クロワッサン物語

コダーマ

文字の大きさ
11 / 87
【第一章 ウィーン包囲】パン・コンパニオン

パン・コンパニオン(7)

しおりを挟む
「そんなモノいらないよッ! あっ、やめろッ。神聖な釜のそばで靴下なんか振るな。ホコリが立つだろ。シッシッ!」

「……うむぅ」

 後方で唸り声。
 指揮官殿、これは強敵ですぞという呻きに聞こえる。

「この窯は僕が造ったんだ。この水車だって、だれかが一生懸命に造ったんだ。壊すなんて許さないんだからな。あ、そうだッ!」

 火かき棒を放り投げて、小僧は窯の隣りに設置された小さな台の上から、あるものをつかみ取った。

「ホラ、ここでッ! こんなにおいしいものを作ったんだ。食べてみてよ」

 勢い込んだ様子で、握り拳ほどの大きさの薄茶色のものを差し出した。
 小僧の手の上でフニャリと柔らかく、甘い香りを漂わせている。
 実物を見て初めて気付いた。
 先程から感じていた、食欲をそそるこの香気は焼き立てパンから立ち昇るものだったのだ。
 ハイ、ハイ、ハイッと三人に配ると、小僧は頬を強張らせて彼らの顔を見比べた。

 さぁ、お食べなさい。
 どんな批評でも甘んじて受けましょう、といった雰囲気である。

「いい加減にしろ。俺はカッとなったら何をするか分からん人間だ。こんなパンごときで説得できると思うなよ。諦めて一緒に……」

「まぁまぁまぁ」

 聞いちゃいない。
 少年はズイズイ手を動かして、さっさと食べろと促す。

「うむ、では……」

 カプリと食らいついたのはルイ・ジュリアスである。
 皮に歯を入れるカリッという小気味良い音。
 口をムグムグ動かすなり「これはっ!」と硬直した。

「ど、どうかな……?」

 何て顔だ。
 小僧の嬉しそうな、それでいて不安そうな。
 目元を顰めつつもその双眸をキラキラ輝かせたこの表情。
 彼に向かってルイ・ジュリアスは何度も頷いてみせた。

「口の中で甘い香りがどんどん増していく。深い味わいっていうのかな。もちもちした生地なのに、舌の上で滑らかにとろけるんだ。何だ、これは……旨いっ!」

「──何だ、お前、天然か」と呟くシュターレンベルク。

 普段は実に有能な武官であるこの部下を、小声で罵倒する。
 ──小汚い餓鬼にパンごときで篭絡されてんじゃねぇよ、安い男だな。

 そんなことには勿論気付く筈もなく。
 小僧はルイ・ジュリアスの反応に涙ぐんでいた。

「ありがとう。僕はお腹がいっぱいになると元気になる。人が食べてるのを見ると、幸せな気持ちになるんだ。ありがとう。僕のパンを食べてくれて本当にありがとう……」

「いや、こんなに美味しいパンは食べたことがない。形も変わっているな。半月……いや、三日月のような形だ」

 自身の歯形がついたパンをしげしげと眺めるルイ・ジュリアス。
 丸型で作られることの多いパンであるが、これは彼の言うように細長い形で、まるで三日月のようにも見える。
 すると小僧は芝居がかった様子で、うるうると潤んだ双眸で瞬きを繰り返した。

「そう、このパンの名前は決まってるんだ。フランスの言葉でクロワッサン。そう、三日月っていう意味だよ。僕はね、パンで平和を築きたいんだ。ヨーロッパ中の争いを、パンの美味しさで癒したい。それが僕の夢なんだ」

 これはね、生地の水分量をギリギリまで増やしたパンなんだ。
 フニャフニャだから成形するのが難しいんだけど、なめらかな食感に自信があって……云々。

 成程。
 とりあえず分かったのは、屋根からブンブン投げられていたのはパン生地だったということ。
 語りに入った小僧を見つめるシュターレンベルクの眼付きが徐々に鋭くなるのに、ようやくルイ・ジュリアスが気付いたようだった。
 口の中のパンを慌てて飲み下す。

「最悪、小僧を殺して火をかける。オスマン軍だって、いつここまで侵入してくるか分からないだろ。奴らにここを占領されたら防衛計画は根本から狂ってしまう。残念だが説得してる時間はもうない」

「閣下……!」

 指揮官の意図を知って、ルイ・ジュリアスが悲鳴に近い大声をあげる。

「お前ら、嫌だろ。罪もない村人を手にかけるのは。構わないよ、俺がやる」

「閣下、それはあまりに閣下らしくない言葉だと……」

 凄みを感じさせるシュターレンベルクの静かな声。
 浮かれたようにパンについて、パン作りの難しさについて、その喜びについて語っていた小僧の額から見る間に血の気が失せていった。
 大きな目をこれでもかというくらい見開いて、フルフルと首を振る。

「悪いな。ウィーンと市民を守らなくちゃならない。その為なら俺は……何だってするさ」

「ちょ、待っ……」

 少年がその場に座り込んだのと、シュターレンベルクの背が緊張で強張ったのは同時だった。
 あまりの狭さに、小屋の外へ避難していたリヒャルトの悲鳴があがったのだ。

「父上、敵がっ!」
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち

ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。 クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。 それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。 そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決! その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。

大東亜戦争を有利に

ゆみすけ
歴史・時代
 日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を

偽夫婦お家騒動始末記

紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜

かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。 徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。 堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる…… 豊臣家に味方する者はいない。 西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。 しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。 全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

処理中です...