ。そんなだから貧血起こすんだよ。帰るぞ。そんで飯食うか十番隊で点滴受けるか選択しろ」
「待ってくれ、まだたくさん仕事が……」
「よし、点滴決定な」
「なぜ忙しいと言っているのに時間がかかるほうを強要するんだ!?」
少年の手の中でじたばたと暴れていたルシルは、雷奈たちの視線に気づくと、決まり悪そうにおとなしくなった。そして上目遣いに彼女らを見て、
「……に、人間たち。その……出会い頭は気分を害してしまったな」
「よかよ、気にせんで。それより、さっきはありがと。私が猫術ば使うのためらっとった時、喝入れてくれて」
「べ、別に礼を言われるほどのことではない! ただ、あのままやられていたら、希兵隊員として寝覚めが悪いというか、その……」
「素直になれよ。それとも何か、慣れ合うつもりはない、とか言った以上、引っ込みがつかなくなったのか?」
「ッ!? お前、見ていたのか!?」
「ああ、屋根の上からな。そんなことにも気づかなかったなんて、迂闊なヤツ」
少年がルシルの頭を指で小突いた。そして、はたと顔を上げる。
「やべ、消防車だ。サイレンが聞こえる」
耳のいい猫である少年がそう言った数秒後、雷奈たちにも徐々に聞こえ始めたサイレン。ようやく、誰かが通報した消防隊がやってきたらしい。
「お前ら、ここにいたら事情聴取されるぞ。早く立ち去るんだな」
空き地のあちこちが焦げているのに加え、被害はフェンスにまで及び、電線がちぎれて垂れている。そんな中に子供がたむろしているなど、不自然極まりない。雷奈たちは、落ち着いた今、やっと事態のまずさに気付いた。
「やばっ。と、とにかく来た道もどるったい!」
「そ、そうね」
「よし。じゃあね、ルシル。点滴がんばれよ」
「余計なお世話だ!」
慌ててその場を後にした雷奈たちを見送ってから、少年は激昂するルシルを抱いたまま、身長の倍以上のジャンプでフェンスへ、屋根へと飛び移り、姿を消した。その三分後。現場に到着した消防隊員たちは、無残な姿と化した空き地を見て、何があったらこうなるのかと首をひねるのだった。
「結局、みんな覚醒しちゃったね」
閑静な住宅街に戻ってくると、芽華実は苦笑いした。氷架璃もうなずく。
「しかも雷奈、なんかめちゃくちゃ強くなかった?」
「自分でも怖かったばい。覚醒が詰まって遅れた分、ドバッと出ちゃった、みたいな?」
「踏んづけたホースか」
「わかりにくい例えツッコミだね……。でも、ますます謎は深まるばかりだ。なぜ、人間が猫術を使えるんだ……?」
「お母さんもわからないって言ってたわ。前代未聞の事態よ」
人間に関するあらゆる知識をもつアワやフーでさえ、解せない状況。そういえばそのことをルシルに聞き逃した、と雷奈は悔しげに天を仰いだ。
空は広く、遥か高みから雷奈を見下ろす。世界を知るには、誰もが小さすぎるのかもしれない。
***
「はあぁ……」
隊舎の廊下を、早足に歩いていく。本当は走りたいところだが、廊下は走ってはいけないという不文律を律義に守り、努めて歩行の域にとどめる。
「本当に点滴を打たれるとは……。しかもわざわざ利き手に刺して、ながら作業を封じるなど。業務が滞ってしまうではないか……」
ルシルは絆創膏が張られた左腕を押さえながら、唇を尖らせた。悪態や渋面とは裏腹に、心は妙に軽い。その理由を考えれば、人間三人組の笑顔がちらつくのだから、そのたびにむず痒い気持ちになる。
文句を言って、思い出して、こそばゆくなる。それを三、四回繰り返すうちに、彼女は目的地に到着した。
隊舎の中でも奥に位置する部屋だ。希兵隊の要となるため、防衛の関係上、そうなっている。ここで務める隊員は基本的に外へは行かないというのもあるが。
「総司令部室」と書かれたプラカードを見上げ、ルシルは扉をノックした。返事を待たずに中に入る。
「失礼します」
部屋では、何名かの隊員が、主体姿で黙々と作業をしていた。ルシルの来訪に気づくと、「お疲れ様です!」「おい、道をあけろ!」と動き出す。仕事を邪魔してしまったか、とルシルが申し訳ない気持ちになっていると、
「やあ、ルシル。失礼しますなんて、そんなカタいこと言わないの」
部屋の奥、大きな仕事机の前に座っていた人物が、のんきな声をかけた。ゆったりと構えているさまが、ルシルにかしこまった態度をとったほかの隊員とは一線を画している。それもそのはず、人間姿のその人物が身にまとっているのは、執行着ではなく、希兵隊ではただ一人、トップのみが着用を許される制服なのだ。
回転いすに腰掛けたその人物に歩み寄ると、ルシルは神妙な顔を向けた。
「さて、キミを呼び出した用件だけどね。寄合で正式発表する前に、一応キミの了承を取っておきたいんだ」
ルシルは瞬きで先を促した。相手はいつもの気楽な笑顔で続ける。
「人間界でのダークやクロの出没に伴って、執行部から一隊、遠征として人間界に出すことは前に話したね。あれから検討を重ねて、結論を出したんだ。――キミたち二番隊、行ってくれないかな?」
それを聞いたルシルが、何か言おうと口を開きかける。だが、それより先に相手は「ああ、事情はコウから聞いたんだよ。もう人間は平気だよね」と答えを呈して、ルシルの口をつぐませた。
「そういうわけで、どうかな、河道隊長?」
ルシルはわずかに嘆息すると、礼の代わりにゆっくりと一つ、瞬きをして、
「――了解した」
自分と同じ、青系統の瞳を見つめた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる