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【第一章】悪の尋問令嬢、″捨てられ王子″の妻になる。
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しおりを挟む——夜もすっかり更けた頃。
王都の一角、侯爵家の迎賓館に設けられた客間では、静かな緊迫が漂っていた。
ユリウス・アレスタリア第二王子は、自分の指を喉に突っ込みえずいていた。
「……ん、……っ」
彼の脇に置かれた洗面器の中には、淡く金色の液体と吐瀉物の跡。
目を閉じたまま苦しげに喉を鳴らし、彼はまた一度、体をわずかに起こして胃の中を空にする。
(……これで、何度目だろう……)
従者の一人が声には出さず心で呟いた。
毒の排出のために彼が飲んだ「体力の水」は、強制的に胃の蠕動運動を起こす作用がある。
吐き気と腹痛を伴いながらも、それを何度も自らの意志で繰り返す姿は、見る者にすら痛みを与えるほど苛烈なものだった。
しかし、王子は一度も弱音を吐かなかった。
いや、吐けなかったのかもしれない。
苦しげに息を吐き、ようやく背を寝具に預けた彼の額には、汗が滲んでいた。
淡く色を失った唇が、ふと名前を呼ぶ。
「……レティ、シア……」
静かに息を吐く殿下を、従者たちは声なく見守っていた。
やがて彼は立ち上がり、その背中は奥方が待つ寝室へと消えていった。
「ユリウス様」
扉の音に、彼女が振り返る。
レティシアは華やかさを纏いながらも、手が震え、今の彼女はひどく脆い雰囲気を担っていた。
スカートの裾を払いユリウスに近づくとその手を取り、体温を確認するように両手で包み込んだ。
「……どうして、毒だと分かっていて、飲みましたの……っ」
その声は、怒りに震えていた。
だが、すぐに言葉はかすれる。
「……君に、飲ませるわけにいかないだろ」
ユリウスの返答は、あまりにも静かだった。
まるで、当たり前のことを言っているかのような声音で。
「だからって……っ!」
吐き出された感情が、彼女の声ににじむ。
「……いいんだ。僕は“慣れてる”。大丈夫だよ」
「………っ…」
一瞬、思考が停止した。
…慣れてる?慣れてる、ですって?
毒に。異物に。命を脅かされる状況に。
それが日常だと、当然のように言える世界で彼は生きてきたというの?
そんなものに“慣れる”なんてこと、あっていいはずがないのに。
「……貴方は、ほんとうに……」
言葉の続きが出なかった。
喉が詰まる。
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
私は黙って、彼の手を強く握りしめた。
腹のものを全て吐き出した顔は青白く、けれど目元の睫毛は長く整っていて、皮肉なほど整った顔立ちだった。
それなのに、こんなにも無理をして。
こんなにも静かに、自分を犠牲にして。
(……馬鹿ですわ、貴方……)
胸の中でそう毒づきながら、それでも手は離せなかった。
手を引き、導くようにベッドへ連れていく。
彼のまぶたは半ば閉じており、応える声はなかった。
私は、彼が少しでも楽になればと、願うことしかできなかった。
ベッドの脇に置かれた水差しの水面が、小さく揺れている。
蝋燭の灯が映って、まるで涙のように見えた。
——この人は、王子である前に、
きっとずっと、孤独だった。
レティシアはそう確信していた。
そしてそれを今、ほんの少しだけでも分け合いたいと思った自分を、どこかでひどく恐ろしく感じていた。
(だって……そんな感情、抱くつもりなかったのに……)
夜は深く静かで、痛みだけが確かにそこにあった。
(毒に慣れている…なんて、)
ベッドの中で苦しげに浅い呼吸を繰り返すユリウス様は、もう目を閉じていた。
まどろみの中なのか、ただ体力を消耗して意識を手放しているだけなのか、判断がつかない。
彼の額に滲む汗を拭き、レティシアは言えない言葉を吐き出した。
「……何を食べてきたら、何を飲まされてきたら、そんなふうに言えるようになりますの……」
ユリウスの手を握る指先に、自然と力が入る。
手のひらは熱い。それは毒の作用だけでなく、彼の中に確かに通っている命の熱でもある。
その生命を、あの宴の場で彼は平然と削ろうとした。
私のために。
(……それを、当然のことのように口にして)
私は彼の額にもう一度濡らした布を当てた。けれど、熱は引かない。
毒性はやや軽度だとはいえ、身体を蝕むものに変わりはない。
これ以上、傷ついてほしくない。
「奥様……」
ふと背後から、控えていた侍女の一人、モニカが声をかけてきた。
「お身体を冷やしてしまいます。殿下の容態は安定していますし、今宵はどうか、お休みになってください」
その言葉は真っ当な配慮だった。
だが、レティシアはすぐに首を横に振った。
「いいえ。……彼のことは、私が診ますわ」
従者は目を見開いた。だがすぐに、彼女は微かに視線を伏せて、静かに頷いた。
「……かしこまりました。何かあれば、すぐにお呼びくださいませ」
「ええ、ありがとう。あなたたちは、もう下がってよろしくてよ」
従者たちは一礼し、静かに部屋を後にした。
——ふたたび部屋には、私と彼だけの空気が戻る。
(……政略結婚ですのに。名ばかりの、夫婦ですのに……)
彼のことを、私は放っておけない。
たとえ何の情がなくても。
たとえ利害だけの関係だとしても。
誰にも頼らず、誰にも縋らず、ただ己の責務と戦略だけを拠り所にして生きてきた人が。
こんなにもあっけなく、自分を犠牲にしてしまうなんて。
(貴方、わがままとか、欲とか、ありませんの…?)
彼に人間らしい気持ちがあるなら、あんな簡単に自己を犠牲にしないはずだ。
私はベッド脇の椅子に腰を下ろし、膝にハンカチを置いた。
ユリウス様は「大丈夫」だと言ったけれど、あの目は大丈夫ではなかった。
この屋敷に迎え入れてから、彼がどういう環境で育ち、何を背負ってきたのかが、少しずつ分かってきた。
——この人は、誰にも守られたことがない。
だから、守り方を知らない。
だから、自分を犠牲にすることにためらいがない。
私は……ああもう、馬鹿みたいですわ。
彼にそれを咎める資格なんて、私にはないのに。
(それでも……)
私はユリウス様の手を取り、その熱を感じながら、そっと囁いた。
「……もう少しだけ、ここにいますわ」
眠っている彼が聞いているはずもないのに、言わずにはいられなかった。
長い睫毛が静かに揺れて、少しだけ呼吸が穏やかになった気がした。
夜は、なお深く。
けれどこの小さな部屋には、確かに誰かを想う温もりが灯っていた。
***
(……幻覚作用は、まだ完全には抜けていないようだ)
ぼんやりとした意識の中で、私は己の脈拍を数えていた。
視界は曖昧に揺れ、音の輪郭も曖昧に滲む。
なのに——
なぜか、レティシアの姿だけは、異常なほど鮮明だった。
暗がりの中、蝋燭の揺れる光の下で、彼女はじっと私を見つめている。
ひどく、愛しい顔をして。
……そんなはずはないのに。
彼女の睫毛の長さまで、唇の艶めきまで、すべてがやけに艶やかに目に映る。
まるで、惚れ薬でも飲まされたみたいだなと、ふと自嘲気味に思う。
(……いや。違うな。これは、あの毒の残滓だ)
興奮と陶酔を煽る薬効が、まだ神経の奥に絡みついているのだろう。それなのに、
(それなのに、君はどうしてそんな顔をするんだ、レティシア)
その手が、私の手を握るたびに、
その目が、私を見つめるたびに、
まるで世界の中心に自分が置かれたような錯覚に陥る。
優しさなんて、私は望んでいなかったはずなのに。
それはもっとも危険で、私のような人間には不要なものだったのに。
君がくれるそれは、どうしてこんなにも、温かい。
「…………」
視線が彷徨い、彼女の髪を捉えた。
豊かに波打つ黒髪。その間から覗く白い首筋。
少しでも指を伸ばせば届く距離にある。
(……駄目だな、僕は)
心の奥に、静かな衝動が渦巻いていた。
それはもはや幻覚ではない。
毒のせいでもない。
確かに、これは——私の中にある、“本物”だ。
(駄目だ、認めては…)
この感情は、目的の遂行の邪魔になる。
手放したくないものでできてしまえば、それはこちらの弱みになってしまう。
だから僕は、協力関係を結ぶに相応しい頭脳と性格をした彼女を選んだはずなのに、
(……まだ、毒の余韻が残っている。それだけだ……)
どくどくと、心臓の鼓動が強く打つのを、
知らないふりをして目を閉じた。
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