フィライン・エデン Ⅰ

夜市彼乃

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3.雷奈逃亡編

13アンバランスに触れて 前編

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 希兵隊舎の敷地内に足を踏み入れるのは初めてだった。
 案内された道場は、体育館よりも天井が低く、やや狭い。随所で和風の内装が見受けられるのは、ここが道場であるから、というより、希兵隊舎であることに起因するかもしれない。
 初の道場に対する感想を浮かべるのもそこそこに、氷架璃と芽華実は先に来ていた隊員二匹に目を移した。主体姿の二匹のうち、一方は見覚えのある姿だ。
「お久しぶりです、氷架璃さん、芽華実さん。わたしのこと、覚えてますか?」
「もちろんよ。リーフの妹の、樹香さくら、でしょう?」
「嬉しいです」
 パステルピンクの毛並みが鮮やかな猫は、はにかむように笑った。左耳の付け根には、双体の時と同様、桜の花飾りが咲いている。あどけない表情を浮かべた彼女は、しかしすぐに、真剣な顔つきになった。
「お話は聞いています。わたしは芽華実さん、あなたを担当します。そのための草猫のわたしですから」
「わかったわ。よろしくね、さくら」
 その隣で、さくらと一緒にいた、ひときわ小柄な猫が無邪気に自己紹介した。
「あたしは初めてだよね! あたしは凪原なぎはら弥智音みちね。ちっちゃいけど、これでも六番隊隊長なんだよ。光猫ってことで選ばれたの。よろしくね、氷架璃ねえ!」
「おう、よろしく。じゃあ……さっそくお願い」
「おおっ、やる気満々だね!」
「当たり前でしょ。……芽華実、やるよ」
「ええ、必ず――」
「――猫力を、コントロールする!」

***

 道場の端で、アワがため息をこぼした。
「まさか人間に猫術の指南をする日が来るなんてね……」
「特訓したい、って言われたときは驚いたわ」
 フーも頬に手を当ててつぶやく。
 雷奈の逃亡一日目、すなわち氷架璃と芽華実がそのことを知った日の午後、二人は寄合から戻ったルシルにこう歎願した。
 ――今回は、雷奈は一人で戦わなければならないけど、今後一緒に戦うことになったら足手まといになりたくない。だから、猫術の扱い方を教えてほしい。
 雷奈は空き地での一件で、自分の意思で猫術を使ったように見えた。今回、怖じることなく一人で逃避行にでたのも、いざとなったら猫術で太刀打ちするつもりだからではないか、と推測したのだ。彼女らは知る由もないが、実際そうであった。
 ルシルは、人間に関することは自分では決めかねるとして、正統後継者であるアワとフーに連絡。しかし、彼らも前代未聞のこととして、いったん家族会議に預かると返答した。そして、その結果、アワとフーの同伴という条件付きで、希兵隊舎の道場で特訓を行うことが許可されたのだ。
「そもそも、人間が猫力をもつこと自体、空前絶後だよね……」
「今も情報管理局や学院が調べているでしょうね。でも、三人を直接調べることは私たちが許可していないから、はかどらないのね」
「それもあるし、イレギュラーがそれだけじゃないから仕事が山積みってのもあるだろうね」
 アワとフーはそれきり、口を閉ざして、それぞれのパートナーを見守った。
 道場の真ん中では、さくらがさっそくレクチャーを始めている。
「猫術をコントロールする以前に、まずはお二方には、猫力を発動してもらわなければなりません。今のお二方は、普通の人間と同じ状態ですので」
「猫力を発動ってことは、目の色変わればいいってことか?」
「前に力が覚醒した時、私は緑に、氷架璃は青に変わったみたいだから」
「なるほど。とりあえずは、その解釈でいいと思います。厳密には、目の色が変わったかというより、わたしがあなた方の猫力を感じたかで判断するのですけれどね」
「感じるものなのか?」
「ええ」
 猫力とは、いわば源子を従える力。通常、それは気配として感じることができ、さらに性質は個人によって違うため、誰の猫力かを識別することもできる。さくらはそう説明した。
「けど、発動って……どうやるんだ?」
「あの時と同じような精神状況になればいいのかしら。こう、切羽詰まった感じで……」
 芽華実は目を閉じて当時の感覚を再現しようとした。さくらが奮闘する一方でリーフが意地を張り、そこにダークが容赦なく襲ってくる状況で、とにかく戦況を変えたかった。その無我夢中の心境をイメージしてみるも……。
「どう? 氷架璃。私の目」
「いや、いつもの茶色いきれいなお目目だよ」
「氷架璃ったら。……でも、これじゃダメみたいね」
 芽華実がやや意気消沈した。
「その方法で発動できる可能性もありましたが、難しいのであれば、もう少し本質的な手段を使いましょう」
「本質的な?」
「わたしたち猫の中には、猫力をあえてしまい込む方もいます。自力でしまい込む方もいれば、道具に頼る方もいますが、前者にあたる場合は、通常の人間の状態から、精神力だけで猫力を発動します。それが今回のあなた方にも該当するかと」
「よくわからんけど……どうするの?」
「内なる猫力に意識を向けるんです。詳しい方法は猫種によるんですが……」
 さくらは、ちらりと弥智音を見た。弥智音はしっぽをゆらゆら、話し出す。
「あたしは猫力しまってないから、発動らしい発動はしないけど、自分の中の猫力に注意することならできるよ。光の力を発動したいなら、とっても簡単。自分の中の光に気づけばいいんだよ」
「なんか宗教チックな物言いだな……。ってか、自分の中の光ってなんだよ」
「光って聞いて、何を思い浮かべる?」
 弥智音は素朴に問うた。
「え、うーん……明るいとか、まぶしいとか?」
「そういう光の光らしさを、自分の中に見つけるの」
「草の場合も同様です。芽華実さん、自分の中に植物の性質をイメージしてください。しやすいもので結構です」
 二人はおのおの、瞑目して言われたとおりにする。しかし、いまいちピンとくるものがない。
「わからん……」
「難しいかなー。あたしたちは生まれつき猫力をもっているから、その辺の想像は簡単にできるんだけど……」
 弥智音は口元に小さな手を当てて考えた後、あっと声を上げた。
「そういえば、氷架璃ねえの名前と光って、同じだよね」
「うん? ああ、読み方?」
「光をイメージしてつけられたの?」
「まあね。母さんが昔、外国で、寒さで凍った橋を見て、その宝石みたいな輝きに目を奪われたんだって。氷、架かる橋、宝石という意味の『璃』、それに輝く光を組み合わせて、この名前にしたそうな」
「名前の力ってすごいんだよ。呼ばれるたび、それを自分のものって思うたび、心にすりこまれてく。ねえ、氷架璃ねえは自分の名前を聞いて、何を思った? さっき話してくれたお話以外にも、心に浮かんだものがあるはずだよ」
 生まれてからずっと、自分を指し示す音として認識してきた「ひかり」。輝きという意味でつけられた名だが、彼女の中ではそれよりも強いイメージがあった。
(キラキラとか、そういうのじゃない。もっと、ピカッとあたりを照らすような……太陽みたいな?)
 自分の明るい性格は、名前に由来したのかもしれない、とさえ思った。
 その瞬間、目の奥でチカッと光るものがあった。逃さず手を伸ばし、つかみ取ろうとする。
「おっ……来る、来る、来る……ええい、逃げるな……!」
 まるで都会で見る星のように、ちらついては視界から消えてしまう光。必死で精神を集中させ、とらえようとするも、一進一退だ。
「氷架璃、がんば!」
「おうとも、私は氷架璃! ひかり、光……来たっ!」
 合わなかった焦点をようやく結んだかのごとく、氷架璃はをはっきりと感じ取った。カッと見開いたその目は、宵口の空のような青藍。芽華実が感嘆の声を上げた。
「氷架璃、すごいわ!」
「よっしゃ、やってやったぞ!」
 ガッツポーズを決める氷架璃の横で、今度は自分も、と芽華実が目を閉じる。
「植物……植物かぁ」
「想像しやすいものでいいですよ。お花が好きならお花とか」
「お花……あっ」
 まぶたの裏で、つぼみで眠っていた花がおもむろに広がるのを、はっきりと見た。特定の種を意識したわけではない。芽華実自身が、かわいいと思うものだった。色は薄桃、幾層もの花弁が連なっている。おしべの数まで数えられそうなほど、鮮明なイメージだ。
「こんな感じかな?」
「えっ、そんな簡単に!? 私あんなに頑張ったのに!」
「あ、相性が良かったのよ、きっと。私、お花好きだし。……でも」
 芽華実は少しだけせつなげに目を伏せた。
「……雷奈は、これを誰に教わることもなく、自分でできたのよね」
「……そうだね」
 二人の重い沈黙には、それについての疑問というより、羨望の念が混じっていた。それを察してか、さくらが二本足で立ち上がって手をたたく。無論、主体姿では肉球がぶつかるだけで、音はしなかったが。
「お二方とも、上出来です。では、いよいよ術の練習に入っていきますよ。ここからは本格的に、氷架璃さんと芽華実さんで分かれて特訓していただきます」

***

 弥智音が源子から再構成した紙に書かれた文章を見て、氷架璃はぽつりとこぼした。
「……覚えろと?」
「まあね」
 涼しい顔で、幼き隊長は言う。
「あたしたちだって、生まれつき詠言を唱えられたわけじゃない。お母さん、お父さん、きょうだいや、近所のおばさんに教えてもらうこともある。みんな繰り返し練習したんだよ」
 紙に書かれていたのは、意味の分からない、意味があるかもわからない文言。猫術を発動する際、源子に命令を伝えやすくする詠唱と言霊である。
「まずは光術の基本、『盲爛もうらん』から。ただの目くらましだけど、単純で隙を作るのにうってつけだから、最初はこれね」
「猫力を発動している今の状態で、これを唱えたら出るのか?」
「ただ唱えるだけじゃだめだよ。源子に命令するってことを意識してね」
「命令……」
 そもそも、書かれている詠唱と言霊――すなわち詠言の文自体、命令形だ。気持ちを込めて読むという意味だと解釈し、氷架璃は紙に書かれたとおりに唱えた。
「閉ざす瞳、急ぎ奔らせ、企てられし疑似の透明、対峙するまどかに空白を見せよ、眩ませ、盲爛!」
 最後まで言い切ると、体の前にチカッと光が見えた。おお、と一歩後ずさり、興奮気味に弥智音を見る。
「これ、成功だよな!?」
「うーん……十三点くらい?」
「低っ! 思いっきり落第点じゃねーか!」
「だって、そんなんじゃ目くらましにならないもん」
 もっともなことを言う弥智音に、氷架璃は口をつぐんだ。確かに、目くらましどころかカメラのフラッシュほどもない。
「もっとこう、命令するって感じで!」
「んなこと言われても……ってか、なんでわざわざ呪文らしくしてあるんだ? もっとこう、『光れ!』とか、『ピカッとやっちゃえ!』とか、そういうのでいいじゃん」
「なに、ピカッとやっちゃえって」
「うるさいな、ものの喩えだよ! ようするに、こんな仰々しくする必要あるのかって言ってんの!」
「あるよ」
 頬を膨らませる氷架璃に、弥智音は端的に答えた。
「詠言は昔のひとが考えた、術を使うための絵描き歌みたいなもの。自分が術を使うんだって意識するために、そして源子も『これは術なんだ』って意識するために、わざと普通の話し言葉とは違うようにしてあるの」
「日常会話と詠言の間に線引きしてるってことか……。一応、納得」
 氷架璃はもう一度、紙に目を落として、手書きの字を眺めた。一つ一つの単語をそれぞれイメージする。今度はもっと丁寧に唱えてみよう、と決めて、リベンジに挑んだ。
 そんな彼女から離れたところで、芽華実はさくらの指導の下、二つ目の術に挑戦していた。
「さっきの『養叢ようそう』も上手くできたので、きっとこっちも大丈夫です。唱えてみてください」
「う、うんっ。……墓無き命、感情無き魂、ことならば裁きは有る者に帰せよ、指数えつながれた自由に従え……伸びろ、撓葛しなりかずら!」
 適当に突き出した左手のすぐ前で、一本のつるが、猫のしっぽほどの長さだけ飛び出た。驚いた芽華実が手を引っ込めると、それはぽとりと床に落ちた。
「これも成功ですね。勘がいいんですね、芽華実さん」
「うん……ありがとう」
「次の術にいってもいいですが、せっかくなので撓葛のコントロールの精度や長さを上げておきましょう。感覚をつかめば、その通りに念じるだけでいいですよ。では、もう一度……」
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