フィライン・エデン Ⅰ

夜市彼乃

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1.フィライン・エデン編

1始まらなかった日常 ⑤

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 氷架璃は出しかけた言葉とともに息をのんだ。ひるんだ、といっても過言ではないのは、初めて声を荒らげたアワの気迫のせいか、その口からのぞいた牙が、おとなしい少年の成りをしていても獣の本性をちらつかせたからか。
 アワは一つ呼吸すると、冷静さを取り戻して静かに話し始めた。
「フィライン・エデンの神……『君臨者』から一年前に受け取った神託によると、ボクのパートナーは間違いなく水晶氷架璃。そしてフーのパートナーは……」
「ええ、間違いなく美楓芽華実」
 確認するようなアワの視線に、フーはしっかりと頷いた。
 それを受け取って、アワは残る一人に目を向ける。
「雷奈といったね。君のことは、神託にないんだ。なのに他の人間と違い、君は時間の巻き戻りに気づいている。つまり、選人と同じ立場にいる」
 真剣な目が、それを見上げる雷奈の大きな瞳をまっすぐに射貫く。
「雷奈――君は何者なんだい」
 世界の仕組みを人間よりも知っている存在が、最大の謎として問うのは、たった一人についての形而上学的問題。
 雷奈は、少しの間考えるように口を閉ざしていた。
 やがて、微笑とともにその答えが紡がれる。
「私は私。ただの三日月雷奈ったい」
 その単純明快な、けれどだからこそ偽りも矛盾もない答えに、今度はアワが口をつぐんだ。
「なして選人じゃないのに二人と同じなのか、それはわからんっちゃけど……私は嬉しかよ。仲間外れにならずに済むし。それに、私も協力したい。この異変の解決と、二つの世界の交流に」
 迷わなかった。常に胸にしまっているいつかの声が、その背を押すから。
――目の前で困っている人がいたら、誰だろうと助けるとよ。
 それは、とある大切な人の言葉で、雷奈の人格の芯を成すもの。
「ダメっちゃかね?」
「そ、そんなことはない……と思う! 一応、イレギュラーだから、二家で家族会議するけど!」
 やった、と雷奈が笑い、芽華実も嬉しそうに微笑む。
 となれば、氷架璃も少々スタンスを変えなければならない。
「わーったよ、かわいい親友二人がそっちにつくんだ、このままじゃ私の立つ瀬がない。私も協力してやる」
「え、ほんと!」
「ただし、パートナーとかはナシな。あくまでも片足ツッコむだけ。もう片足は日常をしっかり踏みしめさせてもらう」
「ええ……」
 アワはショックを受けたような顔で、しゅんと肩を落とした。フーが慰めるようにその肩をなでる。
 そこまで落ち込むことなのだろうか、と思いながら、雷奈は二人に問うた。
「具体的にはどうすればよかと?」
「そのうち、フィライン・エデンにも来てほしいけど……基本的にはこちらの学校でよろしく。見てもらったとおり、記憶を操作して、ボク達は他の人間には元々いたような認識になってるから」
「さらっとえげつないことしてるな。それも猫術か?」
「猫術は猫術でも、私達二家にしか使えない特別なものよ。人間との交流のために編み出された、人間のみに効力を発揮する一子相伝の術」
「いくら人間と交流したいと言っても、選人以外の適性のない人間にむやみに正体を明かすわけにはいかないからね」
 確かに、そんなことをすれば、新聞では一面を飾り、ニュースでは速報が流れ、ネットでは検索候補に挙がるほどの大ごとになるだろう。物好きなバラエティ番組も本人達に、ひいてはフィライン・エデンに突撃しかねない。
「って、雷奈はいいんかい。雷奈だって選人じゃないんだろ」
「しょうがないじゃん、認識できるサイドにいるんだから。ねえ、雷奈、何か心当たりはない? 他の人とは違った経験をしたとか、そういう……」
「だーもう、しつこいな。雷奈は雷奈だって言ってんだろ。偶然だ、偶然!」
「ぐ、偶然でこんなことが起こったらたまんないよ!」
「ってか、いつまでこんなとこで立ち話してんだよ! 今日はお開きだ!」
 さっそく相性がいいのか悪いのか、売り言葉に買い言葉のアワと氷架璃を、フーと芽華実がなだめる。
 そんな喧噪の外で――雷奈は、一人視線を落として、思索の海に沈んでいた。

***

 濡れそぼった髪をふきながら、彼女は私室に足を踏み入れた。
 風呂は社務所兼住居のものを神主夫婦と共用にしており、食事も彼らと共にしているものの、彼女の部屋自体は宿坊の一つを借りている。
 床は一面畳で、純和風の内装。調度品もそれに合わせており、たんすや棚などはそろって木の色をしている。同じく自然色の鏡台の前に座って、彼女は鏡の中の自分を見つめていた。
 ――君は何者なんだい。
――何か心当たりはない? 人と違った経験をしたとか、そういう……。
 そう聞かれたとき、彼女の頭の中には、自らに関するたくさんの「人と違った」要素が渦巻いていた。
 人より色素の薄い髪や目、小さな身長。これらは母親譲りだ。
髪は腰を超えて長く、ここまでのロングヘアは他に見たことがない。これも長い髪が印象的な母に憧れてのことだった。
 小学四年生にして、独りで種子島から上京。子宝に恵まれなかった神主夫婦のもとに、幸運にも身を寄せさせてもらい、巫女として過ごしてきた。そんな経歴も、人に話すと珍しがられる。
 しかし、それよりも鮮烈に思い出したことがあった。
 容姿のことも、上京のことも、頭に浮かんだのはたったの一瞬。アワに問われて考え込んだあの時間のほとんどを占めた記憶は。
「……」
 ふいに、鏡台のたんすに置いてある写真に手を伸ばす。
それは、ごく普通の家族写真だった。
自分がいて、姉と妹がいて、父と母がいる。写真の中の子供たちは無邪気に笑い、母親は照れたように微笑み、父親はいつも通り仏頂面だ。
 この幸せな家庭がずっと続いていれば、ここに来ることもなかっただろう。
 少女は瞑目して、追憶する。
 全てが変わったあの夜の記憶。
 鉄のようなにおいと、目に痛い色をしたおびただしい何か。永遠に閉じた瞳と、永遠に変わってしまった瞳。鼓動、息遣い、叫び声――。
 やがて、閉じていた目を開き、写真を置いて、
「……猫とは、関係なかね」
 雷奈は、こともなさげに嘆息した。
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