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【最終章】
12
しおりを挟む春の陽が差し込む王城の執務室。
カーテンの隙間から洩れる光が書類の山を黄金に照らしている――などと美しく言っても、この状況が帳簿地獄であることには変わりませんわ。
「……業務に圧殺されそうですわ~~。」
椅子にもたれ、わたくしは机の上の紙束を睨みました。
これはもはや政務ではなく、拷問ですわ。ええ、身をもって体験する日がくるとは思ってもいませんでした。
「おかしいですわよね? 王妃というのはもっと、こう……花束と拍手と甘いキスに包まれて暮らすものではなくて?」
ため息を吐くわたくしの脳裏に蘇るのは、王座に立ったあの日。
『王と王妃の即位』などという優雅な響きとは裏腹に、初日から文書と判子の波に揉まれ、今では指先に書類痕ができる始末です。
「もう少し、わたくしに甘い扱いをしてくださってもよくってよ……?」
「甘い扱いというのは、こんなものでいいかな?」
ぬるりと開いた扉から入ってきたのは、我が夫、陛下ユリウス・アレスタリアその人でした。
両手には、銀盆と茶器と……見覚えのある焼き菓子の塔。
「糖分補給タイムだよ、我が王妃殿」
「……陛下、それはもはや政務妨害ですわよ」
わたくしがジト目で睨むと、ユリウスは涼しい顔で盆を机に置きました。
その手際の鮮やかさは、王より給仕に向いているとさえ思えるほど。
「違うよ、君の政務支援だ。糖分が足りないと、君はだんだん悪人の顔になってくるからね」
「あら~~わたくしのこの顔は生まれつきでしてよ?? 悪人面だなんて酷い言いようですわね」
「違う違う、悪役顔の王妃ほど麗しい存在はないって意味さ。なにせ、君が微笑むたびに書記官たちが震えて逃げていく。あれはなかなか見応えあるよ?」
まったく、どこまで本気でどこから皮肉なのか。
この男の口からは、いつだって甘い毒と冷たい飴が混ざって出てくるのですから、困ったものです。
「……肥満と虫歯になってしまいますわ」
「まあ、歯医者も宮廷付きに採用したしね。準備は万端だ」
「わたくしは嫌でしてよ!
……たまには、身体も動かしたいですわ……」
「なら偶には尋問も業務に含めようか」
「ストレス発散でしていい行いではなくてよ!?」
さすがに呆れたわたくしに、ユリウスはにこりと笑いました。
ああ、あれは既に実行したことのある経験者の笑み。
地下牢にいる犯罪者が、少し哀れに思えますわ…。
ユリウスが淹れてくれた茶は少し甘くて、香りが落ち着く。
彼の微笑みは、最初に出会った頃とまったく違っていて、
不思議と少しあたたかい。
「やっぱり君が隣にいると、王の椅子も悪くない」
「……急に真面目な顔なさらないでくださいまし。戸惑いますわ」
わたくしは茶菓子に手をつけ、視線をそらすように窓の外を見ました。
王城の庭には、春の花々が咲き誇り、使用人たちが忙しそうに茶会の準備をしています。
その光景を見ていると、ふと、思い出すのです。
――あれほど憎らしかった男と、こんなふうに笑い合う日が来るなんて。
「ところで旦那様、さっきから書類の山を減らす素振りも見せませんけれど……」
「今日はお客様との話があってね。書類は明日の業務予定だ。」
「お客様…?」
ユリウスが指す先を見れば、変わらない威厳があるお父様と、平静を装いながらもなんだか視線が生温い従者のモニカ。
「…その、なんだ。邪魔して悪いが仕事なものでな。王妃様のご苦労痛みいる思いだ」
「お、お父様……!!?ユリウス様っ、どうして先に言ってくれませんの…!!」
「親子の時間くらい、立場から離れて過ごしたいだろう?」
「それはそうですけど、そうじゃありませんのよ!」
私にだって、親に良い顔をしたい気持ちくらいありますのに!
ユリウス陛下とお父様は視線を合わせて、穏やかに笑っていました。
そんな軽口の応酬が、心地よくなっている自分もいます。
ああ、こうして笑っていられるなら――
たとえ罪を背負った過去があっても、
王妃であることに、後悔はしないかもしれません。
側仕えをしてきたモニカは、この幸せな時間を噛み締めるように三人を見ていました。
王妃という重い責を背負ってなお、お嬢様は微笑んでいられる。
その横の陛下の所作には愛情が感じられて、お二人が政略関係ではないと教えてくれる。
待ち望んだこの時をずっと過ごせるように、私達はお仕えし、お支えしていくのでしょう。
***
旅の一団が、山あいの村へやってきたのは、春の風が柔らかく吹く日のことだった。
羊飼いたちが丘を行き交い、子どもたちが花飾りを作って遊ぶような、穏やかで小さな場所。
村の中心にある教会跡には、仮設の説教台が据えられ、その上にひと組の男女が立っていた。
「本日はお集まりいただき、感謝いたします」
男は丁寧に一礼し、聴衆を見渡す。
髪を隠すように深く被ったフードの下から覗く金のまつげは、太陽の光を受けてかすかに光っていた。
隣に立つ女もまた、素朴な旅装を身にまとい、手には木彫りの小さな十字架を握っている。
「我々は、南の国から参りました巡礼者です。この地に、王と王妃の祝福を伝えるために旅を続けております」
彼らは、自らの名前を名乗らない。
ただ、“信仰と希望の証人”として、各地を巡り歩いているという噂だけが広がっていた。
「新しき王と、その王妃の御代が始まりました。彼らは罪を知り、痛みを知り、許しを知る、真の導き手です」
優しい女の声が、村人たちの胸に染み渡っていく。
その言葉のひとつひとつに、過去の苦しみがにじんでいるようにも聞こえた。
けれど彼女は終始、微笑みを絶やさなかった。
「王妃は、かつて人の心の奥を見抜く者でした。彼女は悪を許さず、同時に、愛を忘れませんでした」
「そして王は、策略を駆使して国を救い、誰よりも深く、一人の女性を愛しました」
ふたりの口から語られる物語は、まるで誰かの伝記のようでいて、どこか幻想めいていた。
「この物語が真実かどうかは、皆様のお心が決めてください」
「ただひとつ確かなのは――」
女はそう言って、小さく目を伏せた。
「この国には、罪と共に生きることを選んだ者たちがいて、
それでもなお、人を愛することを選んだ王と王妃がいるということです」
拍手が、どこからともなく起こった。
やがてそれは村全体に広がり、集まった者たちの胸に小さな火を灯していく。
説教を終えたあと、ふたりは村人たちに囲まれ、食事や飲み物をふるまわれていた。
「……ずいぶん板についてきたな、セラ……いや、あなた」
「“あなた”って何ですか。名前で呼んでって言ったじゃない、アル……“あなた”?」
「あなた呼び合戦はやめようか。子どもたちに笑われてる」
セラと呼ばれた少女は、頬をふくらませながらも笑みをこぼす。
アルと呼ばれた男はその横顔を見つめながら、静かにマグを口に運んだ。
「ほんと、罪深い王妃様だよ。あんな名演説をかまされて、誰が君を悪女だと思うかね」
「…あれは、誰かのことを思い出してただけよ」
「誰か、って?」
彼女は少しだけ遠くを見るようにして、ぽつりと答えた。
「……知らない。あの人が私に何を見たのか、
私さえ私を信じられなかったのに。
でも、あの人は私を最後まで信じてくれた。
だから、あの人の物語を伝えたかったの。
きっと、忘れられないように」
アルはそれに何も言わず、空を仰いだ。
風が吹いた。
淡い桃色の花が、どこか遠くの国の春を運んでくる。
「なあ、セラ。今夜は焚き火であの王妃の話をもう一度しよう。今度は子ども向けに、ちょっと脚色してさ」
「……もう、どんどん話が盛られていってるのよ?」
「いいんだ。だってその方が彼らの叙事詩は深く記憶に残るだろ? それに君の声は、誰より人の心に届くからさ」
ふたりの旅は、まだ続く。
名もなき者として、罪を抱えながら――
それでも、世界の片隅で誰かを救う“光”として。
そしてその光はきっと、あの王と王妃の元にも届いている。
おしまい。
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